漫画のつくりかた

右左山桃

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番外編

【翔視点】橘立花という編集者・1

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「いいから、謝ってこい!」
「嫌です。私、間違ったことなんて言ってません」

 ビルの廊下に響き渡る、中年男性の怒声と、若い女性の声。
 俺はスマホから顔を上げて、喧騒の方角へと目を向けた。
 二人の男女が間合いを取りながら睨みあい、ピリピリとした空気を放っている。

 私服を綺麗に着こなしている女性社員が行き交う中で、彼女は少し浮くグレーのスーツ姿。
 どこか幼さを残した顔立ちから、まだ新人なんだろうなーと思う。
 肩の上に少しかかる髪と、キリッとした意思の強そうな瞳。
 快活で気が強そうな外見は割と好みだ、なんて。
 俺は今まさに上司に怒られている彼女を遠巻きに見ながら、のんきにそんなことを思っていた。

「間違ってる、間違っていないという問題じゃない。橘、おまえは大御所の先生に失礼な発言をして機嫌を損ねた。それだけが事実だ!」

 彼女の名前は、橘というらしい。
 橘は、身も心も体育会系のマッチョな上司に唾と罵声を飛ばされ、むぅぅと明らかに不機嫌な顔になる。

「失礼な発言なんて、私していません。だってあの人、あのままじゃ駄目になりますよ!? いくら大ヒットを連作で飛ばしたからと言っても、同じような展開を何度も繰り返して。あんなんじゃ、いい加減読者も読んでて飽きます、離れて行きますよ、絶対みんな思ってるはずなのに、何で誰も言わないんですか!?」

 なるほど。
 だいたい彼女の言いたいことは分かった。
 でも、それをなぁ。
 何百倍という競争率の中、やっと勝ちぬいてこの業界に入って、これから色々迷惑をかけていくであろう自分の上司に盾突いてまで主張することなのかなぁ、と少し苦笑する。
 暫くは呆けてふたりのやりとりを見ていたけど、事務室から慌ただしく飛び出してきた人物に視界を塞がれる。

「あぁ、君……。君が、連絡をくれた桐生翔きりゅうかけるさん?」

 ひょろっとした長身で面長の男性に声をかけられ、俺は肯定する。

「ごめんね、電話が長引いちゃって。あっちのパーティションで原稿を見せてもらうね」

 気の優しそうな、悪く言えば弱そうな、食物で例えるなら間違いなくモヤシな男に連れられて、廊下を進む。
 広い廊下は、壁際の空間を仕切り板で二畳ちょいずつに区切り、打ち合わせ室として使われていた。
 その一区画に入るよう促される。

 その前に、少し気になって橘の方へと視線を向けると、彼女はまだ何かを訴えているようだった。
 上司の顔がいよいよ恐ろしく歪んで、意味不明な怒鳴り声が木霊する。
 廊下を歩いていた女性社員達が身をすくませ、皆部屋から出るのを躊躇っているのがなんとなく伺える。
 あんだけ怒られたらさすがに泣くんじゃないか? と思ったが、橘は表情ひとつ変えず、目も逸らさず、背筋をピンと伸ばして立っていた。
 上司もあの子も相当な体育会系だ、良い根性してる。

「俺、あの子に原稿を見てもらいたい……」

 俺は先を歩くモヤシの袖をツンツンとひっぱり、橘の方を指さす。

「は!?」
「あんたじゃなくて、あの子がいいんだけど」

 にっこり笑顔を作ってもう一度言うと――笑っても駄目か――モヤシの青白い顔が赤に変わる。
 温和な人間でも怒る時は怒るんだな、なんて、当たり前のことを思って「あはは」と笑う。

「なっ……何、馬鹿なこと言ってるの!? 皆スケジュールの元に動いているのに、君の都合なんて……指名なんてできるわけないだろう? そもそも立場をわきまえて欲しい。君、漫画家になりたいんでしょ!? 原稿を見てもらいたくて、ここにきたんでしょ!?」

 そうそう。
 まぁ、そうなんだけどさ。
 相当失礼なこと言ってる自覚はちゃんとあんだけどさ。
 でも、この原稿をここで見せたら、俺の担当あんたになっちゃうじゃん。

「あの子、そんなに過密スケジュールにも見えないけどねー」

 怒った上司に愛想を尽かされ、橘は廊下を俯いて歩いてきた。
 俺の方をチラッと一瞥して、通り過ぎていく。
 怒られている時は、全然平気そうに見えたけど、やはり瞳には覇気が感じられなかった。
 ビルから出て行く所を見ると、その、機嫌を損ねたセンセイとやらに謝りに行くのかもしれない。
 モヤシは「君みたいな、非常識な人間は知らない」と一言告げて踵を返す。
 俺はそれを、もう行っていいよ、と受け取ってビルから飛び出し橘を追う。

「おーい!」

 人混みを縫って、カツカツとヒールの音を立てながら橘は進む。
 新人だけど、雰囲気っつーかオーラだけは立派にキャリアウーマンみたいで。
 何度呼びかけても――多分、頭の中はさっきのことで頭がいっぱいなんだろう――まったく応じてくれる気配がなかった。

 しっかし、足、はえぇ……。

 スクランブル交差点に入りかけた橘に手を伸ばして、人混みに溶け込む前に捕まえる。
 届いた彼女の腕は、手の中に容易に収まってしまうくらい細くて華奢で――。

「!? なに、よ」

 腕を掴まれた橘は驚いて、跳ねるように振り向いた。
 きゅっと形の良い眉を寄せて、不審者――残念ながら俺ね――を睨みつけてくる。
 ひょっとしたら泣いてるかも……なんて、背中を見ながら少し思ったのはやっぱり杞憂に過ぎなかった。

「あなた、どなた?」
「俺は、君の出版社に原稿の持ち込みに来た桐生翔っていう名前の漫画家志望者」

 そう言うと、さっきビルで目が合ったのを思い出してくれたようだった。

「私に何か? 本間さんに原稿を見てもらうところだったんじゃないの?」

 モヤシは本間さんという名前だったらしい。
 今となっちゃどうでもいいが。

「そうだったんだけど、俺は君に見てもらいたくて」

 そう言うと、橘は怪訝な顔になり「はぁ?」と呟いた。

 信じられない、と言う表情で俺の顔を暫く眺め――。

「それを本間さんに言って、あなた、ここまで私を追っかけてきたの?」

 語尾に、ばっかじゃないの? と付け加えて言ってくれているような気がする。

「そ。ちなみに『あなた』じゃなくて『桐生翔』ね」

 以後お見知りおきを、なんて、駄目元で名前を刷り込んでおく。

「私なんかに見せても仕方ないわよ、私まだ誰も担当したことないもの。本間さんに見てもらえば良かったのに……持ち込みのボイコットなんかして、悪い印象与えたわよ」
「悪い印象?」

 俺は、おかしくなってふっと笑う。

「俺のことなんか、すぐ忘れるよ。漫画家志望者が何人いると思ってるの。原稿も見せてない俺なんか、ちょっとくらい失礼なこと言っても頭の隅にも引っかからないよ。顔だって大して見てないしねー」

 そう言うと、俺のそんな態度が気に入らないのか、橘は、俺をキッと睨みつける。

「…………みんな、少しでも良い印象を持って……覚えてもらうために必死になってるのに……。あなた最低ね。漫画家舐めるのもいい加減にしたら?」

 その射抜くような視線に、あぁ、綺麗だ、やっぱ悪くないな、と思う。

「ごめん。ごめん。今のは俺が悪いね」

 俺は両手を彼女にあげて、降参する。
 橘は、はぁ~、と深く溜息をついて、俺になど構っていられないことを思い出したらしい。
「さよなら、私、仕事あるから」と背を向ける。

「謝りに行くんだっけ?」

 そう背中に向かって声をかけると彼女は動きを止める。
 そろそろと近づいて顔を覗きこんでみれば、眉間にきつくしわを寄せていた。

「盗み聞きなんて……最低」

 盗み聞き? あんなでっかい声で怒鳴りあっていたのに盗み聞きはないだろうよ。
 まぁ、これ以上言い合っても彼女の俺に対する印象が下がるだけなので、口にするのはやめておく。

「…………謝りに……行っても……なんて言ったらいいのか、わからない」

 急に気落ちした橘を、目の前にあったコーヒーショップに誘ってみる。

「ちょっとは落ち着いたら? 君がわけわかんないまま行っても事態が悪化するだけかもよ?」

 駄目元で――だったけれど、よっぽど大御所の家に向かうことに抵抗があったんだろう。
 素性の知れない俺の誘いに躊躇いながらも乗ってくれた。




 珈琲をかき混ぜて、クリームを垂らす。
 橘はぼんやりと白い筋がくるくる回るのを眺めていた。

「で、君はストレートに言ったんだ。あなたの作品はマンネリ化してるって」
「…………」

 橘は何も言わないが、俺はそれを肯定と受け取っておく。

「ちなみにさ、大御所の先生って誰?」

 内緒話を聞くように、興味津々に橘の方へと顔を寄せて訊いてみれば。

「……藤堂信二」
「ぶは……っ」

 思わず笑って、口につけようとしていた珈琲を吹き零しそうになった。
 その人は彼女の少年誌の大黒柱だと言ってもいいんじゃないだろうか。
 確かにその人に盾突いたら痛い。
 藤堂が他紙に移ったら、藤堂のファンも一緒に移るだろう。
 発行部数すら左右する人の機嫌を損ねたら、彼女の上司は真っ青だ。

「そら、よくないよね」
「……だっ……て……。私だって……編集者の前にファンだもの……ずっと……描いて欲しいもの……。もっと藤堂先生のお話、読みたいもの……」

 弱々しく言う、こっちが本音だったんだろうに。
 藤堂がスランプで苦しんでるのはきっと本当だ。
 前作が大作だと、それを超えるのってすげー辛いって言うし、当たった作品のパターンをなぞっているのも自覚しているんだと思う。
 売れて、強くなっていく発言権とプライド、逆に彼の意見に口が出しづらくなる編集者。
 少しずつ時代と合わなくなる作風、離れていく読者に、彼女は心配したんだ、これからの藤堂信二の行く末を。
 だけど皆、売れている現状をなんとか維持することしか考えていない。
 なんとか先手を打とうとした、彼女は間違っちゃいないんだろうけど。

「損だな、あんた。せっかく可愛く生まれたんだから、『藤堂先生のファンです。先生の描いたこんなお話も読みたぁい』って媚びるくらいすりゃ良かったのに」
「なっ……」

 そういうことを言われるのが、多分この手のタイプは一番カチンとくるんだろう。
 馬鹿にされたと思ったのか、橘はまた威嚇モードに移ろうとする。

「ちげって、あんたこれから漫画の編集担当していくんだろ? 漫画家をどう生かすか、考えてくのが仕事なんだろ? だったら藤堂にどんな漫画を描かせたら面白いと思う?」
「え……」
「相手は大ヒット飛ばしたんだ。自信もあるし、あんたに何か意見されたって、小娘が何言ってやがるって思うだろうよ」

 どんなに橘が有能だったとしても、この性格は仇になってしまう。

「あんたがまず、藤堂を最高に生かす漫画の原案を考えんだよ。それをまず、藤堂の担当に持って行く。まぁおまえら担当同士の縄張りがどうなってるか知らねーから、どんな反応するかはわかんねーけど、使えるんなら次の話のネタ出しにでも使ってもらえ。橘はどっかで藤堂と会う機会があったら、『藤堂先生の次回作、楽しみです』くらいの発言にしとけ」

 非常識人の俺なんかに言われたかないだろうが、多分、正しい間違っているだけで判断して動いたら破綻する。
 自分のしてもいい領域と、手を出してはいけない領域があるはずだ。

 橘は俺の話を真剣に聞いてくれているようだった。
 後にも先にも、彼女の聞いて考える姿勢は、とても真剣だったと俺は思う。

「私、やっぱりよくなかった……」

 落ち込む橘に、まーでも、言っちゃったもんは仕方ないし、と肩をたたく。
 確かに藤堂が抜けたら大打撃かもしんねーけどさ、そんくらいで揺らぐような雑誌なら、正直そこまでだろ。
 とは、さすがに言わない。

「ほっときゃ、いいだろ。おまえの上司もビビりすぎ。藤堂だって、そんなことでイチイチ出版社変えたりしねーよ。頭冷えたら元通りだろ。直接面と向かって言われることには免疫なくても、そんくらいのことSNSでいくらでも言われてるだろうから」

 そう言って安心させてやる、とりあえず。
 でも、橘はフッきれたようで。

「私、ちゃんと謝ってくるね。藤堂先生のファンだってことは、そこだけは間違いなく伝えたいから」

 笑顔でそう言った。

「しかしまぁ」

 すっかり冷めきった珈琲を、橘はやっと口にする。

「……藤堂、藤堂って、あなた――桐生だっけ? の大先輩になるかもしれない漫画家に向かって……」

 覚えてくれていたらしい、名前を初めて言ってくれる。

「は、性じゃねーよなー。藤堂先生とか、なんか、媚びてるみたいでやだ」
「……人には媚びろって言っておいて……」
「それとこれとは、別。俺だって、いざ藤堂を前にしたら『藤堂センセ~~』って目をウルウルさせて言いますよ」

 少し心を開いてくれたらしい。
 橘は、ははっと声を出して笑う。
 肩から力を抜いた姿を見たら、やっと年相応に見えた。

「なんか、気が抜けちゃった。珈琲ごちそうさま。お陰さまでスッキリしました。じゃあね」

 って、おいおい、清々しく立ち去らないでください。

「俺の漫画、読んでってよ」

 このままでは何のために追いかけたのか分からなくなってしまう。
 俺は立ち上がりかけていた橘を、また強引に椅子に座らせる。
 橘は、えー……と、少し困った顔をしていたが、「私でいいんなら……」とようやく手を差し出してくれた。

「あら。上手いわね」

 それが第一声。
 橘は原稿をぱらぱらとめくってざっくり読んだ後、また最初から読み始める。
 さきほどの釣れない態度は嘘のような、ものすごい集中力だった。
 見せゴマの前後の運びを確認したり、話の「つかみ」と「めくり」を意識しているのか、原稿を何度もめくって開いた時の感覚を読者の目線で確かめているようだった。
 まぁ、そういう、基本的なところは一通り押さえておいた。
 アングルやズームのカメラワークのバランス。
 1枚絵として原稿を見たときの人物のポジションもそんな悪かないだろう。
 ペン入れ含め、絵に関しては恐らくそこまで厳しい指摘は来ないと思う。
 あとは作風が好まれるか好まれないか。
 彼女の総評としては――。

「あぁ、面白いし、うちの雑誌に合っていると思う」

――とのことだった。
 そら、あんたんとこの好まれる作風に合わせて描いた甲斐があったよ。

「本間さんに見せたら、多分、担当になってくれたわよ。次の選考にだって、もしかしたらまわしてくれただろうに……」
「いやいや、いいよもう。本間さんは。橘いつか担当になってよ」

 俺がそう言うと、橘はキョトンとして、それからまた訝しい顔に戻る。

「なんで名前知ってるの? しかも、いきなり呼び捨て?」
「さっきそう呼ばれてたの聞いたから。でも下の名前は知らねー。名刺ないの?」

 名刺、名刺! と催促する俺に、橘は「うーん……」とおでこに指をあてて、ちょっとだけ迷っていた。
 渋々ポケットから名刺入れを取り出す。
 綺麗な桜柄の名刺には『橘立花』と書いてあった。

「ふーん。『たちばな・たちばな』って言うの。変わってんねー」
「アルファベットでも表記されてるでしょー!? たちばな、りっか!」
「じゃあ、立花」

 名前を呼び捨てると、立花は益々不機嫌な顔になった。
 あぁ、良いね、その顔。
 もっと怒らせたり泣かせたりしてみたくなる。

「また、描いたら見せにくるから、見てくれる?」
「…………」

 俺がそう言うと、また戸惑う。
 その表情は、俺がどうの……というよりも、自分にその資格があるのか考えているように見えた。
 新人だから? まだ見習いだから? そんな重要なことか?

「いいじゃん。君だっていつまでも新人じゃないでしょ? 別に俺、漫画家になるの焦ってねーし。志望者のキープはこれからいくらでも持ってた方が良いよ。必要になったら声をかけて、いらなくなれば切ればいい。でしょ?」

 そう言うと、立花はあからさまに嫌な顔をした。
 別に、俺が今言ったことはそうそう珍しいことでもない。
 彼女だってそんなことわかっているだろうに。

「……気に入らない」

 吐き捨てるようにそう言った、彼女の精神は恐ろしく澄んで綺麗だった。
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