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本編
10 【日菜子視点】辿りつきたかった壁の向こう側
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一河さんは今でもサトちゃんが好きだった。
あんな台詞をわざわざ挑発して言わせてしまうなんて……。
私って、なんて馬鹿なの。
あの時、あんなこと言わなければ、そもそも出かけたりしなければ……。
たら、れば、を延々と繰り返し、考えれば考えるほど気持ちは沈んだ。
サトちゃんは、どう思った?
嬉しかった?
そりゃ……。
嬉しかったに決まっているよね。
サトちゃんの気持ちが気になって仕方なかった。
私たちは黙々と原稿を進める。
手は動かしているものの、私の心はここにあらずで。
「ピヨ、ベタはみだしてんぞ」
サトちゃんの声でようやく我にかえった。
「あ、ご……ごめん……」
サトちゃんの方を見る。
サトちゃんは特に気にしたそぶりもなく、原稿にペンを走らせていた。
昨日の出来事なんて何もなかったかのように。
本当に何もなかったのなら良かったのに。
今の私には、原稿の上のハルカを見ることすら辛い。
ましてやクルークを支えるハルカの姿なんて拷問だ。
二人の世界で、ずっとこうして漫画を描いていければそれで幸せだったのに。
いつかサトちゃんが自分ではない誰かと付きあう可能性はあった。
でもそれはまだ先のことだと考えないようにしていた。
それが急に現実味を帯びてきて、一番望まない結末を迎えようとしている。
一河さんに対するトラウマ的な胸の痛みは、呪いのように私を苦しめた。
サトちゃんはまた付き合うのだろうか。
一河さんと。
「サトちゃん」
「あ?」
「由梨おねえちゃんのこと今でも好き?」
思いきって聞いてみる。
「関係ねーだろ、お前には」
答えはそれだけ。
あっさりとしたものだった。
サトちゃんは表情ひとつ変えなかった。
私はサトちゃんから情報を何ひとつ読み取れず困惑した。
「関係あるよ、私はサトちゃんが好きだから」
ダメ押しをしてみる。
この数秒後に傷つくことを知りながら。
「俺は、お前を恋愛対象として見ていない」
胸が潰れても、それでも訊かずにはいられない。
「知ってる。由梨おねえちゃんのことを、すごく好きだったのも知ってる」
サトちゃんは答えない。
「よりを戻す?」
サトちゃんは答えない。
シャッ……シャッ……。
静かな部屋に、サトちゃんが原稿にペンを走らせる音だけが響く。
その間が息苦しく、私を急かすように心臓の音がドクドク鳴った。
二度と見たくない映像が頭の中で何度も蘇って、突如、私の中で何かが切れた。
「や……いやだっ!」
私はサトちゃんに抱きついていた。
机がガタッと音を立て、振動を受けた墨汁が瓶から飛び出す一歩手前でたじろぎ、ゆらゆらと波紋を作った。
「おまえ、原稿が汚れる」
サトちゃんは原稿を机から高く掲げて、胸に腕を回す私を呆れた顔で見下ろした。
サトちゃんは、原稿をものすごく大切にしている。
墨汁を垂らそうものならすごい剣幕で怒る。
いつもなら「バカピヨ!」という怒声と共に飛んでくる手が、今日は飛んでこない。
サトちゃんが落ち込んだ私を気遣ってくれていると、なんとなくわかる。
だから私はおずおずとサトちゃんから手を離した。
「なぁ」
仕事はできないと判断したのか。
サトちゃんは墨汁の蓋を閉めて、ペン先を水につけた。
「クラスにも男子はいんだろ」
クラスに男子はいる。
だから何だというの。
「サトちゃんは、サトちゃんだから好きなんだよ。誰でもいい訳じゃない。わかってるでしょ? わかってないわけないでしょ? 私がサトちゃんのことすごく好きなこと」
愛してるよ、好きだよ、何度も何度も繰り返した。
ふざけながらも口にしてきた。
真っ当にぶつかったって、振られることを知っているから。
本当にぶつかって砕けて、お互いの関係がぎくしゃくするのは嫌だった。
仕事にも影響する。
サトちゃんもそれを望んでいない。
だから今までしなかっただけで。
だけどわかっているだろうと思っていた。
それなのに。
他をあたれとは心外だった。
サトちゃんが原稿を片付けたのを確認して、私はもう一度サトちゃんに抱きつく。
サトちゃんは私を引き剥がすために、私の両肩に手をかけた。
「サトちゃん、一度でいい……一度でいいから! 私を女の子として見てよ!!」
私の泣き叫ぶような悲痛な声に、肩を掴むサトちゃんの力が弱まった。
私はサトちゃんの首の後ろへ、ゆっくりと両手をまわす。
緊張してどうにかなりそうだった。
唇が、手が、震えいてるのが自分でもわかって、恥ずかしくて死んでしまいそうだった。
こんなドラマの真似事みたいなことをして、自分よりずっと年上のサトちゃんに馬鹿にされないか、ぎこちなくて笑われないか心配だった。
でも、笑われたほうがマシだったかもしれない。
突き放されるような行動はなかった。
暴言も吐かれなかった。
それでも私は凍りついた。
キスをしようと顔を近づけたサトちゃんの顔は、困惑を超えて憂いさえ感じさせた。
瞳に決して私を映そうとしない、それは、拒絶の表情だった。
私、と。
そういう関係になるのはそんなに嫌?
そんなに変なこと?
悲しいことなの?
サトちゃん。
その距離が限界だった。
私は自分がどれくらい本気なのかを行動で示そうと思ってやめた。
できなかった。
サトちゃんとの間にある、壁の高さに愕然とした。
勝ち目、なんて。
元から無かったんだ。
生まれた時から、サトちゃんの恋人になれる選択肢なんて存在していなかった。
それはどんなに努力しても一生叶わないのだ。
いや、そんなことはずっと昔からわかっていた。
私はスッとサトちゃんから離れた。
溜まっていた涙は、なんとかこぼれる直前に飲み込んだ。
「ごめんね」
私は小さく謝る。
見返りなんて求めないのではなかったのか。
私はただ技術者として、サトちゃんに必要とされればそれで幸せな筈ではなかったか。
そんな当初の自分の目標を見失うほど、一河さんの存在は大きかったのか。
情けない。
「みゃはは」
とりあえず、おどけて笑ってみることにする。
サトちゃんの表情が少しだけ動いて、私は心底安心した。
「びっくりした? サトちゃんっ。大大大好きだよーって、へへ。知ってるよねー? ごめんね。お仕事中断しちゃった。4話の〆切りも近いんだよね! 頑張ろう!」
そして、私の手がけていた原稿をサトちゃんの元から返してもらった。
サトちゃんもそれ以上何も言わず、再び原稿に向かい始める。
私がふざけて告白すれば、サトちゃんは怒ったような、少しだけ照れたような声で私を牽制する。
それが嬉しくて堪らなかった。
けれど、もう軽々しくサトちゃんのことを好きだと言うのはやめよう。
でないと傍にいさせてもらえなくなる。
心でつぶやく。
これが最後。
サトちゃんが誰を好きでも、この気持ちを殺す日がきても。
俯く瞳の近くて揺れる黒髪を、愛しいと思った。
今目の前にサトちゃんの存在を感じる、この瞬間だけは私のものだ。
私はきっと一生サトちゃんが好きだよ。
誰よりも大好きだよ。
力尽き、元の姿に戻ったフェイは、クルークとハルカに短く礼を言うと命を落とす。
羽も体もボロボロに傷つき永い眠りについたフェイに、私はトーンで影を貼り、柔らかさを表現するためにカッターで削っていく。
せめてフェイには、最後は穏やかな表情でいて欲しいと願った。
あんな台詞をわざわざ挑発して言わせてしまうなんて……。
私って、なんて馬鹿なの。
あの時、あんなこと言わなければ、そもそも出かけたりしなければ……。
たら、れば、を延々と繰り返し、考えれば考えるほど気持ちは沈んだ。
サトちゃんは、どう思った?
嬉しかった?
そりゃ……。
嬉しかったに決まっているよね。
サトちゃんの気持ちが気になって仕方なかった。
私たちは黙々と原稿を進める。
手は動かしているものの、私の心はここにあらずで。
「ピヨ、ベタはみだしてんぞ」
サトちゃんの声でようやく我にかえった。
「あ、ご……ごめん……」
サトちゃんの方を見る。
サトちゃんは特に気にしたそぶりもなく、原稿にペンを走らせていた。
昨日の出来事なんて何もなかったかのように。
本当に何もなかったのなら良かったのに。
今の私には、原稿の上のハルカを見ることすら辛い。
ましてやクルークを支えるハルカの姿なんて拷問だ。
二人の世界で、ずっとこうして漫画を描いていければそれで幸せだったのに。
いつかサトちゃんが自分ではない誰かと付きあう可能性はあった。
でもそれはまだ先のことだと考えないようにしていた。
それが急に現実味を帯びてきて、一番望まない結末を迎えようとしている。
一河さんに対するトラウマ的な胸の痛みは、呪いのように私を苦しめた。
サトちゃんはまた付き合うのだろうか。
一河さんと。
「サトちゃん」
「あ?」
「由梨おねえちゃんのこと今でも好き?」
思いきって聞いてみる。
「関係ねーだろ、お前には」
答えはそれだけ。
あっさりとしたものだった。
サトちゃんは表情ひとつ変えなかった。
私はサトちゃんから情報を何ひとつ読み取れず困惑した。
「関係あるよ、私はサトちゃんが好きだから」
ダメ押しをしてみる。
この数秒後に傷つくことを知りながら。
「俺は、お前を恋愛対象として見ていない」
胸が潰れても、それでも訊かずにはいられない。
「知ってる。由梨おねえちゃんのことを、すごく好きだったのも知ってる」
サトちゃんは答えない。
「よりを戻す?」
サトちゃんは答えない。
シャッ……シャッ……。
静かな部屋に、サトちゃんが原稿にペンを走らせる音だけが響く。
その間が息苦しく、私を急かすように心臓の音がドクドク鳴った。
二度と見たくない映像が頭の中で何度も蘇って、突如、私の中で何かが切れた。
「や……いやだっ!」
私はサトちゃんに抱きついていた。
机がガタッと音を立て、振動を受けた墨汁が瓶から飛び出す一歩手前でたじろぎ、ゆらゆらと波紋を作った。
「おまえ、原稿が汚れる」
サトちゃんは原稿を机から高く掲げて、胸に腕を回す私を呆れた顔で見下ろした。
サトちゃんは、原稿をものすごく大切にしている。
墨汁を垂らそうものならすごい剣幕で怒る。
いつもなら「バカピヨ!」という怒声と共に飛んでくる手が、今日は飛んでこない。
サトちゃんが落ち込んだ私を気遣ってくれていると、なんとなくわかる。
だから私はおずおずとサトちゃんから手を離した。
「なぁ」
仕事はできないと判断したのか。
サトちゃんは墨汁の蓋を閉めて、ペン先を水につけた。
「クラスにも男子はいんだろ」
クラスに男子はいる。
だから何だというの。
「サトちゃんは、サトちゃんだから好きなんだよ。誰でもいい訳じゃない。わかってるでしょ? わかってないわけないでしょ? 私がサトちゃんのことすごく好きなこと」
愛してるよ、好きだよ、何度も何度も繰り返した。
ふざけながらも口にしてきた。
真っ当にぶつかったって、振られることを知っているから。
本当にぶつかって砕けて、お互いの関係がぎくしゃくするのは嫌だった。
仕事にも影響する。
サトちゃんもそれを望んでいない。
だから今までしなかっただけで。
だけどわかっているだろうと思っていた。
それなのに。
他をあたれとは心外だった。
サトちゃんが原稿を片付けたのを確認して、私はもう一度サトちゃんに抱きつく。
サトちゃんは私を引き剥がすために、私の両肩に手をかけた。
「サトちゃん、一度でいい……一度でいいから! 私を女の子として見てよ!!」
私の泣き叫ぶような悲痛な声に、肩を掴むサトちゃんの力が弱まった。
私はサトちゃんの首の後ろへ、ゆっくりと両手をまわす。
緊張してどうにかなりそうだった。
唇が、手が、震えいてるのが自分でもわかって、恥ずかしくて死んでしまいそうだった。
こんなドラマの真似事みたいなことをして、自分よりずっと年上のサトちゃんに馬鹿にされないか、ぎこちなくて笑われないか心配だった。
でも、笑われたほうがマシだったかもしれない。
突き放されるような行動はなかった。
暴言も吐かれなかった。
それでも私は凍りついた。
キスをしようと顔を近づけたサトちゃんの顔は、困惑を超えて憂いさえ感じさせた。
瞳に決して私を映そうとしない、それは、拒絶の表情だった。
私、と。
そういう関係になるのはそんなに嫌?
そんなに変なこと?
悲しいことなの?
サトちゃん。
その距離が限界だった。
私は自分がどれくらい本気なのかを行動で示そうと思ってやめた。
できなかった。
サトちゃんとの間にある、壁の高さに愕然とした。
勝ち目、なんて。
元から無かったんだ。
生まれた時から、サトちゃんの恋人になれる選択肢なんて存在していなかった。
それはどんなに努力しても一生叶わないのだ。
いや、そんなことはずっと昔からわかっていた。
私はスッとサトちゃんから離れた。
溜まっていた涙は、なんとかこぼれる直前に飲み込んだ。
「ごめんね」
私は小さく謝る。
見返りなんて求めないのではなかったのか。
私はただ技術者として、サトちゃんに必要とされればそれで幸せな筈ではなかったか。
そんな当初の自分の目標を見失うほど、一河さんの存在は大きかったのか。
情けない。
「みゃはは」
とりあえず、おどけて笑ってみることにする。
サトちゃんの表情が少しだけ動いて、私は心底安心した。
「びっくりした? サトちゃんっ。大大大好きだよーって、へへ。知ってるよねー? ごめんね。お仕事中断しちゃった。4話の〆切りも近いんだよね! 頑張ろう!」
そして、私の手がけていた原稿をサトちゃんの元から返してもらった。
サトちゃんもそれ以上何も言わず、再び原稿に向かい始める。
私がふざけて告白すれば、サトちゃんは怒ったような、少しだけ照れたような声で私を牽制する。
それが嬉しくて堪らなかった。
けれど、もう軽々しくサトちゃんのことを好きだと言うのはやめよう。
でないと傍にいさせてもらえなくなる。
心でつぶやく。
これが最後。
サトちゃんが誰を好きでも、この気持ちを殺す日がきても。
俯く瞳の近くて揺れる黒髪を、愛しいと思った。
今目の前にサトちゃんの存在を感じる、この瞬間だけは私のものだ。
私はきっと一生サトちゃんが好きだよ。
誰よりも大好きだよ。
力尽き、元の姿に戻ったフェイは、クルークとハルカに短く礼を言うと命を落とす。
羽も体もボロボロに傷つき永い眠りについたフェイに、私はトーンで影を貼り、柔らかさを表現するためにカッターで削っていく。
せめてフェイには、最後は穏やかな表情でいて欲しいと願った。
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