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反魂香と鶏生姜の粥 1
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最近は、寝ても寝ても眠い。
ほんのりと暖かさを感じさせる日を浴びながら大きなあくびをこぼした。
「なんだかすごく眠そうね、ベニちゃん」
「うん、ごめん……んんん……」
「あんまりぼうっとしてるとロゼンにどつかれちゃうよ」
それは嫌だな、と込み上げてきたあくびを今度こそ噛み殺した。橘はちょくちょくどついてくるが、これが意外と痛い。たぶんあの人は自分の腕力を理解していない。
表の掃き掃除をしながら暖かな春の陽気をほけほけと浴びる。昼時は過ぎ、おやつにも少しまだ早い時間、来る客と言えば橘に漢方生薬をもらいに来る客だけで、自分が対応する客はほとんどいない。
玄関の傍に植えられた桜の木は、仄かに蕾を桃色に染めて開花する日を待ち望んでいる。
「そういえば、芦原神社の梅が綺麗だから見に行こうよ」
「そういえば境内に木があったね。あれ梅の木だったんだ」
初めてあの木を見たのは夏祭りのころだ。それからもお使いで何度か行っているがその間花など見たことがなかった。なるほど梅の花なら納得がいく。
「せっかくだから宵満月も誘っていこ! それとアケミちゃんにお八つももらおう。アケミちゃんってばいつも社務所に良い和菓子とかカステラとかしまってるんだよ」
「はは、じゃあその時は私たちも何かお菓子持っていこうか。桜餅とか、茶団子とか、あとお饅頭も作ってみたいな」
宵満月を呼ぶなら伊地知も、と言おうとして口を噤んだ。普段の様子からすっかり忘れていたが、人食いの送り狼である伊地知は神社の境内の中へは入れない。どれだけ本人が良いヒトであると私が思っていても、人を食べていたという事実は変わらない。
「……この辺りで桜が綺麗で花見ができそうなところって、ある?」
「んーそうだね、もう少し上に登ったところに桜林があるよ」
「そっか。桜が綺麗な季節になったらさ、伊地知さんとか梓乃さんとか、あと縛兎さんとかも誘って、みんなで見に行きたい」
立場がどうとか、在り方がどうとか、いろいろあるのだろうけど、私はここで出会ったみんなが好きだし、何の害も被っていない今、そういう理由で一緒に時を過ごせないのは嫌だった。
「ベニちゃんのそういうとこ、私は大好きだよ」
「ん、ありがとう」
「みんな呼ぼうね。いっぱい料理作ってさ、ロゼンがむすっとしてて、それでもついてきてくれて、宵満月がみんなの前で踊って、伊地知はゲラゲラ笑って、シノは私やベニちゃんのことを撫でまわして可愛がるの」
「そう、できると良いね」
「私たちが誘えばみんな来るよ、きっと」
梓乃とは夏まつり以来会っていない。子供を見れば愛さないでは、殺さないではいられない梓乃は花橘へ来なくなった。あの日のことを後悔はしていない。私たちは攫われた子供たちのために最善を尽くした。できうる限り、梓乃と対話したつもりだ。あとは梓乃次第、待つことしかできない。
一度だけ、私の方から梓乃のところに行けないか、と橘に相談したことがあった。けれど橘は行くべきではないと諫めた。私の身の危険だけではなく、ただ梓乃から行動しなければ何も変わらないのだと。梓乃に必要なのは引っ張り上げるような他人の手ではなく、これからどうしていくか、自分で決断していくことだ、と。
私にはそれがもどかしい。
「あんまり来ないけど、エンジュも来たら良いな。エンジュはここの誰よりも長く生きてるからいろんなこと知ってて、いろんな話をしてくれるの。それから、」
そこで飛梅ははっとしたように口を止めた。
「同じ場所に来れなくても、同じ桜を見て、来れない人のことを想ったら、一緒に見てるのも一緒だよ」
「……うん、そうだね」
取り繕ったように笑う飛梅を追及したりはしなかった。
それから、シオンも、と言おうとしたのだろう。だが彼女はそれを口にすべきではない、あるいは口にしたくないと思った。その心を推し量ることはできない。ならば私は深くは聞かない。口にしなくても思っているだけで十分なことだってある。
深く聞かないから、深くは話さない。それは私も同じだった。
骨董屋の槐と彷徨うことを余儀なくされる紫苑。私はなにもできてはいない。
この一年で、私はいろんな人やモノと出会った。たくさんの話を聞き、違う世界に触れ、多くの学びを得た。だがその一方で、彼らの間で生まれたどうしようもない懊悩を、何一つ解決できないでいた。
ぽっと出の存在でありながら烏滸がましいと思う。けれど彼らが好きだから、知ってしまったから、何か自分にできることをしてしまいたいと願ってしまうのだ。
ふと足音が聞こえ二人揃って振り向いた。
「いらっしゃいませー、おひとりさまですか?」
定型文を愛想良く掛けるが、相手は私たちのことを見もしなかった。どこか呆然としたように、花橘の看板を見つめる女の子はキャメルのカーディガンを着ていた。着物でもなければ目鼻の数も私と同じ。少し汚れた黒のローファーが砂を踏む。
「花、橘……」
薄い唇が微かに動いた。私と飛梅は顔を合わせる。
稀に見る、生きた人間の客だ。
店の中にいる橘を呼びよせ彼女を店の中へと案内した。
椅子に座った彼女はどこか憔悴して見えるのに、店の中を少し興奮気味に眺めまわしていた。
「ようこそ、薬膳茶寮・花橘へ。それで、今日はここを探して来たのか、それとも迷子か、どちらだ?」
丁寧な言葉は最初だけ、続く言葉はぞんざいだ。生きた人間に対する橘の態度は基本的にこれだ。もっとも、大抵の場合は遭難か迷子だ。せいぜいお茶を一杯飲んで帰り道を教えるだけの客でしかない。それに橘は生きた人間のリピーターを望まない。
「さ、探してきました! このあたりの山に、不思議なカフェがあるって聞いて!」
「……不思議なカフェ、なあ?」
胡散臭げに彼女を見る橘。胡散臭さで言えば花橘の方がはるかに胡散臭いだろうに。春に収穫した乾燥カモミールを掬いポットに入れながら彼女を盗み見る。
やせ型で、手足が長い高校生だ。紺色のセーラー服の上にキャメルのカーディガン。白い大きな襟にバッチが付いている。黒目がちの目が印象的だが、その下の隈に目が行く。憔悴して見えるのはそれのせいだろう。よくよく見ると、唇の端は切れたように少し赤く、机の上に乗せられた細い指はかさついている。まだまだ若いと言うのに、全体的にくたびれて見えた。若さゆえに老いては見られないが、その姿はどこか痛々しい。
「じゃあお前さんは、何を期待してここへ来た?」
緊張したような、けれど橘の言う通り、期待に目を輝かせて彼女は言った。
「反魂香が、欲しいんです」
私も橘も一瞬、動きを止める。
橘は深く深く、ため息をついて彼女を見下ろした。
「反魂香を、何だと思ってる?」
「何って、」
「反魂香は伝説に近い。金丹みてえなもんだ。「博物志」に記された、死んだ者でも3日程度なら生き返らせることのできる反魂香。西行法師が使ったという土人形に魂を入れる反魂香。「李夫人詩」に書かれた焚くと煙の中に死者の姿を見ることのできる反魂香。お前さんの指す反魂香は、どれだ」
そんなにあるのか、と思いつつ記憶をひっくり返す。反魂香、獄卒の縛兎からすれば激憤ものの不思議アイテムだ。ぎゅう、と青白い手が握りしめられるのを見た。
「……ある、と噂で聞いたのは死者の魂を呼び戻す、反魂香です」
「噂?」
「そういう噂があったんです。大雨で氾濫した川に流されて死んだ幼馴染の魂を、呼び戻して話をした子がいるって」
「へえ、随分とイカレた噂話だな。それがこの花橘にあるって?」
死んだ幼馴染の魂を呼び戻す、今どき流行らなそうな、あまりにも荒唐無稽な噂だ。しかし噂になると言うことはそれなりに信憑性のある演出で語られているのだろうか。
そっと目を伏せる。彼女にも、呼び戻したい魂があるのか。
「花橘へ行けば、人知を超えた薬や薬膳があるって、聞きました」
「ないさ。どれもこれも人知に収まる、ただの薬膳茶屋だ。お前さんの望むものはないよ」
震える声で言い募る彼女に寸の暇も入れずに切り捨てる。
「でも、ここの店主は不思議な力を持ってるって、」
「とんでもねえ噂だな。この中年のおっさんが安倍晴明や蘆屋道満にでも見えるか?帰んな」
「待ってください、話だけでも」
橘は可哀そうなものを見るような目で少女を見下ろした。
「その子は、まだ生きてるんです」
「じゃあ反魂香はいらねえじゃねえか」
「あの子、幽体離脱したまま戻ってこないんです!」
ほんのりと暖かさを感じさせる日を浴びながら大きなあくびをこぼした。
「なんだかすごく眠そうね、ベニちゃん」
「うん、ごめん……んんん……」
「あんまりぼうっとしてるとロゼンにどつかれちゃうよ」
それは嫌だな、と込み上げてきたあくびを今度こそ噛み殺した。橘はちょくちょくどついてくるが、これが意外と痛い。たぶんあの人は自分の腕力を理解していない。
表の掃き掃除をしながら暖かな春の陽気をほけほけと浴びる。昼時は過ぎ、おやつにも少しまだ早い時間、来る客と言えば橘に漢方生薬をもらいに来る客だけで、自分が対応する客はほとんどいない。
玄関の傍に植えられた桜の木は、仄かに蕾を桃色に染めて開花する日を待ち望んでいる。
「そういえば、芦原神社の梅が綺麗だから見に行こうよ」
「そういえば境内に木があったね。あれ梅の木だったんだ」
初めてあの木を見たのは夏祭りのころだ。それからもお使いで何度か行っているがその間花など見たことがなかった。なるほど梅の花なら納得がいく。
「せっかくだから宵満月も誘っていこ! それとアケミちゃんにお八つももらおう。アケミちゃんってばいつも社務所に良い和菓子とかカステラとかしまってるんだよ」
「はは、じゃあその時は私たちも何かお菓子持っていこうか。桜餅とか、茶団子とか、あとお饅頭も作ってみたいな」
宵満月を呼ぶなら伊地知も、と言おうとして口を噤んだ。普段の様子からすっかり忘れていたが、人食いの送り狼である伊地知は神社の境内の中へは入れない。どれだけ本人が良いヒトであると私が思っていても、人を食べていたという事実は変わらない。
「……この辺りで桜が綺麗で花見ができそうなところって、ある?」
「んーそうだね、もう少し上に登ったところに桜林があるよ」
「そっか。桜が綺麗な季節になったらさ、伊地知さんとか梓乃さんとか、あと縛兎さんとかも誘って、みんなで見に行きたい」
立場がどうとか、在り方がどうとか、いろいろあるのだろうけど、私はここで出会ったみんなが好きだし、何の害も被っていない今、そういう理由で一緒に時を過ごせないのは嫌だった。
「ベニちゃんのそういうとこ、私は大好きだよ」
「ん、ありがとう」
「みんな呼ぼうね。いっぱい料理作ってさ、ロゼンがむすっとしてて、それでもついてきてくれて、宵満月がみんなの前で踊って、伊地知はゲラゲラ笑って、シノは私やベニちゃんのことを撫でまわして可愛がるの」
「そう、できると良いね」
「私たちが誘えばみんな来るよ、きっと」
梓乃とは夏まつり以来会っていない。子供を見れば愛さないでは、殺さないではいられない梓乃は花橘へ来なくなった。あの日のことを後悔はしていない。私たちは攫われた子供たちのために最善を尽くした。できうる限り、梓乃と対話したつもりだ。あとは梓乃次第、待つことしかできない。
一度だけ、私の方から梓乃のところに行けないか、と橘に相談したことがあった。けれど橘は行くべきではないと諫めた。私の身の危険だけではなく、ただ梓乃から行動しなければ何も変わらないのだと。梓乃に必要なのは引っ張り上げるような他人の手ではなく、これからどうしていくか、自分で決断していくことだ、と。
私にはそれがもどかしい。
「あんまり来ないけど、エンジュも来たら良いな。エンジュはここの誰よりも長く生きてるからいろんなこと知ってて、いろんな話をしてくれるの。それから、」
そこで飛梅ははっとしたように口を止めた。
「同じ場所に来れなくても、同じ桜を見て、来れない人のことを想ったら、一緒に見てるのも一緒だよ」
「……うん、そうだね」
取り繕ったように笑う飛梅を追及したりはしなかった。
それから、シオンも、と言おうとしたのだろう。だが彼女はそれを口にすべきではない、あるいは口にしたくないと思った。その心を推し量ることはできない。ならば私は深くは聞かない。口にしなくても思っているだけで十分なことだってある。
深く聞かないから、深くは話さない。それは私も同じだった。
骨董屋の槐と彷徨うことを余儀なくされる紫苑。私はなにもできてはいない。
この一年で、私はいろんな人やモノと出会った。たくさんの話を聞き、違う世界に触れ、多くの学びを得た。だがその一方で、彼らの間で生まれたどうしようもない懊悩を、何一つ解決できないでいた。
ぽっと出の存在でありながら烏滸がましいと思う。けれど彼らが好きだから、知ってしまったから、何か自分にできることをしてしまいたいと願ってしまうのだ。
ふと足音が聞こえ二人揃って振り向いた。
「いらっしゃいませー、おひとりさまですか?」
定型文を愛想良く掛けるが、相手は私たちのことを見もしなかった。どこか呆然としたように、花橘の看板を見つめる女の子はキャメルのカーディガンを着ていた。着物でもなければ目鼻の数も私と同じ。少し汚れた黒のローファーが砂を踏む。
「花、橘……」
薄い唇が微かに動いた。私と飛梅は顔を合わせる。
稀に見る、生きた人間の客だ。
店の中にいる橘を呼びよせ彼女を店の中へと案内した。
椅子に座った彼女はどこか憔悴して見えるのに、店の中を少し興奮気味に眺めまわしていた。
「ようこそ、薬膳茶寮・花橘へ。それで、今日はここを探して来たのか、それとも迷子か、どちらだ?」
丁寧な言葉は最初だけ、続く言葉はぞんざいだ。生きた人間に対する橘の態度は基本的にこれだ。もっとも、大抵の場合は遭難か迷子だ。せいぜいお茶を一杯飲んで帰り道を教えるだけの客でしかない。それに橘は生きた人間のリピーターを望まない。
「さ、探してきました! このあたりの山に、不思議なカフェがあるって聞いて!」
「……不思議なカフェ、なあ?」
胡散臭げに彼女を見る橘。胡散臭さで言えば花橘の方がはるかに胡散臭いだろうに。春に収穫した乾燥カモミールを掬いポットに入れながら彼女を盗み見る。
やせ型で、手足が長い高校生だ。紺色のセーラー服の上にキャメルのカーディガン。白い大きな襟にバッチが付いている。黒目がちの目が印象的だが、その下の隈に目が行く。憔悴して見えるのはそれのせいだろう。よくよく見ると、唇の端は切れたように少し赤く、机の上に乗せられた細い指はかさついている。まだまだ若いと言うのに、全体的にくたびれて見えた。若さゆえに老いては見られないが、その姿はどこか痛々しい。
「じゃあお前さんは、何を期待してここへ来た?」
緊張したような、けれど橘の言う通り、期待に目を輝かせて彼女は言った。
「反魂香が、欲しいんです」
私も橘も一瞬、動きを止める。
橘は深く深く、ため息をついて彼女を見下ろした。
「反魂香を、何だと思ってる?」
「何って、」
「反魂香は伝説に近い。金丹みてえなもんだ。「博物志」に記された、死んだ者でも3日程度なら生き返らせることのできる反魂香。西行法師が使ったという土人形に魂を入れる反魂香。「李夫人詩」に書かれた焚くと煙の中に死者の姿を見ることのできる反魂香。お前さんの指す反魂香は、どれだ」
そんなにあるのか、と思いつつ記憶をひっくり返す。反魂香、獄卒の縛兎からすれば激憤ものの不思議アイテムだ。ぎゅう、と青白い手が握りしめられるのを見た。
「……ある、と噂で聞いたのは死者の魂を呼び戻す、反魂香です」
「噂?」
「そういう噂があったんです。大雨で氾濫した川に流されて死んだ幼馴染の魂を、呼び戻して話をした子がいるって」
「へえ、随分とイカレた噂話だな。それがこの花橘にあるって?」
死んだ幼馴染の魂を呼び戻す、今どき流行らなそうな、あまりにも荒唐無稽な噂だ。しかし噂になると言うことはそれなりに信憑性のある演出で語られているのだろうか。
そっと目を伏せる。彼女にも、呼び戻したい魂があるのか。
「花橘へ行けば、人知を超えた薬や薬膳があるって、聞きました」
「ないさ。どれもこれも人知に収まる、ただの薬膳茶屋だ。お前さんの望むものはないよ」
震える声で言い募る彼女に寸の暇も入れずに切り捨てる。
「でも、ここの店主は不思議な力を持ってるって、」
「とんでもねえ噂だな。この中年のおっさんが安倍晴明や蘆屋道満にでも見えるか?帰んな」
「待ってください、話だけでも」
橘は可哀そうなものを見るような目で少女を見下ろした。
「その子は、まだ生きてるんです」
「じゃあ反魂香はいらねえじゃねえか」
「あの子、幽体離脱したまま戻ってこないんです!」
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