恋人以上、恋愛未満

右左山桃

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1章 そんな風に始まった

19 震える手

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毎月20日付近は落ち着かない。

スーパーでひと通り食料品の買出しを済ませた私は、自動ドアの傍に設置されているATMの前で足を止めた。
入店する前から横目に挟むだけでも胃がキリキリと痛むくらい緊張したそこに、近づいて行ってカバンから通帳を取り出す。

通帳の最後のページを捲り出すと、先月20日の振込記録で終わっていた。
水道光熱費や家賃が引き落とされた形跡も、バイト先からの入金履歴も載っていない、毎月似たような日付に同じ金額が振り込まれるだけの通帳。
タッチパネルから「通帳記入」を選び、祈るような気持ちで通帳を機械にかけた。
この一瞬の間が一番嫌いで、次いで聞こえてくるジジ……という取引記録を印字をしている音に心底安堵して体の力が抜ける。


良かった。


今月もちゃんと振り込まれている。
足早にスーパーを後にして、道すがら、カバンからスマホを取り出す。
アパートに戻ってからにしようかとも考えたけど、勢いでかけてしまおうと思った。
気持ちを落ち着けようと深呼吸を繰り返しても、ドクドクと高鳴る心臓は中々落ち着いてはくれない。
アドレス帳を開く指がもたついて、なかなかかけたい連絡先に辿りつけない。

『母』

そのひと文字を見ただけでも萎縮した。
それでもこれだけは絶対に続けなければいけない、私は意を決して通話ボタンを押した。


トゥルルルル……トゥルルルル……。


呼び出し音が暫く続く。
単調に繰り返されるその音を聞いていると、スマホを持つ手がじんわり汗ばんでくる。
小刻みに震えだした右手を、左手で庇った。


おかあさん……出て。


トゥルルルル……トゥルルルル……。


おかあさん……。


トゥルルルル……トゥルルルル……。


今の呼び出し音で何度目だろう。
寝ているのかもしれない。でも、もうお昼だし……。
もしかしたら私だとわかっているから出てくれない?
もうこれ以上かけるのは、しつこい?
迷惑?
嫌われる?

ねえ、おかあさん。お願い……早く出て……。

祈るような気持ちが果たして通じたのか。
ガチャッ、と受話器をとる音が聞こえて、体が震えた。


「………あ……」


望んでいた瞬間を迎えたのに、声は出ない。
いつだってそうだ。
頭の中でシミュレーションした通りに会話できたことなんて、ただの一度もないのだから。


「………あ……の……」

『…………美亜……』


スマホの向こうから、低く掠れた抑揚のない声が聞こえた。
やはり寝ていたのかもしれない。
いつも母はこんな感じなので、本当はどうなのかはわからないけど。


『何か用なの…?』

「うん……あの……仕送り…今月の……」

『もう……入れた筈だけど……』

「あ……うん。それで……そのこと……お礼を言いたくて」

『……そう……』



「ありがとう」



肺から溜めこんでいた空気を吐き出すように、やっと、一番言いたかったことを伝えられた。
左手を緩めたら右手首がやっぱりガクガクと震えて、スマホを落としそうになった。


『別に……そのくらいのことはどこの親だってしてる。母親としての義務は果たす』


相変わらず母の声に温度は感じられない。
母が何を考えて、どんな気持ちでその言葉を口にしているのかは私にはわからないけど。
でもきっと、そんな義務はもう母には無いと思うから。


だから……。


口を開いて、また噤む。

もどかしい。
もっとちゃんと感謝の気持ちを伝えたい、けど。
義務じゃない。そんなニュアンスで伝えたら母との関係が終わるようで怖い。


『……で、用はそれだけ? ……なら……』

「あ、えっと。奨学金の申請に、源泉徴収票のコピーが必要で……」


取りに帰っても良いか聞くよりも先に、母の声が返ってきた。


『じゃあ送るから、住所教えて』

「…………」

『メモするから』

「……うん」


そうして、もう何度目かとなるアパートの住所を母に伝えて通話を終えた。
スマホを耳から離すと、暗いディスプレイに通話時間1分30秒と記されていた。
スマホをカバンの底へ放る。
悪い方へ考えるのはやめる。

やっと気持ちが上向いたのだから。

今月も母は私のことをちゃんと覚えてくれていたし、こうして声も聞けた。充分じゃないか。
電話でお礼が言えた自分を褒める、それが、今自分にできる精一杯だった。


「うん、大丈夫……」


元気を出そうと声にしてみて後悔した。
木枯しに掻き消されそうな私の声は、本当に頼りなくて情けないものだった。
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