恋人以上、恋愛未満

右左山桃

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2章 あなたと共に過ごす日々

19 美亜の母 有美子の独白・2

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私の両親はいわゆる『できちゃった婚』をすることに抵抗を示し、世間体がどうのとか、一族の恥さらしだとか言って挨拶に来た和馬さんを怒鳴りつけた。

和馬さんはびっくりしたと思う。
彼はそこまで自分の行いに罪悪感を持っていなかったし、ことを重大に考えていなかった。
ただ純粋に子供ができたことを嬉しいと言ってくれたし、私と結婚すると言ってくれた。
こんな揉め事になるなんて、きっと想定外だった筈だ。

両親に責められ続けることで和馬さんに面倒くさい女だと思われることが、彼の結婚の意思が揺らぐことが怖かった。

私は頭の固い両親を恨んで、関係が修復不能になるぐらい徹底的に戦った。
和馬さんを、私達の未来を守りたかった。

この頃から、私は少しずつ壊れ始めた。
自分が優位に立ったと感じられたのはほんの僅かな間だけで、親元を離れ、和馬さんと一緒に暮らしてからは彼の行動ひとつひとつが気になりだした。

女の子がいる飲み会へ参加したり、社内で誰かと笑い合っているだけでも心がささくれた。
彼は女の子にとても人気があって、結婚した後もそれは変わらなかった。
むしろ既婚者になったことで敷居が下がったのか、相手が私だからなのか、女達は昔よりずっと慣れ慣れしく彼の体に触れてくるような気がした。


『なんであんな子を選んだのかしら?』


女達の視線が私を見下している気がして、私は俯いて歩くことが多くなった。
私は不安で仕方が無くて、女の子がいる会合には極力行かせないよう、なんやかんやと理由をつけては和馬さんを拘束した。
和馬さんが女と話していたら割り込んで会話を中断させた。
プライベートから仕事にまで及ぶ私の干渉に、和馬さんは辟易した様子で「君はおかしいよ」と言った。

自覚もあった。
私はおかしいのかもしれないって。
でも、そうせずにはいられなかった。
だって、いつか気付かれてしまう。
和馬さんの周りには、いつだって魅力的な女性がたくさんいたことに。
そしたらきっと魔法が解けて、和馬さんは私から離れて行ってしまう。

お願い。
他の女なんて見ないで。比べないで。
和馬さんが好き。
誰よりも好き。

だけど和馬さんと並んで歩く自分への劣等感が拭いきれない。

こんな筈じゃなかったって後悔してる?
今となっては、和馬さんがどうして私を選んでくれたのかわからない。

今まではみんな、彼を高嶺の花だと遠慮していた。
だけど私になびいたことを知って、私みたいな女でもいいんだって知って。
本気でアプローチしようと考える人もでてくるかもしれない。
私に勝ち目なんて無い。
彼の目を、塞いでしまいたかった。

美亜が生まれてから数年間、和馬さんは優しかった。
私の言うことを極力守るよう努めてくれて、心も私の元に帰ってきてくれたような気がしてた。

でも違う。
私とは家族として、美亜のために上手くやろうと努力してくれていただけだった。

私を抱くことはそれから一度も無かった。
どことなくよそよそしいのはどうしたってわかる。
それでも私も良い家族を作ろうと努力した。
優しい妻で、母でいよう。いつも笑っていようと努力したけど、情緒不安定なのは直らなかった。

心はいつも不安で寂しくて、和馬さんがもう私を愛していないことに気付いていた。

美亜が幼稚園にあがる頃になると、和馬さんが家に帰って来なくなった。
泣いても、責めても、引き留めようとすればするほど、和馬さんの心が離れていく。
和馬さんが遠くへ行ってしまう。
どうしたらいいのか、わからなかった。

ある日、和馬さんが紙切れを1枚私に出して、「ここにサインをして」と言った。

それで、全部。
私の考えていたことは、本当になってしまった。
予想していたことだったのに、耐えられるほど強くは無かった。

離婚に応じた私は愚かだった?
形だけでも、和馬さんを捕まえておけば良かった?
それでも、もう、傷つくことは嫌だった。
和馬さんが帰って来ない夜に、自分以外の誰かと、和馬さんが一緒にいることを考えるのは死ぬほど苦しかった。
今日は帰ってくるんじゃないかと期待するのも、その度に裏切られるのももう嫌で、この苦しみから解放されたかった。
あの時思ったのは、ただそれだけだった。

だけど、私に和馬さんのことを忘れられる訳がなかった。
私にはずっと、美亜がいるのだから。

和馬さんにそっくりの美亜を見てといると、彼の子を宿した喜びと。
それならば、なぜ彼がここにいないのかという困惑と、悲しさと、寂しさで気が狂いそうだった。
美亜が笑うと私がこんな目に遭っているのに、何が嬉しいのか、楽しいのかわからずに苛々した。
そうやって、他の女の元で彼が笑っているんだと思ったら居た堪れなくなった。
あの子に否なんてひとつもないと頭ではわかっている筈なのに、美亜の顔を真正面から見られない。
見れば、憎しみや悲しみ、色々な感情に支配されて冷静ではいられなくなってしまう。

美亜との接し方に苦しみながらも、容赦なく過ぎていく日々に、私は立ち止まってはいられなかった。
私がどんな想いを抱いていても美亜を育てることとは関係ない。
勘当された時に親の前で誓ったのだ「私が最後まで責任を持ってこの子を育てる」と。

とても良い母親だとは言えなかったけど、それから必死で働いた。
私が和馬さんと離婚したことはあっという間に広まって、居づらくなって会社を辞めた。
パソコンが大体使えたから運よく別の会社でパートとして雇ってもらえたけれど、子供を抱えながら働くことは、想像を絶するくらい大変だった。

美亜は体が弱くて手のかかる子供だった。
寂しさもあったのかもしれない。
周りの子供と度々問題を起こしては癇癪を起し、幼児返りをして私の気を引こうとした。
その度に私は問答無用で美亜をひっぱたき、彼女以上の癇癪を起して泣き喚いた。
身寄りのない私は、美亜が体調を崩せば仕事を抜けなければならず、いつだって肩身が狭かった。
非正規雇用の身の上では育児休暇や短縮勤務なんて使えない。
仕事によってはクビになることも多く、職を転々とした。

すごく大変だったのは1年か2年で、それからは――小学校に上がってからの美亜は、同い年の子供より、ずっと大人になるのが早かったと思う。
勉強も運動もとてもよくできる子だった。
テストでも、かけっこでも、一番を取れば私の目の届く所に賞状を置いて褒められるのを――愛されるのを待っていた。
私はそれを淡々と受け流し、あの子の期待にはいつも応えてやれなかった。

どんなに待っても帰って来ない。
私のことをもう愛してくれない。
私は美亜を通して、和馬さんに仕返しをしようとしていたのだろうか。

和馬さんを思い出したくなくて、美亜にやつあたりするのも嫌で、私は美亜の顔を見ないようにしていた。
素っ気ない態度をとられても、美亜はそうすることが本能であるようにずっと私を求め続けた。

美亜にとっての私が特別な存在であることが、疎ましくもあり、優越感でもあった。
私が醜く歪んでしまったことを嫌というほどわからせる、美亜の存在が辛かった。
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