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蓬団子と生者の巡礼 2

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 言わなくても問題はない。むしろ言わない方がいいのかもしれない。私が言わなければきっと彼女は何も知らないまま、綺麗に別れることができるだろう。彼女にとって、私との出会いと別れはただひと時の思い出となる。けれどそれではだめだと、私の心のどこかが言っていた。

 それはあまりに不誠実だと。真摯に私のような小娘の言葉を受け止めて考えてくれて、別れの門出を見送ろうとする彼女に対する裏切りだと。
 そして、今の私には梓乃というこの鬼女に、どうしても聞いてみたいことがあった。記憶を取り戻してなお、私の中で燻り焦げる、嫌な疑問を。

 「私は、逃げるんです。もう、何もかもから」
 「逃げる……?」
 「だから、私には梓乃さんの言葉を受ける資格がない」

 胸の内に広がっていた罪悪感が、言葉となって私の口からあふれ出す。一度溢れてしまえば、あとはもう器が壊れたように零れていくだけだった。

 「私は帰りません、もうあの場所には戻りません……」
 「戻らないって……それは、」
 「もうこのまま死ぬってことだ」

 言葉を迷う私を切り捨てるように橘が横から口を出した。

 「身体に戻らないベニの魂は擦り切れる。明日にはもう地獄へ連れていかれることになってる」
 「地獄って……いえ、人の子だから裁判を受けるってこと? 普通の死者と同じように」
 「ああ。そいつは身体に戻って生きるよりも、このまま死ぬことを望んでる」

 橘の言葉が矢のように私の身体に突き刺さる。そして梓乃もまた私の身体を突き刺すのだろうと予期した。
 ただ処刑されるのを待つ罪人のように、私は息を潜めて項垂れた。私が一言「生きる」と言えば、大団円なのだ。誰もかれも、私のことを笑顔で見送ってくれるだろう。けれど私はもう自分の選択を覆す気がまるでなかった。

 「私はもう戻りません」
 「……どうしても?」
 「どうしても、です」

 私の予想を裏切って彼女の声は早朝の湖のように凪いでいた。怒りも戸惑いもなく、ただ私に言葉を渡す。

 「あなたがいた場所には、あなたの死を望む人がいるのぉ?」
 「……わ、かりません」
 「あなたが戻ってくるのを、待っている人がいないのぉ?」
 「……一人、います。私が帰ってくるのを待っていてくれる子が、一人」

 静かな言葉が、自分勝手な私のなけなしの良心をそっと揺さぶる。

 「一人? 本当に? 本当に一人だけかしらん。……あなたの気づいていない、あなたを大切にする人がいるかもしれないわぁ」
 「少なくとも、私は知りません」
 「あらあらあら……」

 ただいない、じゃなくて知らない、と言い切るのは美徳だと思うわぁ、と彼女は微かに笑いながら私の頬を優しく撫でた。

 「あの街で生きるあなたには、辛いことがあったのね」
 「……わかりません。きっともっと辛いことは、この世にもあの世にも溢れてるだろうから」
 「あらあら、そんなの関係ないわぁ。あなたが辛かったかどうか、それこそが大事なの」

 小さな子供に言い聞かせるように梓乃は言う。

 「幸福も、喜びも、痛みも、辛さも人と比べるものじゃないのよぉ。他人の作った尺度なんて不要。あなたが感じたものが真実ですべて。あなたは辛かった。そうでしょう?」

 梓乃の言葉に、かろうじて頷いた。私にはよくわからなかったけれど、反芻して何とか飲み込む。それでも私には、自分の感覚を一つに伝えるだけの道具をあまり持っていない。

 「辛いことから、逃げちゃダメとは言わないわぁ。私には言えない。私は何もかも投げ捨てて、逃げ出した鬼だから」
 「それは」

 違う、と言おうとして口を噤む。私は彼女のほんの一片しか知らない。かつて母親たちであった彼女のたちの人生を、私は知らない。軽率に違う、なんて否定できなかった。

 「私たちは逃げてきたの。逃げたの。他人の目から逃げた、母親の責任から逃げた、育てるべき子供たちから逃げた、逃げて、逃げて、逃げて……そうして罪を重ねたわ」

 赤い目が数多の人生を回顧するように細められる。触れている手の温度が微かに下がったように感じられた。

 「だから逃げるななんて言えない。私が言える立場じゃない。……私は、ベニちゃんに生きていてほしいわぁ。あなたの人生はこれから長くて、辛いこともたくさんあるだろうけど、きっと素敵なこともたくさんある。そのすべてを捨ててしまうのは、ちょっとだけもったいない気がするのぉ。もちろん、これはあなたの辛さの一片も知らない他人の言うこと。耳を塞ぐも傾けるもあなたの自由よぉ」

 静かに、ゆっくりと話す彼女が、とても繊細に言葉を選んでいるのがわかった。逃げた彼女だからこそ、私に逃げるなとは言えない。それでも、彼女は私に生きていてほしいと願っていた。

 「もし私が本当にあなたの母親で、あなたがこの終わりを選ぼうとしているなら、こんなことより悲しいことは他にないわ」
 「他に、ない」
 「そうよぉ。どんな母親だって、子供との別れは耐えがたいものだわぁ」
 「嘘だ」

 赤い目が見開かれる。けれど私の口から出た言葉は戻らない。何よりもう戻す先もなかった。
 罪悪感が、別の感情に塗りつぶされる。

 「あの人は、私のことなんて顧みない。私が死んだことすらあの人にとってはどうでもいいよ」
 「……ベニちゃん」
 「あの人は私を捨てた。私を置いていった。あの人にとって、私はただ邪魔な荷物でしかなかった」

 戻ってきて数日の記憶が私に教える。
 振り返らない母であった人。擦り切れた記憶はもう声すら再生できない。それでもあの人の顔は覚えていた。

 「あの人は私を置いて出ていった。浮気した挙句、私に言い訳の一つもせずにいなくなった」

 何もかもを思い出した。

 学校で過ごした楽しい記憶も、奈子との笑いあった日々も、そしていっそ忘れたままでいたかった憎悪と焦燥も。

 子供のころの記憶に、楽しそうなものはない。いつも静かで、何もなかった。きっと最低限の世話はされていたのだろう。それでも私には温かな家族と笑い合うような、一家団欒と言えば記憶は一欠けらとしてなかった。私にとっての家は、いつも静かで無機質で、ただ雨風を防げる場所だった。
 そんな母が家を出ていったのは私が小学生の時だった。
 その日は台風が近づいていて、学校が半日で終わったのだ。給食だけ食べていつもより早く家へ帰る。早く帰ったとしても特にやることもないけれど、授業がなくなったのは楽だ、なんて思いながら強風の中を私は歩いていた。そして家の前についたとき、見慣れない車が1台止まっていた。銀色の大きな車。強風で飛ばされてきた木の葉がフロントガラスに張り付いていた。運転席に座るのは見たことのない男性。父や母と同じくらいの年に見えたため、両親の友人かと首を傾げる。けれど父も母も、平日の今日は仕事のはずだ。台風のせいで半日になったのかと思い、車の脇を抜けて玄関へ向かった時、内側から扉が開いた。
 大きな荷物を持った母だった。まるで今から一週間海外旅行にでも行くように、キャリーバッグやボストンバッグをいくつも持っていて、私を見た瞬間、目を見開いた。
 どうしてここに、とか、学校はどうしたの、などと聞かれたような気がする。あまり覚えていないが、台風のせいでおやすみになったの、と私は答え、母に、どこへいくの、と聞いた。

 「ここではない場所」

 そう言って彼女は灰色の車に乗り込んだ。運転席の男性と二、三言何かを話して、男性が一瞬こちらを見た。どんな顔をしていたか、もう覚えていない。
 そうして車は去った。張り付いていた木の葉を振り切って、雨雲立ち込める薄暗い中へと消えていった。

 それきり二度と彼女と顔を合わせることはなかった。

 「あの人は、私をただ産んだだけの人だった。そうして捨てた。あの人は悲しまない。あの人は苦しまない。……私がただ、いなくなるだけ。それだけですよ」

 言い終わった瞬間に、余計なことを言ってしまった、という後悔が津波のように押し寄せてきていた。
 言っても仕方のないことだ。すべて終わったことであり、私とてだからどうしたい、という思いがあるわけでもない。

 沸騰した憎悪は言葉を終えた瞬間に萎み始め、もはや跡形もない。ただ今あるのは疑問だけだった。
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