薬膳茶寮・花橘のあやかし

秋澤えで

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青嵐と桜餅

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 暖かくなった太陽を浴びながら、私は一人で山へと足を踏み入れた。木々の間から降り注ぐ木漏れ日が心地いい。白い制服の合服に光と影が模様をつける。スニーカーは軽やかに地面をける。

 見慣れた景色のはずなのに、どこか新鮮味がある。それはきっと私があの時とは違うからだ。





 「桜良紅於」





 ぞっとするような硬い声に振り向く。苔むした岩の上、光の届かないそこで錫杖を持った男が私を見下ろしていた。





 「……白澤さん」

 「生きて戻ってきたのか」

 「はい、ご迷惑をおかけしました。私は生きて、生きた身体でここにいます」





 この人は最初からわかっていたのだろう。私が魂だけでうろついていることも、都合よく記憶喪失になっていることも。その上で興味本位で手を貸そうとした。そして私は無責任に彼のことを糾弾した。





 「それはなによりだ。死ぬことより悪いことなんて、なかっただろう」





 なんとも表現しがたい渋い顔でけだるげに言う。その言葉は本心だ。だが同時に私になんと言われるのか、警戒している。





 「これ、私の身体がないときにもらったのに、起きたら首に掛かってました。てっきりなくなったり神社の境内に落ちているものかと思ってたのに」

 「……ああ、それは俺が“お前”にやったものだからな。ならば“お前”が身に着けている者が道理というものだ」





 なるほどそれが道理というものらしい。所有権に縛られている、といったそういうことが近いのだろうか。





 「ありがとうございます。これなしでも思い出すことはできましたが。……これは、自分の記憶を取り戻すための道具なんですか?」

 「いいや、それは記憶を引き摺りだす呪具だ。玻璃に映した対象の記憶を引き摺りだし、呪具の持ち主にそれを見せる。お前が自分の姿を映し出せば、失われた記憶が戻ってくる、という寸法だった。もっとも、俺が引っ掻き回さずともたどり着いたようだが」

 「……では、これにあなたの姿を映せば、私はあなたの記憶を見ることができるんですね」





 骨董屋は一瞬目を瞠った。

 誰にだって人に知られたくないことがある。それを他人の目の前に無理やり引き摺りだす道具だ。けれど私が見ようとする彼の記憶は、何かわかっている。骨董屋もそれに思い当たったようで短く嗤った。



 「……それで、見てどうする。お前が見たところで何も変わらん。俺も記憶は過去のものだ。すべては起こった後、終わった過去だ。なんの意味もない。お前の下世話な好奇心をただ満たすだけだ」

 「私はあなたを知りません。あなたと、紫苑さんの間にあった時間を知りません。だから私はあなたのことを糾弾したくなってしまいます」



 無責任な、不当な思いだ。私はどうあがいても赤の他人で、紫苑のことなど何も知らない。

 けれど橘と話をした。飛梅と話をした。彼女の残していったものと、花橘でふれあい、学んだ。

 だから私は怒りたくなってしまう。なぜ彼女を開放してやらないのかと。死にながら生きる、あの惨状に何も思わないのかと。

 思わないわけがないのだ。白澤は考えたうえで選択し、そして今も彼女を見守りつづけている。



 それは嫌悪に突き動かされるでもない、徒な暇つぶしでもない。

 大切であったが故の、選択。





 「私は部外者です。それでも私は橘さんたちの苦痛を知っています。大切な彼が苦しまなくなる方法があるなら、それをとりたい。そして私は橘さんたちの知らないことを、彼女が彷徨う原因をあなただと知ってしまっています。だから私はあなたに訴えないでいられません」

 「それはお前や橘たちの勝手な感覚だ」

 「同時に彼女の感覚でもあったはずです。言っていたでしょう。紫苑さんは“死への恐怖が足りなかった”と」

 「…………」

 「紫苑さんはあなたに言ったのではありませんか? 死んだほうが良い、とか死んでまで生きていたくない、とか」





 骨董屋の表情は凍り付いたように動かない。三つの目は私を凝視していたが、どうしてか言葉を遮られることはなかった。





 「少なくとも、彼女はあなたを否定したのではありませんか?」





 首から下げた鏡に手をかける。

 どれも私の想像に過ぎない。けれどこの鏡を使えば、紫苑が猩々に襲われたあとのこと、槐が反魂香を焚いた経緯を知ることができる。恐ろしく、悲しいその日をこの初夏の下に晒すことができる。

 けれど槐は私の手ごと鏡を掌で覆った。





 「俺が花橘に来る前、血まみれの猩々に会った。怪我を治療した痕があった。それなのに紫苑の血の匂いがした。そのまま殺した」

 「橘さんたちが見つけた猩々の死体は……」

 「花橘についたころには、紫苑は死んでいた。すでにこと切れていた。だから反魂香を使った」





 唐突に骨董屋は話し始めた。私のことを見ることなく、けだるげに。何度も思い返した記憶を、丁寧になぞるように。





 「そうだ、お前の言う通り、紫苑は俺を否定した。俺の教えが足りなかった。あいつは、紫苑は反魂香を焚いた俺を批判した」

 「じゃあ」

 「じゃあどうすればよかった? 生き返らせた俺が、まだ動き、話の出来る紫苑を再び殺せばよかったとでも言うのか」

 「ええ」





 一瞬この場から一切の音がなくなった。

 知らないから言えてしまえる。知らないから、私は言うのだ。





 「生き返らせてしまったあなたが、責任を持って殺すべきだった。それを彼女が望んだのなら。本当に彼女を大切に思っていたのなら。槐さんは殺すべきでした」





 いつも飄々としている顔が憎々し気に歪んだ。純然たる憎悪に逃げ出したくなる。けれど言わなければよかったとは思わなかった。震えそうになる足を叱咤して、真正面から槐を見据える。





 「槐さんだってわかってたんでしょう。定命の人には必ず終わりがあることを。それがいつ訪れるかわからないことも。その終わりを紫苑さんは理解してた。でもあなたは理解しなかった。したくなかった。あなたは永遠を夢想した」





 人の関りから逃げたと骨董屋は言った。きっと彼らは人里離れて、平穏に暮らしていたのだろう。人とかかわらず、妖や時たま神とかかわりながら、時間の流れの遅い、静かな場所で。まるで彼女も、人間ではないかのように。

 槐は、そんな時間が永遠に続けばいいと思ったのではないだろうか。





 「生き返ってほしい、その願いはあなただけのもの。他の誰を思うわけでもない、エゴです」

 「黙れ……! 生き返らせるだけの手段が、算段があれば誰だってそれを行う! お前の友人とてそうだった! 勝手にお前が再び生きることを願い、反魂香を探し求めた。それが紛い物だったというだけで、やっていることは変わらない! そうだろう」

 「ええ、一緒です。違うところは最終的に私が生きることを望み、彼女はそのまま死ぬことを望んだところです」

 「お前たちは、お前たちは紫苑があんな姿だから死んだ方がいいというのだろう!? あの身体は治せた! 別の身体を用意して、魂を付け替えれば紫苑は紫苑として生きられた! ああも自我を失い彷徨うことなく、綺麗な身体で、あいつらしく笑うことができた!」





 骨董屋は吠える。血反吐でも吐くように。望んでいる言葉は分かり切っているけれど、その言葉をかけてやるのは私の役目ではない。





 「でも今までそれをしなかった。できなかったのは紫苑さんが望まなかったからではありませんか。確かに、私たちはもし死んだ彼女が別の身体を持って生きて笑っていたのなら受け入れたでしょう。この世もあの世も不思議な方はたくさんいます。……ほかでもない彼女自身が望まなかった。だからあなたは勝手にそれをすることができなかった」





 勝手に生き返らせてしまったのは、骨董屋の願いだ。その時点で亡くなっていた紫苑の意思はわからなかった。もしかしたら、喜んで生き返る、そんな未来もあったのかもしれない。

 けれど望まなかった。反魂香を否定した。彼女の意思を尊重するなら、その場で彼女を再び殺せばよかった。だが槐にはそれができなかった。大切であったから、自分の手で殺すことができなかった。

 けれど拒絶する彼女を無理やり次の身体に移すこともできなかった。それは彼女が望まないことを槐も知ってしまっているから。



 だからこの状態で、ただ何をするでもなく、彷徨う彼女を眺めるしかない。

 後悔しながら、苦しみながら。





 「終わることで得られる幸福もあります」

 「終わることで得る苦しみもあるだろう」

 「それは、今以上の苦しみですか?」





 徐々に、目の前に立つ三つ目の男の身体萎んでいくように見えた。張っていた虚勢が剥がれ落ちるように。膨らみ切っていた怒りが縮んでいくように。苦しげに顔を手で覆う。嗚咽が荒い息遣いが微かに地面に落ちていく。





 「死ぬことは終わりじゃない。人間である私よりも、白澤であるあなたの方が知っているのではありませんか? 人の魂は此岸から彼岸へ渡っていきます。けれどそれで終わりではないのでしょう。彼岸でも、彼女は彼女であり続ける」

 「お前に、まだほんの十数年しか生きていないお前にいったい何がわかる」

 「何も。せいぜい彼岸に行くか此岸にとどまるかを選んだ経験くらいしかありません。だからあなたの方が知っています。紫苑さんは、彼岸に行くことになったらどんな顔をしますか? どんな風に過ごしますか?」





 私は、彼岸を知らない。死後裁判を受けて行き先が決まる、そんなことくらいしか知らない。地獄へ行くか、高天原へ行くか、それとも異形と変わり地獄で働くのか。

 槐は深く深く息を吐いた。落ち着かせるように。そうしてようやく顔を上げた。





 「そうさなぁ、あいつならきっと……」





 涙で濡れた顔で赤くなった鼻で、顔を歪ませるようにして笑った。





「あいつならきっと、どこでも笑って暮らすだろうなあ」





 その声をかき消すように青嵐が吹き抜ける。風が吹き終わり再び静寂が戻るとき、もう既に胡散臭い骨董屋の姿はなかった。









 去年のこの季節、私は桜餅を作っていた。花橘での生活に少し慣れてきていたが、それでも無表情の橘は少し怖かったし、客に慄くことも度々あったことだった。五社たちが宴を開くとのことで桜餅を大量に発注されたのだ。曰く、狐たちは油揚げの次に餅に目がないという。狸に徳利、狐に桜餅、次から次へと仲間らしい二足歩行の狐たちが桜餅の入ったお重を運び出していく、その光景は少し不思議で愛らしく、よく覚えている。橘が大きなボウルで道明寺粉を混ぜていて、私が鍋いっぱいの餡子を冷まして、飛梅が塩漬けした桜の葉を水洗いしていた。とにかく忙しなく、目の回るような忙しさだったが、お店の中に漂う甘い餡子の香りと仄かに香る桜の匂いに、どうしてか幸せな気分になった。



 店の前に生えた大きな桜の木はとうに花弁を散らし青々とした葉を茂らせていた。

 心臓が落ち着きのない音を立てる。山を登ったせいで少しつま先の汚れたローファーで扉の前へと歩み寄る。ふとまた強い風が吹いて、藍色の暖簾がめくれ上がった。それとともに甘い餡子と柔らかな桜の香りが店の中からあふれ出した。



 あの時は幸せな、安心する香りだったのに、どうして今こんなにも目の奥が熱くなるのだろう。柔らかな風に背を押され、私は一歩踏み込んだ。





 「桜良紅於、戻りました! またよろしくお願いします!」





 滲む視界の中で、手に餡子を付けた飛梅が飛びついて、たすき掛けをしてボウルを持ったままの橘が呆れたように笑ったのが見えた。

 あの世とこの世の間にある不思議なお店、薬膳茶寮・花橘。何もかも捨てて逃げ出したいと願った時、私はここへ連れてこられた。そして生きてやり直したいと思った今、私は自分の足でここへ戻ってきた。





 「おかえりなさい!」





 私はまた、ここから始める。
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