薬膳茶寮・花橘のあやかし

秋澤えで

文字の大きさ
上 下
52 / 59

蓬団子と生者の巡礼 5

しおりを挟む
 静けさが耳に痛い夜が明けて、店の準備を終えた私に、橘がまた大きな包みを手渡した。昨日よりも重く、嵩もある。

 「蓬団子だ。宵満月のところへ持っていけ。あと信楽の旦那にもよろしく言っておいてくれ」

 それだけ言うとさっさと花橘から追い出される。しかし今回は飛梅と一緒だ。
 にんまりと笑う彼女に首を傾げた。


 ざわざわと少し強い風が吹く。それでも嵐の足音のような湿気も乱暴さも感じない。ただ春を連れてるように風が吹く。ずっしりと腕に思い蓬団子を持ちながらちょろちょろと落ち着きなく歩き回る飛梅を見下ろした。彼女はどこか上機嫌だ。


 「飛梅、なんか機嫌いい?」
 「うふふ、機嫌よく見える?」
 「……見える」


 どこか含みのある言い方だ。けれど彼女が機嫌よくいる理由はまるで見当がつかない。もうすぐ、私はいなくなる。それ自体が嬉しい、ということはきっとないと思う。この1年、仲良くやってきたのだ。私がいなくなると思うと清々とするから機嫌がいい、だとは思いたくない。


 「良くは、ないよ。でもよく見えるなら、それは、うん、嬉しいよ」
 「良くないのに、よく見えるのが良いの?」
 「そうだね。良くはないけど、私は、ベニちゃんとのお別れを、悲しい思い出にしたくないの」


 お別れ。
 飛梅から私がいなくなる話を振ってくるのは初めてだった。改めて考えてみれば、彼女が意図的に避けてきたのだろう。


 「私ね、お別れが嫌い。すぐに死んでしまう人間が嫌い。すぐにいなくなってしまうお友達が嫌い」
 「飛梅……」
 「ロゼンもきっとお別れが嫌い。でもね、ロゼンはお別れがちゃんとできることの大切さを知ってるから、こうしてベニちゃんにみんなのところへ行ってもらって、ちゃんとお別れをさせてるの」
 「それは、わかってるよ」


 わかっていた。これはただのお使いじゃない。私にみんなのところへ別れの挨拶をして来いという意図があった。それと同時に、誰かに私を説得してほしいとも思っているだろうことも想像に難くない。


 「お別れができないのは、とてもつらいこと。でもお別れしたって悲しものは悲しいの。でも私、ベニちゃんとのお別れを、悲しいだけのものにしたくない」


 まんまるい子供らしい目が私を見上げる。
 子供らしい姿、けれど彼女は私よりもずっと長くこの世にあって、数多の人間と出会い、別れてきた。


 「ベニちゃんを思い出すとき、その思い出は悲しいものであってほしくないの。だから私は笑う。あなたと過ごした日々が、少しでも良かったものだって思えるように」
 「……ごめん、飛梅」


 楽しい日々だった。長閑で穏やかで、少しだけ刺激的な日々。知らないことを知って、知らないものと出会って、したことのない経験をする。ただそれだけで終わらせられず、最後に悲しみおいていく。


 「謝らなくていいよ。でもそのかわり、ベニちゃんお聞きたくない話をするね」


 その言葉は私を逃がさないとでも言うように、彼女にしては強く重かった。


 「聞くよ。なんでも。それがきっと、最低限の私の義務だと思う。それに、あなたたちの言葉から耳を塞ぐのは、違う」


 私は、すべて聞いたうえで、そのうえで選択をしたかった。どんな言葉があろうとも、どんな思いがあろうとも、この気持ちは変わらない。けれど聞いたうえでその選択肢を選び取りたかった。そうでなければ、誰かの憐れみを受けることになってしまいそうで。


 「ベニちゃん、別れは悲しいよ。すべてを捨て去ってしまって、逃げることはきっとできるよ。でも本当に捨ててしまっても、いいの?」
 「……飛梅は、私と別れることは悲しい?」
 「悲しいよとても、どれだけ定命の人間を見送っても、何度だって、別れは悲しい」
 「……飛梅も、死ぬより悪いことなんてないって言う?」


 別れを許せなかった、耐えられなかった白澤は、紫苑から死を奪った。死より悪いことなんてないと言って。
 あれは、正しくなんてない。


 「言うよ。でもそれは生きてさえいれば良いっていうものじゃないよ。その子がその子らしく生きていけること。どんな苦難があったとしても、生きていればそれで終わりじゃない。いつかその子の願いが叶う日が来るかもしれない。いつか、生きていてよかったって思える日が来るかもしれない」
 「願いの叶わない、暗い道が永遠に続くように見える日々を、どうして生きていけばいい?」
 「そんな日は、もっと先を見て。ずっと先。目には見えなくても、いつかあるかもしれない未来の光を見ていて」


 未来の光、とは何だろうか。
 風に揺れる木々の中、輝き散る木漏れ日を見上げた。歩いたその先にある光は、いったいどんな姿をしているんだろうか。


 「昔ね、大好きだった子は、自分らしく生きられないならって、矜持を汚すくらいならって、栄華も繁栄も私も捨てたの。もちろん、話し合ってね」
 「昔……」


 いったいいつの話だろうか。長い彼女の生の中、一瞬だけ交わった人間のうちの一人。


 「でもその子はそのせいで死んじゃったの。矜持は、幾分か、きっと守られた。それを守って、死んだの。何もかも手放さずに、歯を食いしばって耐えて、ただ生きる道だけを選んだなら、生きられたかもしれない。生きていれば、また自分らしく生きられたかもしれないのに」


 遠くを見つめる飛梅は、きっと今でもその人の姿をはっきり見ることができるのだろう。
 彼女の言う悲しい別れの一つ。
 飛梅は、あの冬の夜に見た顔をしていた。過去に思いを馳せ、悔やむ顔。


 「辛いことがあれば、生きていることもしんどくなる。生きているだけで苦悩して、懊悩して、煩悶とする。それでも、好転するには生きていることが最低条件で絶対条件なの。ねえベニちゃん。生きているあなたは辛いかもしれない。でもね、生きていれば何とかなる道が見えてくるんじゃないかな。あなたが変わるかもしれない、周りが変わるかもしれない」
 「……もしかしたら、まだまだずっと変わらないかもしれない。その先に光なんてないかもしれない」
 「でもそのずっと先を見るには生きてないといけないの」


 その人は、きっと彼女に愛されてきた。
 彼女は言った。栄華も繁栄も私も捨てた、と。
 飛梅はどんな気持ちで、その子の生涯を眺め、そして見送ったのだろう

 「いつか幸せに生きられる時代が来ても、あなた自身がいないと、意味がないの」

 かつて言えなかった言葉をようやく紡げたかのように、飛梅は懇願するような声色で、私に投げかけた。
 その言葉は、風にかき消されることなく、彼女の一粒の涙とともに私の中に落ちていった。
しおりを挟む

処理中です...