漫画のつくりかた

右左山桃

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番外編

【悟史視点】日菜子ロス・1

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 傾く太陽の光が部屋に差し込んでくる。
 時計が4時近くを示しているのに気づいて、なんとなく寂しい気持ちになった。

「もう、そんな時間なのか……」

 いつもなら日菜子が仕事の手伝いに来てくれていた時間。
 目を閉じれば今でも、アパートの階段を勢いよく駆け上がる足音が響いてくる気がする。
 まっしぐらに俺の部屋に近づいて来る地響きに、近所迷惑だろが! と毎回冷や冷やさせられたもんだった。
 何度叱っても懲りないって言うか、全然直らなかったよな……。

『サトちゃんに会うためのほんの1秒だって惜しいんだもん。愛が日菜子を駆り立てているのだよ。みゃっはっは』

 まったく、みゃっはっはじゃねっつの。
 脳内日菜子に突っ込みを入れながら、ぼんやりと玄関を眺める。
 戸のカギを開けて数秒待っていれば『サトちゃん!』とこれまたでかい声で、満面の笑顔の日菜子が飛び込んでくる筈で、それは今だって鮮明に思い描ける光景なのに、騒がしく日菜子と過ごしていた日々が、もう大分昔のことのように感じられた。

 今は学校を優先している筈なので、日菜子がここに来ることはない。
 日菜子は俺が学校生活を充実させて欲しいという願いを、戸惑いながらも律儀に真面目に受け入れてくれた。

『頑張る……学校、頑張る………』

 眉間に深いしわを寄せながら何度もうわ言のように呟いていた姿を思い出すと、もやもやと不安が胸を覆い尽くして苦しくなる。
 日菜子は頑張りすぎるから。
 俺も要領は良くないから人のこと言えないけど、あいつは適当っていう言葉を知らない。
 頑張って何でも上手くいけば、それは一番いいけど、人間関係だけは双方の歩み寄りが必要で、自分の努力だけではどうにもならない所があると思う。
 相手に影響を与えるには時間と根気が必要で、日菜子が過ごす短い高校生活では成し遂げられないことかもしれない。

 全力でぶつかって、成すすべもなくべっこべこに凹んでいたらどうしよう。
 ちゃんと、やれてんのかな……。
 上手い人間関係の築き方でもアドバイスすれば良かったかかもしれない。
 でもそんなのアドバイスできるほど、俺は今まで世の中を上手に渡ってきたか?

 悶々と突き詰めて考えてから、結局力なく笑うしかなかった。
 そんなの、自分で経験して学びとるのがやっぱり一番で、それを願って日菜子の背中を押した筈なのに。
 要領よく世を渡る方法を教えれば良かった――だなんて本末転倒じゃんか。
 本来の目的すら見失いかけるとは……ホントに俺は、アホだ。
 日菜子にとっては不本意かもしれないけど、やっぱり親心に似た気持ちはいつだって心の中で同居している。
 心配だし。許されるなら、ずっと目の届く範囲に置いておきたい。
 傷つかずに済む方法があるのなら、それを探してやりたい。

 手のつかないネームをテーブルに投げて、溜息をつく。
 今更に、ひとりだとここはこんなに静かだったんだと痛感する。
 そこにいるのが当たり前だった存在が突然いなくなるというのは結構堪える。
 しっかり仕事に集中できる環境になった筈なのに、喪失感は想像以上だった。
 素直に今の気持ちを口にするなら、寂しい。

 しかし、おかしい。
 日菜子が彼女になった今の方が、寂しく感じているというのも。
 いや、ちっともおかしくはないんだけど。俺が提案したことなんだから。

 仕事優先で良いよ。
 デートもしなくていい。
 別に記念日とかプレゼントとか何もいらないから。
 これから先も、サトちゃんと繋がっているものがあるのなら、日菜子はそれでいい。

 そう言ってくれる日菜子に感謝しつつも本当は釈然としない。
 確かに普通の恋人と同じような付き合い方は俺にはできないかもしれない。
 期待を持たせることを言うのは慎むべきかもしれないけど……。
 でも、それなら、本当に俺達が恋人になった意味がなくなってしまう。

 今日は家にケーキがある。
 さっきまで打ち合わせに来ていた橘さんからの差し入れ。

『超絶美味しいのよコレ! いつも売り切れでやっと手に入ったんだから。クリームが甘すぎないのに濃くって、スポンジがふわっふわで、口に入れると溶ける、溶けるのよ!!』

 そう絶賛していた。幻の一品……らしい。
 二つ買って来て、ひとつは自分で食べて帰って行った。
『うぅ~。とろける~』を連呼しながら、本当に隣で美味しそうに食べるので、なんとなく手をつけずにとっておいた。

『あら、食べないの?』
『さっき食事したばかりなので。でもありがたく、あとでいただきます』

 そんな適当な嘘をついてその場をやり過ごしておいた。
 橘さんには申し訳ないけど、俺みたいな甘いものにさほど執着の無い人間が食べるのはちょっと勿体ない。
 どうせなら日菜子に食べさせて反応が見たい。
 美味しそうなケーキがあるから。
 それは恋人同士が会う理由になるだろうか。
 きっと充分だよな、と俺は思って丸まっていた背中を伸ばす。
 ちょっと体を動かしたかったのもあるし、外に出よう。
 今学校の方へ足を運べば、日菜子の通学路を辿っていけば、会えるかもしれない。

 スニーカーに足を通しながら、あぁ、俺は今本当に日菜子に会いたいんだなと気づかされた。
 日菜子には驚かれそうだけど……俺だってどうにも無性に、会いたいな……と思う瞬間はある。
 あの、ほわっとした顔に微笑みかけられて名前を呼ばれば、どんなにささくれた気持ちでも和む。
 指折り数えて、もうかれこれ2週間くらい会っていないことに気付いた。
 それを長いととるか短いととるかは、その人の尺度で変わるのかもしんないけど。
 俺と日菜子の2週間というのは、恐らく結構、長い。
 日菜子が橘さんの紹介してくれた仕事先へ行く日が来たら、その期間はもっと伸びていくのかもしれない。
 そう考えると末恐ろしく思える。
 本当に自分の選んだ答えは正しかったのかな……なんて弱気になったりもする。
 正しかろうが間違っていようが、ここまできたら何とかそれを俺達の糧にしないといけないんだろうけど。



 玄関を開けると、隣の部屋に住んでいる女性と遭遇した。
 母親と同じかそれ以上の年齢だと思うその人の、格好はかなり奇抜で若い。
 化粧をしっかりしている所を見るとこれから仕事なのかもしれない。
 軽く会釈してすれ違おうとしたら、声をかけられた。
 あんまり話をしたことはなかったから内心びっくりした。

「いつも騒がしい娘さん、最近見ないね。おにーさん別れたの?」
「いえ……つきあってますけど」

 つきあい始めましたけど、の方がむしろ適切なんだけど。
『愛してるよー!』なんていう雄たけびを年中日菜子がしてたもんだから、近所にカップルだと思われていても何ら不思議はない。

「最近全然来ないじゃない。喧嘩?」
「違います……」
「じゃあ浮気されてんじゃないの! おにーさん捨てられちゃったんじゃないの!」
「…………え、えぇ……?」

 身を乗り出してくる彼女に、思わず肩をすくめてしまう……。
 瞳の奥には可哀想な俺への興味と他人の不幸は蜜の味とでも言いたげな喜々とした明りが宿っている気がする。
 日菜子が毎日騒がしくしてたの、ひょっとして根に持ってんじゃないのか。
 そんなことを考えていたら。

「寂しかったら……うちにおいで。あの子みたいに若くは無いけど、あたしはその分色々教えてあげられるから……」

 息がかかるくらい耳の近くで艶っぽく囁かれた。
 ええええぇー!? と叫んで飛びのいて壁に張り付きたい気持ちを、爆発寸前のトランクを全身タックルでしまうが如く押し込めて。

「……お気持ちだけで、な……なんかもう……ホント……胸いっぱいですから……」

 右頬の筋肉がどう頑張っても痙攣してたけど、俺に出来る精一杯の笑顔でそう答えておいた。
 恐ろしい。だけど今の発言を日菜子に聞かれたら、もっと恐ろしい。俺もあの人も屍と化す。
 橘さんに聞かれたら?

 いいじゃない! 行ってきなさい! 漫画家たるもの色んな経験を積むものよ!
 じゃあ、次回のラブストーリーは『熟女と俺』で。

 骨どころじゃない灰と化す。
 そそくさと逃げるようにその場を退散して、通りに出た。
 ひとつ角を曲がって、アパートが見えなくなるまで歩く速度を落とせなかった。
 万が一でも脈があると思われたら困る。振り向いたら負けだと思った。
 仕事じゃなくて、これからデートだったのかもしれない。
 ひとり暮らしだとは思ってたけど、すごいバイタリティだよな……見習いたい……いや、違う。違うか。
 何を言ってるんだ。

 日菜子が浮気?
 すんのかな。
 想像できないだけに……されたら地面にめり込みそうだ。
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