恋人以上、恋愛未満

右左山桃

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3章 恋の証明

26 気持ちを強く

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地下鉄を降りて、暫く構内のコーヒーショップで時間を調整してから、リリーバリーの本社までの道のりを歩く。
パン屋さんを正面に右折して、バーガーショップのあるスクランブル交差点を渡ったら、コンビニを横切る。
緩やかな坂道を上りながらふたつ目の交差点をまた右に曲がった。
試験を重ねて、3度目にもなれば地図は完璧に頭に入っていて、私の足は迷わずにリリーバリーを目指した。

真新しい紺のスーツ。
私の背中を後押しするような晴天に、白いブラウスが眩しく輝く。
雑音は耳に入ってこなくて、カツカツと一定のリズムを刻むヒールの音だけが頭に響く。
余計なことは考えず無心で歩いてきたけれど、高層ビルが立ち並ぶオフィス街に入った途端、私の歩調は乱れ始めた。
集中できている、大丈夫だと思っていたのに。
目的地を目の前にしたら平静を保てなくなって、心臓が緊張で痛いくらいに締め付けられた。
駅からそう遠くないリリーバリーの本社は、15階建てのビルの5階から8階に入っている。
入り口の案内板にすずらんのロゴがあることを確認してから空を仰ぎ見た。
反射ガラスで覆われたビルからは中の様子は分からない。
青い空を延々と映し出しているだけだ。

腕時計を確認すれば、ちょうど時間は受付の15分前。
躊躇なんてしている時間も余裕も無い。
緊張なんて時間つぶしのコーヒーショップでこれでもかってくらい散々して、置いてきた筈なのに。
孝幸さんが、雅が、今この建物にいるのかもしれないと思うと、会いたい気持ちと同時に足が震えて動かなくなる。

ビルに吸い込まれていく人の波に、思わず雅の姿を探してしまう。
今の自分を見たらどう思うだろうか、今さら、何を馬鹿なことをしているんだろう、と呆れるだろうか。
慌しく通り過ぎていく社会人の足音に気圧されて、自分が場違いな所に来ている気分になって目線を下に落とした。

昔の私が耳元で囁く。

今なら引き返せるよ。
このまま大人しくしていれば、自分を否定されることも、傷つくこともない。
ぬるま湯に漬かりながら、また、ただなんとなく生きていける。

止まることは、考えるのを辞めることは、簡単だ。
今までのことを全部吹っ切って、ゼロから違う誰かと恋を始めることもきっと悪いことじゃない。

それでも、と静かに目を閉じて想う。
私の暴言を受け止めて、何度傷つけられても、見捨てないでくれた雅のこと。

馬鹿な私を本気で心配してくれた。
いつも当たり前のように迎えに来てくれた。
泣いて、叱って、抱きしめて。
私の帰る場所を作ってくれた。
雅がいなかったら、愛情なんて理解できなかった。
最悪死んでいたかもしれないし、生きていても、どこかをフワフワ漂うように生きて、恋なんて始められなかった。

ねぇ、雅。
ほんの短いふたりで過ごした時間は、せっかくの恋人関係だったのに、私のせいでずっと恋愛未満だったね。
やっと自覚した初恋。
他人にとっては長い人生の中の通過点のひとつに過ぎないのかもしれないけど、私にとっては一度死んで生き返るぐらいのできごとだったよ。
それに比べたら、これから私が誰に何を言われて、どう傷ついたとしても、そんなの些細なことだよね。

私は今まで、ただなんとなく生きてきた。
人に迷惑をかけないための努力しかしてこなかった。

初めてなんだ。
幸せになりたくてする努力は。
母以外の人間に認められたいと思う気持ちは。
目的が見つかったことが嬉しい。

好きでいたい。

雅本人に、馬鹿だなぁって笑われたって構わない。本望だよ。
雅が私にしてくれたこと、全部が無駄じゃなかったんだよって伝えたい。
桐羽さんの教えは、私を、いつかの未来の雅を、幸せにするものだと信じたい。
もう、雅を寒空の下でひとり待たせて、部屋の中から一歩も動けなかった私は終わりにするから。

これから先も、恋をするならあなたがいい。

気持ちを強く持ち直して顔を上げた。
足の震えは収まって、心は凪いで視線は前だけに集中していた。
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