胡蝶の夢

秋澤えで

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高等部編

鳴けぬ蛍は身を焦がす 2

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ゆるゆると意識が浮上し、重い瞼を持ち上げると見慣れない天井が目に入った。視覚に次いで五感が戻ってくる。息を吸うとつんとした消毒液の匂いが鼻をさす。硬い簡素なベッドから起き上がると身体の節々が痛んだ。どうして保健室のベッドというものは寝心地が悪いものなのだろうか。伸びをするとぱきぱきと関節が小さく鳴った。


「あら、起きたみたいね。」

「あー、おはようございます。」
「痛いところは?」

「身体の節々が痛みますが、特には。」
「そう、なら良かったわ。ベッドについて不満があるなら校長先生に直接言ってちょうだい。」


シャッと白いカーテンを開けててきぱきと口頭で確認する養護教諭に半ばあっけにとられる。以前保健室に来たことがあったがその時は不在であったため話すのは初めてだ。保健室の窓を覆うカーテンの隙間から見えた空はすでに真っ黒で、なかなかの時間この保健室にいたらしいと気が付く。随分と寝ていたはずなのに嫌に頭がすっきりとしている。


「あの、僕は何でここにいるんですか?」
「あら、覚えてないの?文化祭の片付けの途中で倒れたって赤霧さんのクラスの子が言ってたわよ。ちなみにあなたをここまで運んだのは藤本先生。」


クラスの子、とはと思いちらりとベッドの脇に置いてある書類を見ると僕が倒れたときの状況がかかれていた。その見覚えのある字に、自身が日和の前で倒れたことを把握する。


「倒れたって……気絶ですか、何でまた……。」
「そんなの私が聞きたいわ。気絶した理由はわからないけど、倒れた割に受け身がとれてたみたいで頭も打ってないし、特に外傷もなかったからひとまずここで休ませてたの。今日中に起きないようなら精密検査するつもりだったわ。」


目が覚めたってことは大方貧血ってところでしょう、と言われサクサクと帰り支度をさせられる。あれよあれよという間に荷物を持たされて廊下に出されてしまった。生徒が皆帰った後の廊下は昼間とは打って変わって冷たく暗かった。


「これから何度も倒れるようなら病院に行った方がいいわ。それから季節の変わり目だから体調を崩しやすくなるから注意して。」
「わかりました、たぶん大したことありませんし。」

「……身体が強いってことは聞いてるけど、あまり過信しすぎないようにね。あと何か悩みがあれば聞くからいつでも来てちょうだい。」
「はい、何かあればお伺いします。」


いつも通りの笑顔で折り目正しく挨拶すると微かに眉を顰められ、おやと内心首を傾げる。特に相談するような悩みもなくただの社交辞令だと思ったのだがどうやらそうではなかったらしい。彼女は僕に何か悩みがあると判断したのだろう、ならば何かよさそうな相談を持って行った方が良いかもしれない。
誰もいないくらい廊下を通って窓から黄色い明かりの漏れる寮へと足を向けた。



******



「涼ちゃんお帰り!」
「ただいま帰りました。」


ドアを開けると椅子に座っていた日和がぱっと玄関へと駆け寄り僕に飛びつこうとした。だが僕が病み上がりだということを思い出したらしく直前でぴたりと止まる。僕の方へと伸ばされた両手が所在なさげに宙を掻いた小動物のような動きにくすくすと笑うと、少しムッとしながらも心配そうに僕から荷物を奪い取った。


「涼ちゃん痛いとこない?どこか悪いところない?大病だったりしない?」
「大丈夫ですよ、何ともありません。倒れるとき受け身がとれてたみたいでどこもぶつけてはいませんし。貧血だろうって養護教諭も言ってました。」
「レバー食べなきゃ!あとほうれん草!」


バタバタと部屋の中へと入っていく日和の後ろを追う。


「いきなり倒れたみたいで、すいません。今までこんなことなかったのですが……。」


特に外傷もないのに意識を手放すのは初めてだ。最後に気絶した時と言えば、小学生の時に誘拐犯にあった末にぼこぼこにされたときだ。あれは完全に殴られたり刺されたりしたせいで、原因が明らかである。だがよもや特に出血したわけでもないのに貧血になって倒れるなんて僕にあるまじき、いや赤霧にあるまじき失態だ。体調管理もまともにできないとは完全無欠が聞いてあきれる。なんだか今日はプライドを粉々にされてばかりの一日であった気がする。


「まあそんなときもあるよ。目の前で倒れたときはびっくりしたけどね。私じゃ涼ちゃんを運べないし。たまたま近くに藤本先生がいてよかったよ。……本当は担任なんだから教室にいなきゃいけない人だけど。」


ふと喉が渇いて戸棚からグラスを出し、小さな冷蔵庫に入っていた水のペットボトルを出して注ぐ。藤本教諭は基本的にサボりのスタンスだが妙にタイミングが良い気がしなくもない。あれでいて意外と教師らしいことをしている。それなりに教師歴は長いのだろう、力の抜きどころを知っているのかもしれない。ただそれが生徒から見て抜きすぎていると思われていても。


「……そういえば、倒れる直前って何してたんでしたっけ?」
「え、記憶喪失?」
「あ、いやそんな深刻なもんじゃないですよたぶん。昼間のことは普通に覚えてますし。」


ギョッとした顔をする日和に苦笑いする。ヒロインもそうだがこの子もまたくるくると表情が変わる。
教室でみんな片づけをしていたことは覚えている。壁を壊したり、布を剥がしたり、徐々に見慣れた教室に戻っていった。


「んーとね、教室で片付けしてたんだけど、教室の机だけじゃなくて学習室の机も使ってたから私たち二人でその机を戻しにいったの。」
「あー、思い出してきました。……机を持ったまま走らないでください。危ないですよ。」
「二つ重ねた状態で走ってた涼ちゃんに言われたくない!……で、それから学習室に行って机をもとに戻してからしばらくして涼ちゃんが倒れたの。」


日和の説明を聞きながらあったことを順に頭の中で繰り返すと、少しずつ思い出してきた。鍵を受け取り、学習室へと向かったんだ。
まだ何か足りない気がして唸るが自分では思い出せそうにもない。なにより思い出そうとすると何故か腹の底が冷たくなるのだ。


「どうかしたの、涼ちゃん?」

「いえ……倒れる直前、日和と何か話してた思うんですけど、何話してたんですっけ?」

「……えーと、なんだっけ?なんか涼ちゃんが倒れたのが衝撃的すぎて私まで忘れちゃった!まあ忘れちゃうくらいなんだから、大したことじゃなかったんじゃない?私の話なんて8割くだらないし。」


からからと笑う日和に、言及しようかとも思ったが言われて見れば大したことではない気もしてきた。別に話していた内容など普段からいちいち覚えてなどいないし、日和の言うようにほとんどが本当にとりとめもない話なのだから。


「……そうかもしれませんね。大事な話ならいずれ思い出すでしょうし。」

「そうそう、そのうちね!」


グラスに入れた水を、言及する言葉とともに飲み込んだ。ひやりとした水が静かに身体の中へと落ちていく。

きっとそのうち思い出すのだ。今忘れていてもなんら問題はないだろう。
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