98 / 135
3章 恋の証明
18 母からの提案
しおりを挟む
「美亜。ちょっとこっちに来なさい」
家に帰ると、母が先に帰ってきていて、自分の部屋に行こうとする私を呼び止めた。
そんなことは、私がこの家に戻ってから一度も無かったから、緊張が体中を走った。
声の抑揚から察するに、怒っている訳でも、悲しんでいる訳でもなさそうだ。
「どうしたの?」
母の後に続いて居間に向かう。
廊下を進む途中で台所に目を向けると、夕飯の準備はできているようだった。
もしかして一緒に食べるのかな……と思ったりもしたけれど「座りなさい」と促され、母が腰を下ろすのを見て淡い期待は儚く消えた。
母と斜め向かい合うように椅子に座り、テーブルの上に何となく目を配って、私は小さく「あ」と声を上げた。
ロースクールの進学案内のパンフレットがそこにはあって、無防備にも自分の机の上に出しっぱなしだったことを思い出す。
「進学したいの?」
相変わらず私を見ず、パンフレットの文字だけを捉えながら母は言った。
「え……。いや、別に。もう、諦めたっていうか……」
「行きたかったの?」
「……えっと……」
「行きたくなかったら、進学説明会なんて行かないでしょ!?」
テーブルの上をバシン! と叩かれ、少しずつ語尾が強くなっていく母に体が強張る。
ヒステリックな母に萎縮して、何も言えなくなるのがいつものお決まりのパターンだった。
恐怖で体がすくんでいくけど、頭だけは母のペースに巻き込まれないよう必死にクールダウンさせる。
あんなパンフレット、女々しく取っておかないで、さっさと捨てれば良かった。
出来もしない進学を夢見たことが、母には気に食わなかったんだろう……。
ひょっとしたらあてつけだと思われたのかもしれない。
どうしてパンフレットが見つかって、母が気に病むことまで頭が回らなかったんだろう。
後悔してもしきれない、ぐるぐる色々考えては俯いていく私に、母の声が少し和らいだ。
「どうして相談しないの?」
「ごめんなさい、本当に興味本位で……」
「私は、そんなに頼りないの? 母親失格なの?」
「……進学しても、その先が見えていないことに気づいたから……」
食い違う会話をしていることに気がついて、私は顔を上げた。
母は俯き、悔しそうな顔で唇を噛んでいる。
「お金が無いから?」
「お金は……かかると思うけど……。違うよ。本当に進学したい子はね、自分で借金をして学校を出るんだよ」
パンフレットから奨学金のページを捲って見せる。
だから、それはおかあさんの気にすべき所ではないんだよ……?
そう言おうとして、口を噤んだ。
『母親としての義務は果たす』
なんとなく、その言葉が頭をよぎった。
母はきっと、私が飛び込もうとした世界がどんな所か知らない。
衣食住、そして、学ぶことにだけは不自由をさせないようにする。
この人が私を育てる信念は、多分それだけだった。
ずっと私は、子供のままで……。
今もきっと、この人にとっては子供のままで。
きっと、わからないのだ。
どうやってその関係に終止符を打ったら良いのか。
もう私も良い年なのに、私が望むなら進学させて然るべき、それが親の務めなのだから……とでも思っているのかもしれない。
生真面目な母にどう説明しようかと考えていると、突拍子も無いことを言い出した。
「和馬さんに……お願いしてみたら……?」
空耳かと思った。
母の口から父の名前を聞いたことなんて、記憶している限り殆ど無い。
私自身も父の話はしないようにしていたし、まさかこんな場面で話題を出してくるなんて思いもしない。
「あの人なら、力になってくれるかもしれないでしょ?」
「え……で、でも……」
「美亜のことは……美亜のことだけは……。ずっと気にかけて、可愛がっていたから……」
私に父の記憶は殆ど無いから、ずっと気にかけて可愛がっていたと言われても正直実感がわかない。
私にとっての父のイメージは曖昧で、想像しようとしても顔は私に似ていること位しかわからない。
浮気して母を苦しませて壊した人。
私と母を捨てた人。
……どうしたって良いイメージが持てない。
なんて言ったらいいのかわからず俯いていると、母は通帳を持ってきて私に見せた。
「これが別れてからずっと振り込まれていた美亜の養育費。一度も途切れたことが無かった。これが、私と和馬さんを繋ぐ唯一の絆だから……」
途切れずにずっと続いている数字の羅列を見る。
年季の入った通帳を大切そうに持っている母は、昔の自分そのもので思わず言葉を失った。
そして引き出しの奥からファイルを出すと、電話の脇のメモ帳を切って何かを転記し始めた。
「これが、あの人の連絡先。私は一度もかけたことがないけど」
そう言って渡されたのは携帯の番号だった。
父の話をする時の母はいつも悲しそうだったのに、今日は少しだけ興奮して……どこか嬉しそうにさえ思える。
奇妙な感覚。
もしかしたら私を通じて、父との関係が続いていくことを母は望んでいるのだろうか。
そうだとしたら……なんて……不毛で……。
どこまでも愚かで悲しい母に下唇を噛む。
「会ってきなさい、父親に」
渡された紙切れを握り締める。
10年以上会っていなかった父親に「進学したいから、お金をちょうだい」と言うのか?
大学まで出してもらって、とっくに成人した娘が?
正直、言える訳が無い。
だけど……。
驚くほど冷静な頭で思い直し、握り締めた紙を広げる。
会ってみても、いいのかもしれない。
家に帰ると、母が先に帰ってきていて、自分の部屋に行こうとする私を呼び止めた。
そんなことは、私がこの家に戻ってから一度も無かったから、緊張が体中を走った。
声の抑揚から察するに、怒っている訳でも、悲しんでいる訳でもなさそうだ。
「どうしたの?」
母の後に続いて居間に向かう。
廊下を進む途中で台所に目を向けると、夕飯の準備はできているようだった。
もしかして一緒に食べるのかな……と思ったりもしたけれど「座りなさい」と促され、母が腰を下ろすのを見て淡い期待は儚く消えた。
母と斜め向かい合うように椅子に座り、テーブルの上に何となく目を配って、私は小さく「あ」と声を上げた。
ロースクールの進学案内のパンフレットがそこにはあって、無防備にも自分の机の上に出しっぱなしだったことを思い出す。
「進学したいの?」
相変わらず私を見ず、パンフレットの文字だけを捉えながら母は言った。
「え……。いや、別に。もう、諦めたっていうか……」
「行きたかったの?」
「……えっと……」
「行きたくなかったら、進学説明会なんて行かないでしょ!?」
テーブルの上をバシン! と叩かれ、少しずつ語尾が強くなっていく母に体が強張る。
ヒステリックな母に萎縮して、何も言えなくなるのがいつものお決まりのパターンだった。
恐怖で体がすくんでいくけど、頭だけは母のペースに巻き込まれないよう必死にクールダウンさせる。
あんなパンフレット、女々しく取っておかないで、さっさと捨てれば良かった。
出来もしない進学を夢見たことが、母には気に食わなかったんだろう……。
ひょっとしたらあてつけだと思われたのかもしれない。
どうしてパンフレットが見つかって、母が気に病むことまで頭が回らなかったんだろう。
後悔してもしきれない、ぐるぐる色々考えては俯いていく私に、母の声が少し和らいだ。
「どうして相談しないの?」
「ごめんなさい、本当に興味本位で……」
「私は、そんなに頼りないの? 母親失格なの?」
「……進学しても、その先が見えていないことに気づいたから……」
食い違う会話をしていることに気がついて、私は顔を上げた。
母は俯き、悔しそうな顔で唇を噛んでいる。
「お金が無いから?」
「お金は……かかると思うけど……。違うよ。本当に進学したい子はね、自分で借金をして学校を出るんだよ」
パンフレットから奨学金のページを捲って見せる。
だから、それはおかあさんの気にすべき所ではないんだよ……?
そう言おうとして、口を噤んだ。
『母親としての義務は果たす』
なんとなく、その言葉が頭をよぎった。
母はきっと、私が飛び込もうとした世界がどんな所か知らない。
衣食住、そして、学ぶことにだけは不自由をさせないようにする。
この人が私を育てる信念は、多分それだけだった。
ずっと私は、子供のままで……。
今もきっと、この人にとっては子供のままで。
きっと、わからないのだ。
どうやってその関係に終止符を打ったら良いのか。
もう私も良い年なのに、私が望むなら進学させて然るべき、それが親の務めなのだから……とでも思っているのかもしれない。
生真面目な母にどう説明しようかと考えていると、突拍子も無いことを言い出した。
「和馬さんに……お願いしてみたら……?」
空耳かと思った。
母の口から父の名前を聞いたことなんて、記憶している限り殆ど無い。
私自身も父の話はしないようにしていたし、まさかこんな場面で話題を出してくるなんて思いもしない。
「あの人なら、力になってくれるかもしれないでしょ?」
「え……で、でも……」
「美亜のことは……美亜のことだけは……。ずっと気にかけて、可愛がっていたから……」
私に父の記憶は殆ど無いから、ずっと気にかけて可愛がっていたと言われても正直実感がわかない。
私にとっての父のイメージは曖昧で、想像しようとしても顔は私に似ていること位しかわからない。
浮気して母を苦しませて壊した人。
私と母を捨てた人。
……どうしたって良いイメージが持てない。
なんて言ったらいいのかわからず俯いていると、母は通帳を持ってきて私に見せた。
「これが別れてからずっと振り込まれていた美亜の養育費。一度も途切れたことが無かった。これが、私と和馬さんを繋ぐ唯一の絆だから……」
途切れずにずっと続いている数字の羅列を見る。
年季の入った通帳を大切そうに持っている母は、昔の自分そのもので思わず言葉を失った。
そして引き出しの奥からファイルを出すと、電話の脇のメモ帳を切って何かを転記し始めた。
「これが、あの人の連絡先。私は一度もかけたことがないけど」
そう言って渡されたのは携帯の番号だった。
父の話をする時の母はいつも悲しそうだったのに、今日は少しだけ興奮して……どこか嬉しそうにさえ思える。
奇妙な感覚。
もしかしたら私を通じて、父との関係が続いていくことを母は望んでいるのだろうか。
そうだとしたら……なんて……不毛で……。
どこまでも愚かで悲しい母に下唇を噛む。
「会ってきなさい、父親に」
渡された紙切れを握り締める。
10年以上会っていなかった父親に「進学したいから、お金をちょうだい」と言うのか?
大学まで出してもらって、とっくに成人した娘が?
正直、言える訳が無い。
だけど……。
驚くほど冷静な頭で思い直し、握り締めた紙を広げる。
会ってみても、いいのかもしれない。
0
お気に入りに追加
53
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
敏腕ドクターは孤独な事務員を溺愛で包み込む
華藤りえ
恋愛
塚森病院の事務員をする朱理は、心ない噂で心に傷を負って以来、メガネとマスクで顔を隠し、人目を避けるようにして一人、カルテ庫で書類整理をして過ごしていた。
ところがそんなある日、カルテ庫での昼寝を日課としていることから“眠り姫”と名付けた外科医・神野に眼鏡とマスクを奪われ、強引にキスをされてしまう。
それからも神野は頻繁にカルテ庫に来ては朱理とお茶をしたり、仕事のアドバイスをしてくれたりと関わりを深めだす……。
神野に惹かれることで、過去に受けた心の傷を徐々に忘れはじめていた朱理。
だが二人に思いもかけない事件が起きて――。
※大人ドクターと真面目事務員の恋愛です🌟
※R18シーン有
※全話投稿予約済
※2018.07.01 にLUNA文庫様より出版していた「眠りの森のドクターは堅物魔女を恋に堕とす」の改稿版です。
※現在の版権は華藤りえにあります。
💕💕💕神野視点と結婚式を追加してます💕💕💕
※イラスト:名残みちる(https://x.com/___NAGORI)様
デザイン:まお(https://x.com/MAO034626) 様 にお願いいたしました🌟
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
好きな人の好きな人
ぽぽ
恋愛
"私には10年以上思い続ける初恋相手がいる。"
初恋相手に対しての執着と愛の重さは日々増していくばかりで、彼の1番近くにいれるの自分が当たり前だった。
恋人関係がなくても、隣にいれるだけで幸せ……。
そう思っていたのに、初恋相手に恋人兼婚約者がいたなんて聞いてません。
甘い束縛
はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。
※小説家なろうサイト様にも載せています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる