胡蝶の夢

秋澤えで

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高等部編

夏に浮かされる

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梅雨が過ぎ湿気を伴わない暑さが少しずつ増してきた。耳に反響するのはじわじわとそこら中から溢れる蝉の声。そして目の前にいる御淑やかそうな華奢な少女の小さな声。白く日焼けの無い肌は真っ赤に染まっている。この初夏の暑さのせいか。それとも否か。ひたすらに前者であれと願った。白い制服の袖から伸びるスラリとした腕の先は気まずげに組まれている。


「その……ちゅ、中等部のころからずっと好きだったんです!付き合ってもらえませんか……?」


より一層赤く染まる頬が目に痛い。自分よりも少し下から上目づかいに向けられる視線に息がつまった。
向日葵の咲く中庭の隅、互いに向き合い片方は羞恥に顔を染めている。傍から見れば、甘酸っぱい青春のワンシーンだろう。そしてまた、少女が差し向う相手が僕でさえなければ、僕もまた彼女らを微笑ましく視界に映したに違いない。

今問題があるのは、双方が同性である点ではないだろうか。


「……あの、僕の性別はご存知ですよね、佐原さん」


微かな希望に突き動かされ少女に聞く。高等部からの外部生ならともかく、中等部からの内部生であるのなら流石に僕の性別を知らないはずがない。僕自身彼女の名前は知っている。同じクラスになったことはないが何度かは話したことがある。


「知ってます!……でも、赤霧くんは周りの男子たちよりもずっと素敵だし、かっこよくて……。別に同性愛者ではありません!好きになった貴方がたまたま同性だったってだけで、女の子ならだれでもいいとかじゃないんです!」
「ちょ、お、落ち着いてください!」


性別は知っているらしかったがだんだん早口になりまくし立てるように距離を詰める彼女に慄き、両肩を掴んで何とか押し返す。先ほどまでのいじらしさはなく、御淑やか等とても感じられない。迫ってこられるのは僕とて怖い。

なんにせよ女の子と付き合う気は微塵もない。いや、女の子にせよ男の子にせよ付き合う気などない。大体精神年齢を考えれば犯罪まっしぐらだ。いつごろからか年齢のことについては気にしないことにしてきたがこの時は思わず思い返す。身体は若くとも、心はもはやおばさんだ。


「ああ、と……。その、気持ちはとてもうれしいのですが、僕にはしなくてはいけないことがあって……。今は誰とも付き合うつもりはないんです。」


すいません、と付け加えれば、少女の眦に涙が溜まる。罪悪感が生まれるがこればかりはどうしようもない。相手が誰だろうと、男子であろうと女子であろうと僕は同じ答えしか持ち合わせていないのだから。


「……ごめんなさい、困らせて。でも、どうしても伝えたくて……、」


瞳の淵には今にもこぼれそうな涙。ふるふると微かに震える肩に苦虫を噛み潰した。

こんなことは今までに何度もあったが、どうしても慣れることはない。またおそらく慣れることもないし慣れることを良しとはしたくない。他から見て魅力的であろう人間を演じているという自覚がある分、苦しい。その外面に寄って来る人たちがいるということは予想の範囲内であるが、世間体のための『顔』に心から好意を持たれるというのは申し訳なさでいっぱいになる。

一部の人たちは、僕の身内とそれ以外の人との扱い・表情の差でなんとなく察して、このように交際を申し込むようなことはしない。だが外面にだけ寄ってくるとそれにすら気が付かないのだ。申し訳ないと思いつつも、若干鬱陶しいと思う僕は我ながらクズである。そしてこの外面を止めようともしない僕は相も変わらず身内にしか興味がないのだと改めて自覚した。


自己嫌悪に埋もれ突っ立っていると、うつむいていた彼女の顔がぱっと上がった。その勢いに一瞬慄いていると、


「ごめんなさいっ……!」


一言謝られシャツの襟もとをぐっと引っ張られ、



******



「ん……涼、お帰り……。この暑いのに、どこ行ってたんだ?」
「いや、ちょっと、呼ばれて……、」


教室に戻ると昼休みのためか席はまばらに空いていた。ドアを開けた瞬間にクーラーの冷気がブワリとあたり一気に汗が引く。掛けられた黒海の声の方へと進む。蓮様、日和の三人で教室の一画を占拠しており、身内のそろった姿に安堵の息をついた。


「なんかげっそりしてんな。呼び出しって、喧嘩か?……涼を疲れさせるってことはそれなりに手強かったのか。」
「半分化け物の、涼を疲れさせるとは……、相手は数十人か、身長は三メートル超えるくらいの巨人、だな……。」
「何言ってるの黒海君。本当に喧嘩だったら涼ちゃんは返り血塗れに決まってるでしょ?」
「日和。」


放っておけば好き勝手言い始める三人に肩を落とす。冗談半分だというのはわかるのだが、もう半分は本気なのであろうからまるっきり放置するわけにもいかない。空いていた席の一つに腰を下ろす。パンを持っていたがどうにも食べる気にはならなかった。


「冗談だよ、冗談!呼び出しっていうから誰かに告白されたんじゃない?」
「っは!?」


きゃらきゃらと笑う日和の言葉に突然立ち上がり椅子を蹴倒し立ち上がった蓮様。ぽかんとしながら立ち上がった蓮様を見上げるが、ただただ驚愕の色に染まっており何を考えているかまではわからない。黒海も僕と同じだろうと思ったのだが、黒海の顔を見るとそうでもないらしく、喉で笑いを押し殺し訳知り顔であった。


「え、おまっ、誰……っ!?」
「落ち着け、落ち着け、蓮……。ククッ、強いて言うなら、今お前が詰め寄ってるのは、涼、だ……。」


笑いながらどうどう、とでも言うように、黒海が倒れた椅子をもとに戻し蓮様を座らせる。蓮様は何か言いたげにもごもごと言っていたが、どれも明瞭でなく何が言いたいのか要領を得ない。


「それで、結局何だったの?」
「あ、ええと。日和の言う通りでしたよ。」


いっそ喧嘩とかの方がずっと楽だった。と付け足すと黒海が贅沢だな、と小突いてくる。


「で、告白された、と……。付き合うのか?」
「付き合うわけないでしょう。そんな暇ありませんし、興味もありません。」


スパッといって持っていたペットボトルを煽る。熱い日に当てられた身体が芯から冷やされる感覚に目を細めた。ちらりと三人を見ると黒海は相変わらず笑っていたが日和は苦笑い、蓮様は微妙な顔をしていた。三者三様の表情に首を傾げるがわからない。


「涼ちゃんらしいっちゃあらしいね。……どんな人だった?」
「一応、顔見知りではありましたよ。真面目そうなかわいい子でした。」


そこまで言ってから黒海と蓮様が先ほどまでの表情を引っ込めてキョトンとする。


「かわいい子、って……え、女子?」
「ええ、清楚系女子でした。」
「赤霧くん強ぇ……その辺の、男子よりも……お前の方がきっと、モテるんだろうな……。」


呆然とする蓮様とあきれたような黒海に苦笑いするしかない。ただやはりどうにも黒海の言葉は耳に痛い。


「でもなんでそんなに疲れてるの?いつもはそこまでじゃないよね。」
「あー……、その、最近の女の子は見かけによらない、というか積極的、というか……。」


なんとなく言いづらく、しどろもどろの僕に三人は首を傾げる。できれば突っ込まないでほしいものだが、様子を見る限り、それは叶いそうにない。


「何か、されたのか……?」
「あーあー……、はい。いきなりキスされました。」


ハハッと乾いた笑いをこぼす僕とは対照に場がぴしりと凍り付いた。もっとも凍らせているのは三人のうちの一人だけではあるが。黒海と日和は寸の間の後腹を抱えて爆笑し始めた。


「くっくっ……、それでか。それでそんなに疲れた顔、してんのか。」
「あははははは!一本取られたねえ。でも涼ちゃんなら避けられたでしょ?」
「いや……びっくりしたのもあるんですが、女の子相手に手荒にするのもいただけませんし……。それに断った手前、避けるのも申し訳なく。」


口と口が当たるくらいで彼女の気が済むのなら安いものでしょう、と言えばまた二人が笑う。流石に噛みつかれたり毒を含まされるのなら話は別だが、一応乙女の純情をもてあそぶ真似をした自覚もあるため、避けたり遮ったりはできなかった。要はあの程度なら気の持ちようである。

二人に続いて笑う僕の横目で蓮様が何故かゆらりと立ち上がった。そしてじろりと僕を見る。


「え、れ、蓮様……?」
「どいつだ……、」
「え、あの、」
「どこのどいつだ……?」


いつもより三割低い声とハイライトのない目にやっと二人は笑うのを止めて蓮様を凝視する。確認するまでもなく、静かに怒っている彼に嫌な汗が流れる。この人は基本的に他人にさして興味がないため怒ったりすることはないので、いざ怒ったときにどう宥めればいいのかいまだにわからない。さらに言えば地雷の位置も僕にも把握できていない。


「いや、その……聞いてどうするんですか……?」
「…………。」


無言が怖い。


「ま、まあ蓮、落ち着け……。一応相手は、女子、だ。手を出すわけにも、いかないだろ?」
「物理的手段に走らなくても、いくらでもやりようはある。」
「待って待って!やりようって、やりようって何!?」


どこへともなく行かんとする蓮様を三人がかりで押さえつけ、何もしないように説得を試みた。


相変わらず彼の地雷はわからない。
ただ確認できたのは、頭を撫でれば彼は割と何とでもなるようだ。
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