12 / 135
1章 そんな風に始まった
12 雨音とノイズ
しおりを挟む
ザ―……とテレビのサンドストームのようなノイズが頭に響く。
閉じていた目をゆっくり開けると、白い壁に囲まれた部屋に私はひとり立っていた。
目を擦り、もう一度辺りをよく見てみる。
顔を左右に動かせば、窓と家具が浮き上がるように現れて、私のよく知っている配置で整列している。
いつの間に私は家に帰ってきたんだろう。
家と言ってもあのオンボロアパートではない。実家だ。
不意に頭から影が差して、顔を戻せば母親が立っていた。
大学に入ってから、もう随分長いこと会っていない。
苦労して顔を上げながら母の顔を見ようとして、自分の体がとても小さくなってしまっていることに気づいた。
見上げた視線は、母の表情よりも先に高く掲げられている右手に向かい、体からサッと血の気が引いた。
その手が自分に向かって振り下ろされるのを知っているから、本能的に頭を庇う。
でも、遅い。
バシン! と頭に響くような音と衝撃。
軽い私の体は少しだけ跳ね飛ばされて壁にぶつかる。
怖い、とは不思議と思わなかった。
なぜ、とも思わなかった。
母の存在は、母のとる行動は、幼い私にとって『然るべきもの』だったから。
それでも、痛みには従順に反応し、このままぶたれ続けるのは危険だ、身を守れ、と脳は体に信号を送る。
例え、体を縮めうずくまるその行動が、母の怒りと行動をエスカレートさせるだけだとしても。
背が小さく前かがみで、お世辞にも綺麗と言えない母は、ずっと容姿にコンプレックスを持っていた。
対する父は背が高くてハンサムで、まだ二人の関係がこじれる前、母は「周りの女の子は皆彼に憧れていたのよ」と私に話していた。
二人の経緯を私は知らないけれど。
私を妊娠したことで、他の女の子を出し抜き父と結婚できたこと。
母はそれを誇りに思い、同時に強い負い目も感じていた。
本来自分なんかが相手になるような男ではなかったのではないか。
いつか飽きられて他の女の元へ行ってしまうのではないか。
自信の無さは疑心に変わり、母は父の小さな行動ひとつひとつを気にし始めた。
ずっとずっと強いストレスを感じながら毎日緊張していたから。
だから。
いつかそれが本当になった時、母は少し壊れてしまったんだと思う。
――綺麗なお嬢さんね、パパそっくり。
両親が体裁を取り繕い仮面夫婦を続けていた頃、周囲にそう言われるのが私は堪らなく怖かった。
その言葉は、呪詛のように母の心を蝕むのが隣にいてわかった。
「そうなの……本当に、そっくりで……」
――見ているのが辛いくらい。
私は、どうすれば良かった?
いつも眉間に険しいしわを寄せて、仕事以外はほとんど布団から出てこなくなった母。
ほんの少しでも笑って欲しくて、話しかけて欲しくて。
母に向かって微笑んでみれば「見下すな!」と言われ、泣けば「絶対に許さない!」と怒りだす。
私の中で、表情が、感情が、ひとつずつ死んでいく。
わかっている、いや、今ならわかる。
あの言葉は私に向けられていたものではなくて。
私のことなど最初から見てはいなくて。
母の目は私を通り越して、ずっと父の姿を探している。
どんな表情を作れば、この人は笑うんだろう。そんなことを考えても、父そっくりのこの顔では意味が無かった。
私は綺麗な顔が欲しかったんじゃない。
ひょっとこでも、おかめでも何でも良かったんだ。
母に笑って欲しかった。
時々癇癪を起して私を叩くことはあっても、母は親としての義務を果たそうとした。
ご飯をもらえなかったことは一度もない。
家に入れてもらえなかったこともない。
この年齢になるまで女手ひとつで育ててくれた。
大学にいる間も、ずっと仕送りをしてくれる。
私と目を合わせてくれなくても。
私のことを疎ましく思っていても。
それでも私が自分の子供だということを頭では理解している。
私を叩いた後で、酷い自己嫌悪に苛まれているのも知っている。
苦しみの連鎖だった母に、「大学に通うのが大変だから家を出るね」と伝えた時。
ホッと肩で息をついたやつれた姿を見て、やっと親孝行ができたと思った。
それなのに。
今もあんな風に泣いているのだろうか。
あの場から動けず、背中を丸めて、もう帰って来ない父を恨み泣き続ける母に。
堪らなくなって叫んだ。
――もう泣かないで。
いつか、どんな恋にも終わりが来るのに。
どうしてみんな恋をするんだろう。
母の姿が段々と歪んで、風景と溶けあいながら消えていく。
瞬きをして、もう一度母の姿を見ようと目を開けた時には、私は薄暗いレストランバーに居た。
人混みがひとりの男の子の前を行き交う。
ツンツン頭が、俯き泣きだしそうな姿が、雑踏の中で現れては消える。
「ミナは……俺のこと……」
嫌い、なの?
そう訊きたくても怖くて声にできなかった、あの日の雅が立っていた。
雅だって、あんなに辛い思いをしたのに。
どうして私とまた付き合うんだろう。
いつかまた裏切られるかもしれない、こんなリスクを追いながら。
誰かを求める意味なんてあるんだろうか。
恋愛っていったい、何なんだろう。
身を裂くような思いを繰り返しながら、それでも、どうして人は恋をするんだろう。
――泣かないで。
声を出そうとしても出ない。
足は床に張り付いて、そこから一歩も動くことができない。
雅に向かって必死に手を伸ばしても、届かない両手は虚空を彷徨う。
誰かの悲しむ顔はもうたくさんだ、見たくない。
泣かないで。
ザ―……と聞こえたのは雨音だったようだ。
バケツをひっくり返したような雨が、アパートを震わせるように叩いている。
「嫌な……夢」
寝汗がベタベタと体にまとわりついていた。
酷い頭痛がして、気持ち悪くなってトイレで吐いた。
閉じていた目をゆっくり開けると、白い壁に囲まれた部屋に私はひとり立っていた。
目を擦り、もう一度辺りをよく見てみる。
顔を左右に動かせば、窓と家具が浮き上がるように現れて、私のよく知っている配置で整列している。
いつの間に私は家に帰ってきたんだろう。
家と言ってもあのオンボロアパートではない。実家だ。
不意に頭から影が差して、顔を戻せば母親が立っていた。
大学に入ってから、もう随分長いこと会っていない。
苦労して顔を上げながら母の顔を見ようとして、自分の体がとても小さくなってしまっていることに気づいた。
見上げた視線は、母の表情よりも先に高く掲げられている右手に向かい、体からサッと血の気が引いた。
その手が自分に向かって振り下ろされるのを知っているから、本能的に頭を庇う。
でも、遅い。
バシン! と頭に響くような音と衝撃。
軽い私の体は少しだけ跳ね飛ばされて壁にぶつかる。
怖い、とは不思議と思わなかった。
なぜ、とも思わなかった。
母の存在は、母のとる行動は、幼い私にとって『然るべきもの』だったから。
それでも、痛みには従順に反応し、このままぶたれ続けるのは危険だ、身を守れ、と脳は体に信号を送る。
例え、体を縮めうずくまるその行動が、母の怒りと行動をエスカレートさせるだけだとしても。
背が小さく前かがみで、お世辞にも綺麗と言えない母は、ずっと容姿にコンプレックスを持っていた。
対する父は背が高くてハンサムで、まだ二人の関係がこじれる前、母は「周りの女の子は皆彼に憧れていたのよ」と私に話していた。
二人の経緯を私は知らないけれど。
私を妊娠したことで、他の女の子を出し抜き父と結婚できたこと。
母はそれを誇りに思い、同時に強い負い目も感じていた。
本来自分なんかが相手になるような男ではなかったのではないか。
いつか飽きられて他の女の元へ行ってしまうのではないか。
自信の無さは疑心に変わり、母は父の小さな行動ひとつひとつを気にし始めた。
ずっとずっと強いストレスを感じながら毎日緊張していたから。
だから。
いつかそれが本当になった時、母は少し壊れてしまったんだと思う。
――綺麗なお嬢さんね、パパそっくり。
両親が体裁を取り繕い仮面夫婦を続けていた頃、周囲にそう言われるのが私は堪らなく怖かった。
その言葉は、呪詛のように母の心を蝕むのが隣にいてわかった。
「そうなの……本当に、そっくりで……」
――見ているのが辛いくらい。
私は、どうすれば良かった?
いつも眉間に険しいしわを寄せて、仕事以外はほとんど布団から出てこなくなった母。
ほんの少しでも笑って欲しくて、話しかけて欲しくて。
母に向かって微笑んでみれば「見下すな!」と言われ、泣けば「絶対に許さない!」と怒りだす。
私の中で、表情が、感情が、ひとつずつ死んでいく。
わかっている、いや、今ならわかる。
あの言葉は私に向けられていたものではなくて。
私のことなど最初から見てはいなくて。
母の目は私を通り越して、ずっと父の姿を探している。
どんな表情を作れば、この人は笑うんだろう。そんなことを考えても、父そっくりのこの顔では意味が無かった。
私は綺麗な顔が欲しかったんじゃない。
ひょっとこでも、おかめでも何でも良かったんだ。
母に笑って欲しかった。
時々癇癪を起して私を叩くことはあっても、母は親としての義務を果たそうとした。
ご飯をもらえなかったことは一度もない。
家に入れてもらえなかったこともない。
この年齢になるまで女手ひとつで育ててくれた。
大学にいる間も、ずっと仕送りをしてくれる。
私と目を合わせてくれなくても。
私のことを疎ましく思っていても。
それでも私が自分の子供だということを頭では理解している。
私を叩いた後で、酷い自己嫌悪に苛まれているのも知っている。
苦しみの連鎖だった母に、「大学に通うのが大変だから家を出るね」と伝えた時。
ホッと肩で息をついたやつれた姿を見て、やっと親孝行ができたと思った。
それなのに。
今もあんな風に泣いているのだろうか。
あの場から動けず、背中を丸めて、もう帰って来ない父を恨み泣き続ける母に。
堪らなくなって叫んだ。
――もう泣かないで。
いつか、どんな恋にも終わりが来るのに。
どうしてみんな恋をするんだろう。
母の姿が段々と歪んで、風景と溶けあいながら消えていく。
瞬きをして、もう一度母の姿を見ようと目を開けた時には、私は薄暗いレストランバーに居た。
人混みがひとりの男の子の前を行き交う。
ツンツン頭が、俯き泣きだしそうな姿が、雑踏の中で現れては消える。
「ミナは……俺のこと……」
嫌い、なの?
そう訊きたくても怖くて声にできなかった、あの日の雅が立っていた。
雅だって、あんなに辛い思いをしたのに。
どうして私とまた付き合うんだろう。
いつかまた裏切られるかもしれない、こんなリスクを追いながら。
誰かを求める意味なんてあるんだろうか。
恋愛っていったい、何なんだろう。
身を裂くような思いを繰り返しながら、それでも、どうして人は恋をするんだろう。
――泣かないで。
声を出そうとしても出ない。
足は床に張り付いて、そこから一歩も動くことができない。
雅に向かって必死に手を伸ばしても、届かない両手は虚空を彷徨う。
誰かの悲しむ顔はもうたくさんだ、見たくない。
泣かないで。
ザ―……と聞こえたのは雨音だったようだ。
バケツをひっくり返したような雨が、アパートを震わせるように叩いている。
「嫌な……夢」
寝汗がベタベタと体にまとわりついていた。
酷い頭痛がして、気持ち悪くなってトイレで吐いた。
0
お気に入りに追加
53
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

溺婚
明日葉
恋愛
香月絢佳、37歳、独身。晩婚化が進んでいるとはいえ、さすがにもう、無理かなぁ、と残念には思うが焦る気にもならず。まあ、恋愛体質じゃないし、と。
以前階段落ちから助けてくれたイケメンに、馴染みの店で再会するものの、この状況では向こうの印象がよろしいはずもないしと期待もしなかったのだが。
イケメン、天羽疾矢はどうやら絢佳に惹かれてしまったようで。
「歳も歳だし、とりあえず試してみたら?こわいの?」と、挑発されればつい、売り言葉に買い言葉。
何がどうしてこうなった?
平凡に生きたい、でもま、老後に1人は嫌だなぁ、くらいに構えた恋愛偏差値最底辺の絢佳と、こう見えて仕事人間のイケメン疾矢。振り回しているのは果たしてどっちで、振り回されてるのは、果たしてどっち?


社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
じれったい夜の残像
ペコかな
恋愛
キャリアウーマンの美咲は、日々の忙しさに追われながらも、
ふとした瞬間に孤独を感じることが増えていた。
そんな彼女の前に、昔の恋人であり今は経営者として成功している涼介が突然現れる。
再会した涼介は、冷たく離れていったかつての面影とは違い、成熟しながらも情熱的な姿勢で美咲に接する。
再燃する恋心と、互いに抱える過去の傷が交錯する中で、
美咲は「じれったい」感情に翻弄される。

恋とキスは背伸びして
葉月 まい
恋愛
結城 美怜(24歳)…身長160㎝、平社員
成瀬 隼斗(33歳)…身長182㎝、本部長
年齢差 9歳
身長差 22㎝
役職 雲泥の差
この違い、恋愛には大きな壁?
そして同期の卓の存在
異性の親友は成立する?
数々の壁を乗り越え、結ばれるまでの
二人の恋の物語
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる