ある伯爵と猫の話

秋澤えで

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本編

魔女の祈りと黒い悪魔

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 この街には古くから、パラヴィティーノ家という薬師の家があった。
 薬学、中でも薬草学に精通したその家は森の中に住み、その森でとれた植物を使って作った薬を街へ売りに出たり、床に伏した人に元を訪れ薬を調合した。薬学とは一般人には理解しがたいものであったが、その薬が効いたため人々は度々パラヴィティーノを頼った。森の隠者のように扱われるパラヴィティーノは理解者こそいなかったが確固たる役割を、居場所を持っていた。

 しかし遠く都の方で、”魔女”というものを火刑に処すことが広まり始めた。魔女は悪魔と契約をすることで、特殊な力を得て魔術を行う。その魔術とは病を流行らせ、人を呪い、土地を枯れさせ、敬虔な者を唆す。各地で多くの”魔女”が処刑された。それが事実で在れ、事実で無かれ、多くの者が殺された。それは一般人には理解しがたい薬術を繰る者にも嫌疑の目を向けさせた。そして森に住むパラヴィティーノもまた例外ではなかった。

 パラヴィティーノには二人の娘がいた。父は森の中の事故、母は病で亡くなり、姉妹は慎ましく家業である薬を作りながら生活していた。
 ほどなく、妹もまた母と同じ病に伏した。かつて母にも手を尽くしたが、結局病から回復することなく帰らぬ人となった。エーヴァはあらゆる方法を、知りうるすべての手を使った。けれど妹は日に日に衰弱していくばかりで、一向に回復の兆しは見られなかった。

 焦っていた。このままでは唯一の家族、妹すら失ってしまう、と。
 この子を助けるためなら、何でもする。だからどうか誰か助けて、と。
 もう二度と、大切な人を失いたくなかった。
 街の医者には行けなかった。エーヴァは森の外では自分たちが魔女なのではないかと疑われていることを知っていた。もし妹を連れて行けば難癖をつけられて殺されてしまうのではないかと不安があった。

 魔女なんていない。
 エーヴァはそう思っていた。

 この世には神も悪魔もいない。人の手を超えた何かは存在しないし、人を陥れるのはいつだって人で、人を救えるのもまた人だけだ、と。


 「なぁ、その妹を助けてやろうか?」


 そう言って、救いの手を伸ばしたのは人ではなかった。
 男の姿を模したそれは紛うことなく、人ではない。大きく裂けた口、大きな手についた黒い爪、ニンマリと笑う金色の目。
 それは人ではなかった。人を救い導くといわれる神でもなかった。
 ディアヴォロと名乗る悪魔は囁いた。


 「美しい子だなぁ。まだまだ若く、命の灯が消えるには早すぎる。君もそう思うだろ?」


 ”魔女は悪魔と契約することで特殊な力を得る”


 「この子を、唯一の家族を助けたいんだろ?俺ならそれができる。その力をお前に与えることもできる。」


 大切な子。他に代わりのいないたった一人の妹。美しく優しく、天真爛漫な可愛い子。

 今の私に何ができる。高い熱に苦しみ、歩くことすらままならない妹に、いったい何ができるだろう。
 何もかもが足りないのだ。知識が、薬が、原因が。何一つわからず手探りでしていく治療。一向に好転しない病状。
 死なせない。
 救えないのはなぜか。これだけ手を尽くしても、どれだけ祈ってみても、この想いはかなわない。
 たった一つ命を守りたい。それすらも叶わないというのか。

 悪魔に身を売れば、力を得られる。その代わり魔女となる。

 何を恐れることがあるだろうか。
 私が恐れるのは、愛した妹が救えないこと。ただそれだけ。

 迫害などどうして恐れよう。とうに魔女などと罵られているというのに。ほかに私たちの周りには誰もいないというのに。
 魔女といわれるだけの何もできない薬師より、正真正銘の魔女となり、妹を助ける手立てを得られるほうがずっといい。

 この子が助けられるなら、神にでも、悪魔にでも祈りをささげてやろう。


 「……なんでもするわ。この子を助けて。この子を助ける力を私に頂戴。」
 「良いのかい?お代はエーヴァ、君のすべてだ。その身体、魂、すべて俺にくれるなら、君に力をあげよう。なんでもできる。魔法も魔術も呪術だって。なんでも叶う。」
 「何にもいらない。この子を助ける力以外。この子が、ベルが生きていられるなら私は身体も命も貴方にあげるわ。」


 ベルが生きていられるなら、何も怖くない。
 彼女が死んでしまう未来よりも、恐ろしいものなんてない。
 この子が助かるのなら、悪魔にだってこの身を売ろう。


 「この子が死んでしまうより、悪いことなんて恐ろしいことなんてない。」
 「……契約成立だ。」
 「っ……!?」


 悪魔が嗤う。心底愉しいというような悍ましい声で。足元から藍色の影があふれ出した。いまだかつて見たこともない”何か”。生き物なのか、呪いや魔術よ呼ばれる類なのか。身体中を這うような悪寒に逃げ出しそうになる足を歯を食いしばりながらとどめて、藍の影の中で嗤う悪魔を見ていた。
 悪魔など怖いものか。呪いなど怖いものか。大切な人を失うことより怖いものなど存在しない。
 喜んで、魔女にだってなってやる。


 「ハーハハハハハッ!!エーヴァ・パラヴィティーノ、俺の可愛い魔女。これで君は私のものだ!」
 「……約束は守りなさい。」
 「ああ勿論だ!悪魔は契約に忠実!すべてを意のままにする力を君にあげよう!」


 身体が何か大きく変わったようには思えない。けれど安堵感に包まれていた。
 これでベルを助けられる。
 だから気が付かなかった。ディアヴォロといるところを見ていたその人影に。


 ディアヴォロの言ったように、エーヴァは不思議な力を使えるようになっていた。望むままに風は吹き、植物は生え、地形は変わる。そしてベルの病気も、今まで手も足も出なかったのが嘘のように好転した。身を焼くような不安も、終わりの見えない暗い道も、もうなかった。
 ベルには何も言わなかった。ただ良い薬の調合を見つけたとだけ言って。何も知らずにただそれを喜ぶベルに何も言う気にはなれなかった。


 「大丈夫よ、ベル。もう少ししたら前みたいに外に出られるわ。森の奥に綺麗な花畑を見つけたの。起きれるようになったら一緒に見に行きましょう。」


 悪魔と契約して魔法が使えるようになっただなんて、そんな夢物語わざわざ話すべきじゃない。
 何も知らなくていい。ただ元気でいてくれるなら。


 「ベルの調子はどうだい?」
 「ええ、大丈夫そう。起きていられる時間も長くなったし、家の中も少しなら歩けるようになった。一か月もすればたぶんもうよくなるわ。」
 「それで今日は?」
 「森の奥にハナハッカの群生があったでしょ。この時期採れる最後だからそれなりの量を採集するの。」
 「手伝えって?魔女様は悪魔遣いが荒いなあ。」


 ディアヴォロは文句を言いながらも楽し気に傍を歩く。
 悪魔、それも身体や魂をよこせなどと言うからもっと恐ろしいもので、とっとと食べられてしまうだろうと思っていたのに、そうでもないらしい。どちらかと言えば大らかでいつも機嫌が良い。曰く、時間なんてあってないようなものだから、対価を回収するのはいつでも良いのだと。空だって飛べるくせに、私と並んで地面を歩くことを好む。
 サクサクと一人と一匹で森を歩いていく、とても穏やかな昼下がりだった。
 どこからか、黒い煙が風に乗って流れてくるまでは。


 「煙……?」
 「何が……、エーヴァ!」


 珍しく、ディアヴォロは焦ったような切羽詰まった声を上げた。白い顔はいつもにまして青く、忙しなく目が動く。


 「森のどこかが燃えてる!しかも自然発火じゃない、街の人間たちが森に入ってきている。……奴らが何かに火をつけたらしい。」


 ザア、と血の気が引く音を聞いた。
 街の人間は森の中で迷ってしまうからよほどのことがなければ入らない。薬草も多いが、素人が入ると目印でもつけていかない限り迷子になってしまうのだ。
 つけられた火、入り込んだ人間、そして隣にいる悪魔の存在。燃やされているのは何か、そんなのは考えるまでもない。


 「ベル……!」


 そんなの私たちの家しかない。
 何を言うでもなくディアヴォロは四つ足の獣に化けた。黒い大きな獣は私を背に乗せ風のように煙の元へと走っていく。緑の濁流を泳ぐように走るその背につかまりながら、必死に願った。どうか彼女が生きているように。

 轟々と、音を立てて燃えていた。立ち込める煙と熱風の中、もうほとんど崩れてしまった家の影が見えた。絶望が足元からせり上がり、冷たいみぞおちから吐き気がこみ上げる。それでも一縷の望みをかけて家の中へ向かおうとした。


 「ベルッ!いや、ベル!どこに居るの、返事をしてっ!」
 「エーヴァ駄目ダ!近づいてはいけなイ!君までッ、」


 けれどそれをディアヴォロはあっさりと阻む。大きな獣となって身体を押さえつけるディアヴォロの言葉で嫌でも理解してしまう『君まで』ということは、家で一人寝ていたベルは、もう助けられないということだ。


 「ディアヴォロッ!助けて!貴方ならできるでしょ!貴方はなんでもできるって、何でも叶うって言った!ベルを、ベルを助けて、お願い!」


 必死に悪魔に縋りつくが、願いもむなしく黒い獣はかぶりを振った。


 「……あるものをなくしたり、変容させたりすることはできル。けれどないものを作ることはできなイ。命は命であり、構成要素を集め作り直すことも消えてしまったものを呼び戻すこともできなイ。」


 いやでもわかる。ベルは、私が愛した妹はもうそこにはいない。
 もはやそこには、何もないのだと。黒い悪魔は言った。


 「なんでよっ……、ようやく、」


 ようやく、元の生活に戻れると思ったのに。やっと力を手に入れて、ベルを助けられると思ったその矢先に。何もかも捨てる覚悟をして、馬鹿馬鹿しいと笑った悪魔に祈り、悍ましいと忌み嫌われる魔女にまでなったというのに。

 どうして奪われなければならないの。


 「おいいたぞ!魔女だ!」
 「まさか本当に魔女だったのとは……!あんな悍ましい使い魔まで連れている!」


 炎の向こう、男たちの声が聞こえた。その手に松明を剣を持っている。
 あいつらが火を放ったのだ。悲しみを飲み込むように、腹の底から怒りがあふれ出す。
 恰幅のいい男が言う。


 「魔女の姉妹か。片方を先に殺しておいて正解だった。化け物を二人相手にするのはごめんだ。」
 「伯爵!奴は、」
 「女一人だ。あれは生け捕りにして、見せしめに広場で火刑にしよう。……こんな化け物共が二度とこの領地に踏み入れぬよう。道を誤る者がいないように。」


 道を誤る者。
 確かに私は道を誤った。人の道から外れた。悪魔に魂を、身体を売った。
 けれどそれは誰も助けてくれなかったからでしょう?
 私は魔女になった。人ではなくなった。すべては妹を助けるために。人に疎まれることも、厭われることも当然だ。それでもよかった。ベルを助けられる力が得られるのなら、どんな罵倒も迫害も、仕方がないのだと諦めよう。そのくらいの覚悟はしていた。
 けれど、


 「ベル……、」


 ベル・パラヴィティーノは紛れもなく人間だった。悪魔の存在も知らず、魔女の存在も知らない、ただの薬師だった。
 ただの罪のない人間だった妹を、奴らは焼き殺したのだ。
 そんなものを訴えても仕方がない。訴えても奴らは認めない。何よりベルは返ってこない。奴らがベルを殺したという事実に変わりはない。

 悍ましいのはどちらだ、災厄を振りまくのはどちらだ。
 私は何も望まなかった。ただ一人、妹の命を除いて。
 私はなにも恨まなかった。たとえ誰も助けてくれずとも、それは仕方のないこととあきらめた。
 ただ妹と二人、静かにこの森で暮らしていたかった、それだけなのに。
 どうしてそれだけの幸せすら、願いすら、祈りすら奪い去ってしまうのか。

 人一人の命を救うために道から外れ魔女となった私と、実態のない不安に駆られ、何の罪もない病気の妹を殺した街の人間、伯爵たち。
 どちらが悪人か。どちらが邪悪か。


 「人でなし……!」


 どうして生きることすら許されない。


 涙でぼやける視界で確かにとらえた。あの男を、伯爵と呼ばれた恰幅のいい男を。
 この街の領主であるイチェベルク伯爵を、ベルを殺した殺人犯を、確かにとらえた。
 右手を振るうと突風が吹き、燃えていた火がすべて消え去る。もう一度手を振れば燻る火を消し潰すような大粒の雨が分厚い雲から降り始める。動揺する男たちも、こちらへ剣を振りかざす男も、もう何もかもどうでもよかった。男たちに手を向ければおかしいくらいに吹き飛んだ。

 『なんでもできる。魔法も魔術も呪術だって。なんでも叶う。』

 この身は人を呪う術を知っている。呪いは難しい詠唱も、手順も道具も必要ない。
 ただ怒りのままに”呪いあれ”と願うだけで。
 殺す?いいやそれではつまらない。末代まで呪う?末代まで生かすつもりはない。ああそうだ、もうすぐ生まれる子供が、この伯爵にはいたはずだ。
 人を殺し、堂々としている男に、きっと愛など必要ない。
 正義面して人から大切な家族を奪い去るような男、どうせ愛なんて知らないんでしょう。


 「お前から生まれる子は、誰も愛さない。実の親であるお前のことも、母親のことも、部下のことも、女のことも、民のことも。その子は誰も愛さない……!」


 家族に愛される資格もないだろう。人の最愛を奪うやつなのだから。
 豪雨の中逃げていく男たちには目もくれず、崩れた家を見た。今はもう煙が燻っているだけで火はない。炭のようになった家の中、ベルを見つけた。ただただ、それを抱きしめた。


 「……エーヴァ。」


 ぐしょ濡れになった獣が鼻を押し付ける。スンスンと情けない音を立てていた。濡れた体を縮こまらせて、ベルだったものを抱きしめる私をうかがうように。


 「……ごめン。」


 悪魔である自身が手を貸して、魔女にしてしまったせいでベルが殺されてしまった。それを謝っているのだ。


 「……違う、貴方は悪くない。」


 ディアヴォロがいなければベルは遅かれ早かれ病気で死んでいただろう。それに奴らが魔女だと確信をもたなければ来なかったとも限らない。魔女狩りとはそういうものだ。
 血も涙もない、神でさえ厭う悪魔にすら謝罪ができるというのに、あの人間たちは謝罪の一つもできなかったことに、妙な笑いが込み上げた。


 「……エーヴァ、行こウ。もっと森の奥へ。ここに居たら奴らはきっとまた来ル。」
 「ええ……、行きましょう。恐ろしい人間たちが来ないところへ。」 


 変わり果てたベルを持って、森の奥へと歩いて行った。
 どうか伯爵家が愛と無縁なものであれと。
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