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紫苑とハーブのクラムチャウダー 8
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窓の外はすっかり暗くなって何も見えなくなった。風は弱く、雨が強く打ち付ける。窓辺に寄ると外の冷気が肌を撫で上げた。ヒイラギと南天が外の暗闇を押しとどめるように窓の下に鎮座ましましている。さきほどまで一緒にいた伊地知は雨の中へと消えていった。今日自分はここにいるべきじゃないから、と言って早々に花橘を出ていったのだ。橘も特に彼女のことを止めることはなかった。ただ何か言いたげにあっという間に小さくなった背中を見ていた。
「ベニちゃん、今日はもう早く寝た方が良いよ。」
飛梅が窓際に座り込む私の隣に腰をおろす。壁掛け時計の時刻は23時だ。確かにこの時刻ならもう寝ていてもおかしくはない。けれどこんな風に飛梅が声をかけてくるのは初めてだった。
「どうして?」
「……良くないものが、来るよ」
ロゼンの勘は当たるのだと、飛梅が窓の外へ目を向ける。暗い窓には誰の影も映っていない。
「良くないものって?」
「ベニちゃんとバクトが会った幽霊だよ」
「…………そっか」
縛兎との会話を思い出す。彼女は、幽霊ではない。本当に飛梅たちは知らないのだろう。彼女のことを幽霊だと思いながら、死んだ者の魂だと思いながら、彼女が来るのを待っている。
口を開こうとして、やめた。それを知って何になるというのだろう。幽霊なら縛兎にあの世へ連れて行ってもらえると思っていたから、今日橘は現れた縛兎に期待した。けれど彼女の姿を見た縛兎は、できることはないと地獄へ帰って行ってしまった。その真意を橘に伝えることなく。
もし本当に紫苑をこの世に縛る術をかけているのが槐だとして、どうするというのか。結局槐が術を解かない限り、彼女があの世へ行くことはできない。あの世へ行くこともできず、その亡骸が腐り落ち蝕まれながら、記憶を取り落としながら、魂を摩耗させ彷徨い続けているという事実を知って、いったい誰が救われるだろう。
いつか、タイミングよく縛兎が現れ、彼女を連れて行ってくれると願っている方が、幾分か幸せなのではないだろうか。
「橘さんは、何してるの?」
橘は数時間店の厨房から出てこない。看板はとうに下ろしているのに、何かを作っているのだ。明日の下準備というわけではないだろう。
私と縛兎が花橘に戻ってきてから、橘は余計な口を開くことなく、淡々と、けれど表情の読めない面持ちで何かの準備をしていた。
「ロゼンはクラムチャウダーを作ってるの」
「クラムチャウダー……なんで今? もうお店は閉じてるのに」
「シオンの好物だったから」
息を飲んだ。飛梅は私の方に視線を向けることなく、降りしきる雨を見ながら言った。
「シオンが帰ってくるから、シオンの好物を作って待ってるの」
店の方から食欲をそそるような香りが流れてくる。
「しおん、」
「シオン。ベニちゃんたちの見た幽霊。この店、花橘を作った人で、ロゼンのことを愛してた人。私の大好きだった人」
雨の音にかき消されそうないつにない声でも、私の耳に届くには十分だった。
「シオン……」
名前が、先ほどまでとは違う色を帯びた。
何も知らず、ただ山を彷徨い歩く亡霊のような姿しか見たことのない、私の口から出た名前。存在は知っていても、その生き方も、声も顔も知らない縛兎の口から出た名前。
飛梅の口から出る名前は滑らかで春の日のように温かく爽やかな友愛と、いつまでの溶けない氷の粒のような悲哀があった。
「紫苑、さんはどんな人だったの」
「……意外、聞くんだねベニちゃん。ベニちゃんはよく人の顔色をうかがうから、悲しそうなこととかは聞いてこないと思った」
一瞬口を噤んだ。飛梅の言葉はどこか皮肉めいていてる。でもきっと事実だ。そしてたぶん、私は昔からそうなんだろう。人の顔色を伺って、波風を立てないように抜き足差し足で言葉を吐く。きっとそんな人間だった。
「だってそれだけじゃないんでしょ?」
いつもの飛梅ならいくらでも誤魔化せたはずだ。適当にとぼけて煙に撒いたり、すべての説明を橘に投げてしまうこともできる。そもそも私に声をかけなければよかった話だ。
それでもわざわざ私に話しかけて、攻撃性を感じさせるような物言いをする飛梅は、話を聞いてほしいんだ。
彼女が大好きだった人のことを。その友愛を、彷徨い歩く悲哀を。
「……優しくて可愛くて、私たちのことを好きでいてくれる人だった」
とつとつと、すぐ隣にいる私にだけ聞こえるような声量で、飛梅は話し出した。誰に話す機会もなかったのだろう。彼女の作った花橘の中で、残された者ただ二人、雨の中で彷徨い続ける彼女のことを待つ。自分たちのことを好いてくれていた彼女には戻らないと、重々承知していても。
「勉強熱心で、私たちの話をよく聞いてくれた。街の人間と過ごすのが苦手で、人より良すぎる目のせいで疎まれてたんだって。それでも、シオンは私たちのことを嫌ったりしなかった。生きる人間たちの世界じゃなくて、この山で妖たちと交じりながら生きてた」
私は、橘紫苑という人間のことを知らない。元は人間で、花橘を作り、妖たちとともに生きて、そうして、今もあの世へ行くことができず彷徨う人。生前の姿など知らない。その知らぬ部分を補うように、空白を埋めるように飛梅の言葉を拾っていく。
「怖いもの知らずで、小さな体のわりにすごく度胸があった。人食いの妖だって、乱暴者だってシオンは怯えたりしなかった。花橘はどんな妖でも平等にご馳走して、薬も渡す。……花橘自体、作られたときには危険なものが入ってこない術が掛けられてるってシオンは言ってたけど、内側から招いちゃえば意味はないの。それなのにシオンはお腹を空かせたり弱った妖がいたら誰でも中に招いちゃってたの。度胸があるけど、危機感もない。勇敢なのか、考えなしなのかわかんない。ロゼンは、たまにそういうところを怒ったりしてたけど、私はシオンのそういうところが、すごく好きだった」
段々と饒舌になっていく飛梅はそこで言葉を止めた。窓の奥、暗闇で降りしきる雨を見つめていた。いや、きっと見つめていたのはそれではない。私には見えない、記憶の中の彼女のことを見ていた。
私は、何も言えずにただその視線の先に目を向けた。
それ以上何も言わなくてもわかった。
優しくて、平等で、どんな妖にも友好的だった。彼女のことを想って掛けられた術を彼女は自身の意志で泡に帰してしまっていた。
そしてその結果が、これなのだろう。言わずともわかる。そして彼女を知る者なら同じように察したことだろう。
「ベニちゃん」
「……なに」
「それでも、私たちはシオンのことを招いたりはしない」
紫苑は今、花橘には入れない。今の彼女は人に害為すものだ。花橘にとって招かれざる客なのだ。
かつての彼女と同じように、橘たちが招こうと思えば今の彼女も花橘に立ち入ることができるだろう。それでも、二人はそれをしない。
今も山を彷徨い続ける彼女のことを待ち続ける二人の、最低限のけじめなのだろう。
「シオンの居場所は、もう花橘じゃないの」
子供らしい黒目がちの目から涙が一粒転げ落ちた。赤い着物に溶けてなくなり、滲んだ花のようなシミを一点残す。
紫苑が始めた花橘。彼女の店であり、彼女の家だったここは、もう彼女の帰る場所ではない。飛梅は、彼女に帰る場所だと言ってあげられない。
「あの人のために、何をしてあげられる?」
口にして、すぐに後悔した。それを聞きたいのは飛梅の方だ。そして何もできることはない、それが答えだ。
「わからない、わからないよベニちゃん。私を拾ってくれたシオンに、私に家をくれたシオンに、私は何を返してあげられるの?」
行き場のない悲痛な言葉は、赤い着物に、冷たい畳に落ちては消えていった。
私は何も言えず、ただ本の端々に書きつけられた丸い文字を思い出していた。
「ねえベニちゃん、今日はロゼンを一人にさせないでほしいの」
涙にぬれた目で、飛梅は私に言った。
「シオンを奪ったのは私じゃない。でもシオンを奪ったのは、私と同じ妖。その時が来たとき、ベニちゃんに一緒にいてほしい。まだ生きていて、ロゼンと同じ人間であるベニちゃんに」
二人のことをよく知る座敷童は、何も知らないただの人間に、そう頼んだ。
「ベニちゃん、今日はもう早く寝た方が良いよ。」
飛梅が窓際に座り込む私の隣に腰をおろす。壁掛け時計の時刻は23時だ。確かにこの時刻ならもう寝ていてもおかしくはない。けれどこんな風に飛梅が声をかけてくるのは初めてだった。
「どうして?」
「……良くないものが、来るよ」
ロゼンの勘は当たるのだと、飛梅が窓の外へ目を向ける。暗い窓には誰の影も映っていない。
「良くないものって?」
「ベニちゃんとバクトが会った幽霊だよ」
「…………そっか」
縛兎との会話を思い出す。彼女は、幽霊ではない。本当に飛梅たちは知らないのだろう。彼女のことを幽霊だと思いながら、死んだ者の魂だと思いながら、彼女が来るのを待っている。
口を開こうとして、やめた。それを知って何になるというのだろう。幽霊なら縛兎にあの世へ連れて行ってもらえると思っていたから、今日橘は現れた縛兎に期待した。けれど彼女の姿を見た縛兎は、できることはないと地獄へ帰って行ってしまった。その真意を橘に伝えることなく。
もし本当に紫苑をこの世に縛る術をかけているのが槐だとして、どうするというのか。結局槐が術を解かない限り、彼女があの世へ行くことはできない。あの世へ行くこともできず、その亡骸が腐り落ち蝕まれながら、記憶を取り落としながら、魂を摩耗させ彷徨い続けているという事実を知って、いったい誰が救われるだろう。
いつか、タイミングよく縛兎が現れ、彼女を連れて行ってくれると願っている方が、幾分か幸せなのではないだろうか。
「橘さんは、何してるの?」
橘は数時間店の厨房から出てこない。看板はとうに下ろしているのに、何かを作っているのだ。明日の下準備というわけではないだろう。
私と縛兎が花橘に戻ってきてから、橘は余計な口を開くことなく、淡々と、けれど表情の読めない面持ちで何かの準備をしていた。
「ロゼンはクラムチャウダーを作ってるの」
「クラムチャウダー……なんで今? もうお店は閉じてるのに」
「シオンの好物だったから」
息を飲んだ。飛梅は私の方に視線を向けることなく、降りしきる雨を見ながら言った。
「シオンが帰ってくるから、シオンの好物を作って待ってるの」
店の方から食欲をそそるような香りが流れてくる。
「しおん、」
「シオン。ベニちゃんたちの見た幽霊。この店、花橘を作った人で、ロゼンのことを愛してた人。私の大好きだった人」
雨の音にかき消されそうないつにない声でも、私の耳に届くには十分だった。
「シオン……」
名前が、先ほどまでとは違う色を帯びた。
何も知らず、ただ山を彷徨い歩く亡霊のような姿しか見たことのない、私の口から出た名前。存在は知っていても、その生き方も、声も顔も知らない縛兎の口から出た名前。
飛梅の口から出る名前は滑らかで春の日のように温かく爽やかな友愛と、いつまでの溶けない氷の粒のような悲哀があった。
「紫苑、さんはどんな人だったの」
「……意外、聞くんだねベニちゃん。ベニちゃんはよく人の顔色をうかがうから、悲しそうなこととかは聞いてこないと思った」
一瞬口を噤んだ。飛梅の言葉はどこか皮肉めいていてる。でもきっと事実だ。そしてたぶん、私は昔からそうなんだろう。人の顔色を伺って、波風を立てないように抜き足差し足で言葉を吐く。きっとそんな人間だった。
「だってそれだけじゃないんでしょ?」
いつもの飛梅ならいくらでも誤魔化せたはずだ。適当にとぼけて煙に撒いたり、すべての説明を橘に投げてしまうこともできる。そもそも私に声をかけなければよかった話だ。
それでもわざわざ私に話しかけて、攻撃性を感じさせるような物言いをする飛梅は、話を聞いてほしいんだ。
彼女が大好きだった人のことを。その友愛を、彷徨い歩く悲哀を。
「……優しくて可愛くて、私たちのことを好きでいてくれる人だった」
とつとつと、すぐ隣にいる私にだけ聞こえるような声量で、飛梅は話し出した。誰に話す機会もなかったのだろう。彼女の作った花橘の中で、残された者ただ二人、雨の中で彷徨い続ける彼女のことを待つ。自分たちのことを好いてくれていた彼女には戻らないと、重々承知していても。
「勉強熱心で、私たちの話をよく聞いてくれた。街の人間と過ごすのが苦手で、人より良すぎる目のせいで疎まれてたんだって。それでも、シオンは私たちのことを嫌ったりしなかった。生きる人間たちの世界じゃなくて、この山で妖たちと交じりながら生きてた」
私は、橘紫苑という人間のことを知らない。元は人間で、花橘を作り、妖たちとともに生きて、そうして、今もあの世へ行くことができず彷徨う人。生前の姿など知らない。その知らぬ部分を補うように、空白を埋めるように飛梅の言葉を拾っていく。
「怖いもの知らずで、小さな体のわりにすごく度胸があった。人食いの妖だって、乱暴者だってシオンは怯えたりしなかった。花橘はどんな妖でも平等にご馳走して、薬も渡す。……花橘自体、作られたときには危険なものが入ってこない術が掛けられてるってシオンは言ってたけど、内側から招いちゃえば意味はないの。それなのにシオンはお腹を空かせたり弱った妖がいたら誰でも中に招いちゃってたの。度胸があるけど、危機感もない。勇敢なのか、考えなしなのかわかんない。ロゼンは、たまにそういうところを怒ったりしてたけど、私はシオンのそういうところが、すごく好きだった」
段々と饒舌になっていく飛梅はそこで言葉を止めた。窓の奥、暗闇で降りしきる雨を見つめていた。いや、きっと見つめていたのはそれではない。私には見えない、記憶の中の彼女のことを見ていた。
私は、何も言えずにただその視線の先に目を向けた。
それ以上何も言わなくてもわかった。
優しくて、平等で、どんな妖にも友好的だった。彼女のことを想って掛けられた術を彼女は自身の意志で泡に帰してしまっていた。
そしてその結果が、これなのだろう。言わずともわかる。そして彼女を知る者なら同じように察したことだろう。
「ベニちゃん」
「……なに」
「それでも、私たちはシオンのことを招いたりはしない」
紫苑は今、花橘には入れない。今の彼女は人に害為すものだ。花橘にとって招かれざる客なのだ。
かつての彼女と同じように、橘たちが招こうと思えば今の彼女も花橘に立ち入ることができるだろう。それでも、二人はそれをしない。
今も山を彷徨い続ける彼女のことを待ち続ける二人の、最低限のけじめなのだろう。
「シオンの居場所は、もう花橘じゃないの」
子供らしい黒目がちの目から涙が一粒転げ落ちた。赤い着物に溶けてなくなり、滲んだ花のようなシミを一点残す。
紫苑が始めた花橘。彼女の店であり、彼女の家だったここは、もう彼女の帰る場所ではない。飛梅は、彼女に帰る場所だと言ってあげられない。
「あの人のために、何をしてあげられる?」
口にして、すぐに後悔した。それを聞きたいのは飛梅の方だ。そして何もできることはない、それが答えだ。
「わからない、わからないよベニちゃん。私を拾ってくれたシオンに、私に家をくれたシオンに、私は何を返してあげられるの?」
行き場のない悲痛な言葉は、赤い着物に、冷たい畳に落ちては消えていった。
私は何も言えず、ただ本の端々に書きつけられた丸い文字を思い出していた。
「ねえベニちゃん、今日はロゼンを一人にさせないでほしいの」
涙にぬれた目で、飛梅は私に言った。
「シオンを奪ったのは私じゃない。でもシオンを奪ったのは、私と同じ妖。その時が来たとき、ベニちゃんに一緒にいてほしい。まだ生きていて、ロゼンと同じ人間であるベニちゃんに」
二人のことをよく知る座敷童は、何も知らないただの人間に、そう頼んだ。
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