薬膳茶寮・花橘のあやかし

秋澤えで

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紫苑とハーブのクラムチャウダー  4

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 ふと悪寒が背筋を駆け抜ける。
 幽霊を連れていくことが仕事だと。けれど縛兎はなにもせずただそれを見送った。ということは、あの化け物は幽霊ではない。そしておそらく妖でもない。

 「縛兎さんが連れて行かなかったってことは、あの世にいるべき存在じゃないってことですか……?」
 「ああ、そうだ」

 あんなにも禍々しく恐ろしく、悍ましい冷気を放っているというのに、あの化け物はこの世にいるべき存在だという。
 立ち止まった私を促すように縛兎が再び歩き出す。

 「じゃあ、あれの正体は生者ってことですか……」
 「まさか! あれで生きていてたまるか! 肉は腐り落ち、臓物を落としてきて、脳などとうに流れ出したような化け物だ。とっくに死んでいるさ」
 「死んでるけど、動いてて、でもあの世にもいかなくていい、そんなものがいるんです?」

 野兎を追いかける前、飛梅の言ってた言葉を思い出す。あの世とこの世をフリーパスで通過できるのは基本的に神と神獣だけだと。あの化け物も実は神が何かなのだろうか。

 「……あれは出来損ないの僵尸だ」
 「きょうし?」
 「現世だとキョンシーだとか、ゾンビだとか呼ぶものだ。もっとも、あくまでも出来損ないだがな」

 急にB級ホラーじみてきたが、私がイメージするものなど所詮創作物に過ぎない。先ほど現れた化け物を思えば笑いなど苦笑ですら出てくるはずもなかった。

 「……要するに、死体が動いてる状態ってことですか?」
 「ああ。あの世へ連れて行けるのは原則身体がないものだけだ。死体そのものはあの世じゃなく、この世にあるもの。動く死体をどうこうはできない」
 「じゃあ放置するしかないんですか?」
 「僵尸は製作者が術を解除しない限り半永久的に動き続ける。通常はもっときちんとした身体を作るんだ。ミイラにしたりエンバーミングするなりして身体を腐らないようにする。そうして使い勝手のいい駒にする。そうしなければさっきの化け物のようにさっさと身体が壊れて使い物にならなくなる」

 先ほどの化け物は確かにもう身体はボロボロだった。筋肉がほとんどないため素早く動くことはできないうえ、発声することもできないだろう。おそらく、あの化け物は半ば這いずりながら移動することしかできない。悍ましい姿で、瘴気をまき散らし、ただ動き回る回る恐怖だ。

 「製作者は必ず何か目的を持って僵尸を作っているはずだ。助手にしたり、もっとうまく作って人間社会に溶け込ませたり。それなのにあの化け物はかろうじて術が成立しているだけの這いまわる死体だ。なんの意味もない。なんのために作って、どんな意図を持って放置しているのか」
 「いつか、止まるんですか?」
 「骨が壊れたら、止まるだろうな。物理的に動けなくなる。それでも魂自体はその骨の破片に残り続ける。製作者が術を解除をしない限り、死体から魂が離れることはなく、俺があの世へ連れていくことすらできない」
 「あれにも魂があるんですか!?」

 てっきりただただ動くだけの死体で、魂自体はあの世へ行って、身体だけが残されているのだと思っていた。
 「ある。創作物のゾンビやキョンシーは知らんが、僵尸や反魂の術は死んであの世へ行く前の魂を使う」
 「反魂の術……?」
 「昔から日本にある術だ。土や草で人の身体を模した身体を作り、それに適当な魂を吹き込む。西行法師が行って失敗したのが有名な話だ。成功すれば、木偶は普通の人間のように話し、思考し、人の世界に溶け込んで暮らしていける」

 次から次へと縛兎は不思議な話を当然のように話していく。
 身体に魂を結び付け、人を作る。そんなことが可能なのかと疑いたくもなるが、たった今、その失敗作を私は至近距離で見てしまった。不思議でもなんでもないのだ。ただ現世の人間が、私が知らないというだけで。

 「じゃあ、あの化け物を作った人は、ただの死体に反魂の術か何かを使ったってことですかね」
 「……そうだろうな。普通なら失敗したらすぐに術を解くなり、やり直すなりする。だができない事情があって、今もここに放置している、といったところだろうな」
 「……あの人の魂を、あの世へ連れていく方法は他にないんですか?」

 縛兎は目を伏せて首を振った。

 「どれほど哀れだろうと、惨めだろうと、製作者以外は手を出せない。たとえ俺が死体ごと連れて行ったとしても、ここと同じように地獄を這いずるだけでなんの解決にもならない」

 ずるりずるりと歩いていた化け物を思い出した。あれも、元は人なのだ。それも死体を使って作るというなら、あれはきっと本人が望んでああなっているわけではない。製作者の身勝手な行動で、死んで、身体が朽ちるほどの時間、あの人はただ山の中を彷徨っているのだ。嘆くこともできず、泣くこともできず。脳すら無くなったというなら思考することすらもできないのかもしれない。

 「哀れで、悲しい死人だ。だが俺たちにできることは何もない」

 薄暗い木々の間からようやく明りが見えた。

 「とにかく俺たちは今すぐ身体を温めて、そっちの兎の治療をする。これが優先事項だ。あの死人は二の次でいい」

 開けたところに出ればそこは見慣れた花橘の庭で、タオルを持った飛梅が私たちに駆け寄ってきた。




 シャワーを浴びて着替えて出てくると、包帯を巻かれた野兎を橘が抱えていた。

 「あ、橘さんありがとうございました! その子大丈夫そうですか?」
 「ああ、数日もすれば山に帰しても問題ない」

 逃げ出さないようにするためか、兎は籠に入れられ、表情の読めない顔で草を食んでいた。変化はよくわからないが、私の制服の中でぶるぶると震えていたときと比べたら体調がよさそうだ。

 「ベニちゃん久しぶりねー! 元気そうでよかったわ!」
 「お久しぶりです、伊地知さん!」

 がばっと抱き着いてきたのは送り狼の伊地知だ。以前会ったのは月の祭り以来。その祭りの時も私が忙しかったせいでほとんど話せていない。
 当初花橘に入り浸っていそうな雰囲気だった伊地知だが、思いのほかあちこちを走り回っているらしく花橘での出現率はそう高くない。

 その向こうでは赤髪が乾ききらないままの縛兎が椀を啜っていた。

 「いい匂いしますね……生姜のスープですか?」
 「ああ、何を使ってるかわかるか?」

 立ち上がった橘が鍋の元へと向かう。口ぶりからして匂いだけで当てて見せろということらしい。鼻をヒクつかせながら冷蔵庫の中身も勘案する。

 「生姜と、あと卵……葱も入ってます。葱と卵の生姜スープ?」
 「大方正解だ」

 私に渡されたのは黄金色のスープだった。昼食を食べ損ねているためぐう、とお腹が鳴き声を上げる。鶏ガラの匂いと生姜の匂いが食欲を掻き立てる。

 「葱と卵の生姜スープ。加えて玉ねぎのスライスと三つ葉だ。まあ匂いじゃわからんだろうが」
 「いただきます!」 

 橘の説明もほどほどに口をつける。シャワーを浴びたがそれでも温まり切らなかった身体の芯に生姜スープが染みわたる。あつあつのスープはほとんど飲み物だが卵と玉ねぎのおかげでそこそこ食べ応えもあった。けれど一杯分をあっという間に飲み干した。
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