恋人以上、恋愛未満

右左山桃

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1章 そんな風に始まった

12 雨音とノイズ

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ザ―……とテレビのサンドストームのようなノイズが頭に響く。

閉じていた目をゆっくり開けると、白い壁に囲まれた部屋に私はひとり立っていた。
目を擦り、もう一度辺りをよく見てみる。
顔を左右に動かせば、窓と家具が浮き上がるように現れて、私のよく知っている配置で整列している。

いつの間に私は家に帰ってきたんだろう。

家と言ってもあのオンボロアパートではない。実家だ。
不意に頭から影が差して、顔を戻せば母親が立っていた。
大学に入ってから、もう随分長いこと会っていない。
苦労して顔を上げながら母の顔を見ようとして、自分の体がとても小さくなってしまっていることに気づいた。
見上げた視線は、母の表情よりも先に高く掲げられている右手に向かい、体からサッと血の気が引いた。
その手が自分に向かって振り下ろされるのを知っているから、本能的に頭を庇う。

でも、遅い。

バシン! と頭に響くような音と衝撃。
軽い私の体は少しだけ跳ね飛ばされて壁にぶつかる。

怖い、とは不思議と思わなかった。
なぜ、とも思わなかった。
母の存在は、母のとる行動は、幼い私にとって『然るべきもの』だったから。
それでも、痛みには従順に反応し、このままぶたれ続けるのは危険だ、身を守れ、と脳は体に信号を送る。
例え、体を縮めうずくまるその行動が、母の怒りと行動をエスカレートさせるだけだとしても。

背が小さく前かがみで、お世辞にも綺麗と言えない母は、ずっと容姿にコンプレックスを持っていた。
対する父は背が高くてハンサムで、まだ二人の関係がこじれる前、母は「周りの女の子は皆彼に憧れていたのよ」と私に話していた。

二人の経緯を私は知らないけれど。
私を妊娠したことで、他の女の子を出し抜き父と結婚できたこと。
母はそれを誇りに思い、同時に強い負い目も感じていた。

本来自分なんかが相手になるような男ではなかったのではないか。
いつか飽きられて他の女の元へ行ってしまうのではないか。

自信の無さは疑心に変わり、母は父の小さな行動ひとつひとつを気にし始めた。
ずっとずっと強いストレスを感じながら毎日緊張していたから。

だから。

いつかそれが本当になった時、母は少し壊れてしまったんだと思う。


――綺麗なお嬢さんね、パパそっくり。


両親が体裁を取り繕い仮面夫婦を続けていた頃、周囲にそう言われるのが私は堪らなく怖かった。
その言葉は、呪詛のように母の心を蝕むのが隣にいてわかった。


「そうなの……本当に、そっくりで……」


――見ているのが辛いくらい。


私は、どうすれば良かった?

いつも眉間に険しいしわを寄せて、仕事以外はほとんど布団から出てこなくなった母。
ほんの少しでも笑って欲しくて、話しかけて欲しくて。
母に向かって微笑んでみれば「見下すな!」と言われ、泣けば「絶対に許さない!」と怒りだす。

私の中で、表情が、感情が、ひとつずつ死んでいく。

わかっている、いや、今ならわかる。

あの言葉は私に向けられていたものではなくて。
私のことなど最初から見てはいなくて。
母の目は私を通り越して、ずっと父の姿を探している。
どんな表情を作れば、この人は笑うんだろう。そんなことを考えても、父そっくりのこの顔では意味が無かった。
私は綺麗な顔が欲しかったんじゃない。
ひょっとこでも、おかめでも何でも良かったんだ。

母に笑って欲しかった。

時々癇癪を起して私を叩くことはあっても、母は親としての義務を果たそうとした。
ご飯をもらえなかったことは一度もない。
家に入れてもらえなかったこともない。
この年齢になるまで女手ひとつで育ててくれた。
大学にいる間も、ずっと仕送りをしてくれる。

私と目を合わせてくれなくても。
私のことを疎ましく思っていても。
それでも私が自分の子供だということを頭では理解している。
私を叩いた後で、酷い自己嫌悪に苛まれているのも知っている。

苦しみの連鎖だった母に、「大学に通うのが大変だから家を出るね」と伝えた時。
ホッと肩で息をついたやつれた姿を見て、やっと親孝行ができたと思った。

それなのに。

今もあんな風に泣いているのだろうか。 
あの場から動けず、背中を丸めて、もう帰って来ない父を恨み泣き続ける母に。
堪らなくなって叫んだ。



――もう泣かないで。



いつか、どんな恋にも終わりが来るのに。
どうしてみんな恋をするんだろう。

母の姿が段々と歪んで、風景と溶けあいながら消えていく。
瞬きをして、もう一度母の姿を見ようと目を開けた時には、私は薄暗いレストランバーに居た。
人混みがひとりの男の子の前を行き交う。
ツンツン頭が、俯き泣きだしそうな姿が、雑踏の中で現れては消える。


「ミナは……俺のこと……」


嫌い、なの?

そう訊きたくても怖くて声にできなかった、あの日の雅が立っていた。

雅だって、あんなに辛い思いをしたのに。
どうして私とまた付き合うんだろう。
いつかまた裏切られるかもしれない、こんなリスクを追いながら。
誰かを求める意味なんてあるんだろうか。

恋愛っていったい、何なんだろう。
身を裂くような思いを繰り返しながら、それでも、どうして人は恋をするんだろう。


――泣かないで。


声を出そうとしても出ない。
足は床に張り付いて、そこから一歩も動くことができない。
雅に向かって必死に手を伸ばしても、届かない両手は虚空を彷徨う。

誰かの悲しむ顔はもうたくさんだ、見たくない。



泣かないで。



ザ―……と聞こえたのは雨音だったようだ。
バケツをひっくり返したような雨が、アパートを震わせるように叩いている。


「嫌な……夢」


寝汗がベタベタと体にまとわりついていた。
酷い頭痛がして、気持ち悪くなってトイレで吐いた。
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