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 伊織が撃たれた日から、一週間が経った。

 手術は成功したものの伊織の意識は戻らず、依然として予断を許さない状況が続いていた。

 その間、円香は面会時間ギリギリまで彼の病室で過ごし、時間が終わるとロビーの長椅子に座ってひたすら彼の回復を祈っていた。

 忠臣や雷斗、医師や看護師が家に戻るよう促しても聞き入れず、少しでも近くに居たいと言ってその場から動かなかった。

 けれど、流石にほぼ飲まず食わずで睡眠もろくにとらない彼女の身体を心配した周りは何とかして一度病院から連れ出そうと試みる。

「円香ちゃん、ちょっといいかな?」
「……でも……」
「大切な話なんだ、ここじゃあちょっと。屋上に行こう」
「…………分かり、ました」

 今日も相変わらず伊織の傍を離れようとしない彼女を半ば強引に連れ出した雷斗は、病院の屋上へとやって来た。

「はい、ココアでいいかな?」
「ありがとう……ございます」

 自販機で飲み物を買った雷斗はベンチに座っている円香にココアの缶を手渡して彼女の横に腰掛ける。

「……ねぇ円香ちゃん」
「何でしょうか?」
「伊織は今、一生懸命自分と戦ってるよね」
「……はい」
「不安で離れたく無い気持ちは分かる。俺も忠臣さんも、アイツが目を覚まさない事が不安で仕方ない。けど、傍に付いているからって何か出来る訳じゃない。円香ちゃんも、それはわかるよね?」
「……分かり、ます。でも、何も出来なくても、傍に居たいんです……」
「うん、勿論傍に居るのは構わない。けどね、今のままじゃ駄目だよ。ほぼ飲まず食わずで、おまけにきちんと眠れてないでしょ?  毎夜ロビーの椅子に座ってるんだから」
「でも、食事なんて、とても喉を通らないし……眠るのは、怖い……彼が居なくなる夢を見ることさえ、怖くてたまらないんです……」
「でもね、伊織が目を覚ました時、君がそんな死にそうな顔してたら伊織は絶対君を怒るよ?  今だって目は覚まさないけど、きっと円香ちゃんの事を心配してるよ?」
「……でも……、私……」
「大丈夫、伊織が君を置いて居なくなるはずない。何度か別れの危機はあったけど、伊織は必ず円香ちゃんの元に戻って来たでしょ?  だから、今回だって絶対大丈夫だよ」
「…………早瀬、さん……」
「ね?  だからさ、とりあえず夜だけでも一度事務所に戻って、食事して、睡眠とって、そしたらまた病院に戻ろう?」

 雷斗の気持ちは痛い程伝わるし、このままじゃいけない事は円香自身もよく分かっているけど、それでも納得出来なくてなかなか首を縦に振れなかった円香は雷斗の何度目かの説得でようやく、

「……分かりました、一度、戻ります……」

 事務所へ帰る事を納得したのだ。


 久しぶりに事務所へ戻ってきた円香は一人、伊織の部屋で眠りにつき、始めはなかなか寝付けなかった彼女も流石に疲れが出ていたのか、一時間も経たないうちに夢の中へと堕ちていく。

 せめて、夢の中だけでも名前を呼んで欲しいし笑いかけて欲しいのに、それすらも叶わず何度か眠りから覚めては、伊織の事を思って涙を流していた。

 朝になり、再び病院へ戻って来た円香は、いつもと変わらず伊織の病室で一日を過ごす。

 答えてくれないと分かっていても、もしかしたら反応があるかもしれないと、天気の事や今の自分の思いを問い掛けるように話したりする。

「伊織さん、今日も良いお天気ですよ。こういう日は、お弁当を持って、どこかにお出かけしたいですね。私たち、デートらしい事はしていませんでしたから……どこか、一緒に行きたいです…………だから早く、目を覚ましてください。目を覚まして、私の事を抱きしめてください……伊織さんに、名前を呼んで欲しいです……」

 暗くならないと決めたのに、反応の無い彼を前にするとどうにも弱気になってしまう。

 握り返してくれない彼の手にそっと自身の手を重ねた円香は、彼の微かな温もりを感じながら目を閉じた。

 依然として意識を取り戻さない伊織は深い暗闇の中に居た。

(俺は、死んだのか?)

 何も見えない暗闇の中、撃たれた記憶が頭の中に残っている伊織は自分が死んでしまったのでは無いかと思っていた。

(まあ、HUNTERに属した時から、こんなのは覚悟の上だ……多くの人間を手に掛けて来た者の末路なんて、こんなものだろうな……)

 日々死と隣合せな境遇に身を置いていた伊織は、死ぬという事に恐怖など無かった。

 多くの人間を殺めて来た自分が真っ当な未来を歩めるはずもないと理解していたから、それも仕方の無い事だと諦めもついていた。

 しかし、それは円香と出逢うまでの考えだった。

“伊織さん”

 暗闇の中、突如聞こえて来た円香の声に伊織は反応する。

「円香?」

 愛しい人が、自分の名前を呼んでいる。

“伊織さん……お願い、私を一人にしないで……”

“もう一度、名前を呼んで……抱きしめて……”

 愛しい人が、自分を求めている。

 今すぐ彼女の名前を呼んで、抱きしめてやりたい。

 大好きな人の傍に、ずっと居たい。

 そんな感情が伊織の心を支配する。

(確かに、俺は死んで当然の人間かもしれない……けど、今はまだ、アイツの……円香の傍に、居たい……)

 伊織ははっきりと気付いてしまう。死への恐怖なんて無いと思っていた自分が、死を恐れている事に。

 今はまだ、死ねないという事に。

(円香……俺はまだ、生きていたい。生きてお前と――)

 そう強く願った次の瞬間、伊織を包んでいた暗闇に一筋の光が差し込み、彼はその眩しさに目を閉じた。
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