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右左山桃

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番外編

【亜季視点】川内亜季は愛されたい・2

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 なんだそら。
 自ら修羅場を望む馬鹿な夫がどこにいるの。この人なんなの、天然なの?

「君と結婚を前提に付き合っていきたいんだ」

 カキーン!
 頭の片隅で、高い金属音が響き、続いて、わああぁぁっ! という歓声が上がる。
 あたしの人生に、さよなら逆転ホームランが来た。

「え? 本気ですか?」
「うん」

 この人。仕事はできる、エッチは上手い、カッコいい、性格悪くない。
 結婚相手として何の不満もないんですけど。
 でもそんなに簡単に本妻を捨てられるってどういうことなの。
 そもそもあたしで本当にいいの?
 ここまでくるといっそ結婚詐欺くさい。
 でもなー、高遠さんの悪い噂って聞いたことが無いし、仕事をちゃんと持っているのに詐欺なんてリスクを背負うとも思えないんだよなー。
 奥さんとの修羅場は憂鬱だったけど、あたしはこの千載一遇のチャンスに乗っかってみることにした。




 数日後、仕事終わりに高遠さんは駅前まであたしを迎えに来てくれた。
 真っ黒でピカピカ光る愛車のワーゲン、紳士みたいに車に乗せてくれる高遠さんに心浮かれた。

 ホテルでも、車内でも、奥さんの話は出なかった。
 でも、大体どんな人かは予想できる。
 旦那をほったらかして、お買い物三昧だとか若い男の子に夢中だとかで、きっとどうしようもない人なんだろう。
 子供がいるような話も聞かないし、ひょっとしたらソッチはご無沙汰してたのかもしれない。
 だから若くて可愛いだけの、あたしなんかになびいちゃうんだ。
 小一時間ほど車を走らせて、辿り着いた先は。

「は? 病院?」

 白い無機質な外壁に夕日が当たって眩しかった。
 夢みたいな時間が全部幻だったみたいで、あたしはひどく、ここにいることが場違いのような気がした。

「妻は余命1年無いんだよ」

 高遠さんのひと言に、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。

「何……奥さんの寿命縮めるようなこと、してんのあんた……」

 思わずタメ口が出た。
 気丈なつもりだったのに、震えるような声だった。
 この人と寝たこと、今頃になって心底後悔してきた。
 車から降りられずに硬直しているあたしの腕を、高遠さんは躊躇うことなく掴み引きずり降ろす。

「ぇ……や……やだ……」

 怖、い。
 感じたことのない恐怖だった。
 あたしの足は鉛みたいに重く、病院の廊下がとてつもなく長く感じられる。
 入院している患者さんの部屋を横切るたびに、足がすくんだ。
 早くここから逃げ出したい、嫌だ、嫌だ、会いたくない。
 バトル上等とすら思ってたけど、こんな弱者を虐げるの、あたしの趣味じゃない。

 俯き、院内をどう歩いてきたのかわからない。
 高遠さんが歩みをとめて、あたしが顔を上げると、『高遠』と書かれたプレートのある部屋の前だった。
 間違えようがない。
 ここに彼の妻だと言う人はいるのだ。

「美春、来たよ」

 高遠さんの声に応じて、ベッドの上で窓の外を眺めていた女性が振り返った。
 頬がこけ、ガリガリに痩せていたけれど綺麗な人だということはわかった。
 細い腕から伸びるチューブが痛々しくて、あたしは思わず目を逸らす。

「その人が、あなたがずっと話していた川内さん?」
「そうだよ」

 ずっと話してた?
 恐る恐る視線を戻すと、女性は取り乱すこともなく、ただ穏やかに微笑んでいた。

「こんにちは、はじめまして。高遠の妻の美春と申します。主人がいつもお世話になっています」

 発せられる声も、姿と違わず弱々しく、儚い。

「はぁ、どうも。川内亜季……です……」

 頭を下げてから、急に違和感に襲われる。
 なんだ……これ。
 何、円満に挨拶なんて交わしているんだろう、あたしも、この人も。
 この人は、あたしが高遠さんの何なのかを知ってて言ってるんだろうか。

「私がふせってから、夫も元気無くなっちゃったんですけどね。あなたが職場に来てから昔みたいに明るくなったんですよ。とても元気で、明るくて、面白い子だって言ってた」
「はぁ」
「夫はね、とても弱い人だから、私がいなくなったらどうしようってずっと思ってたの、心配していたの」
「……はぁ」
「良かった。素敵な人と出会えて」
「…………」
「安心した」
「…………なにそれ」

 疑問が確信に変わり、ぐにゃりと世界が歪んで見えた気がした。

 変。

 あんたたち、変。
 おかしい。

 なにそれ、あんた。
 あたしに夫を寝とられても悔しくないんだ?
 何穏やかに笑ってるの?
 何で全部、諦めた目であたしを見てるの?
 死ぬ準備始めちゃってんの。

 生きてるのに。
 まだ生きてるのに。

 自分の代わりとなる夫の伴侶を見届けること。
 それが残していく人にできる最後の愛の形だとでも言いたいのか。

 だから嫌なんだ。
 何が尽くす恋、だ。

「違う! 絶対違う! 間違ってる! あんた、もっと自分のために必死になるべきだ! 自分を幸せにしてくれる人なんて……自分しかいないじゃんか!」

 黒い、深い闇を湛えた彼女の瞳に、果たしてあたしは映ってるんだろうか。

「なんで!? なんであんた、あたしに夫を奪われて悔しくないの? 元気になってあたしから奪い返すくらいの気力持ちなさいよ。何負けてんのよ。そんなんじゃ、あんた。絶対幸せになんかなれないから……っ!」

 看護士さんが飛び込んでくる。
「病院内ではお静かに!」とか「患者さんの容体に障りますよ!」とか言ってくるけど、そんなことは知るかっ!
 高遠さんも、高遠さんだ。
 なんでこんな残酷なことするんだ。
 怒り狂うあたしに呆然とする美春さんから、あたしは、横でただ突っ立っているだけの最低男に向き直った。

「……ぉんのっ! 馬鹿男っ! 最低だっ!! 見損なった!!」

 高遠さんをぶっ叩いてやろうかと思って手を振り上げた。
 高遠さんもあたしの気迫と先の行動を予想して、奥歯を噛みしめる。
 でも。

 でも、やめる。
 違う。
 一番、馬鹿で最低なのは。

 悲しむ人がいることを頭の隅でわかってて、ほいほい体を許した自分自身。

「あんたが愛した女でしょ? 途中で投げ出さず最後まで愛しなさいよ! もういらないの!? そんな中途半端な気持ちじゃ、あんただって絶対誰からも愛されやしない」

 これはあたしへの戒めなのかもしれない。
 あたしは真剣に誰かを愛したことが無い。
 相手よりも上にいるつもりで、こいつは駄目だの、ハズレだの、品定めしかしていない。

「だから、奥さんにも見限られるんだわ!」
 
 だから、誰もあたしを本気で愛してはくれないんだ。




 脱力して家に帰る。
 戸口には例の、あの子。
 母さんが夕飯にでも呼んでいたのかもしれない。

「亜季おねえちゃん。おかえりなさい。今日は帰り遅かったんだね~」

 親しそうな顔であたしの方にぱたぱたと駆け寄ってくる。
 正直、今一番会いたくなかったのに。

「馬鹿……みたい……」
「え?」
「なんで、あんたはそんなに悟史に尽くすの?」
「どうしたの? 何かあったの? 亜季おねえちゃん」
「見返りなんて返ってくる保障ないのに」

 苦楽を共にした夫婦ですら、末路はあんななのに。
 すごく、疲れた。
 なんだか泣きたくて、でも、こんな年下の女の子の前で涙は見せられなくて俯いた。

「自分のためだよ」

 返ってきたのは、いつもの甘えたような彼女の声ではなかった。
 ずっと可哀想な子だと思っていたのに、視線を戻した先の日菜子ちゃんに悲壮感はなかった。

「サトちゃんから、あれして、これしてなんて頼まれたこと、一度もないもの。私が全部自分で望んでやってるんだよ。サトちゃんのために何かできることを私が喜びに感じている、ただ、それだけなんだよ」

 凛として、でも穏やかなその顔は、とても幸せそうだった。
 もっとずっと稚拙な子だと思っていたのに、急に大人びて見えて、今はあたしの方が幼子のようだった。

 あたしはまた俯いた。
 嫌なイメージが頭の中を何度かよぎって体が震えた。

「日菜子ちゃんはさ……。自分より悟史に似合う女の子が現れたら、悟史の幸せを願って身を引ける?」

 美春さんと日菜子ちゃんが重なったのかもしれない。
 あたしは、そんな質問を投げかけていた。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………?」

 しかし、いくら待てども答えが返ってこない。
 さきほどの自信満々な顔とは打って変わって、日菜子ちゃんの眉間には深いシワができている。

「……ど……したの、日菜子ちゃん……」
「うん。今は……ただ傍にいられればいいと思ってるよ……? サトちゃんには心から幸せになって欲しい……。けど……」

 ぐ、と一拍間を置くと、堰を切るように日菜子ちゃんはあたしに詰め寄ってきた。

「わ、私よりサトちゃんを幸せにできる女の子は正直いないと思うよ? だって誰よりどんな子より、絶対、すごく好きだもん! 愛してるもん! だから、サトちゃんの幸せを思ってても……実際に周りに女の子が寄ってきたら日菜子……」

 そして、ちょっぴり悪い顔つきになった。

「やっぱり……全力で追っ払っちゃうかもしれない……」
「ぶっ……!」

 あたしは思わず噴き出して、そのまま声を上げて笑い出す。

「な……なんで笑うの~? 亜季おねえちゃん。これはねぇ。日菜子の矛盾であり、切実なジレンマなんだよぉ~……」

 笑って、笑って。
 終いにゃ涙が出てきた。

 違う。
 違うんだよ、今一番欲しい言葉がもらえた気がして、嬉しかった。
 救われたんだ。
 安心したんだよ、良かった。

「……しょーがないよね。あいつ。次に帰ってきたら、ちょっとお灸を据えてやるね」

 あたしは目尻を拭いながらそう言う。

「え?」
「ううん、ううん。こっちのこと」

 あたしには関係ない、関わらないと思っていたけど、悟史がこの子にどれだけ愛されて守られてきたのかを、いつか教えてやってもいいのかもしれない。
 プライドが高いあいつのこと、怒らせる危険性はかなり高いし、話したことがバレたらあたしも日菜子ちゃんに相当恨まれるだろうけど、それでも悟史は律儀で真面目なヤツだから、この子の気持ちに応えてくれるんじゃないのかな。
 真剣に向き合っていく覚悟を決めたとして、そこから先、関係を本物にするかはふたり次第だろうから。

「応援してるよ……」

 人の幸せを願うのも、そんなに悪くはないかもしれない。




「妻が君にまた会いたいって」
「いいわよ。お見舞いに行くの、もう日課だしね」
「君に一喝入れられて、美春は少し元気になったよ」

 そしてあたし達はあれから奇妙な三角関係を続けている。
 友人になった、とでも言えばいいのか。
 今思えば、これは全部高遠さんの猿芝居だった。
 多分この人は、生きる気力を失っていく妻を、失いたくない一心であらゆる手段を試した。
 どんなに手を尽くしても、愛しても、ごめんね……と謝ることしかできない、病に負け弱っていく妻。
 ゆるゆると蝕まれていく彼女の最後の生きる気力になるものは何だろうと考えて、より強い感情を起こさせるもの……。
 憎しみとか嫉妬とか”負けたくない、生きたい”という感情に賭けてみようと考えたのかもしれない。

 最初からあたしへの愛情なんてものはなく。
 あたしの性格を良く理解した上で、心の隙に付け込み、美春さんに喝を入れさせ、まぁ、つまり平たく言えば、あたしをあて馬にしたんだな、と今ではなんとなく理解してる。
 ほんと、大した男だよ。
 結局、あたしはまだまだほんの小娘で、皆はあたしが思ってるよりずっと逞しく強かに生きてるってこと。
 自分の馬鹿さ加減も、高遠さんへのむかつきも越えて、いっそ清々しくて笑いがこみあげてしまう。

 あたしはそれでも利用され続けてあげている。
 バカバカしい茶番劇だったけど、ひとつだけ確実に言えることは、あたしは美春さんの人生に吹く一陣の風になっている。

”サトちゃんのために何かできることを私が喜びに感じている、ただ、それだけなんだよ”

 日菜子ちゃんの言葉の意味が少しだけわかる。
 結局、あたしもまた美春さんのことが好きになり、生きて欲しいと願っているひとりだから。

「またふせってみなさいよー。あんたの旦那なんてあたしの魅力でイチコロよ?」

 時々そう挑発してやる。
 もちろん、本気なんかじゃない。
 彼女は、真剣な顔でコクコク頷いて、「だ……だめ……」と言ってくれた。
 ゆっくり時間をかけて、やっとあたしにも高遠さんにも本音を話してくれるようになった。
 可愛い人だと思う。
 あたしより一回り以上年上なんだろうけど、そう思う。

「化粧品、気にいったの買いに行けないでしょ? 似合うかなって思ったの」

 デパートで見かけた、ローズピンクの口紅を差しだす。
 あたしの中の、大人になっても少女みたいな美春さんのイメージ。

「綺麗な色ね……」
「似合うと思うよ」

 高遠さんにそうに言われて、嬉しそうにはにかむ美春さん。
 二人の間に確かに見える、あたしには遠い、強い絆に少し胸が痛むこともあるけど。
 あたしもまだまだ懲りずに素敵な恋を探してる。
 ちなみに、派遣の契約はなんとか切られず更新できた。

「高遠さんのコネ?」
「いや? 君の実力でしょ」

 この際どっちでもいいけれど。
 ただ、あたしはもうちょっと、他人に人生をゆだねるより、これがあたしの人生なんだって胸張って言えるよう頑張るつもり。

「来るかどうかもわからない明日が怖いよ、亜季ちゃん」
「そんなのあたしだって、誰だって怖いんだよ、美春さん」
「未来はまっさらで、なんにもなくて……」
「まっさらでも、あたし達は、今、生きてる、そうでしょ?」
「……生きてる……」

「生きてる」

 幸せを掴んでみせるよ。
 他人に幸せになれって言って、あたしがならなかったら説得力無いじゃない。
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