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魔法使いの少年の話 後編

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 ざくざくとブーツが無遠慮な音を立てる。
 過ごし慣れた森の中では目印がなくとも迷うことはない。

 自分がどこで生まれたのか、どんな親によって産み落とされたのか、私は知らない。
 2周目のこの人生でも、はっきりと周囲を認識し始めたころには一人だった。隙間だらけのあばら家に私はいた。
 幼児一人でもなんとか生きていけたのは妖精たちのおかげだった。彼らはどこからともなくパンや飲み物を持ってきた。魔法の代償でもらってきているのか、それともどこかの家からかっぱらってきているのかはわからなかったが、それでも何もできない私にとってはとてもありがたかった。

 自力で歩き回れるようになったころ、私は出会った。

 裕福そうな恰好をした一人の男。帽子に外套、ステッキを携えた男は富裕層であろうにお付きの人間一人も連れていなかった。

 壊れて捨てられていたランプをあばら家へ持って帰る途中、私は近くの妖精に頼んだ。


「ねえ、とても寒いんだ。このランプに火を点けて」
「ええ、ええいいわ。可愛い子。小さなおててが霜焼けしたら大変だもの」


 幼いころ、妖精たちは代償なしで惜しみなく魔法を使ってくれた。
 壊れて燃料も入っていないランプに、温かな光が燈る。


「ああ……ああ……! 今のはいったい……!」


 身なりのいい男は駆け寄るように私に近づくとまじまじと私の顔を見つめた。
 期待と好奇心に染まり、橙の明かりの溶ける榛色の瞳。


「その目は……そうか魔法使いなのか……!」


 一瞬で私の身なりに視線を走らせる。
 紫色の瞳、擦り切れて襤褸のような服、薄汚れた垢の覆う皮膚。
 男はわらった。


「君、お父さんやお母さんは?」


 あたりにいた妖精たちが一斉に私の傍に集まって、口々に叫ぶ。


「汚い汚い、見苦しい男! 素敵な帽子が泣いてるわ」
「子供でいられなかったつまらない大人! 選ばれず、妬み嫉む滑稽さ!」
「選ばない、選ぶはずないこんな奴!面白くも美しくも可愛くもない!」
「奴に瞳はもったいない!」


 何をすればここまで妖精に嫌われるのだろうか。
 まるで巣の周りを飛び回る蜂さながらに、男の周りを飛びまわる。
 けれど彼らに嫌われ、祝福の一つも与えられない男はわらう。


「誰もいない」


 誰もない。私にいるのは妖精だけ。


「あなたは?」


 わかっていた。すべてわかっていた。

 寒さの厳しくなる夕方、今にも雪が降りそうな曇天に歩き回れば壊れたランプが路地に打ち捨てられていることを。
 妖精に頼めばそのランプに明かりが点くことを。
 その光景を、一人の貴族が見ていることも。


「私はアヴァリティア・デルフィニウム」


 偶然は必然に姿を変え、運命は人為をもって掌握した。




「はじめまして」
「……小屋には鍵がかかってたと思うんだが」
「さて、開いたものでね。……君に、聞きたいことがあって来たんだ。エルムルス」


 猟銃の手入れをするその手を止め、猛禽類のような金色の瞳が胡乱げに細められる。
 おそらく、普通に訪ねてきたところで門前払いされていたことだろう。手癖が悪くとも魔法でこじ開けた方が話は早い。
 いずれにせよ、良好な関係を結びに来たわけではない。ただ確認したいことがあっただけなのだから。


「最近のお貴族さまってのは行儀がなってないんで。 それも魔法使い様が、奇跡を扱って押し入るたあ恐れ入った」
「うん。私はユーグ・デルフィニウム」
「…………ああ、あんたが」


 心底呆れたという顔に虚を突かれる。なぜ初対面でそんな顔をするのか、と。まるでカトレアのようではないか。


「私のことを知っているのか?」
「ああ、わがままなお嬢さまが愚痴っていくのさ。家に不遜な野良魔法使いが入り込んだってな。……あんたが、お嬢さまが殺したがって止まない魔法使いさまか」


 殺したがって止まない。私はパトリシアにそんな風に思われているのか。当然のこととわかっていても、いささか胸に来るものがある。
 あの榛色の目が憎悪に塗れ、迷いのない銃口が私に向けられる。
 風に揺れる木々、忙しない蹄の音、重ねられる銃声。
 焼けつくような殺意。


「……旦那さまは、かつて君を拾ったのか」
「…………どこで何を知ったかは知らんが、俺から話すことはない。こんなところ、お貴族様にはふさわしくないだろ。出て行ってくれ」
「この小屋も、お貴族様である旦那さまが建てたんだろう。ならば私がいたところでおかしなことではない」
「出ていけ。あんたは旦那さまじゃない。どういう経緯でデルフィニウム男爵になったかは知らんが、俺についても旦那さまについても、俺から話すことはなにもねえ」
「私も旦那さまに拾われた」


 鋭い言葉がやんだ。


「拾われ、森へ連れて来られ、一軒の小屋を与えられた。そうして魔法に関する本を与えられた。君も似たようなものじゃなかったんじゃないか」
「……だとしたらなんだ。あんたの言う通り、俺はガキの頃デルフィニウム男爵様に拾われた。この小屋を与えられ、銃を与えられた。一人で生きていけるように」


 ややあって、エルムルスは部屋の隅にあった木の椅子に顎をしゃくった。どうやら話を聞いてくれる気になったらしい。
 腰かけるとぎしりと音を立てた。窓から見える風景は、私が育った景色と同じだ。妖精と小鳥が外を飛び回り、降り注ぐ光が葉の隙間から零れては地面に落ちる。けれど匂いは違う。火薬と血、灰の匂い。獣臭さと染み付いた煙の匂いに目を細めた。


「それで、今更何が聞きたい。旦那様はすでにいない。俺が旦那様と過ごした時間も長くはなかった。似たような境遇だからって思い出話でもしたいのか」
「君は、旦那様から愛されていたか?」
「……はあ? 何言ってんだあんた」


 心底呆れた声色に、また言葉選びを間違えたのだと知る。色々考えてはいるのに、口から出るころには何かを間違えているのだ。エルムルスは顔を歪め、ため息を吐く。


「違う。いや、違わないのだが、なんと言えばいいのか、」
「愛なんてあるわけがないだろ」


 そう吐き捨てて、カップの中身を煽った。
 呆れだけではない。明確な嫌悪と侮蔑の込もった声だった。
 いたたまれなくなり、両の手を握りなおす。


「……では、なぜあの方は君を拾ったんだ?」
「お貴族様の暇つぶしさ。純然たる。そこにそれ以上の理由はない」
「いや、暇つぶしなどで人ひとり拾うなどしないだろう」
「普通はな。だが旦那様は貴族だ。金がある。余裕がある。暇がある。それができた。暇つぶしに若者への投資の真似事ができた」


 反射的に口から出かけた言葉を何とか飲み下した。エルムルスはこちらをしっかりと見据えている。その目に嫌悪と軽蔑を乗せて。私の一挙手一投足も見逃さないとでも言うように。
 目の前の男がわからなくなった。


「……なぜ、君はそんな言い方ができる? 旦那様に助けられたんだろう?」
「あんたこそ何言ってる。主体は常に旦那様だ。俺が助けを乞うたわけでもなく、拾われた以後世話をされたわけでもない。あの方はただ“拾った”だけだ。慈善でもなければ福祉でもない」
「だが、」
「あの方はそういう人だ。特別になりたい、代用の利かない存在になりたい。変わった、人と違うものがほしい。誰かを望み、望まれたい。誰かを愛し、愛されたい」


 まるで見ているものが違った。
 澄んだ水に汚物を投げ入れるように、エルムルスはすらすらと言葉を投げる。そこに躊躇も罪悪感もない。


「あの人はそういう人だ」
「黙れ、」
「あんたが話せって言ったのに?」


 激情に任せて立ち上がると、目の前に銃口が迫っていた。
 ひりつくような緊張感もなければ、煮えたぎるような殺意もない。ただ日常のように、男は銃を突き付けていた。


「かわいそうだな、あんた」
「……なにを、」
「あんな人に愛されたかったのか」


 淡々とした目をしているのに、口元だけはせせら笑うように弧を描いていた。
 異常を感じ取った妖精たちが騒めきだす。窓は揺れ、小屋の中に風が立ち上がる。


「あんたはこんなにも愛されているのに?」


金色であるはずの瞳が、銃口にしがみつく妖精の姿を確かに捉えた。


「君はまさかその目で、」
「何となくわかった。あの人は魔法使いが欲しかったんだな。だから辛うじてたまに視えるだけで、魔法も使えない俺のことを拾った。だがその後であの人は本当の魔法使いを拾ったんだ。それで俺は用なしになった。なんの才能もなければ運のない最期だったのに、欲しいものを見つける嗅覚だけはあったとは」


 のっぺりとした金の瞳が絡みつく。


「あの人が本当に欲しかったのはあんただったんだなァ」


 その顔が、子供の泣き顔に見えた。


「何してるのエルムルス!」


 突如として飛びこんできた声にハッとする。
 猟銃を担いだパトリシアがそこにいた。


「……また君か」
「君かじゃないでしょう! 何をしてると聞いてるの!」
「かわいそうな魔法使いがおしゃべりに来たから少し話していただけだ」
「そんな死にそうな顔して銃を突き付けながらするおしゃべりってなに!?」


 パトリシアは怒声を上げながらつかつかと小屋の中に入ると、エルムルスの銃を躊躇いなくむしり取った。エルムルスも特に抵抗することもなく、ただ呆れたようにため息を吐いた。


「何ため息ついてるの!」
「痛っ」
「痛くない!」


 勢いよくエルムルスの額をひっぱたく。
 さして状況もわかっていないだろうに、人を叩くのに躊躇がなさすぎる。つい先ほどまで飛び回っていた妖精たちも、怒声に散らされ、今は物陰からこちらを伺うだけだ。
 ぐるん、と勢いよく振り向いた彼女に思わず肩を揺らす。
 鬼のような形相はいつかこの森の中で発砲されながら追いかけまわされた日を思い出させた。


「…………」
「痛っ」
「痛くない!」
「いやなんで私まで」
「あんたもエルムルスになんか言ったんでしょ。じゃなきゃ彼が仕事道具であんなことするはずない」


 引っ叩かれた鼻づらを押さえながら見上げるとパトリシアは居丈高に見下ろした。
 この若い猟師はこの気難しい令嬢に随分と気に入られているらしい。


「……そもそも、あんたがなんでここにいるの。なんでエルムルスに絡みに来るの」
「……カトレアから、もっと“家族”と“愛”について考えろと言われ、いろんな人に聞いて回ってるんだ」
「どんな経緯があってあの子はそんなことを……。いえ、だとしてもエルムルスは関係ないでしょ。彼はあなたの家族でもなければ知人ですらないわ」
「この魔法使いは旦那様に愛されたかったらしい。だから同じように旦那様に拾われた俺の話を聞きに来たそうだ」
「……はあ?」


 地獄の扉が開いて、そこから熱風があふれ出た時同じような音がすると思う。
 実に簡潔に説明したエルスムスにパトリシアはこの世のものとは思えない声をあげた。


「……お父様は屑よ」
「パトリシア、」
「何も知らない子供を囲ったり、貧しい女に手を出したり、」
「……パトリシア、」
「外面だけはいいのに、家のことは顧みない。執念深くて嫉妬深いくせに飽きっぽい。自分の力のなさを知っているのに、特別な何かに縋ろうとする」


 明確な意思をもって、傷つけるための言葉を紡ぐ。


「救いようもない、つまらない人間よ」


 小屋の中に静寂が落ちる。
 少しだけ荒れたパトリシアの呼吸だけが反響していた。
 私もエルムルスも何も言えなかった。
 誰かが何か言ったわけじゃない。だがこの場にいる面々はきっとお互いわかってしまったのだ。


「雨だ」


 エルムルスが呼びかけたようにも独り言にも聞こえる声量で呟いた。
 開きっぱなしの扉から細い雨が降り注ぐ。遠くから雷が鳴る音が聞こえた。


「……パトリシア、魔法使い。ひどくなる前に帰れ。これはすぐにはやまないぞ」
「……帰ろうか」


 パトリシアは何も言わなかった。





 エルムルスから借りた毛布を魔法で合羽に変える。
 合羽を着て馬に乗った彼女の隣を、呼び出した雄鹿の使い魔に乗って歩く。彼女のことだからすぐに私のことなど置いて走り去ると思ったのだが、彼女は雨の中ゆっくりと歩を進めた。
 雨と風と雷の音だけが聞こえる。太陽は雲に覆われ、進行方向は雨と霧で煙っていた。

 お互いにわかってしまったのだ。
 尊敬していて、自分の大切であった人が、目も当てられないほど人間として軽蔑するに値する者だと知ってしまったこと。
 あの人に愛されたいと、必要にされたいと思っていたこと。
 希望を裏切られて、真実を知って軽蔑してなお、愛されたいと願ってしまうこと。
 
 そんな自分のことを嘲笑いたくなってしまうこと。

 エルムルスはわかっていた。自分が気まぐれに拾われたことを。そして魔法使いを拾ったことで自分が捨てられたことを。
 パトリシアはわかっていた。自分がさして愛されていないことを。魔法使いになった妹の方が愛されていること。どれだけ自分が愛してみせても、結局他所の女のところへ行き娘を作ることを。
 私もわかっていた。愛されることなどないことを。神秘への憧憬を、特別なものを傍に置きたかっただけだということを。

 そこに貴い何かなどなかった。
 凡人の気まぐれで、凡庸な下心で、無才の執着でしかなかった。

 それでもなお、私たちは愛されたいと願ってしまった。

 私たちはあの小屋で、お互いの無様さを知ったのだ。

「ねえ」


 雨音に流されそうなほど細い声がした。


「あなたからお父様はどんな風に見えたの」


 まっすぐ前だけ向いたパトリシアの表情は合羽のせいでうかがえない。
 けれど彼女から怒声以外の言葉をもらうのは、身分を隠して接触したとき以来だった。


「……立派な人。貴族で、何でも持っていて、私のことを助けてくれる奇特な人だと、そう思っていた」


 そう思っていた。そう思い続けていたかった。
 けれどもう、そんな暗示ではどうにもならない現実が目の前に横たわっていた。
 いつまでも空っぽな張りぼてに縋っていては、私は成長することができない。


「パトリシア、君にとって旦那様は、」
「……大好きな父親。優しくて、わがままを聞いてくれて、私たちのことを愛してくれる」


 淡々とした言葉に、なんと返事したらいいかわからなかった。
 彼女も、そう思いたかったのだろう。2周目の人生は、そうでないことをわかっていたはずだ。それでも彼女は、その希望に縋り続けたのだろうか。
 今の今まで、すがり続けて手放すことのできなかった、私のように。


「わかってたわよ。そうじゃないことくらい。カトレアは2周目を迎えた時点で見切りをつけてた。魔法使いになってからは特にそうね。お父様にはなんの期待もせず、家族なのにあまり近寄ろうともしないで、王宮にばかり行っていたわ」
「……彼女は、気丈だね。さっぱりしていて、強い」


 魔法使いとしての力は自分の方が強くても、人間として、彼女は強かった。幻想に縋り続ける自分より、はるかに現実を見据えていた。

 降りしきる雨の中、ふと、もう逃げられないと思った。
 適当で友好的な言葉を並べ立てて取り繕うこともできた。
 すべてを放置して、時間に任せることもできた。
 けれど今、自分の心の拠り所が不毛であったと知った今、逃げるべきじゃないと思えた。
 デルフィニウム男爵についていったのも、シンデレラを助けたのも、パトリシアたちを殺したのも、すべて。

 すべて自分の責任だ。


「私は、君たちを殺した。シンデレラが幸せになるために、君たちは報復を受けるべきだと思っていた」


 激しい音を立てる雨に声が負けないよう、腹に力を入れる。


「旦那様から、シンデレラのことを頼まれていた。だからシンデレラの幸福だけを願っていた。自分で考えもせず、現状を確かめもせず、盲目的にその言葉だけを信じた。愚かで、怠惰だった」


 1周目の時だって、報復は不要だった。
 シンデレラは決してパトリシアたちのことを恨んでいなかった。虐げられていても、家族だと、愛していた。鳩で3人を襲ったのは、私のエゴであり、不平等な正義感だった。


「2周目のときだってそうだ。私は考えることを放棄して、ただ1周目と同じ道のりをたどろうとした。2周目を迎えて在り方を変えた君たちと違って、私は思考停止した愚者だった」


 妄信的で怠惰な私は、自分の正義だけを信じてきた。シンデレラを幸福にすることだけが至上にして最大の行動原理で、それに従う自分の正しさを信じて疑わなかった。
 独りよがりで、滑稽な魔法使いだ。


「……街で君を見つけて、近づいた。妖精を仕込んだ懐中時計で、シンデレラの様子を探ろうとしたんだ。彼女が元気か、君たちにひどいことはされていないか」
「…………それで、あの時計を」
「ああ。妖精たちであの家を探ろうにもカトレアに味方する妖精たちのせいで探れなかった。結果的に、あの時計はシモンさんに回収されてしまったけどね」


 浅はかだった。デルフィニウム家の面々を甘く見て、常に自分が上手だと過信していた。カトレアは魔法使いになろうと恐るるに足らないと。パトリシアなら十分に御せると。傲慢で浅慮だった。


「本当に申し訳ないと思ってる。私は馬鹿だった」
「…………、」
「謝って許されるとは思っていない。君たちには恨まれて当然だともわかっている。1周目は君たちを殺した。2周目も変わらず君たちを害そうとした。君のことを利用した」
「…………、」
「君には、私を殺す権利がある」
「……何を、」


 馬が歩みを止める。それに気づいて私も止まると、パトリシアは目を見開いて私のことを凝視していた。

 あの人にそっくりな榛色の瞳。
 この瞳で睨まれると、罵られると、とても悲しかった。この瞳に愛されたかった。
 数々の暴虐を働いておいて、それでもなお、今日の今日までパトリシア自身のことをまるで見てこなかった自分に愕然とした。


「私は、君のことを蔑ろにし続けた。一人の人である君を、顧みなかった。傲慢で、愚かだ。……君を殺し、君を傷つけ、君の大切なものを、私は壊した」
「…………」
「君には僕を殺す権利がある」


 降りしきる雨の中、彼女は一瞬たりとも私から目を逸らさなかった。絹糸のように天から注ぐ雨は、その視線を遮ることもなく、私たちを覆っていた。

 終わりの見えない沈黙は、永遠に続くように思えた。いやむしろ自分の浅ましさのあまり、この時間が終わってはいけないと思った。
 今彼女が私を殺すことを選択したとしても、この雨では発泡することはできないだろう。それをわかっていて私は、殺す権利があると口にしたのか。その実私は、厚顔にも許されたいと思っているのだろうか。

 彼女に許されたいのか、その瞳に許されたいのか。今になっても私はそれがわからなかった。
 私は何も知らない。何も考えてこなかった。
 自分の怠慢と傲慢に、泣きたくなった。


「私が、あなたを殺したとして、」
「えぇ、」
「私になんの得があるの?」


 小さな声。けれど雨音にかき消されることなく、明瞭に届いた。


「あなたはもう、ユーグ・ナスタチウムではなく、ユーグ・デルフィニウム。デルフィニウム家の家長。……もう一度聞くわ。あなたを殺して、どんな得があるの? 私から何もかも奪ったあなたを殺せば、きっと私は再び何もかもを失うわ」
「それは……、」
「これ、持ってくださる?」


 パトリシアは唐突に猟銃を突き出した。雨に打たれるのも気にせず差し出されたそれを慌てて受け取り、これ以上濡れてしまわないように合羽の内側にしまう。


「どうして……」
「私はね、いつだって気づくのが遅いの。自覚するのも、動き出すのも全部遅い。過去に縋って、幻想に縋って。自分自身に薄っぺらい暗示をかけるの」
「そんなことは、」


 それは、自分も同じだった。何もかも遅くて、幻想に溺れた。薫陶の快楽に身を預け、自分の足で立とうとせず、自分の目で見ようともせず。なまじ力があっただけに、人を不幸にした。


「あなたが憎くても、あなたを恨んでも、もう私にはどうにもできないことくらいわかってるわ。それこそ、自分のすべてを投げうって、道連れにあなたを殺すことくらいしか」
「……でも、君はそうしないのか」
「……家族と生きていられる幸福を、私は誰より知ってるつもりだわ」


 相対しているのに、今彼女がどんな顔をしているのかわからなかった。
 泣いているのか、怒っているのか、わらっているのか。
 きっとそのすべてだった。
 そのすべてを綯交ぜにして、飲み下して、パトリシアは私に向き合った。


「この幸福を手放せないくらい、この結果はハッピーエンドなの」
「ハッピー、エンド……」
「たとえあなたがそこにいたとしても」


 彼女は全部、何もかも飲み干して、そうして笑った。


 雨は止まなかった。二人で屋敷に帰るまで降り続いた。
 屋敷について、私はタオルを彼女に差し出した。
 彼女はありがとう、と言って、それを受け取った。



*****************************


「最近、随分と調子が良いようですね」


 妖精への報酬と思しきクッキーの缶を仕舞いながらカトレアが声をかけた。


「そう見えるか」
「ええ、ついでに機嫌もよさそうで」


 以前ならきっと彼女の言葉を額面通り受け取ったことだろう。けれど今ならばわかる。人が出払った瞬間、そのタイミングをずっと見計らっていて、ようやく私に声をかけたのだろう。
 人前で親し気な話はしたくないが、わざわざ二人で場所を変えて話すのも嫌だ、といったところだろう。
 この義妹は卑屈で自虐的な言動をするくせに、妙なところで見栄っ張りだ。仲間の前では私と二人になることも、シモンと二人になることも避けようとする。周囲の視線や揶揄いを危惧してのことだろうが、その行動が一層わざとらしく思春期の子供の様だとささやかれていることを、彼女はまだ知らない。


「君が言っていたことを、私なりに考えてみたんだ」
「家族と、愛のことで。師匠や殿下にまで話を聞きに行ったと聞いてますよ。……自由ですね」
「ああ、でもそのおかげでいろいろとわかったよ」


 わざとらしく雑用を熟していたカトレアが手を止める。薄紫の目が、私のことを探るように見た。


「結局、何がわかりましたか」
「私にはまだまだ難しいってことがわかったよ」
「……なるほど。十分すぎるほどの成果ですね」


 カトレアは口の端だけで笑った。


「実質、答えなんてないんだろう。むしろ人の数だけ答えがあるし、私にはまだその答えに相応しい何かを持ち合わせていない」
「ものの数週間でよくもそこまでたどり着きましたね」


 もう話は済んだと言うように、彼女はあっさりと出口の方へと向かった。おそらく、仕事終わりにシモンと約束があるのだろう。決して口には出さないけれど。きゃあきゃあと姦しい声を上げる妖精たちを片手で振り払っていた。
 しかし唐突にその足を止める。


「カトレア?」
「そういえば、最近随分パトリシアの部屋にいるようですが……。関係性は改善されたんですか?」


 彼女の顔を見て、本当に聞きたかったのはこっちなのだとわかった。
 私をデルフィニウム家の家長に据えることを決めたのはデルフィニウム家の判断、ひいてはロベリアとカトレア、そして政治的な側面のアドバイスをアドニスとシモンが行った。十分当事者と言えるはずのパトリシアのことをカトレアはずっと気にしていた。
 対等であったはず、あるいはカトレアが上手であった姉妹のバランスは崩れてしまった。以降、カトレアはパトリシアの様子をうかがっている。


「カトレア、君も考えるべきことがあるんじゃないのか」
「は?」
「パトリシアのことを、いつまでもなあなあにしておきたくないだろう」


 むっつりと押し黙ったカトレアを見て、どこか心が和らいだ。
 良くあろうと、無欠であろうとしたとしても、人はきっと逃げ出してしまいたい局面がある。
 どんな勇敢な人だって、正直な人だって、誠実な人だって一緒だ。
 大切な人に嫌われることが、傷つけることが怖いのだ。


「おいしいお茶とおいしい茶菓子、それから正直な心と覚悟」
「なんの話です」
「僕とパトリシアのお茶会に必要なものだよ」


 朗らかなお茶会ではない。明るく陽気なパーティじゃない。静謐で、深い夜僕らはとつとつと話をする。僕が見てきた世界を、彼女が見てきた世界を。僕が見てきた人を、彼女が見てきた人を。同じ世界に生きながら、別のものを見てきた私たちは、アルバムを見せ合うように、少しずつ、物語を共有していく。


「……仲良しみたいでむかつきますね」
「気のせいだ。仲良しとはまだほど遠い。彼女は僕を許さない」
「それでもなお、あなたは」
「許されなくても、仲良しじゃなくても、愛してなくても、語り合うことはできるんだ」


 恨んで怒って、それでも彼女は歩み寄った。


「不安なら話せばいい。誤解があるなら説明すればいい。言い訳があるなら足掻くといい。家族だから、僕らには話し合う余地と時間があるんだ」


 雨の中、僕を貫いた瞳は、僕が乞い焦がれた榛色だった。
 けれど私はもうその瞳の持ち主を間違えたりしない。


「さあ、僕らの世界の話をしよう」
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