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紫苑とハーブのクラムチャウダー 9
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深い雨の匂いをかき消すように、店からはハーブの香りが漂っていた。
「まだ起きてたのか」
私の方を見ることなく橘が言う。彼の前には鍋が置かれ、コトコトと緩やかな音を立てていた。
「橘さんの方こそ。もういつもなら仕込みも終えて寝ている時間じゃありませんか?」
時計の針はとうに12を回っている。けれど今日の花橘は明りも人の気配も消えていない。
店内には当然客もいない。けれど一つの机だけいつもと様子が違っていた。
花橘では使っていないランチョンマット、一人分の匙。そしてその周りを彩るようないくつかの花や植物が置かれていた。
「早く寝ろ。昼に走り回ったせいで疲れてるだろ。明日も朝早い」
「それは橘さんも一緒ですよ。それになんだか全然眠たくないんです」
「ここのところ眠くて眠くて仕方がないって愚痴ってたのは誰だ」
「誰ですかねえ?」
一瞥すらくれない橘に一瞬心が折れそうになる。いつもの私なら笑ってごまかして奥へ引っ込むところだろう。けれど意を決して適当な席に着く。もちろん、セッティングされた机ではない一つだ。
「……寝ろ」
「なんだかお腹が空いちゃって眠れないんです。何かお腹にいれるものはありませんか?」
「太るぞ」
「消費カロリーが摂取カロリーを上回っていれば問題ありません」
断固として席からどく気はないと、椅子に深く腰掛けた。橘の言葉は平素とさして変わらない。ぶっきらぼうで、けれどどこか気遣いを感じさせる言葉選びだ。けれどその表情が、声色が、いつもとは違うことを示していた。橘は、私にここにいてほしくない、一刻も早く奥へ行って寝てほしいと思っている。何もない朝を私に迎えさせるために。
何もない、などもうそんな選択肢は選び取れないのだ。
深く深く、橘はため息をついて眉間に痕が付いてしまうのではないかというほどに皺を寄せた。けれど食器棚を開けて皿を取り出した彼に勝利を確信した。
ひとまず私を追い出すことは諦めたらしい。私が折れないことを早々に察したのか、それとも私に時間を使いたくなかったか、その両方か。
私は一息ついて店の中を眺めた。
店の引き戸は開け放たれている。玄関に庇があるおかげで雨風に晒されることはないが、それでも玄関付近は雨でぬれ、店の中に冷たい風が吹き込んでくる。通常かけられている暖簾も今は取り外され、戸の形に外の闇は切り取られていた。
一つだけセッティングされた机の様子は、橘の趣味にはあっていない。少なくとも今の花橘ではああいった飾りやマットを使わない。けれどどうしてか、店の雰囲気にはよく似合っていた。おしゃれなカフェにも似た様相で、若い女性から人気がありそうで、写真映えする。
砥の粉色のランチョンマットの傍には花が置かれている。じっと目を凝らすと、少しい覚えがある。ただの花ではない、ハーブだ。一種類ではなく、数種類置かれている。
誰か一人のためのもてなし。感嘆を飲み下した。
煮込まれる鍋、沸騰する湯、一人分の足音、雨の音。深く暗い夜、この場所だけが世界から切り離されているようだった。
こちらへ来ようとした橘を見て立ち上がると制される。
「今はいい、座ってろ」
「いえ、さすがにお手伝いくらい、」
「そういう気分だ」
見慣れたガラス製のティーポットにティーカップが机に置かれ、続いてクラムチャウダーが少し深い器に盛られて運ばれた。
そのまま橘はキッチンに戻るかと思っていたら予想に反して橘は私の向かい側の席に腰をおろした。
「紅於、何が使われているかわかるか?」
「ええと、クラムチャウダーだから、ベースが牛乳と生クリーム、あと白ワイン? 具があさりと玉ねぎ、じゃがいも、人参、緑色はセロリ、かな」
料理を出して、私に材料を当てさせようとするのにも慣れたものだ。もっとも、まだまだ基本部分以外当てることができないのだが。
じっとスープの表面を見るとそれ以外も入っているように見える。一般的なクラムチャウダーの材料だけではないだろう。独特のハーブの香りがする。
「匂いでわかるのは、ニンニクとハーブ……パセリはわかるけど、ほかにも何か入ってそう。あとはよくわからないです」
お腹が空いていたなんてただの口実だったのに目の前で湯気を立てるクラムチャウダーを見ているとみるみるお腹が空いてくる。思わず唾を飲み込んだ。
「枸杞子、蓮肉。ドライタイムとローレル、ナツメグだ。香りが強く出てるのがナツメグとタイムだな」
ちらりと橘の方を伺うと促されスプーンを持った。
掬って口にすると鼻先までハーブの匂いが抜けていく。蓮の実は煮込まれとろりとしていて、ほくほくとした柔らかい味が広がる。潮の香りのするアサリとタイムの香りがよく合っていた。玉ねぎや人参よりも大ぶりに切られたセロリは夜中に食べてしまっているという罪悪感を和らげてくれている気がする。
ふと、橘がクラムチャウダーに手を付けずただ私を見ていることに気が付いた。
「……橘さんは食べないんですか?」
「俺はまだいい」
「冷めちゃいますよ」
「冷めてもうまい」
私が黙ると店の中には何の音もしなくなる。入り口の雨の音がやたらと大きく聞こえた。
逡巡する。選択肢はいくつもあった。もう一口、クラムチャウダーを流し込む。爽やかなタイムに後押しされ、私は選択肢を枸杞の実と一緒にかみ砕いた。
「待ってるんですか?」
もう戻れないことも、この人の柔らかい部分に立ち入ってしまうこともわかっていた。それでもこの人のためにできることがあるなら、私はしたい。
「今夜、来るんですね」
返事もしない橘に、私は重ねた。
「……ああ、そうだろうな」
ようやく返ってきた言葉はそれだけで、橘はもう私の方を見てはいなかった。
「橘さん、」
「飛梅から何を聞いたかは知らないが、寝ろ。お前には関係ない話だ」
「関係なくは、」
「関係ない。お前があいつを見て、どうする。ただ、恐ろしいばかりだろう」
ため息とともに深く眉間に皺を刻んだ。
この人は、自分で自分を傷つける。
この人を、ただ一人にしたくなかった。彼にとってはきっといつものことだろう。苦しく辛く、暗澹たる夜。その悲嘆にも、虚無感にも、身を切るような痛みにも、もう慣れているだろう。けれど私が、彼に一人でいてほしくなかったのだ。
「お昼に、縛兎さんと一緒に、彼女とお会いしました」
「…………、」
「確かに、恐ろしかったです」
山から下って来る悍ましい冷気。落ち葉を踏みつけ、身体を引き摺るようにして歩く、擦り切れ腐り落ちた身体。身体の芯から凍り付くようなあの恐怖は、誤魔化しようもなかった。
「だけど、私は彼女にちゃんと会いたいです。私は彼女を知らないけど、彼女の残したものに、いくつもきっと触れているから」
「……会ったところで、なにもわからん。あいつはもう、」
「じゃあ橘さんが教えてください。私は彼女に会っても、なにもわからないかもしれません。でも私じゃ知れないことを、もう聞けないことを橘さんは知ってるんでしょう?」
橘紫苑。
花橘を作り、妖たちとともに生活してきた人間。優しくて、勇気のある人。橘炉善を愛していた人。妖に殺されてしまった人。今も彼岸に行くことができず、ただ崩れ行く身体とともに彷徨い続けている人。
それだけだ。私はそれ以外何も知らない。
彼女がどう生きてきたか。何を愛し、何をして暮らしていたか、私は知らない。
「私は、このお店が好きです。花橘が好きです。橘さんと飛梅が好きです。だから私は花橘のことが知りたいです。私のことを助けてくれて、ここにいることを許してくれた花橘のことが知りたいんです。花橘を作ってくれた人が、どんな人か、どう生きてきた人か、知りたいんです」
なんて言ってほしいか、どんな言葉を欲しがっているか、そんなことはもう考えていなかった。どれだけ頭を回しても、この人の悲しみも苦しみも、きっと理解しえないだろうから。だから私はただ私の考えていることを伝えることしかしない。一人でこの夜を過ごそうとするこの人を、どうか一人きりにしないように。私が、この人から逃げ出してしまわないように。
「まだ起きてたのか」
私の方を見ることなく橘が言う。彼の前には鍋が置かれ、コトコトと緩やかな音を立てていた。
「橘さんの方こそ。もういつもなら仕込みも終えて寝ている時間じゃありませんか?」
時計の針はとうに12を回っている。けれど今日の花橘は明りも人の気配も消えていない。
店内には当然客もいない。けれど一つの机だけいつもと様子が違っていた。
花橘では使っていないランチョンマット、一人分の匙。そしてその周りを彩るようないくつかの花や植物が置かれていた。
「早く寝ろ。昼に走り回ったせいで疲れてるだろ。明日も朝早い」
「それは橘さんも一緒ですよ。それになんだか全然眠たくないんです」
「ここのところ眠くて眠くて仕方がないって愚痴ってたのは誰だ」
「誰ですかねえ?」
一瞥すらくれない橘に一瞬心が折れそうになる。いつもの私なら笑ってごまかして奥へ引っ込むところだろう。けれど意を決して適当な席に着く。もちろん、セッティングされた机ではない一つだ。
「……寝ろ」
「なんだかお腹が空いちゃって眠れないんです。何かお腹にいれるものはありませんか?」
「太るぞ」
「消費カロリーが摂取カロリーを上回っていれば問題ありません」
断固として席からどく気はないと、椅子に深く腰掛けた。橘の言葉は平素とさして変わらない。ぶっきらぼうで、けれどどこか気遣いを感じさせる言葉選びだ。けれどその表情が、声色が、いつもとは違うことを示していた。橘は、私にここにいてほしくない、一刻も早く奥へ行って寝てほしいと思っている。何もない朝を私に迎えさせるために。
何もない、などもうそんな選択肢は選び取れないのだ。
深く深く、橘はため息をついて眉間に痕が付いてしまうのではないかというほどに皺を寄せた。けれど食器棚を開けて皿を取り出した彼に勝利を確信した。
ひとまず私を追い出すことは諦めたらしい。私が折れないことを早々に察したのか、それとも私に時間を使いたくなかったか、その両方か。
私は一息ついて店の中を眺めた。
店の引き戸は開け放たれている。玄関に庇があるおかげで雨風に晒されることはないが、それでも玄関付近は雨でぬれ、店の中に冷たい風が吹き込んでくる。通常かけられている暖簾も今は取り外され、戸の形に外の闇は切り取られていた。
一つだけセッティングされた机の様子は、橘の趣味にはあっていない。少なくとも今の花橘ではああいった飾りやマットを使わない。けれどどうしてか、店の雰囲気にはよく似合っていた。おしゃれなカフェにも似た様相で、若い女性から人気がありそうで、写真映えする。
砥の粉色のランチョンマットの傍には花が置かれている。じっと目を凝らすと、少しい覚えがある。ただの花ではない、ハーブだ。一種類ではなく、数種類置かれている。
誰か一人のためのもてなし。感嘆を飲み下した。
煮込まれる鍋、沸騰する湯、一人分の足音、雨の音。深く暗い夜、この場所だけが世界から切り離されているようだった。
こちらへ来ようとした橘を見て立ち上がると制される。
「今はいい、座ってろ」
「いえ、さすがにお手伝いくらい、」
「そういう気分だ」
見慣れたガラス製のティーポットにティーカップが机に置かれ、続いてクラムチャウダーが少し深い器に盛られて運ばれた。
そのまま橘はキッチンに戻るかと思っていたら予想に反して橘は私の向かい側の席に腰をおろした。
「紅於、何が使われているかわかるか?」
「ええと、クラムチャウダーだから、ベースが牛乳と生クリーム、あと白ワイン? 具があさりと玉ねぎ、じゃがいも、人参、緑色はセロリ、かな」
料理を出して、私に材料を当てさせようとするのにも慣れたものだ。もっとも、まだまだ基本部分以外当てることができないのだが。
じっとスープの表面を見るとそれ以外も入っているように見える。一般的なクラムチャウダーの材料だけではないだろう。独特のハーブの香りがする。
「匂いでわかるのは、ニンニクとハーブ……パセリはわかるけど、ほかにも何か入ってそう。あとはよくわからないです」
お腹が空いていたなんてただの口実だったのに目の前で湯気を立てるクラムチャウダーを見ているとみるみるお腹が空いてくる。思わず唾を飲み込んだ。
「枸杞子、蓮肉。ドライタイムとローレル、ナツメグだ。香りが強く出てるのがナツメグとタイムだな」
ちらりと橘の方を伺うと促されスプーンを持った。
掬って口にすると鼻先までハーブの匂いが抜けていく。蓮の実は煮込まれとろりとしていて、ほくほくとした柔らかい味が広がる。潮の香りのするアサリとタイムの香りがよく合っていた。玉ねぎや人参よりも大ぶりに切られたセロリは夜中に食べてしまっているという罪悪感を和らげてくれている気がする。
ふと、橘がクラムチャウダーに手を付けずただ私を見ていることに気が付いた。
「……橘さんは食べないんですか?」
「俺はまだいい」
「冷めちゃいますよ」
「冷めてもうまい」
私が黙ると店の中には何の音もしなくなる。入り口の雨の音がやたらと大きく聞こえた。
逡巡する。選択肢はいくつもあった。もう一口、クラムチャウダーを流し込む。爽やかなタイムに後押しされ、私は選択肢を枸杞の実と一緒にかみ砕いた。
「待ってるんですか?」
もう戻れないことも、この人の柔らかい部分に立ち入ってしまうこともわかっていた。それでもこの人のためにできることがあるなら、私はしたい。
「今夜、来るんですね」
返事もしない橘に、私は重ねた。
「……ああ、そうだろうな」
ようやく返ってきた言葉はそれだけで、橘はもう私の方を見てはいなかった。
「橘さん、」
「飛梅から何を聞いたかは知らないが、寝ろ。お前には関係ない話だ」
「関係なくは、」
「関係ない。お前があいつを見て、どうする。ただ、恐ろしいばかりだろう」
ため息とともに深く眉間に皺を刻んだ。
この人は、自分で自分を傷つける。
この人を、ただ一人にしたくなかった。彼にとってはきっといつものことだろう。苦しく辛く、暗澹たる夜。その悲嘆にも、虚無感にも、身を切るような痛みにも、もう慣れているだろう。けれど私が、彼に一人でいてほしくなかったのだ。
「お昼に、縛兎さんと一緒に、彼女とお会いしました」
「…………、」
「確かに、恐ろしかったです」
山から下って来る悍ましい冷気。落ち葉を踏みつけ、身体を引き摺るようにして歩く、擦り切れ腐り落ちた身体。身体の芯から凍り付くようなあの恐怖は、誤魔化しようもなかった。
「だけど、私は彼女にちゃんと会いたいです。私は彼女を知らないけど、彼女の残したものに、いくつもきっと触れているから」
「……会ったところで、なにもわからん。あいつはもう、」
「じゃあ橘さんが教えてください。私は彼女に会っても、なにもわからないかもしれません。でも私じゃ知れないことを、もう聞けないことを橘さんは知ってるんでしょう?」
橘紫苑。
花橘を作り、妖たちとともに生活してきた人間。優しくて、勇気のある人。橘炉善を愛していた人。妖に殺されてしまった人。今も彼岸に行くことができず、ただ崩れ行く身体とともに彷徨い続けている人。
それだけだ。私はそれ以外何も知らない。
彼女がどう生きてきたか。何を愛し、何をして暮らしていたか、私は知らない。
「私は、このお店が好きです。花橘が好きです。橘さんと飛梅が好きです。だから私は花橘のことが知りたいです。私のことを助けてくれて、ここにいることを許してくれた花橘のことが知りたいんです。花橘を作ってくれた人が、どんな人か、どう生きてきた人か、知りたいんです」
なんて言ってほしいか、どんな言葉を欲しがっているか、そんなことはもう考えていなかった。どれだけ頭を回しても、この人の悲しみも苦しみも、きっと理解しえないだろうから。だから私はただ私の考えていることを伝えることしかしない。一人でこの夜を過ごそうとするこの人を、どうか一人きりにしないように。私が、この人から逃げ出してしまわないように。
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