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日々死ぬ君を、救いたいと思うのは傲慢でしょうか

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 「お前が、死ぬ夢を見たんだ。」


 安癸あきは目を見開いて、それから噴出した。


 「何それ不穏!」


 ケタケタと腹を抱えて笑う彼女を見ながら俺は一緒になって笑えなかった。


 「……私は、どうして死んだの?」


 俺が笑っていないことに気が付いた彼女はようやく笑うのをやめて、それから取り繕ったような真面目な顔をして聞く。


 「……お前は、自転車に乗っていた。夕方、坂を下りていく。」
 「うん、へえ?」
 「それでお前は、ブレーキが壊れてることに気が付いた。ブレーキのかからない自転車は加速して、それから突き当りのガードレールを乗り越えて、崖の下へ落ちて行った。」
 「……坂道って、鹿ノ子神社に行く時に通る、狭くて急な坂のこと?」
 「ああ、あの坂。」
 「でも私、学校の帰り道にあそこ通らないよ?」
 「……坂の先、海だろ。お前なら『冬の海って乙だよね!』とか言い出した急にそっちの道へ行ってもおかしくないだろ。」 


 また安癸は笑う。少なくともある程度身に覚えがあるだろう。


 「んーははは、まあ無きにしもあらずかもねえ。それで?こうして学校帰りの私を引き留めて。自転車屋さんでメンテナンスしてもらってるってこと?」
 「……そうだ。」


 さっきよりも大きな声で、心底愉快そうに高らかに安癸は笑った。能天気さにイラついたのと、こいつに対して懇切丁寧に説明した自分が気恥ずかしくて、無防備な脇腹を掴んでやった。セーラー服の隙間から黒いアンダーが見えた。


 「ぎゃんっ!セ、セクハラだ……次は法廷で会いましょう……、」
 「お前のぜい肉掴んだところで楽しくもなんともないけどな。」
 「悪びれもせず人の気にしているところを貴様ァ……、」


 呻きながら語彙力の足りない呪詛を吐き散らしている安癸を後目に、自転車のメンテナンスを終えたと店員のところへと行った。話を聞けばやはりブレーキは壊れかけていたらしい。


 「うわ、本当にブレーキ壊れてたんだ。しかもタイミングよく両輪。」
 「俺の言うこと聞いてよかっただろ。」
 「予知夢とか……キモチワルッ!」
 「言うことに欠いてそれかお前……、」
 「はいはい、ありがとうございますぅ、感謝してますぅ。」
 「心がこもってないな。」


 自転車が治ったならもはや用はない、と勝手に店を出ようとしたところを、腕をつかまれ店内へと引き戻される。もちろん掴んだ手の持ち主は店員などではない。


 「腕力ゴリラ。」
 「うるっさいモヤシ!何?一人で帰るつもりなの?ぼっち?」
 「俺が一人で帰ったらお前ももれなくぼっちですぅ。」
 「そうじゃなくてさぁ。家近いんだし一緒に帰ろうよ。」
 「やだね、面倒くさい。」


 家が近かろうが幼馴染だろうが、一緒に帰ってるところを誰かに見られたら余計な勘繰りをされるのは目に見えている。高校生というもの事実虚構にかかわらず色恋沙汰に結び付けるのが大好きなのだから。
 振りほどこうと思えば振りほどける膂力に抵抗していると安癸がポツリと言った。


 「『冬の海って乙だよね!』
 「……おい、」


 さっき俺がいったセリフは一言一句違わず、にやにやと心得たように彼女が笑う。


 「心配性のあつしくんはぁ、勿論無論喜んでついてきてくれるよねえ?」


 年々、安癸の性格の悪さが増している。今の表情はまさにそこ意地が悪いというにふさわしい顔つきをしている。一瞬、夢のことなんて話さなければよかった、と思ったが、さすがに自転車屋へ理由も言わずにつれていくのは不可能だったのだ、と納得させる。


 「……っち、コンビニの肉まんな。」
 「うわっ、女の子に集るとか信じらんない。」
 「うるっさいわゴリラ。」
 「……仕方がない、この美少女安癸ちゃんが哀れなモヤシのために肉まんを恵んでやろう。この美少女が!」
 「二回言うなしつこい。……セブンな。」
 「……そっちのコンビニ遠回りになるじゃん。サークルのが近くない?」
 「付き合ってやる。でもあの道は通るなって言ってんだ。」
 「……ふ、ははは、心配性だねえ敦くんは。」


 今度は二人で店を出た。
 ガードレールの向こう側、潮の飛沫が砕ける岩場に、朱色を広げた安癸を見た。
 銀色のタイヤがカラカラと回り、橙の夕日を反射させていた。
 運命の女神の回す輪は、軽やかに回る。
 どこかで見た一文を、どこで見たかは思い出せなかった。


 世界が彼女を殺そうとする。

 始めは、ほんの些細なことだった。そしてその些細なことが、終わらない葛藤の始まりだった。
 小学校6年の冬だった。その日の夜は年一番の雪が降った日で、夕方になっても雪の解けない帰り道を歩いていた。人に踏み荒らされた夕方の道は茶色く汚れていたけれど、端の方にまとめられた雪は白いままだった。俺の少し前を、安癸が歩いていた。魔が差したのだ。いや素直に遊ぼうといえなかったせいかもしれない。俺は端の方に固まっていた白い雪をまとめて雪玉を作った。素手で握ったそれは感覚がなくなるほど冷たく、握りしめるようしたせいでとても硬くなっていた。赤いランドセルに向けて投げたつもりだった雪玉は何も気が付いていない安癸の後頭部にクリーンヒットした。もちろん、握って作った雪玉が、簡単に砕けるほどヤワなつくりはしていない。


 「いった!?何!?ってあつし!!いきなり何してくれてんの!?」
 「出来心で。」
 「にやにや笑いながら言うな!」


 想像通り、振り向いて起こる安癸は俺に向かって走ってきた。
 そしてその瞬間、ついさっきまで安癸のいた場所にトラックが突っ込んできた。
 激しいブレーキ音、車体がブロック塀にぶつかる衝撃、響く轟音、飛び散る雪。
 俺が言葉を失って、安癸も怒りなど忘れてしまった。
 次第に大人たちが集まってきて、俺と安癸はそそくさとその場を立ち去った。
 二人で一緒に帰ったけど、一言も言葉を交わさなかった。
 俺が雪玉をぶつけなければ、安癸はきっとトラックに押しつぶされていた。
 俺も安癸も、何も言わなかった。けれど俺たちは、俺はきっと一生この日のことを忘れないだろうと予感していた。

 その日の夜、安癸が死ぬ夢を見た。

 雨が降っていた。雪が雨に変わったのだろう。
 安癸が傘をさして歩いている。見覚えのある、青に白のストライプ。
 視界が悪く、薄暗い。
 ライトをつけていない軽自動車が一台。
 飛び出してきたバイクをよけようとして、軽自動車はハンドルを切った。
 青い傘が飛んで行った。
 空の灰色道の白、跳ねあがってそれから落ちてくる青色に、朱色がじわじわ広がった。
 次の日の帰り道、俺は安癸を呼び止めた。


 「あっちに大きな雪だるまがあるらしいぞ。」
 「何それ見たい!」


 安癸は俺についてきた。
 夢で見た道は通らなかった。
 軽自動車が事故に遭ったというニュースはきかなかった。安癸と見に行った雪だるまは半分溶けかかっていた。灰色の空から、雨が降っていた。安癸は残念そうに、青と白の傘をくるりと回した。


 その日から、毎日を夢を見る。
 工事現場の鉄骨が落ちてきて、つぶれて死んだ。
 トラックにひかれて死んだ。
 歩道橋から落ちて死んだ。
 通り魔に刺されて死んだ。
 階段から落ちて死んだ。
 倒れた本棚に押しつぶされて死んだ。
 川に流されて死んだ。
 駅のホームから落ちて死んだ。
 良く晴れた夏、海で溺死した。

 毎日、来る日も来る日も、安癸は死んだ。死に続けた。
 そして俺は、馬鹿の一つ覚えのように助け続けた。夢から外れるように、夢で見たあの死に顔を見ないために。

 何度も嫌になって放り出そうとした。それでもやはりできなかった。死にそうなとき、鉄骨が落ちて来そうなとき、車の通りが激しく視界の悪いとき、俺は直前で、手を出さずにはいられなかった。
 俺はどうあってもあいつのことを見殺しにできないと、この5年で思い知った。
 5年、5年だ。安癸は毎日死に続け、俺は毎日助け続けた。
 死に続ける安癸と助け続ける俺。
 なんて馬鹿馬鹿しい鼬ごっこだろう。
 確信した。

 この世界は安癸を殺そうとしている。

 きっと安癸は、あの日、雪の積もったあの夕方に死ぬべきだったのだ。
 俺が雪玉をぶつけなければ、安癸は死んでいた。死ぬはずの人間を生かしてしまったのだ。
 それの何がいけなかったのか、俺にはわからなかった。けれどもそれはあってはいけなかったことなのだろう。
 死ぬはずの人間は死ななければならない。きっとこの世界にはそんなルールがあるのだろう。
 そして死ななければならない安癸は、日々世界に殺意を向けられている。


 「一口頂戴?」
 「肥えるぞ?」
 「肥えません―。食べても太らない体質なんですぅーとか言ってみたい人生だった!」
 「つまりお前は肥えるんだろ。」
 「ああそうさ気を抜くとな!」


 ホカホカとした肉まんを見つめるその両目が鬱陶しくて仕方なく肉まんを半分に割った。鼻腔をくすぐる肉の匂いに頬が緩む。


 「半分くれるの!?太っ腹!」
 「俺が食べやすい様に半分に割っただけだ。…………おい、冗談だからしゃがみ込むな、みっともない。半分やる。」
 「いやっほい!流石敦くん!」


 道路にしゃがみ込んでいじけはじめる安癸を放置するわけにも行かず、割ってやればけろっとしながらついてきた。ハフハフとおいしそうに頬張る彼女を横目に同じように齧り付いた。柔らかい饅頭と肉汁のでる餡を堪能しながら無言で歩き続ける。


 「……っは、敦君がこんなに気前がいいなんて嘘なのでは!?」
 「俺は先行投資型だからな。肥えさせてから食う。」
 「いやん、敦くんったら肉食系?」
 「お前を肉まんにして食うって言ってるんだが。」
 「想像以上にカニバリズム!色気より食い気!」
 「お前もなゴリラ。」


 俺はもう何もかも諦めていた。毎日毎日死に続ける安癸を、見捨てることができない。それはきっとこれからどれだけの時が流れようと変わらない。少なくとも俺はあいつを見捨てられるように変われる気がしない。

 何度見たって、慣れることはなかった。
 後頭部がつぶれ、赤く染まった。
 水分を含んでパンパンに浮腫んだ。
 血の気ない青白くなった。
 乱れた髪が額に張り付いた。
 削れ抉れ、半分になった。
 その死に顔が、脳裏から消えてくれない。
 ああまただ、と思いながらも、慣れることなどはなかった。 
 こうして機嫌よさげに肉まんを頬張る安癸は、今日の帰り道、海岸の岩場に叩きつけられ死ぬ予定だった。

 ひたすら安癸を助け続ける俺は、俺の好きなことができない。いつだって、安癸が死にそうな場面を先回りしている俺の生活は、すべて安癸を中心に回っている。それ以外のことに回す余裕が俺にはない。もし、俺が部活をしたとして、友達と旅行に行くとして、その間に安癸が死んでしまったなら、俺は後悔してもしきれない。
 もしそうなったとき、誰もが俺の所為じゃないというだろう。世界中の誰もが予知夢なんてばかばかしい、偶然だ、あるわけがないと笑ったとしても、俺は必ず後悔する。あのときああしていれば、あの時ああしていなければと、くだらないことを堂々巡りに考え続けるだろう。
 それならば、自分のしたいことを我慢してでも安癸に生き続けてほしい。
 それは安癸の所為じゃない。ただ俺がしたいからそうしているだけなのだからそして何より。
 今日のように、死ぬはずだった安癸を俺の行動によって笑顔にできたなら、


 「敦くん?」


 それにまさる喜びを、俺は知らない。


 「今日も阿呆面だなって。」
 「うら若き乙女に向かってなんて言い分!?」


 もうそれでいい。それだけでいい。俺は他に何も望まない。
 俺はただの人だ。
 死を纏う安癸を、それから救ってやることはできない。
 死神を胡桃の中に閉じ込めることもできない。
 冥府を壊して死の概念を取り払うこともできない。
 何もできない。ただ見ることしかできない矮小な人間。
 特別な力なんて何にも持ってない。
 救ってやるなんて、どの口で言うことができるだろうか。
 俺にできることは、まさにその死の鎌が振り下ろされる瞬間紙一重で躱させることくらいなのだ。
 人から時間を刈り取る鎌は執拗に安癸へと向けられる。俺は毎日、たった一日だけその時間を延ばすことに尽力している。
 今日来る死から、安癸を逃がすために。


 「敦くんってさあ、なんか毎日会うよね。クラス違うのに。」
 「隣のクラスだし、登下校も同じ道通るんだから毎日顔合わせてもおかしくないだろ。」


 潮の匂いがしてきた。
 ふと夢を思い出す。夢の中では、潮の匂いがしなかった。


 「まあね、でもあんまり会うから私に会いに来てるのかと、」
 「公的自意識が過剰なゴリラ。」
 「悪口の語彙ゴリラしかないの?」
 「多彩な語彙で罵られたいのか?」
 「それはちょっと……、」


 夢の中ではいつも安癸の後ろ姿しか見えない。俺はいつも安癸の後ろにいるようだった。
 だからこんな風に、顔を見ることはない。
 俺が安癸の顔を見る時は、いつも横たわる彼女に近づく時だけだ。


 「てかさ、敦くん何にも部活やらないし、休みの日もどっかに出かけたりしないし、よくわかんない。」
 「それはお前もだろ帰宅部。出不精。」
 「はいブーメラン。投げた言葉が戻ってきた―。」
 「ブーメランはお前に刺さってそれから戻ってきませんでしたー。」
 「突き刺さってんの!?」


 夢の中の俺は、何もしない。
 安癸が振り向くことはない。
 俺はただ、死ぬ安癸の後ろ姿を見送っている。


 「……敦くんは、私が危ないといつも来てくれるよね。」
 「……お前が常に危なっかしいだけだろ。」
 「うん。私はいつも危ない。それで危ないときはいつも敦くんが助けてくれる。」
 「……たまたまだろ。」
 「そう、たまたまがいつもなの。」


 纏わりついてくる死から逃れることはできない。それが世界のルールだ。
 死から逃げ出すことはできない。それが身に訪れるまで、死が姿を消すことはない。


 「敦くんは私のヒーローだね。」
 「……身に覚えがないな。」
 「いつも、いつもいつも助けてくれる。」


 海が見えた。
 青い海は、沈んでいく夕日によって橙に染め上げられていた。どこからか子供の笑い声が聞こえた。
 上る月は透き通るような夜を引き連れている。薄紫の幕が下り始めていた。


 「助けられない。」
 「助けてくれてるよ、敦くんは。」
 「俺はいつも助けられてない。」


 一緒に逃げようなんて言えなかった。
 大丈夫だなんて言えなかった。
 流れる運命の川に指一本入れる。そうすると一瞬だけ流れが変わる。それをただ繰り返すだけ。
 訪れる死を、先延ばしにすることしかできなかった。


 「助けてくれてる。」
 「……安癸、」
 「だから、もう助けなくていいよ。」


 安癸は笑っていた。
 西へと沈む夕日に照らされた横顔は、彼女らしくもなくただただ穏やかだった。
 今まで見た死に顔の中で、一番恐ろしい顔だった。

 家に着くころにはもう日が沈み切って、藍色の空にくっきりとオリオン座が見えた。他にも星は見えたけれど、俺にわかるのはそれだけだった。

 俺の夢は、罪なのだ。
 あの雪の日の一瞬、俺がしでかしてしまったことへの代償なのだ。
 それが果たして何を意味しているのかは分からない。

 未来を見せてやるから、次は余計なことをしてはいけないという警鐘か。
 未来を見せてやるから、自分が助けた命に責任を持てという責務か。
 どんなものであろうと、俺がすることは変わらない。

 ヒーローになりたかった。
 ヒーローになんてなれなかった。

 それでもいい。
 それでもよかった。

 颯爽と助けられない。
 青臭く嘆くこともできない。
 鎌を振るう敵を倒すこともできない。

 それでもいい。
 それでもよかった。

 分を弁えよう。
 限界を知ろう。
 諦めを知ろう。 
 だから俺にできることをしよう。
 俺の全てを、あいつにやろう。
 受け取ってほしいなんて思わない。
 何か返事がほしいなんて思わない。
 俺がやりたいからやるだけ。
 俺が生きていてほしいと願っている。ただそれだけ。


 夢を見た。
 薄暗い部屋、水色のカーテンは薄らと透けて、部屋全体を青白くさせていた。
 ひどく、何の音もしない部屋だった。
 ギシリ、小さなきしむ音がする。
 華奢な背中が見えた。
 ハイソックスに包まれた足が、小さな台の上に乗る。

 台がギシリと啼いたのか。
 縄がギシリと啼いたのか。
 まあるい輪は、ほの白いカーテンを切り取った。
 フラリフラリと輪が揺れる。
 小さな指が縄にかかった。
 日に焼けて色素の抜けた髪が縄に引っかかって、安癸は丁寧に髪を整えた。
 細い首は、輪をくぐった。

 かたん、と音がして、台が蹴られ転がった。
 ギシリギシリと縄が啼く。
 ふわりふわりと両足が宙を蹴る。
 フラフラと揺られながら、細い足が踊った。
 それから、足は踊るのをやめた。
 ギシリギシリと縄が啼く。
 ゆらりゆらりと身体が揺れた。
 カーテン越しに青い光を浴びた、安癸は、


 「安癸!」
 「……ははは、敦くん、それ寝間着でしょ。頭もぼさぼさ。まさかその状態で私の家まで来たの?」


 安癸は呆れたように笑った。
 夜の明ける前、朝6時。あたりはまだまだ暗かった。


 「……安癸、」
 「……まあ上がりなよ。幸い今日はお父さんもお母さんもいないんだ。誰かに怒られることはないよ。」
 「違う、安癸、」
 「違わないよ、敦くん。」


 安癸は笑って玄関を開けた。誘われるままについていく。少し急な階段を上れば一つの扉の前。


 「部屋に男の子を上げるなんて初めてで緊張しちゃうなあ。」


 まるで恥じた風でもなく開けられた扉。カーテンの色は、深藍だった。
 きっと、夜明けには照らされ水の色に変わるのだろう。


 「それで、昨日の今日だけど、また夢をみたの?」
 「…………、」
 「また、私が死ぬ夢?」


 部屋の隅に、夢の中で蹴られた台があった。高い棚の戸を開けるためのものらしい。


 「夢は夢だよ、敦くん。」
 「……ああ、」
 「……敦くん、いつのまにかいっつも目の下に隈ができてるよね。」


 唐突な言葉に反応できなかった俺を気にすることなく、安癸は続ける。


 「顔色悪いし、欠伸してることも多いし、ダルそうにしてるよね。」
 「……夜更かしが癖になってんだよ。」
 「無理してると、いつか壊れちゃうよ?」


 壊れちゃう、いつもいつでも壊れそうになっているのは安癸の方なのに。


 「今日も、悪夢をみたの?私が死ぬ夢?」


 どこか会話がちぐはぐに思えた。


 「たまたまだ。」
 「たまたまが、いつもでしょ?」


 昨日した会話。
 そしてザァと血の気が引いた音を俺は聞いた。


 「あき、」
 「いつも、でしょ?」


 安癸が笑って、からかう様にくるりとその場で回った。その身体に隠れていた机の上に、一本の紐があった。
 人の身体一つ、支えられそうなくらい太い紐が。


 「もう良いよ。頑張らなくていいよ敦くん。」
 俺はずっと思い違いをしていた。
 「毎日ごめんね。私のせいで、」
 「違う、」
 「違わない。」


 ずっと、助けたいと思っていた。


 「ねえ、」


 何も知らない安癸から、死を遠ざけようと必死になってた。 
 絶対に諦めないって。何を捨てでも諦めないって。


 「もう良いんだよ、敦くん。」


 諦めてないのは、もう俺だけだったんだ。 


 「違う、あき、」
 「ねえ、もう気づいているでしょ?」


 死はいつも安癸に付き纏う。
 どれだけ逃げても、どれだけ避けても、必ず安癸の傍を歩く。
 違った。
 もはや誰も逃げていなかったんだ。俺以外。
 死はすでに、安癸の隣人だったのだ。


 「世界は私を殺そうとしてる。」
 「あき、」
 「私は死ななきゃいけない。あの雪の日に私は死ななきゃいけなかったのに、もうたくさん生きちゃった。」


 死ななければいけないなんて認めない。
 死ななければいけない命なんてない。


 「ねえ敦くん、分かってるでしょ?私が今日何をしようとしてたか。」
 「だめだ、あき、」
 「もう終わりにしよう。私も、敦くんの夢も。」


 日が昇りだす。
 カーテンの色は少しずつ水色へと変わっていく。


 「今までありがとう、」
 「やめろ、」
 「それからさようなら。」
 「だめだ、あき、」


 あきは笑った。


 「もうね、殺されるのにも生きるのにも疲れちゃったの。」


 ほの白い光に照らされた安癸は、夢の中と違って笑っていた。
 笑いながら涙を流していた。
 生きるのに疲れたなんて、使い古され擦り切れた言葉で、鼻で笑われそうな理由だ。
 でも笑えない。笑えるはずもない。
 疲れるほどに殺され続けていたのは、俺が必死に生かし続けていた所為だ。


 「お前は、もう全部、」


 全部、全部そうだった。
 安癸はすべて知っていた。
 知っていたのに、安癸はもう避けようとしなかったのだ。
 自転車のブレーキを自分から直そうとしなかった。雪の降る日に外へと出た。流れの早い川に入った。
 そのすべてがどういう結果をもたらすか知った上で。
 諦めていないのも、必死になっているのも、俺だけだった。
 全部俺の独りよがりだった。


 「夢の中で何度も死んだ何度も何度も何度も何度も死んだ。いつもね、誰もいないの。誰も助けてくれないの。死ぬのにも、もう慣れちゃった。」
 「……あき、」
 「でもね、現実だといつも助けてくれる。夢の中では絶対にいなかったはずの敦くんが、手を引いて、死にそうなところから引き離してくれる。」 
 「……、」
 「敦くんは、私のヒーローだったよ。」


 ヒーローだった。
 いつから、俺はヒーローでなくなっていたのだろう。


 「でももう無理だよ。これ以上私に敦くんをつき合わせられない。」
 「……違う、」
 「これでおしまい。本当の終わり。敦くんは悪夢から解放される。私は絶え間ない殺意から解放される。どこかの死神は私を殺すことから解放される。世界の齟齬もきっとなくなる。」
 「違う、」
 「最高のハッピーエンドだよ。」
 「違うっ!!」


 腹の底から込み上げてきた怒声に、安癸は慄くこともなかった。
 安癸はもうとっくに諦めている。
 俺だけが、ひたすら安癸を救おうと奔走していた。
 なんて惨めだろう、なんてみっともないだろう。
 全部全部独りよがりで、生きたくないと思っている人間を生かしてヒーロー気取りとは笑わせる。
 でもそんなことはとっくに分かってたことだ。


 「違うだろ!そんなのハッピーエンドなんかじゃない!誰も幸せにはならない!」
 「……私は、幸せだよ?」


 安癸が笑う、目じりを少し赤くして。


 「幸せじゃないだろ!?死にたいんならなんで俺に言われるがままにしてた!本当に死にたいなら場所のわからないところへ行って自殺すればいい!俺が来たときに居留守を使えばよかった!昨日だって俺がお前を呼び止める前にとっとと海に向かってれば死ねただろう!?」


 俺だって気づいてた。
 気づいてたのに諦めなかったのは、諦められなかったのは俺の意思だ。


 「馬鹿のくせに慣れない嘘つくんじゃねえよ!」
 「……嘘じゃないよ、」
 「生きたいって思うなら生きたいって言え!俺がお前を生かすから!」


 安癸は笑った、力なく笑った。


 「……生きたいよ?でも生きたいって思っちゃだめなんだよ。」
 「だめじゃねえよ、誰がだめだって言った?」
 「生きてるだけで、私は敦くんに迷惑をかける。終わりなんてない、私が生き続けてる限り。」


 生き続けている限り、世界は私を殺そうとする。
 生き続けている限り、敦くんは死ぬ私を助けようとする。


 「生きてることはもう幸せじゃないよ。誰かに迷惑をかけながら、死に損ないが生きてるなんて。」


 気がつけば安癸の顔を両手で掴んでいた。


 「俺に迷惑かける?俺が迷惑だって言ったか?もう嫌だって言ったか?」
 「……誰だって嫌でしょ。知り合いが死に続けるを助けなきゃいけないなんて。」
 「ああ、嫌になったさ。でもそれ以上にお前が死ぬのが嫌だったんだよ俺は。俺は選んでお前を助けてる。誰かにお前を助けろって言われたわけじゃねえ。俺がお前に生きてて欲しいから助けてるだけなんだよ。」


 笑っていた安癸の表情が崩れる。ぼろぼろと仮面が割れて剥がれ落ちていくかのように。
 口が微かに開き歪められ、瞳が揺れる。
 ああいつか、遥か昔。道で転んで置き上がったあきはこんな顔をしていた。
 うまく啼き声があげられず、しゃくりあげる。


 「生きたくないっ、生きたくないよ。だっていつもいつも私は殺される。私が死ななきゃいけないせいで余計な事故を起こしてる人がいるかもしれない。私がなかなか死なないせいで誰かに迷惑かけてる。」
 「んなもんお前が原因かわかんないだろ。」
 「私はっ敦くんに迷惑かけてる……!ねえ?嫌でしょう!?もう私に構うのはっ、ほら見てよ!ずっと君が助けてくれてたのにそれに応えようとしない!挙句自殺しようとする!わかるでしょ!今日私は自殺をするつもりだった!君が助けてくれていたのに、ずっとずっと敦くんが生かそうとしてきたのに私はこうやって全部パアにしようとした!」


 指をさした先は机の上の太い紐。俺が夢の中で見た縄の輪。


 「助けてもらったのに、死のうとする。そんな奴にもう構わなくていいよ……、君がここからでて、それから一日たてば、もう全部終わる。私は一番最後の死を味わって、君はもう二度と悪夢を見なくなる。」
 「…………、」
 「もう、終わりにしよ……?」


 顔を掴んでいた手が濡れていく。
 終わりたいと言う。
 迷惑をかけるくらいならば、と。
 今日ですべてを終わらせたい、と。


 「……もういいのか?」
 「うん、今までありがとう、ごめんね。」
 「本当に?」
 「うん、」

 「じゃあなんでお前はそんな悔しそうな顔をしてるんだ?」


 ぼろぼろと涙を流す安癸は、何もかもをあきらめた顔でも、受け入れた顔でもなかった。
 涙でぐしゃぐしゃになりながら下唇をかみ、眉を寄せ、震えている。
 そんな顔してるやつを置いて、ああそうですか、なんて帰ることなんてできるわけがない。


 「く、やしくなんか、」
 「もういい。」
 「…………、」
 「お前が何を言おうと俺はもう知らん。」
 「……うん、」
 「お前が死にたいって言おうが構わないでくれって言おうが、俺は俺のしたいことをする。」
 「……うん?」


 わかったようなわからないような返事。おそらくわかっていないだろう。


 「お前が何と言おうと、お前が死にたかろうと、俺はお前が死ぬところを見たくない。お前が死ぬのを知りながら看過できない。」
 「……見逃してよ。」
 「んで、俺は別にお前に何かしてやりたいとか思ってない。お前に何かしてやるほど俺はお前に対して優しくない。俺はただお前の死体を見たくない。だから俺が勝手にお前を生かす。」
 「……迷惑。」
 「迷惑だろうが何だろうがどうでも良い。俺はお前のことを助けたいなんて思わない。俺はお前が死ぬのを邪魔する。それが嫌なら俺の妨害を躱して頑張って死ね。……俺が一晩で見るお前の死体は一つ。死に方も一つ。お前が一日に二つ以上の種類の死因を実行しようとすればおれは確実に片方が止められない。」
 「…………、」
 「……安癸、」


 助けようなんてもう思わない。
 死にたいと嘆く安癸にかけるべき言葉なんて見つからない。
 どうすればその苦しみから解放されるのか、傍観者でしかない俺にはわからない。
 助けるなんてもう言えない。

 世界が安癸を殺したがっている。
 安癸はすでに死にたがっている。
 それでもいい。
 俺は安癸に生きていてほしい。


 「俺はこれからも勝手にする、だから、」


 俺だけでいい。世界に喧嘩を売りながら生きよう。


 「生きたいって、死にたくないって思えるようになったら、俺の隣で笑ってくれ。」


 今は俺のわがままでいいから。
 今は俺一人でいいから。
 いつか一緒に、明日来る死に舌を出そう。

 微かに空いた水色のカーテンの隙間から、昇りかけの朝日が差し込んでいた。



**********



 目の前に安癸がいた。
 もうすでに随分と見慣れた背中で、ああ、またか、と思いながら俺は歯噛みした。
 安癸が歩いている。あたりはすっかり暗く、ぽつぽつと白い光が宙に浮いている。群がるように蛾が飛んでいる。
 コツコツと硬いヒールがコンクリートを打つ。
 安癸は携帯を弄っているようで、顔のあたりが仄かに明るかった。それから、何かタップしてそれを耳に押し当てる。誰かに電話をかけているのだろう。
 ザッザッ、と少し引き摺るような重い足音がした。それは少しずつペースを上げていく。


 「もしもし敦くん――、」


 どうやら電話の相手は俺らしかった。
 足音が近づく近づく、足音共にもう一つの荒い息遣い。
 安癸がそれに気づく。コンクリートを打つ音が回数を増し、電話への声は焦りがにじむ。
 早歩きが、小走りに変わって、それで、


 「……おはよう、起きた?」
 「……はよ、安癸。」
 「敦くんご機嫌いかが?」
 「最悪だ。」
 「ふっはは、知ってる。寝起きでご機嫌麗しいことなんてないもんね。」
 「当たり前だろ。」


 へらへらと安癸が笑う。キッチンの方からコーヒーの香りが漂っていて、ぼやけていた意識が覚醒していく。俺より先に安癸が起きているのが珍しくて、ベッドから見える景色が珍しい。たぶんこれで朝食の準備でもできていれば理想の嫁なのだろう。


 「今日は珍しいく私が先に起きたので、朝ご飯の準備をしようと思いました!」
 「ほう。」
 「だがしかしあいにくと食パンが残り一枚でした!」
 「それで?」
 「昨日炊いたご飯が炊飯器にあります。ということで朝ご飯朝ごパンじゃんけんをするために敦くんを叩き起こした次第にあります!」
 「じゃあお前ご飯な。俺朝ごパンがいい。」
 「私も朝ごパンが良いの―!」


 お互いが朝はパン派であるがためにどうやら起こされたらしい。朝から米の気分ではないのだ。叩き起こされたことは多少不満はあるが、昨日の仕事帰りにロールパンを買っていたことを安癸に伝えなかった俺のミスでもある。


 「……冷蔵庫の隣の籠、ロールパン入ってる。」
 「え、本当!やっほい敦くんイケメン!」
 「鮮やかな掌返しだな。」 
 「お褒めに与かり光栄ですわ。」


 着替えよりも食い気を優先したらしい安癸がパジャマのままでロールパンにめがけて走っていく。勝手に食パンを食べずに俺を起こしただけ、食い気に溢れるあいつの優しさだったのかもしれない。
 ロールパンと食パンをトースターに放り込みマーガリンを冷蔵庫から出した。


 「そうだ、安癸。」
 「なあにー?」
 「今日は仕事終わりに迎えに行くから、一人で帰らずに待ってろ。」
 「ありがとー!今晩残業だったみたいだもんねー。」
 「……ああ、」


 あの雪の日からいったい何年たっただろうか。
 毎日毎日、この世界は懲りずに安癸を殺そうとありとあらゆる殺害方法をとってくる。
 そして安癸は毎日毎日、夢の中で殺され続けている。
 そして俺もまた、飽きることなく懲りることなく、死に続ける安癸を生かし続けていた。


 「敦くん、週末何か予定あるー?」
 「お前に言わずに何か予定入れると思うか?」
 「知ってたー。駅前に新しいケーキ屋さんできたんだけど一緒に行かない?喫茶スペースもあるみたいなんだ。」
 「わかった。まあ夢次第だがな。」
 「出た心配性!空気読んでよねー世界!」


 トースターが高い声で鳴いて、焼きあがったことを告げる。香ばしいにおいに鼻をひくつかせた。
 窓から日が差す、マーガリンの溶ける匂い、焼きあがったパンに、湯気をひくコーヒー。
 そして遠回しに今日も生きていたいと笑う安癸。

 殺意に満ち満ちたこの世界は、今日も平和だ。
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