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3章 恋の証明
32 雅の独白 新しい場所で・2
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「おはようございます」
俺に次いで出社してくる人もいつも決まっている。
隣の席についた女性に俺も「おはよ」と声を返した。
肩で揃えられた艶やかな黒髪は、まったく癖がなくて耳にかけてもパラパラと頬に落ちてくる。
それを少し鬱陶しそうにかけなおして「毎朝早いですね。雅さんより先に来たことないんですけど、いつも何時に出勤されているんです?」と彼女は訊いた。
「そんなに早くないよ。ちょっと早いくらい……7時半くらいかなぁ……」
「朝起きるのが苦手でしたのにね。よく続きますね」
「苦手でしたのにね……って、いつの話してるの?」
「中学生の頃でしたかね、ほら、いつも遅刻ぎりぎりで……」
「……中学……ね……」
赤いフレームの眼鏡が印象的で、一見すると知的な美人なのになぁ、と残念な気持ちにならないこともない。
この人は、長年親父の秘書を務めてきて、今は俺の教育係兼業務サポートをしてくれている本郷妃さん。
年は親父と近い筈なのに、昔っからずっと見た目が変わらない恐い……いや、綺麗な人。
両親とは幼なじみで、特に母とは仲が良かったから、昔からしょっちゅう家に出入りしていて我が家のプライベートに精通している。
親父の数少ない心から信頼している人であり、相談相手でもある。
そんな人なもんだから、俺のことをどこまで詳しく知っているのか俺自身が計り知れなかったりする。
だから……かなりやりづらい。
今の会話みたいに公私混同されると、どう対応したものかと頭をひねってしまう。
「親父には無謀なことばっか言われるからね。少しでも早く出社して仕事しないとノルマこなせないよ」
「社長はあれで雅さんが可愛くて仕方ないんですよ。雅さんは亡くなられた奥様にそっくりですから。つい、いじめ可愛がりたくもなるんでしょう」
確かに、身長も容姿も父方の要素は何ひとつ受け継がなかったけどさ。
小動物系という言葉がぴったりの母さんはいじられキャラだったと思うし、親父の愛情表現は歪んでいたのかもしれないけど……。
俺への態度が母さんへの愛情の模倣なのだとしたら、母さん可哀想過ぎだろ……。
「本郷さんもその口で、俺をいじめ可愛がってるの?」
この人も相当、母さんを好いて(?)親父と一緒になっては、母さんをからかい可愛がっていた気がする。
本気とも冗談ともとれない笑顔で俺が問えば、本郷さんは両手を胸の前で振りながら「まぁ! とんでもない。そんな滅相もない」とオーバーリアクションで否定してきた。
よっく言うよ……。
親父の考えとしては、俺が親父の跡を継ぐ時に、本郷さんを俺の秘書にする気らしいから、この人とはこれからも長い付き合いになるんだろう。
正直、本郷さんの上司になんてなれる気がしないけど。
もっと上手くあしらえるようにならないとなぁ……。
俺が苦手意識を持っていることを、当の本人は知ってか知らでか。
本郷さんはいつも通りのマイペースで、鞄からA4封筒を取り出すと仕事の姿勢に切り替えた。
「ムック本の原稿、たたき台ができましたよ」
「え? 本当? 見たい。見たい」
リリーバリーのムック本を出版することになった。
1年間隔月で出版し、価格はワンコイン。
本の売上による利益は期待していない。
知名度を上げることが一番の目的だ。
パラパラと原稿をめくれば、記念すべき1号目は、リリーバリーの沿革と、ばーちゃんの生涯を特集するページから始まっていた。
毎号、香りの技術を使って作った商品を紹介し、通販もできるようになっている。
併せて商品を作った企業も大々的に広告して、広告代として本を作る費用を一部負担してもらっている。
そうすれば本の価格は安く抑えられるという算段だ。
付録にするのは小さな額に入った季節の花の絵、もちろん香り付き。
さっそく本郷さんから付録のサンプルを手渡された。
木製の額の中に小さく収まる、一輪挿しの桜の花――写実的だけど本物よりも淡く柔らかな色合いで描かれていて、場所を選ばずに飾れそうだし、香りも上品で、絵の前を横切った時に香りに気づくかどうかという程度。
本物の花とほとんど変わらない。
「うん。いいんじゃない」
本も、付録も。
既存のファンから、付録に惹かれて手にとってくれた人まで、誰が見ても面白い内容に仕上がると思う。
「できあがるの楽しみだね」
今はもう当たり前のように紙に香りを定着させた商品を作っているけれど、このアイディアは一年前、うちの入社試験を受けた学生の意見が元になっていると聞いた。
ムック本計画のそもそもの発端もそう。
リリーバリーの大衆への認知度が低いことを指摘されて動き出した。
親父がひとりの意見を、ここまで熱心に汲もうとしたのは正直意外だった。
よっぽど印象に残った学生だったのかな……どんな子、だったんだろ?
もしも、うちに入社していたら同期になっていた筈だけど、結局、うちに入社することは無かったようだから、どんな子だったのかはわからない。
でも入社してくれていたら、一緒に働けたら面白かったんだろうな、と思う。
俺に次いで出社してくる人もいつも決まっている。
隣の席についた女性に俺も「おはよ」と声を返した。
肩で揃えられた艶やかな黒髪は、まったく癖がなくて耳にかけてもパラパラと頬に落ちてくる。
それを少し鬱陶しそうにかけなおして「毎朝早いですね。雅さんより先に来たことないんですけど、いつも何時に出勤されているんです?」と彼女は訊いた。
「そんなに早くないよ。ちょっと早いくらい……7時半くらいかなぁ……」
「朝起きるのが苦手でしたのにね。よく続きますね」
「苦手でしたのにね……って、いつの話してるの?」
「中学生の頃でしたかね、ほら、いつも遅刻ぎりぎりで……」
「……中学……ね……」
赤いフレームの眼鏡が印象的で、一見すると知的な美人なのになぁ、と残念な気持ちにならないこともない。
この人は、長年親父の秘書を務めてきて、今は俺の教育係兼業務サポートをしてくれている本郷妃さん。
年は親父と近い筈なのに、昔っからずっと見た目が変わらない恐い……いや、綺麗な人。
両親とは幼なじみで、特に母とは仲が良かったから、昔からしょっちゅう家に出入りしていて我が家のプライベートに精通している。
親父の数少ない心から信頼している人であり、相談相手でもある。
そんな人なもんだから、俺のことをどこまで詳しく知っているのか俺自身が計り知れなかったりする。
だから……かなりやりづらい。
今の会話みたいに公私混同されると、どう対応したものかと頭をひねってしまう。
「親父には無謀なことばっか言われるからね。少しでも早く出社して仕事しないとノルマこなせないよ」
「社長はあれで雅さんが可愛くて仕方ないんですよ。雅さんは亡くなられた奥様にそっくりですから。つい、いじめ可愛がりたくもなるんでしょう」
確かに、身長も容姿も父方の要素は何ひとつ受け継がなかったけどさ。
小動物系という言葉がぴったりの母さんはいじられキャラだったと思うし、親父の愛情表現は歪んでいたのかもしれないけど……。
俺への態度が母さんへの愛情の模倣なのだとしたら、母さん可哀想過ぎだろ……。
「本郷さんもその口で、俺をいじめ可愛がってるの?」
この人も相当、母さんを好いて(?)親父と一緒になっては、母さんをからかい可愛がっていた気がする。
本気とも冗談ともとれない笑顔で俺が問えば、本郷さんは両手を胸の前で振りながら「まぁ! とんでもない。そんな滅相もない」とオーバーリアクションで否定してきた。
よっく言うよ……。
親父の考えとしては、俺が親父の跡を継ぐ時に、本郷さんを俺の秘書にする気らしいから、この人とはこれからも長い付き合いになるんだろう。
正直、本郷さんの上司になんてなれる気がしないけど。
もっと上手くあしらえるようにならないとなぁ……。
俺が苦手意識を持っていることを、当の本人は知ってか知らでか。
本郷さんはいつも通りのマイペースで、鞄からA4封筒を取り出すと仕事の姿勢に切り替えた。
「ムック本の原稿、たたき台ができましたよ」
「え? 本当? 見たい。見たい」
リリーバリーのムック本を出版することになった。
1年間隔月で出版し、価格はワンコイン。
本の売上による利益は期待していない。
知名度を上げることが一番の目的だ。
パラパラと原稿をめくれば、記念すべき1号目は、リリーバリーの沿革と、ばーちゃんの生涯を特集するページから始まっていた。
毎号、香りの技術を使って作った商品を紹介し、通販もできるようになっている。
併せて商品を作った企業も大々的に広告して、広告代として本を作る費用を一部負担してもらっている。
そうすれば本の価格は安く抑えられるという算段だ。
付録にするのは小さな額に入った季節の花の絵、もちろん香り付き。
さっそく本郷さんから付録のサンプルを手渡された。
木製の額の中に小さく収まる、一輪挿しの桜の花――写実的だけど本物よりも淡く柔らかな色合いで描かれていて、場所を選ばずに飾れそうだし、香りも上品で、絵の前を横切った時に香りに気づくかどうかという程度。
本物の花とほとんど変わらない。
「うん。いいんじゃない」
本も、付録も。
既存のファンから、付録に惹かれて手にとってくれた人まで、誰が見ても面白い内容に仕上がると思う。
「できあがるの楽しみだね」
今はもう当たり前のように紙に香りを定着させた商品を作っているけれど、このアイディアは一年前、うちの入社試験を受けた学生の意見が元になっていると聞いた。
ムック本計画のそもそもの発端もそう。
リリーバリーの大衆への認知度が低いことを指摘されて動き出した。
親父がひとりの意見を、ここまで熱心に汲もうとしたのは正直意外だった。
よっぽど印象に残った学生だったのかな……どんな子、だったんだろ?
もしも、うちに入社していたら同期になっていた筈だけど、結局、うちに入社することは無かったようだから、どんな子だったのかはわからない。
でも入社してくれていたら、一緒に働けたら面白かったんだろうな、と思う。
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