漫画のつくりかた

右左山桃

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番外編

【悟史視点】ふたりは関係を進めたい・2

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 別に、そういうことをする機会が全く無かった訳では無いし、考えたとが無い訳じゃない。
 少なくとも二度は、あった。


 一度目は、日菜子が高校を卒業したタイミング。
 卒業式の日、俺のアパートに卒業証書を持った日菜子が最後の制服姿を見せに来た。
 
「18歳になったし、卒業したし、もういいよね? いろんなこと我慢しなくても」

 友達に囲まれて楽しそうに見えたけど、辛かったこともたくさんあったんだろう。
 目に涙を溜めてそう言う日菜子に、「よく頑張ったな」と「卒業おめでとう」を伝える。
 胸に飛び込んできた日菜子は、感極まってわぁわぁ泣いた。
 日菜子の背中をさすっていたら、なんだか俺まで鼻の奥がツンとした。
 気が済むまで泣いて、くしゃくしゃになった日菜子の顔をティッシュで綺麗にしてやる。
「子供扱いはもう終わりなんだよ~」と尖らせた唇に、二度目のキスをした。
 あれから一度も口にはしたことがなかった。
 万が一にでも自制できなくなったら怖いから。
 唇と唇が、ちょっと触れるだけのキス。
 それでも最初の頃より、想像していたよりずっと、心は震えた。

「ふ、ふいうち~!!」

 耳を赤く染めた日菜子が、グリグリと俺の胸に顔を押しつけ照れてくる。

「俺も我慢してたんだよ」

 笑って冗談を言ったつもりだったけど、躊躇いがちに顔を上げた日菜子の、好奇心と期待が入り混じった瞳に捕まる。
 恥ずかしそうに伏せられた瞼に、誘われるまま応じた。
 俺たちは面白い遊びを見つけたように、何度も唇を合わせた。
 照れ臭くて、なんだかおかしくなって、どちらからともなく笑いあう。
 お互いそれなりに経験があったら、そのまま良い雰囲気になったりするのかもしれないけど……。
 心置きなくキスができる関係になれた。
 それだけで胸がいっぱいだった。




 二度目は、日菜子が桐生翔の元にアシスタントに行きだしてから。
 橘さんの思惑通りになるのは癪だったけど、人気も実力もある、自分が理想とする人の元に恋人が通うのは堪えた。
 スパダリは女の子の扱いに長けているらしい。
 日菜子は人見知りな癖に、桐生先生にはすぐに心を開いた。
 新しい環境でも無我夢中で知識を吸収していく日菜子に、良かったと思う反面、ドス黒い感情が胸を覆い尽くす。
 自分の心がこんなに狭いなんて知りたくなかった。
 一線越えれば、解消する悩みかもしれない。そんな気がして。
 日菜子が夕飯を食べに来た日、帰りがけに思い切って訊いてみた。

「今日は泊まっていかないか」

 言葉の真意を測りかねて、日菜子が俺の顔を凝視する。
 俺は日菜子の視線に耐えられなくて、やや強引にキスをした。
 日菜子は自分の所有物ではないのに、離れていかないように、もっと深く手に入れようとしている自分が浅ましい。
 客観的なもうひとりの自分が止めるけど、後に引けなくなった腕で日菜子をベッドに押し倒した。

「サトちゃん、大丈夫?」

 恥ずかしがる、喜ぶ、嫌がる、怖がる、色んな可能性を想像したけど、そのどれでもなく。
 日菜子は至って真面目な顔で俺のことを心配していた。

「サトちゃんは橘さんに発破かけられてるみたいだけど、私と桐生先生の関係を心配しなくても大丈夫だよ? 桐生先生は橘さんが好きだから」

 俺の不安を見透かすように日菜子は言った。

「…………は」

 余裕がないなんて、日菜子には絶対バレたくない。顔と態度に出さないようにずっと気をつけていたのに、なんで日菜子にはわかるのか。
 いや、それよりも、桐生先生が橘さんを好きだなんて、寝耳に水だった。
 本人に聞いた訳でもないのに日菜子は確信を持って言う。

「桐生先生って、デジタル作家だからアシスタントは基本在宅なんだよ。私を紹介したのは無神経だったよね。先生は橘さんに、自分が他の女の子と一緒にいて平気なのか問いただしたい気持ちを押し込めて、静かに怒ってるよ」

 橘さん……。
 世の女性数多あまたを選び放題の桐生翔の本命が橘さん……。
 いや、人の嗜好に口を出すつもりはないんだけど。
 上手く二の句が告げずにいる俺の首に、日菜子は両手を伸ばし。

「えいっ!」
「!?」

 豊かな胸の中に俺の顔を抱き込んだ。
 想像以上に柔らかな感触に、体がゾクっと震えて、呼吸ができなくて本気で焦った。

「サトちゃんが桐生先生に対抗心持つ必要なんてないんだよ。だって作風が全然違うもん。どっちが優れてるとか無いよ。サトちゃんはサトちゃんのペースで漫画を描けばいいんだよ。日菜子はどこで何してたって、サトちゃんの漫画とサトちゃんのこと以上に、大事なものはないよ~」

 腕の力が弱まった日菜子から、体を起こす。
 自分が恋愛面で優位に立てて嬉しいとか、ちょっとぐらい調子に乗ってもいいのに。
 そう言って笑ってくれる日菜子は、本当に純粋で優しい。
 俺が劣等感に陥った所で良い作品が生み出せないことも、きっと誰よりも分かってくれている。

「あぁ、もう。かっこ……わる……」
「カッコ悪くなんかないよ~。ヤキモチ嬉しいんだよ~」

 日菜子を潰さないように気をつけながら、日菜子の隣に体を投げ出して横たわる。
 飛びついてきた日菜子を腕の中に収めて「ごめん」と心の底から謝った。
 良いのか悪いのか焦燥感はそれで落ち着いて、日菜子と焦って一線を超える必要性が無くなって。
 安心したら、体は徹夜明けだったことを思い出し、そのまま日菜子を抱えて爆睡してしまった。
 目が覚めたら、すっかり朝で。

「日菜子、今日は朝帰りだよ~」

 一晩中、抱き枕になってくれていた日菜子に平謝りしかできなかった。
 何を言っても言い訳にしか聞こえない状況で日菜子の両親に謝りに行く。
 道中で亜季に見つかり、日菜子は亜季に「こいつ上手いの?」とからかわれるわ、日菜子も照れながら「秘密だよぉ」とノリノリで答えるわで酷い目にあった。
 結局、何もしていないのに。
 日菜子の家で、赤飯をご馳走されて泣きそうになった黒歴史。




 まぁ、付き合って三年て単純に言うけど色々あったよな。
 邪な感情で日菜子を汚さなくて本当に良かったと思うこともあるし、きっかけなんて些細なことだ。先に進むべきだったんだと思うこともある。
 プラトニックな関係を貫いてきて、今さらどう動けばいいかよくわからなくなった。
 現状に不満はない。
 仲良く一緒にいるし、無理して一線超える必要なんてない。
 そう思っていた所にこの温泉旅行券……。


 それからは、旅行から戻ってからの仕事の調整と、旅行の準備で慌ただしく過ぎていった。
 せっかくなので、気持ちを旅行へと切り替え、温泉宿付近のガイドブックを買ってみた。
 そこは昔ながらの温泉街として有名な地域らしく、観光地として発展していて、少し足を伸ばせば時間を潰せそうな場所がたくさんあった。

 日菜子は何が好きなんだろう。

 小京都の街中にある、甘味処やちりめん細工のお店、女の子が喜びそうなのはそんなとこか?
 写真撮るなら城下町は映えそうだし、案外、歴史的な建造物にも興味があるかもしれない。
 長く一緒にいても、日菜子はあまり好きなものや行きたい所の自己主張をしてこない。
 何をしている時も本当に心から楽しそうにしていると思うけど、日菜子自身が何が好きか、何に喜ぶのか、未だによくわかっていない気もする。
 確かに、こういう時間は必要かもしれないな。
 きっと普段とは違う一面を見ることができる。
 日菜子の喜ぶことを、ひとつでも多く見つけられるかもしれない。
 仕事のことは片隅において、恋人のことだけを考える時間。
 それは驚くくらい穏やかで優しい気持ちだった。
 攻撃的だった昔の自分では信じられないくらいの心境の変化だった。


 旅行に必要なものを買い出しに行った。
 最後に立ち寄ったコンビニで、『それ』の棚の前で足を止めた。
 目の前に並ぶ、手のひらに乗る位のシンプルな小さな箱。

 これは、必要だろうか。

 家のどこかにもあるはずだけど、どこにしまったのか記憶が朧気おぼろげだった。
 日菜子と一線を越えることに、嫌悪感がある自分がいる。
 大切なものを自分の手で汚してしまうような不安がある。
 旅行にまで誘っておいて、今さら何を言ってんだろ。
 俺は頭を振って、その箱をカゴヘ投げた。
 結果はどうなるにせよ、無いよりは、ある方が良いに決まっている。
 あまり深くは考えないことにした。
 昔はもっと単純で良かったよな。
 中学生や高校生の頃なんて、したくてしたくてたまらなくて、絶えず友人間でやったやらないを競い合っていた。

 すげー、くだんなかった。

 恋愛と性欲が直結していたあの頃と、今は違う。
 日菜子との関係は恋と呼ぶほど単純なものじゃない。
 漫画を描くことと、日菜子を愛することは同義で、日菜子の存在は自分の人生の一部になっている。
 どれほど大切で失いたくない存在なのか、意識すればするほど枷が増えていく。
 この小さくて愛しい存在をこれからどうやって守っていけばいいのか、ずっと考えている。

 泣かせたくない。
 傷つけたくない。
 もう二度と。
 絶対に失いたくない。

『大切過ぎて手が出せない』

 その言葉が痛いほど刺さる。
 今のままで十分すぎるくらい幸せだ。
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