恋人以上、恋愛未満

右左山桃

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3章 恋の証明

07 母の殻

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危なっかしい手つきで皮むきを続行しながら、私はずっとひとりで部屋に籠って塞ぎこんでいる母を思った。

帰って来てから、母は一度も私の前で癇癪を起していない。
だけどそれは、極力私と関わりを持たないようにしているからだ。
それでも食事だけは私が家を出る前と変わらずに作ってくれて、大学から帰ると私の夕飯だけが居間に置いてある。
仕事で疲れて大変だろうから、バラバラにとっても、たまには私が作っても構わないのに。
当たり前のルーチンワークのように、仕事に出て、帰ってきてから食事を作る。
私と母の帰宅時間が前後する時も同じ。
ご飯ができたら、部屋にいる私に向かって「食べなさい」と扉越しに声をかけ、私が居間に行く頃には部屋に戻ってしまっている。

そんな人だから、昔から私には母の行動や心理が理解できなかった。
私のことを嫌っているとしか思えない言動をとるのに。律儀で。
衣食住にだけは困らないように一生懸命働いて、ご飯を作ってくれる。
今の私みたいな、宙ぶらりんな状態でも受け入れてくれている……。
ちょっとずれてるような気がするけど、これが母が昔から言っていた『母親としての義務は果たす』ということなのかな。
私のことを見るのが辛い癖に、投げ出すこともできなくて。
こうしてまた一緒に暮らすことになっても、上手い距離の取り方がわからなくて、逃げるように自分の部屋に籠ってしまう。

不器用な、人だな……。
皮がむき終わっていびつな形になったジャガイモを、ひと口大に切っていく。
こうして台所に立って、何度も何度も食事を作れば、私もいつか綺麗にジャガイモを切ることができるようになるだろう。
あなたから直接教わる日はこなくても、できることは増えていく、私は大人になっていくよ。

子供の私は、おかあさんに愛されているか、愛されていないか、それが世界のすべてだった。 
私にとって、おかあさんは絶対で……いつも顔色を伺っては嫌われないかビクビクしていた。
おかあさんに嫌われてしまったら、私はこの世界から消えてしまうような気がして怖かったから。
だけど、そんなことは無いって今ならもうわかる。

私が愛されていようがいまいが構わないから、できることなら解放してあげたい。

変な所で真面目な人だから。
私を愛しているならば、私にとってきた態度やどうしても割り切れない父への想いの狭間で苦しんで。
私を愛していなければ、『母親ならば、娘を愛して然るべき』という枠からはみ出していることにきっとずっと悩んでる。

ひと通り切った野菜と肉を炒めた後、出し汁とお酒を入れて煮詰める。
この家にはもう、はちみつは常備されていなかったから、私はレシピどおりに砂糖大匙2杯を鍋に入れて蓋をした。
その後も淡々と工程をこなし、1時間ほどで肉じゃがは完成した。
味はちゃんと肉じゃがになっていたけれど、じゃがいもは汁に溶けてしまっていて見栄えが悪い。
まぁ、でも、初めて作ったにしちゃ……なかなか、なんじゃないの……?
なんとか適当に言い訳をして気持ちを持ち直してから、母がいつもしてくれたように部屋の前に行って母を呼び出す。


「おかあさーん……、ごはん……できたよー……」


どんどん語尾が弱くなっていく、自信がない自分に下唇を噛んだ。
母が部屋から出てきてくれることを少しだけ期待して、居間で待ってみたけれど、長い時計の針がひとまわりしても母が部屋から出てくることは無かった。
料理が冷たくなった頃、母の分だけ残した鍋を冷蔵庫に入れて、自分の分に箸をつける。

私と一緒に食べるのは、やっぱり無理、か……。

苦笑しながら空いている向かいの席を眺める。
私が小さい頃から母は働いていたから、夕飯はずっとひとりだった。
それでもたまには一緒に食べることもあって、そんな時はすごく緊張した。
すぐに泣いたり怒ったりする母の顔色ばかり伺って、ご飯の味なんて全然わからなかった。
今だって母を前にしたらきっと緊張するだろうし、母と一緒にご飯を食べたいと思っているのかと問われれば、本当の所は自分でも良くわからない。

それでもきっと、一緒に暮らすのはこれが最後になるだろうから……。

ずっと、この家を出て自分の力で生きていくことが私の目標だった。
今もその思いはブレていないけど、私が家を出て自活できるようになったら。
母の言う『母親としての義務』が果たし終わったら。
何をきっかけにして親子の関係を続けていけばいいんだろう。
付き合い方も、距離の保ち方も、親子なのにわからない。
私が考えて良かれと思った行動も、結局全部ひとりよがりでしかない。
ひとりよがり……だとしても……。

雅と一緒に暮らして、雅がいなくなって初めて、私はひとりが寂しいと思った。
父と別れた母が感じた苦しみの何十分の一かもしれないけど、同じ気持ちを共有した気がした。
私がいなくなっても、母がこのままひとりで狭い世界に閉じこもっていたら、きっとずっと寂しい。
母が求めている相手は父だけなのかもしれないけど、ここにいる間に母との関係を少しでも改善したかった。


「……難しい、な」


だけど、そう上手くいかないのが現実みたいだ。
頑なに自分の部屋から出てこない母に、私は静かに溜息をついた。
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