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第5章 未来の女王誕生
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それから数日経ってもニコルの刺繍は、ほとんど進まなかった。
リボンを縫うのは、役に立った時のことを考えるとワクワクするので苦にならない。だが、刺繍は淡々と進める作業のようで、すぐに飽きてしまう。
そもそも、なんで刺繍をしなければならないのだろう。
アデールは女性としての嗜み、集中力を養うためと言っていたが、集中力を養うのであれば剣術でもいいと思う。
そもそもニコルの母、アゲハが刺繍をしている記憶がない。
だが、子供の頃は浴衣や巾着袋を作ってくれた覚えがある。
「あ、そうだ」
ニコルは立ち上がるとクローゼットを漁った。
「あったわ」
ニコルはクローゼットから桜色の巾着袋を取り出した。
桜色の巾着袋には子供が絵に描くような花が刺繍されている。
それは、アデールが刺すような綺麗な刺繍ではないが、温かみがある。
アゲハは関節や筋肉に痛みを感じる持病があるので、細かい作業は苦手だった。巾着袋も縫い目が綺麗とは言い難い。だが、ニコルのために一生懸命作ってくれたのが伝わってくる。
「これだわ」
ニコルは侍女を呼ぶと紙に蝶を描いた。
「これを刺繍にするには、どう直せばいいのかしら。分かる?」
侍女は戸惑いながらも、ニコルが描いた蝶の上から線を引く。
「こうでしょうか」
「なるほど。そうするのね。早速、刺繍してみるわ」
ニコルはアデールに相談もせず、何度も蝶の刺繍をし始めた。
後日、ニコルは講義の合間にアデールの元を訪れ、課題を提出した。
ニコルが出した課題は数枚しかできておらず、代わりに蝶の刺繍が大量に提出され、アデールに呆れた顔をされた。
「なぜ、蝶の刺繍を始めたのか、教えていただけますか」
ニコルはアゲハが作ってくれた巾着袋を見せた。
「これは母が、私が子供の頃に着ていた浴衣を巾着袋に直してくれたものです。縫い目も綺麗とは言い難いですし、刺繍もアデール様のように上手ではありません。でも、私のことを考えて作ってくれた思いが伝わってきます。この巾着袋を見て思ったのです。私は、誰かのために刺繍をすれば、もっと前向きに刺繍に取り組めるのではないかと。それで、蝶の刺繍を始めたのです」
アデールは巾着袋をじっくり見る。
「そうね。ニコル様のお母様が刺した刺繍には温かみがあるわ。誰かのために刺繍をするのは、良い考えだと思います。・・・・・・。私にはない考えだわ」
アデールはふぅっと一息吐くと、諦めの表情をした
「アデール様。私、何か気に障るようなことを申しましたでしょうか」
アデールの表情が気になってニコルは不安になる。
「いいえ」
アデールはニコルを安心させるように微笑んだ。
「ただ、私は誰かのために刺繍をしたり、何かを縫ったり、レースを編んだりしたことがないから、誰かのために刺繍をしようという考えが浮かばなかったのです」
「でも、アデール様は作った物をバザーに寄付されていますよね。その寄付で救われている人がたくさんいらっしゃいます」
「それは、持て余している時間で作った物を寄付しているだけで、誰かのために作ったわけではありません」
「ですが・・・・・・」
「それより、蝶の刺繍を練習しましょう。この図案はまだニコル様には難しいので他の蝶にしてみましょう」
ニコルの言葉を遮ってアデールが刺繍の図案を描き始めたので、ニコルは大人しく刺繍を教わることにした。
アデールの作った物がどのように役に立っているのか、自分の目で確認できればきっとアデールの気持ちに変化が起きるという確信があった。
だが、今のニコルには何もできない。できないことを約束するわけにはいかない。
もどかしさを感じながら、ニコルは蝶の刺繍を始めた。
◇◇◇
前回、マカオンがニコルの前に現れてから1カ月が過ぎた。
「もう、少しぐらい顔を出してくれてもいいのに・・・・・・」
ブツブツ言いながら刺繍を刺す。
以前とは異なり、ニコルは布一面に小さな蝶を刺繍していた。
レナータやジル、他の講師陣からは物覚えが良いと褒められることが多くなり、礼儀作法でも注意される機会が減ってきていた。
勉強は捗っているが、マカオンに会えない苛立ちが日に日に高まっている。
警備の関係上、ニコルは基本的にソレイユから出ることを禁じられている。つまり、ニコルからマカオンに会いに行くことはできないのである。マカオンも当然、この規則を知っているのだからマカオンから会いに来てくれればいいのだが、会いに来てくれない。
「もう・・・・・・」
むくれながらも蝶を刺繍していると、侍女が呼びに来た。
今日は社交でも重要なワインの講習なのである。
ワインの善し悪しや違いを知り、お客様の好みや料理に合うものを選べなければ、お客様をもてなすことができない。
案内された部屋には国内外のワインがずらりと並んでいた。
ワインの知識は、フリュイ領でワイナリーを見学した時に教えてもらっていたが、味の違いや善し悪しは飲み比べてみないと分からない。
宮廷でワインの管理をしている責任者から説明を聞きながら、レナータとジルが「このワインは誰の好み」「女性向き」「食前酒向き」「肉料理に合わせる」などの細かい知識を教えてくれる。
ニコルはそれらの知識を頭に入れながら、勧められるままに、勉強だと思って飲んでいた。
ニコルは騎士団に所属していたこともあり、酒類は避けていた。
つまり、自分が酒に強いのか分からない。
次第に身体が温かくなり、頭がボーっとして来た。
だが、まだ飲んでいないボトルがあるし、レナータとジルは平然と飲んでいる。
酒は飲んでいると身体が温まるものなのだと思って、ニコルは飲んだ。
ところが、次第に眠気に襲われて来た。
「ニコル様。どうかされましたか」
「ニコル様」
レナータとジルの声が遠くから聞こえる。
ニコルは2人近くにいるはずなのに声が遠いいので、おかしいと思うが目が開かない。
「・・・・・・」
ニコルはレナータとジルを呼んでいるはずなのだが、唇が上手く動かず次第に意識が遠のいて行った。
喉の乾きを覚えてニコルが目を覚ますと、ベッドの天蓋が見えた。
「・・・・・・」
ベッドの中にしては暑いと思って起き上がろうとすると、頭がガンガンして吐き気に襲われて蹲る。
「大丈夫か」
隣から声がして驚いてそっと顔を上げると、ランプに照らされてキラキラと光る髪が映った。
「・・・・・・。マカオン。どうしたの」
「どうしたの?じゃない。意識がなくなるまでワインを飲むな」
文句を言いながらもマカオンは、水差しでレモン水注ぐと、コップをニコルに渡した。
「・・・・・・。美味しい」
ふうっと息を吐くと、実はマカオンがニコルのベッドに入っていたことに気が付いた。
「ちょっと、なんでマカオンが私のベッドに入っているのよ」
「お前を介抱していたのに、なぜ文句を言われなければいけないのだ」
「・・・・・・。え?」
ニコルは記憶を辿るが思い出せない。
「・・・・・・。お前、記憶がないのか」
マカオンは呆れた。
「うん。なぜだろう」
ニコルは首をかしげる。
「ただの飲み過ぎだ。さぁ、まだ夜中だ。寝ろ」
マカオンは言葉とは裏腹に、優しい手つきでニコルを寝かせる。
「ねぇ、隣で寝るの?」
ニコルは、そわそわし始める。
「酒に酔った者が、寝ている間に吐いたものを詰まらせて死ぬことがあるからな。お前は気にせずに寝ていろ」
マカオンはニコルの顔に手を当てると、ニコルの瞼を閉じさせた。
ニコルはマカオンが隣にいたら眠れないと思っていたが、酔いが残っていたのかすぐに眠ってしまった。
ニコルが眠ったのを確認すると、マカオンも横たわる。
ニコルが倒れたと護衛官が走って来たのは、国王の執務室を出た時だった。
マカオンは父のアルディ公爵補佐として、今でも国王を退陣させようとする貴族やニコルを消そうとする一味の対応で忙しい。加えて、実力不足や愛想のないマカオンは、王配に相応しくないと、息子を売り込む輩を蹴散らさなければいけないのである。
「大変です。王女殿下が倒れました」
「なぜだ」
マカオンが護衛官を問い詰める。
「それが、ワインを飲んでいて倒れられたと」
今日の講義は茶会や夜会の仕切り方だった。
茶会や夜会を開く時は女主人が取り仕切るのが通例である。女性は未婚の時から茶会を開きながら、準備や茶会の仕切り方を身に付ける。
だが、ニコルは騎士として働いていたので、ジルに教えてもらう日だった。
だから、マカオンは茶会でもしているのだと思っていたのだが、なぜワインを飲んだのか。
「毒が盛られていたのか」
ソレイユに向かいながら護衛官に訊ねる。
「いえ、城でワインを管理している責任者がいたので、その可能性は低いと思われます。なんでも、いろいろな種類のワインを飲まれていたとか」
マカオンには、ニコルがワインや酒類を飲んでいる場面を見た覚えがない。
フランソワーズの件で後宮に潜入した時にルイから、騎士はいつ何時非常事態に遭遇するのか分からない。禁酒しろと言われたのを思い出す。マカオンは一度、その約束を破ったがニコルは騎士であることに誇りを持っていたので、酒を飲んだことがないはずだった。
「酒に弱かったのを知らなかったのか、知っていて無理をしたのかだな」
マカオンは独り言を言いながらソレイユに入る。
ニコルはすでに王城の医師によって部屋に運ばれていた。
「お酒の飲み過ぎです。お酒が体質に合わないのでしょう」
医師はそう診断を下した。そして、休養とレモン水を摂らせるように指示をして部屋を出て行った。
ベッドを覗くとニコルはドレスから浴衣に着替えさせられて、気持ち良さそうに眠っている。
マカオンは安心すると、部屋の隅で安堵しているレナータとジルを睨む。
「どういうことか説明願えますか」
「はい。茶会や夜会で出すワインについての知識を得ていただこうと、試飲をしていたのです。数種類のワインを試飲したところで、意識を無くされました」
ジルが項垂れながら説明した。
「王女が酒を飲めるか確認しなかったのか」
「・・・・・・。てっきり飲めるとばかり」
レナータがボソっと言うと、マカオンの怒りが頂点に達した。
「酒が身体に合わない人の中には、死ぬ人間もいる。ワインの試飲をするなら本人に確認するべきだ。そもそもワインの試飲なんか必要ない。ワインが必要なら、ワインの産地であるアルディ公爵領から調達する」
「申し訳ございません」
レナータとジルは深々と頭を下げて謝罪をすると部屋を出て行った。
マカオンは夕方以降の仕事をキャンセルしてニコルに付き添う。
「うーん」
寝返りを打ったニコルは汗をかいていた。
マカオンは侍女が置いていったタオルで汗を拭く。すると、ニコルが目を開けた。
「起こしたか」
マカオンが驚いて訊ねると、ニコルは満面の笑みを見せた。
「マカオンだ」
ニコルは腕を広げるとマカオンに抱きついた。
「・・・・・・。おい」
騎士姿の時には気が付かなかったが、ニコルは意外と女性らしい体型をしている。
浴衣一枚で抱きつかれると、女性特有の柔らかさや弾力を直に感じてしまう。
マカオンはなんとか引き剥がそうとするが、ニコルは抱きついたまま体重をかけてくる。
「危ないだろ」
このままではニコルを落としかねない。仕方なくマカオンは身体を反転させると、ニコルに押し倒されてしまった。
「おい、どけ」
ニコルの身体を叩くがニコルはマカオンの胸に倒れ込んで目を閉じている。
「うーん・・・・・・」
悩ましげな声を上げられ、マカオンは嫌な汗をかく。
「あぁ、もう・・・・・・」
マカオンは力ずくでニコルを引き剥がすと、ベッドに寝かせた。そして、ベッドを降りようとすると、後ろに引っ張られた。
「もう行っちゃうの」
上目遣いでニコルが見つめる。
「・・・・・・。側に居るから安心しろ」
「ずっと会いに来てくれなかったくせに」
潤んだ目でニコルが睨む。
マカオンは髪をぐしゃぐしゃと掻く。
「それは、いろいろあって・・・・・・」
「私だって忙しい。でも、ここから出るなって言われているから、我慢しているの。それなのに、会いに来てくれなくて・・・・・・」
ぽろぽろとニコルの目から涙が溢れる。
「悪かった」
マカオンはニコルの頭を撫でた。
「本当に?」
先程マカオンが力ずくで自分の身体から剥がしたせいか、浴衣の襟が乱れて胸元が見えそうになっている。
マカオンは視線を逸らしながら、襟元を適当に直した。
「ねぇ、聞いている?」
「聞いている」
「私のこと好き?」
「はぁ?」
そんな話だっただろうか。マカオンは混乱する。
「キスしたし、プロポーズもしてくれたけど、言われてない」
ムッとした表情のニコルは、完全に目が据わっている。
このタイミングで言うのか。マカオンは自問自答した。言ったところで本人が覚えていない可能性もある。
「好きじゃなかったらプロポーズしない」
「・・・・・・。意気地なし」
「うるさい」
いつも溜め込んでいる本音を言い、脹れ面のニコルが可愛くてマカオンは抱き締める。
「今日はこうしていてやるから、眠れ」
マカオンは上着を脱ぐと、ニコルを抱きしめたままベッドに潜り込んだ。
ニコルは頷くと力一杯抱きついたまま眠った。
「会いたかったのはお前だけじゃない・・・・・・」
マカオンはニコルの温もりを感じながら目を閉じた。
◇◇◇
ニコルの酩酊事件後、マカオンは忙しくても2日に1時間は、ニコルとの時間を過ごすようになった。
王城内には、ニコルの部屋にマカオンが泊まったことが流布され、公認の仲になっているのでレナータやジル、講師陣はマカオンが姿を現すと席を外してくれる。
「なんか恥ずかしいわ」
「別に構わないだろ」
思い出したらもっと恥ずかしいことをしているくせに、とマカオンは思うが本人に伝える気はない。
さり気なくニコルの手を取りながら、ソレイユの庭を散策する。
「マカオンは普段、どんな仕事をしているの?」
「陛下の手伝いの手伝いだな」
「なぁに、それ」
ニコルが笑う。
マカオンは、ニコルが多くの人間を魅了していることを知らないことがいいのか、悩んでいた。
レナータとジルは議会を牛耳る貴族と敵対することを懸念しているようだが、珠璃人が多く住む領地の貴族はみんなニコルを幼い頃から知っており、娘か孫のように思っている。
「あのニコル様が女王になったら、ニコル様に盾突く輩は私が排除します」
と一人の貴族が言えば、「いやいや、私が」「私だって」と、次々名乗りを上げる始末。
マカオンはこれらの貴族がニコルを傀儡のように操らないか、後ろ暗い所がないか騎士団の諜報員に依頼をして、報告書をまとめているのだが、怪しい人物はいない。上がってくる調査内容は、ニコルの故郷ラーンジュ領へ視察に行ったおかげで、自分の領地が豊かになった。そのため、ニコルの両親である辺境伯夫妻を恩人と崇めているというものばかりだ。そのうえ、ラーンジュ領滞在中に人懐っこい幼いニコルに骨抜きにされた者や、騎士として自分の領地に来たニコルが領民達を味方に付けていくさまを見て、ニコルのファンになった者が大勢いる。
「我が娘ながらこんなに支持されているとは。辺境伯夫妻には感謝しかない」
報告を受けた国王は苦笑いした。
「女王を支えてくれる貴族を決めないといけないのだが、候補者が多すぎるのも困りものだな」
マカオンの父、アルディ公爵も眉間に皺を寄せている状況だ。
その結果、未だにニコル女王を支えてくれそうな有力貴族が決まっていないのである。
「ねぇ、マカオン」
「なんだ」
「なんか聞こえない?」
ニコルはソレイユの入り口を指刺す。
「何か騒がしいな」
「何かしら」
ニコルがマカオンから手を離して行こうとするので、マカオンは手を強く握る。
「待て」
「何?」
ニコルが不思議そうな顔をする。
「王女自ら確認しに行くな」
マカオンは遠巻きに護衛をしていた一人を呼ぶと、確認に行かせた。
「部屋に戻るぞ」
「そうね・・・・・・」
ニコルは護衛官が向かった先を気にしながら部屋へ戻った。
ニコルとマカオンが部屋に戻るとすぐに護衛官が報告に来たが、なぜかアデールも一緒である。
「アデール様の父上、ロシュジャクシャン伯爵が、アデール様に会いたいと入り口の護衛と揉めています」
護衛官が報告するとアデールが小さくなって「申し訳ございません」と謝る。
「アデール様、父上のご用件は何かわかりますか」
ニコルの問いにアデールは首を振る。
「わかりません」
アデールは気の毒なくらいに青ざめて震えていた。
「俺が行こう」
マカオンが立ち上がろうとすると「待って」とニコルが止めた。
「私が行くわ」
「ニコル様」
アデールが驚く。
「ここは、私が陛下から貸していただいているソレイユ(宮殿)よ。主人である私が対応するべきでしょう」
ニコルはマカオンに同意を求めた。
「わかった。だが、俺も付いていく」
「アデール様は、レナータ様とジル様と一緒に待っていてください」
「かしこまりました」
ニコルはマカオンを連れて部屋を出てソレイユの入り口へ行くと、老人が杖を振り回して暴れていた。
「自分の娘に会いに来て何が悪い。どけ」
強引に中へ入ろうとするのを護衛官が止めている。
「どきなさい」
ニコルが強い口調で命令すると護衛官が左右に退いた。
「これは、王女殿下」
アデ―ルの父は暴れるのを止めると、服の乱れを直した。
「ごきげんよう。ロシュジャクシャン伯爵」
ニコルは優雅に微笑む。
「ご機嫌麗しゅうございます。王女殿下」
ニヤニヤしながら挨拶をするアデールの父から、ニコルを馬鹿にしているのが見て取れる。
「上辺だけの挨拶はけっこう。ここは、王族以外は立ち入ることができません。何をしていたのですか」
将来女王になるには威厳が足りないと指摘されていたニコルは、講義がある時間は常に凜とした表情になるようなメイクと、シックな装いをしていた。
今日は、濃紺のプリンセスラインのドレスに黒のリボンを腰に巻き、リボンと共布のヘッドドレスを付けて、女王の仮面を被っている。
「それは、その、こちらが王女殿下の宮殿になったと聞きましたので、娘に会いたいと参じた次第です」
「陛下からのお許しはいただいていますか」
「いいえ」
ニコルは一度も無表情を崩さずに淡々と話す。
「それでは会わせることはできません。アデール様は一時的に陛下から、お借りしているのです。この場所も一時的にお借りしているだけで、後宮が解散したわけではありません。お引き取りください」
ニコルが立ち去ろうとすると、アデールの父は笑い声を上げた。
「アデールは凡庸な女です。王女殿下のお役に立てるとは思えません」
「まぁ、伯爵はアデール様の良いところをご存じないのね」
ニコルは軽蔑の眼差しを向けた。
「いえ、知っています。当然です」
アデールの父は狼狽えた。
「では、教えていただけますか。私もアデール様のすべてを知っているわけではありません。教えていただけると助かります」
ニコルは艶やかに笑う。
アデールの父は額に大粒の汗を浮かべた。
「え、えっと・・・・・・」
目を泳がせるアデールの父を睨み付けると、ニコルは手で追い払う。
「もうけっこう。お引き取りになって」
「あの、一目でいいので娘に会わせてください」
アデールの父は食い下がる。
「聞こえなかったのか。下がれ」
ニコルはいつもよりも低い声でぴしゃりと言い放つと、アデールの父は青ざめ、そそくさと去って行った。
ニコルは肩で息をすると踵を返す。
「なかなかやるじゃないか」
後方で事の成り行きを見守っていたマカオンが、片方の口角を上げて笑う。
「そうかしら。疲れるわ」
「まるで別人だ」
「だんだん自分が自分でなくなるような、嘘を吐いているような、変な気持ちになるわ」
「ここで生きるってことはそういうことだ」
「マカオンもそうなの」
ニコルは期待の目でマカオンを見上げる。
「さぁな」
「意地悪」
ニコルはマカオンを軽く睨んだ。
「ニコル様、上出来ですわ」
「見違えましたわ」
突然、柱の影からレナータとジル、アデールが出て来た。
「ありがとうございました」
アデールが深々と頭を下げる。
「いいえ、アデール様は悪くありません。アデール様のことを知らないお父上に腹が立っただけです」
「そんな私なんかのために。申し訳ございません」
アデールは恐縮した。
「でも、ニコル様の成長を見ることができて良かったわ。ただ、マカオン様が一緒だったのが残念だったけれど」
「えぇ。でも、心配なお気持ちもわかりますから」
レナータとジルの話に付いていけず、キョトンとするニコルにマカオンが説明する。
「俺との婚約は王城内の限られた人間しか知られていない。王族しか入れないソレイユに俺が居たことに気が付いた伯爵は、良いネタを掴んだと思っただろう」
「知られてはいけないの?」
「一斉に全員が知るのは構わないが、伯爵のように一人だけ先に知れば、伯爵が利権を得ようと一足先にアルディ公爵家に対して画策を始める。つまり、伯爵が抜け駆けしたような形になる」
「それは不公平ね」
ニコルは納得した。
「取りあえず、俺は陛下と話をしてくる」
マカオンはソレイユを出て行った。
「では、私達も講師の先生方と話し合わないといけませんね」
「えぇ、婚約発表や立太子が早くなるかも知れませんもの」
レナータとジルが頷き合う。
「では、ニコル様は刺繍の時間にしましょう」
「はい」
ソレイユには普段通りの空気が戻っていた。
◇◇◇
翌日、レナータの講義中にマカオンが飛び込んで来た。
「立太子の日が2週間後になった」
「そんな、間に合いませんわ」
レナータが立ち上がって叫んだ。
「どうしてそんな急に・・・・・・」
ニコルも青ざめる。
いくらなんでも人前に立てる自信はない。
「陛下の決定だ。覆すことはできない。これから、仕立屋が来る。ドレスの採寸とデザインを決めてくれ」
マカオンはそれだけ言うと出て行こうとする。
「待ちなさい。なぜ、急に早まったのか説明しなさい」
レナータは動転の余り、皇女の言葉遣いになっている。
「国民にフランソワーズの罪と、死の真相が知れ渡った。子育てもできない国王と王妃に国は任せられないという国民の声が上がっている。」
「どうして。一部の人間しか知らないはずなのに・・・・・・」
ニコルは信じられない思いでマカオンを見つめた。
「誰かが流布したとしか思えない。だが、信じられないのが一晩で王都から離れた辺境地まで一斉に広がっていることだ」
マカオンは信じられないと首を振った。
連絡手段は手紙や人や鳥による伝令しかない。それなのに、どうやって一晩で全土に知れ渡ったのか。
「そんなどうやって・・・・・・」
「わからない。今、ルイ達騎士団が調べている」
「現国王への反発を抑え込むために、ニコル様を利用するということね」
ジルがマカオンに確認する。
「張りぼてでも構わないから、それらしく見せて欲しいとのことだ」
マカオンはそう言い捨てると部屋を出て行った。
「張りぼてとは、失礼な」
レナータは珍しくムスッとした表情をする。
「でも、やるしかありません。レナータ様、ジル様、お願いします」
ニコルは悲壮な面持ちで頭を下げた。
「任せなさい」
「えぇ」
レナータとジルは、ニコルを元気づけるように胸を張って見せた。
◇◇◇
立太子の日が決まり、王城内は慌ただしくなった。
ニコルの準備はドレスや宝飾品選びだけではない。儀式の手順や招待客の名前と経歴を覚え、礼儀作法や社交のおさらいなど忙しい。
さらに立太子当日の朝、国民向けにニコルからのメッセージが新聞に掲載されることになっている。
国王夫妻への反発がある中、王族へのイメージを回復する狙いも含まれているため、一連の立太子関連のイベントで最重要に位置付けられている。
「当日スピーチするのではないの」
レナータが怪訝な顔をする。
「我が国では新聞に掲載することになっている。それも全土へ一斉だ。発表の三日前には仕上げて新聞社へ持ち込まないと間に合わない」
「まぁ、大変。日にちがないわ」
ジルが日にちを数える。
「内容によっては当日、反王族派が反乱を起こしかねない」
マカオンの言葉にニコルはじわりと嫌な汗をかいた。
反乱が起きないように国を纏める。そんなメッセージを自分が書けるだろうか。
自分に与えられた役割を果たすと意気込んで来たが、女王の任務はそんなに簡単なものではない。
ふと、ニコルは国王夫妻が自分の子供ときちんと向き合えなかった原因が分かった気がした。自分の子より国民を優先しなければ、多くの民を護ることはできないのである。だからといって、子供を蔑ろにしていい理由にはならないが。
「どうした。責任の重さに気が付いて逃げ出したくなったか」
黙っているニコルを見て、マカオンが口角の端を上げて笑った。
「違うわよ。何を伝えればいいのか分からないのよ。反乱を抑えるためのメッセージなんて考えたことないもの」
本心を見抜かれたニコルは早口で反論する。
「だったら、自分が伝えたいことを伝えればいい」
「え?」
「お前は王族だが、ずっと国民と共に育って来ただろう。だから国民の気持ちが分かるはずだ。その、お前が目指す国と国民が望んでいる国の姿は大きく異なることはないだろう」
先程の皮肉な笑みが消えて真剣な眼差しでニコルにアドバイスをする。
「・・・・・・。そうね。ありがとうマカオン」
満面の笑みでニコルはマカオンに抱きつく。
「・・・・・・。おい」
マカオンは慌てふためくが、ニコルは腕に力を込める。
「こら、いい加減にしろ・・・・・・」
マカオンが無理矢理引き剥がそうとするが、ニコルは離れない。
「ニコル様、私達がいることをお忘れなく」
見かねたレナータが止めに入った。
ニコルは今の状況を思い出し、マカオンから離れると謝った。
「申し訳ございません」
マカオンは「じゃあ」と、ポンとニコルの背中を叩くと部屋を出て行った。
レナータとジル、アデールは「仲がよろしくていいわね」と、笑い合う。
ニコルは恥ずかしくて、居たたまれない気持ちになった。
◇◇◇
数日経ってもニコルはメッセージを書けずに机で唸っていた。
そこへマカオンが顔を出し、ニコルを庭へ連れ出してくれた。
「あー、いい気持ち」
ニコルはウーンと背伸びをする。
「原稿が真っ白らしいな」
「期日までにはちゃんと書くわよ」
ニコルは嫌なところを突かれて喧嘩腰になる。
「すぐ喧嘩腰になるな」
マカオンはニコルの鼻を人差し指で突っつく。
「う、ごめんなさい」
ニコルはしゅんっと項垂れた。
最近、すぐ喧嘩腰なる話し方と勝ち気な態度をレナータやジル、他の講師陣に指摘されてニコルは気にしている。
「そんなに、しょんぼりすることないだろう」
事情を知らないマカオンは慌てた。
「だって、最近みんなに指摘されるし、女王が短気なのは良くないって言われたし・・・・・」
「まぁ、女王が短気なのは良くないが、お前の場合は話し方が喧嘩腰なだけで短気なわけではないだろう」
「でも、勝ち気すぎるのも良くないって言われたわ」
「勝ち気でないと国を背負えないぞ」
「じゃあ、私はどうすればいいの?」
ニコルははぁ、と盛大な溜息を吐く。
「お前はそのままでいい。後は俺がなんとかする」
「なんとかって?」
ニコルがマカオンを見上げると、マカオンはニヤリと笑う。
「それは秘密だ」
「えー、なんでよ」
マカオンの腕を掴んで「教えなさいよ」と、何度もニコルが言う。マカオンは「うるさい」と腕を振ってニコルを払おうとする。
「ねぇ、あそこ見て」
マカオンの腕を掴みながら声を潜めてニコルは、前方を指さす。
「どうした?」
マカオンはニコルの指先を視線で追う。
そこでは、レナータが見慣れない人物と話をしている様子が見える。
ニコルには、話し合いというより対峙しているように見えた。
「穏やかじゃないな」
マカオンの目にも不穏な空気が見えたようだ。
「そうね」
2人は気配を消しながら木立の影に身を潜め、レナータ達に近づく。
「私にできることはもうないわ。グラディスにも帰りません」
「それでは皇帝が納得しません」
レナータの相手は男だ。それも、王城の騎士と同じ制服を着ているが、腕や胸に付いている紋章が異なった。あれはグラディス帝国の紋章だ。
「だから、ニコル様を殺して跡継ぎを産めと?できないわ」
レナータの言葉にニコルは耳を疑い、とっさにマカオンの腕にしがみつく。
「それなら我らが殺るまで」
男は無機質な声で宣言した。
「それは私が許しません」
レナータは毅然と答えた。
すると、男は腰の剣を抜いた。
刹那、ニコルとマカオンは飛び出し、レナータを庇うように立つ。
「我が国にフランソワーズ様のことを流したのはお前達か」
マカオンは剣を構えながら男に問う。
「どこにそんな証拠がある」
「レナータ様が証拠だ」
マカオンは平然と言い放つ。
「ならば、ニコル王女共々葬り去るまで」
男はマカオンに斬りかかる。
ニコルは腰のリボンに仕込んでいた鞭を取り出すと、相手の手首に振り下ろす。
こういう時のために、アデールがリボンに仕掛けをしてくれたのだ。
「うぐっ」
男はあっけなく剣を落とした。
ホッとしたのも束の間、どこからともなく数人の男が出て来た。
「きゃあ」
レナータの悲鳴に振り向くと、男の一人がレナータを担いで逃げるところだった。
「レナータ様」
ニコルは先程男が落とした剣を拾うと、目の前に斬り付ける。だが、いつもの剣ではないので、スピードが出ない。
舌打ちをするニコルの隣で、マカオンはフランソワーズのパーティーで見た時とは比べ物にならない華麗な剣捌きで相手を倒している。ニコルは剣を捨て、鞭を握りしめるとレナータを担いで逃げる男を追いかけた。
ニコルは袖口に仕込んでいたカミソリの刃でドレスの裾を裂き、靴を脱いで裸足で走った。
「逃がすか」
男はニコルより足が遅い。あっという間に男の後ろに付けると、男の足下目掛けて鞭を振るう。
だが、上手く躱された。
「ニコル様。私に気を取られないで」
レナータが叫ぶ。
レナータはニコルを殺さなかった。それどころか、殺させまいと一人でグラディス帝国やグラディス皇帝と闘っていたのだ。
ニコルはその期待に応えたかった。
ニコルは男の太股を狙って鞭で打つ。今度は当たった。さらに、反対側の太股を狙って打つ。左右を交互に打ち、男のズボンがボロボロになり血が滴る頃、痛みで男が立ち止まった。そこでニコルは全体重をかけて、傷の深い箇所を目掛けて鞭で打った。
「うがぁ」
渾身の一撃を受けた男はレナータを放り出して倒れた。
呻く男にニコルはさらに鞭を見舞う。
ビシッバシッと急所に鞭を入れると、男は気を失った。
「レナータ様、大丈夫ですか」
レナータは放り出された拍子に植え込みに落ちた。
「・・・・・・。痛い・・・・・・」
ニコルの呼びかけにレナータは目を開くが、すぐに目を瞑る。
放り投げ出された場所は植え込みだが、皇女として育ったレナータは大怪我をしている可能性があった。
「レナータ様。大丈夫ですか」
ニコルは心配になってレナータを植え込みから降ろし、脚や腕を動かして骨折していないか確認する。
「もっと、スマートなやり方はなかったの」
レナータは頭を押さえているが意識はしっかりしているようだった。
ニコルはホッと胸をなで下ろす。
「レナータ様が、ご自分のことは気にしなくていいと仰ったのですよ。」
「まさか、あんな方法だと思わないでしょう。・・・・・・って、ニコル様、その格好は一体」
「あ・・・・・・」
ニコルは「しまった」と口を押さえた。
ドレスは膝下が裂け、そこから細身のパンツが見えている。
「ニコル様。騎士の真似事は禁止だと言ったはずです」
レナータが鬼のような顔をしている。
「ですが、自分が狙われている可能性がありましたし・・・・・・」
ニコルが口籠もっているとマカオンとルイ、護衛達が到着した。
「お2人共無事ですか」
ルイが座り込んでいるレナータに怪我の状況を聞き出す。
「大丈夫だったか」
「えぇ、この通り。ただ、レナータ様は医師に診てもらって」
「何があった」
マカオンに問われたニコルは状況を説明する。
「はぁ・・・・・・。応援を待つという考えはなかったのか」
「その間に逃げられたら意味がないでしょう。それに、レナータ様の許可は取っていたし」
「こんな方法、許可した覚えはないわ」
レナータが声を上げる。
「まぁまぁ、レナータ様。大声を出すと頭に響きます。まずは医師に診ていただきましょう」
「えぇ、わかったわ」
レナータはルイの手を借りて立ち上がる。
「お前はもう少し仲間を信頼しろ。お前が走って行ってすぐに護衛が駆けつけて男達を捉えた。これからは、人を使う立場だ。周囲と信頼関係が築けないと何もできないぞ」
マカオンの言葉が胸に刺さった。
騎士団に居た時からニコルはどんな相手でも周囲を頼らずに闘って来た。それは、仲間を信頼していなかったからだ。自分の命を預けてもいい相手を見つけられなかった、というより大きな秘密を抱えていたせいで、誰にも心を開けなかったのである。
「そうね。これからは、気をつけるわ」
「ところでレナータ様、診察の後に話を伺えますか」
マカオンはレナータを睨み付ける。
「えぇ、もちろんよ」
レナータも覚悟を決めた表情で答えた。
「レナータ様は悪くないわ」
「それは話を聞かないとわからない」
「マカオン様は正しいわ。でも、1つだけ確かなことがあるわ」
レナータはニコルの前に立つとニコルの手を取った。
「レナータ・グラディスはニコル・ドゥ・ヴェルミリオン王女に忠誠を誓います」
レナータは腰をかがめてニコルの手に口づけた。
この行為は本来、騎士が主に忠誠を誓う時に行うものである。それを、グラディス帝国の皇女が、立太子もしていないニコルに行ったのである。
呆然としているニコルにレナータは満面の笑みを見せた。
「さぁ、参りましょう。ルイ総統」
「かしこまりました」
ルイはレナータを横抱きにして運んで行く。
ニコルはレナータにかける言葉が見つからず、見送ることしかできなかった。
◇◇◇
レナータと対峙していた男達は捕らえられた後、隠し持っていた毒を飲んで死んだ。
一方で度重なる侵入者の出没に、騎士団は王城の警備体制を見直して強化した。
そして、国王自らの聴取に素直に応じたレナータは、無罪放免でソレイユに戻っている。
「では、レナータ様は皇帝から子供を産むか、ニコル様の殺害を迫られていたのですか」
ソレイユにあるレナータの私室に集まったニコルとジル、アデールはレナータから話を聞いていた。
「えぇ。でも、私は国王の寵愛どころか捨て置かれている身。そこをニコル様に拾われたようなものでしょ。ニコル様を殺そうなんて一度も考えたことはないわ」
「確かに、私達はニコル様に拾われたようなものですものね」
輪の中心になって話を進めるジルは感慨深げに頷いた。
「ちょっと待ってください。お姉様方に協力していただいてしますけど、拾った覚えはありません」
ニコルが慌てる。
「でも、行き場も役目もない私達に役目を与えてくださったのはニコル様です」
アデールが優しく微笑むと、レナータとジルが頷いた。
「それに、国王の子供を産めずに後宮が解散されたら、私はきっと老貴族か豪商の後妻になっていたはずです」
アデールの思わぬ発言にニコルは驚いた。
「後妻?アデール様が。なぜ、そうなるのですか」
「先日、父がソレイユの前で暴れていたのは、借金で首が回らなくなったので、私を財産目的で嫁がせるためだったのですよ」
アデールは淡々と打ち明けた。
「そうでしたか」
確か以前、アデールの情報を集めた時に、妻が散財すると嘆いている噂があった。その金額が膨らみ、切羽詰まっていたのだろう。それで、ニコルの教育係にアデールは役に立たないと主張したのだとニコルは合点がいった。
「どこも同じようなものね」
いつも明るいジルが憂鬱そうな顔を見せた。
「ジル様?」
ジルにも何かあるのだろうか、とニコルは不安になった。3人とはいつも一緒にいるのに、ニコルは何も知らないのだと今更ながら知る。
「私も国王の子を産めと散々言われ、産める歳ではなくなったら有力貴族の後妻になれるように手を打つから帰って来いと言われているの。だから、せめてレナータ様に子供ができるように王妃様に話しをつけて、後宮に入って仕事をした実績を作りたかったの。それで、後妻にならなくて済むようにしたかったのだけど、無理だったわ」
「そうだったのですか」
後宮に入る女達は、それぞれ重荷を背負っているのだとニコルは目の当たりにして、彼女達にかける言葉も見つからない。
「私が動かないから皇帝が間諜を放って来たけど、あの間諜は死んだのよね」
「マカオンの話では自ら毒を飲んで死んだと。今回の件は、内密に処理するようです」
「そう。外交問題にならなくて良かったわ」
レナータは安堵した表情をする。
本来なら外交問題に発展するような事件である。だが、ニコルは無事であったし、レナータが先導したわけでもない。加えて、下手をすれば戦争になりかねないので内々で処理したのである。
「ところで、レナータ様はこれからどうなるのかしら」
ジルがニコルに訊ねると、ニコルは複雑な顔をする。
「マカオンの話では後宮に置いておくわけにはいかないと」
「そうでしょうね」
レナータは納得する。
「ですが、私はレナータ様には側にいて欲しいのです」
ニコルは切実な思いでレナータに訴える。
「ちょっと待ちなさい。私は貴方を殺そうとした国の皇女なのよ」
「えぇ、でもレナータ様は私を殺せないと仰いました。それに、忠誠を誓ってくださったでしょう」
「そうだけど」
レナータは珍しく怯えたような顔をしている。
「ですから、この機会にどこかの養女になって、私の女官になっていただけませんか」
「はぁ?」
レナータは唖然とする。それは、ジルやアデールも同じだった。
「ニコル様。どんな機会かわかりませんが、レナータ様を養女にするって、どこの家がそんなことをするのですか。グラディス帝国にバレたら戦争になります」
「例えば、私の実家。辺境伯家とか」
「ニコル様。辺境伯様は臣籍降下されたとはいえ王族です」
ジルとニコルがやり取りしている間、考え込んでいたレナータが顔を上げた。
「待って。良い考えだわ」
「レナータ様まで」
ジルが呆れる。
「グラディス帝国に付け入るには、私は良い切り札になるわ。そう思わない?」
「まぁ、そうでしょうけど」
ジルは困惑顔で頷く。
「間諜達が死んだのならちょうどいいわ。レナータ皇女は間諜と揉めた挙げ句に自害した。その後、新しい身分でニコル様付きの女官になる。それで、グラディス帝国との折衝に出れば無言の圧力になるわ」
「さすが、レナータ様」
レナータの案にニコルはワクワクした。
「でも、レナータ様を死なせたとなれば我が国も責めを負うのではありませんか」
黙っていたアデールが不安そうに告げた。
「大丈夫よ。私がグラディス帝国に遺書を送るわ。それに、グラディス帝国には自害した者の遺体は引き取らない習慣があるの。私が死んだかどうかなんて調べようがないわ」
「・・・・・・。そういうことですか。それでしたら、私が実家と掛け合いましょう」
「ジル様?」
今まで反対していたジルが乗り気になり、ニコルは満面に笑みを浮かべる。
「子供も産めず、レナータ様に子供を産ませることもできませんでしたけど、時期女王の切り札を養女にするのであれば、実家に貢献できますもの。その代わりニコル様にお願いがあります」
「なんでも言って」
ニコルは上機嫌で答える。
「私とアデール様もニコル様付きの女官にしてください」
「もちろんよ。私は、初めからそのつもりよ」
ニコルはウインクして見せる。
「まぁ、私もですか」
アデールが歓喜の声を上げた。
「当たり前でしょう。リボンの仕掛けはアデール様しかできないもの」
「まぁ、あの仕掛けはアデール様が作ったのですか」
レナータが驚きの声を上げた。
「申し訳ございません」
レナータに睨まれ、アデールは謝る。
「まぁ、いいわ。おかげで私もニコル様も無事でしたもの。でも、今後も必要なのかしら」
「必要です。初の女王を認めない人達が多いもの」
ニコルが主張すると隣でジルが笑った。
「まぁ、ニコル様ご自身が引き起こしそうですけどね」
ジルの言葉にレナータとアデールが笑い、ニコルは「まぁ、酷い」と言いながら笑った。
その後、国王は国民から認められれば、後宮を解散してレナータ達3人をニコル付きの女官とすることを認めた。さらに、レナータの身分についても協力してくれるという。
「本当に無茶苦茶な奴だな」
ニコルの私室でマカオンはソファーにどさりと腰をおろすと呆れ顔をする。
「そうかしら」
ニコルは国民向けのメッセージを考えながら首をかしげる。
「止めろとは言わないが、事を起こす時には俺に相談してからにしてくれ」
「え、なんで?」
レナータ達3人と話した事をニコルはマカオンやマカオンの父に相談せず、国王に直接直談判したのである。
「こういう事には、根回しが必要なのだ」
「そう」
ニコルは相変わらずペンを走らせ、マカオンを見ようとしない。
「おい。聞いているのか。今後も同じように勝手に事を進めると信頼を失う。もしくは、見落としていた穴に落ちるぞ」
「わかったわ。これからマカオンに相談する」
ニコルはようやく不機嫌な顔でマカオンを見た。
「どうかしたのか」
「もう、うるさいな。一生懸命文章考えているのに、話しかけないでよ」
ニコルは自分の椅子に置いてあったクッションをマカオンに投げつけた。
「・・・・・・。悪かった。じゃあな」
マカオンは降参とばかりに部屋を出て行く。
ニコルはその背中を睨み付けると、またペンを走らせた。
だが、なかなか納得のいく文章は出来上がらない。
王城にはスピーチ原稿や国民向けの発表をする時に原稿を書く人材がいる。
だが、ニコルは自分の言葉で自分の思いを伝えたかった。
正確に言えばメッセージ文自体は出来上がっている。ただ、これならば自分の思いや考えが伝わるという自信が持てない。しかし、自信を持てないまま締め切り日を迎えた。
◇◇◇
「それにしても、意外な展開になりましたね」
明日はいよいよ立太子の日。
アデールはようやく伸びたニコルの髪をシニヨンに結いながら笑う。
「本当。びっくりしたわ」
ニコルは相槌を打った。
2人が話しているのは、ジルが実家のリッシュモン侯爵家へレナータを養子にして欲しいと依頼をした時のことである。
国王の許可が出てジルはレナータをグラディス帝国の皇女とは言わず、後宮の知り合いとして実家の家族に紹介をした。そのうえで養女にして欲しいと言ったのである。
ところがジルの弟が「この方は初恋の人だ。妹にはできない」と猛反対したのである。
ジルの弟は30過ぎて未だに独身だった。家柄が良くジルに似て社交家、秀才で見目も良い。超優良物件なのに、独身でいるので男色家の噂を立てられていた。
ジルの弟は、レナータとはグラディス帝国に、父のリッシュモン侯爵と共に特使として訪問した際に、パーティーでダンスを踊ったという。
しかし、レナータは覚えていなかった。だが、養女の話が流れるのは困る。
「妹にできないのなら、妻ならいいのかしら」
苦し紛れにレナータが言うとジルの弟は狂喜乱舞した。
「ありがとう。一生君を大事にする」
レナータはよく分からないまま、ジルの弟に抱き締められたという。
当初の予定通りジルの妹にはなれたが、少々形の異なる結果となった。だが、レナータの出自は艶福家だった先々代の国王の縁者とし、国王が後ろ盾になるらしい。
「でも、ジルの弟はレナータがグラディス帝国の皇女だと父上や母上には明かさなかったのよね」
「さすが、ジル様の弟君ですね。皇女様と知られたら結婚するチャンスを逃すと思ったのでしょう。ニコル様、痛いところはありませんか」
「大丈夫よ」
鏡で確認する。アデールは実家で使用人同然の扱いを受けていたので、ニコルの着替えの手伝いや髪のセット、ティータイムの準備など侍女の仕事全般ができた。
国王の許可は貰っていないが、すでにニコルの女官として働いている。
「これで、明日はティアラを付ければ完璧ですね」
「えぇ、そうね」
ニコルは少し表情が曇る。
すでに出した国民へのメッセージが受け入れられるのか不安だった。
その夜、ニコルは寝付けなかった。
明日、自分の気持ちが伝わらなければ国王に退陣を求めて暴動が起きるかも知れない。
そう考えると怖くて不安で眠れない。
仕方なくベッドから出てソファーでぼんやりとしていた。
するとドアをノックされ、マカオンの声が聞こえた。
「どうぞ」
ニコルは座ったまま、入室を促した。
「やっぱり眠れなかったのか」
ランタンを持ったマカオンがニコルの顔を照らした。
「当たり前でしょう。眩しいわ」
「すまない」
マカオンはテーブルにランタンとワインボトルを置くと、ニコルの隣に座った。
「あまり勧められないが、少し飲むといい。よく眠れる」
小さなグラスを上着のポケットから出すとワインを注いだ。
「ありがとう」
ニコルは少しずつ口に含む。
「美味しい」
「明日のパーティーでは飲むなよ。お前の前にはブドウジュースを置くように手配してある」
「どうして?」
「お前、ワイン飲み過ぎて倒れたのを忘れたのか。酒が合わない体質なのだ」
マカオンの説明にニコルはがっかりした。
「確かに倒れたけれど、あの後、気持ちがスッキリしたから、嫌なことがあったら飲もうと思ったのに」
マカオンは、ワインの力を借りて溜め込んだ気持ちを発散させたせいだと思う。そしてその時のニコルがとても可愛らしかったことを思い出した。
「まぁ、少しならいい。ただし、俺の前でだけだ」
「・・・・・・。ありがとう」
ニコルは昨日から王城の王族が住むフロアに部屋を移した。ソレイユに新婚夫婦を入居する部屋を造るためである。
昨日からマカオンは警備を兼ねて隣の部屋に居るが、壁を隔てている。
だが、新しくなったソレイユでは、二人の寝室は同じになる。
明日の立太子ではマカオンとの婚約が発表され、来年には挙式を挙げる予定だ。
「どうした。気分でも悪くなったのか」
黙りこくるニコルを不思議に思ったマカオンが顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫よ」
近くにあるマカオンの顔がランタンに照らされ眩い。
「眠くなったら寝ていいぞ。ベッドまで運んでやる」
マカオンはそう言うとソファーの肘掛けに掛かっていたコットンケットをニコルの肩に被せる。
「・・・・・・。ホント、素直に優しくないわね」
「お前もな」
「そんなことないわ。私は優しいわよ」
「記憶にないな」
2人はしばらくいつもの調子で話をしていた。
そのまま、眠ったニコルをベッドに運ぶとマカオンはニコルの額にキスをした。
「おやすみ。お転婆な王女様」
◇◇◇
「ニコル様、お美しいですわ」
女官のドレスを着たアデールが髪を結い終わると、新米女官のジルとレナータも口々に賛辞を送る。
「本当に美しいわ。瞳と同じ色のドレスにして正解でしたわね」
「えぇ、本当にニコル様の可愛らしさもアピールできているし。次はウエディングドレスですね」
「そうですね」
3人で盛り上がる中、ニコルは恥ずかしくて俯く。
「王女様が俯いてはいけません」
レナータがすぐに叱る。
「えぇ、そうね」
ニコルは背筋を伸ばした。
「私は結婚してもニコル様付きの女官として働きますからね」
「え、そうなのですか」
「まぁ、ニコル様。今日から私達に敬語を使ってはいけません。先程、話したばかりですよ」
さらに叱責を受けた。
レナータ、ジル、アデールの3人は、今日から正式にニコル付きの女官になったのである。
「はい。じゃなくて。そうだったわ」
急に名前を呼び捨てにすることや、敬語を使わずに話せと言われてもすぐにはできない。
「といころで、この大きなリボンにも仕掛けがあるの?」
ジルがアデールに確認する。
「はい。万が一ということがありますから」
「それなら、安心ね」
レナータはニコリと笑った。
ニコルが着ているプリンセスラインのドレスには、ドレスと共布でできたスカイブルーの大きなリボンが付いている。
襟の詰まったノースリーブにはプラチナブロンドと同じ色で蝶や花の刺繍が施してある。スカートの腰から裾までフリルが段々にあしらわれており、可愛らしさを演出している。
ちなみに、マカオンも同じ色のフロックコートを着ることになっているらしい。
ニコルはまだ見ていないが、マカオンなら格好良く着こなすに違いない。
性格は捻くれているが、容姿だけは抜群に良いのだ。
「さぁ、お時間ですよ」
アデールが穏やかに微笑む。
「さぁ、参りましょう」
レナータが先導する。
「えぇ」
ニコルは不安になってまた俯いてしまう。
「大丈夫ですよ。城の周りは静かです。それに、ニコル様の思いは伝わっています」
ジルが励ますと、ニコルはパっと顔を上げる。
「そうね」
ニコルはこの日初めて笑顔を見せ、3人の女官は安堵した。
立太子の儀式はつつがなく終了し、ニコルは国王から授けられた大粒のサファイアが付いたティアラを身に付け、国民の待つバルコニーへ向かう。
バルコニーへ近づくと、何やら外が騒がしい。
まさか、暴動が起きているのか。
ニコルが様子を見ようと駆け出そうとすると、肩を掴まれた。
「王女殿下」
「マカオン」
スカイブルーのフロックコートを着、蝶の刺繍をあしらったクラバット、胸にニコルと揃いのサファイアのブローチを付けたマカオンが居た。
「外が騒がしいのは未来の女王を人目見ようと、国中から集まった者の歓声だ」
「え?本当に」
「あぁ」
力強くマカオンが頷いた。
「さぁ、みんなお待ちかねだ。行くぞ」
マカオンが手を差し出す。
「えぇ、行きましょう」
ニコルは笑顔でマカオンの手を取った。
リボンを縫うのは、役に立った時のことを考えるとワクワクするので苦にならない。だが、刺繍は淡々と進める作業のようで、すぐに飽きてしまう。
そもそも、なんで刺繍をしなければならないのだろう。
アデールは女性としての嗜み、集中力を養うためと言っていたが、集中力を養うのであれば剣術でもいいと思う。
そもそもニコルの母、アゲハが刺繍をしている記憶がない。
だが、子供の頃は浴衣や巾着袋を作ってくれた覚えがある。
「あ、そうだ」
ニコルは立ち上がるとクローゼットを漁った。
「あったわ」
ニコルはクローゼットから桜色の巾着袋を取り出した。
桜色の巾着袋には子供が絵に描くような花が刺繍されている。
それは、アデールが刺すような綺麗な刺繍ではないが、温かみがある。
アゲハは関節や筋肉に痛みを感じる持病があるので、細かい作業は苦手だった。巾着袋も縫い目が綺麗とは言い難い。だが、ニコルのために一生懸命作ってくれたのが伝わってくる。
「これだわ」
ニコルは侍女を呼ぶと紙に蝶を描いた。
「これを刺繍にするには、どう直せばいいのかしら。分かる?」
侍女は戸惑いながらも、ニコルが描いた蝶の上から線を引く。
「こうでしょうか」
「なるほど。そうするのね。早速、刺繍してみるわ」
ニコルはアデールに相談もせず、何度も蝶の刺繍をし始めた。
後日、ニコルは講義の合間にアデールの元を訪れ、課題を提出した。
ニコルが出した課題は数枚しかできておらず、代わりに蝶の刺繍が大量に提出され、アデールに呆れた顔をされた。
「なぜ、蝶の刺繍を始めたのか、教えていただけますか」
ニコルはアゲハが作ってくれた巾着袋を見せた。
「これは母が、私が子供の頃に着ていた浴衣を巾着袋に直してくれたものです。縫い目も綺麗とは言い難いですし、刺繍もアデール様のように上手ではありません。でも、私のことを考えて作ってくれた思いが伝わってきます。この巾着袋を見て思ったのです。私は、誰かのために刺繍をすれば、もっと前向きに刺繍に取り組めるのではないかと。それで、蝶の刺繍を始めたのです」
アデールは巾着袋をじっくり見る。
「そうね。ニコル様のお母様が刺した刺繍には温かみがあるわ。誰かのために刺繍をするのは、良い考えだと思います。・・・・・・。私にはない考えだわ」
アデールはふぅっと一息吐くと、諦めの表情をした
「アデール様。私、何か気に障るようなことを申しましたでしょうか」
アデールの表情が気になってニコルは不安になる。
「いいえ」
アデールはニコルを安心させるように微笑んだ。
「ただ、私は誰かのために刺繍をしたり、何かを縫ったり、レースを編んだりしたことがないから、誰かのために刺繍をしようという考えが浮かばなかったのです」
「でも、アデール様は作った物をバザーに寄付されていますよね。その寄付で救われている人がたくさんいらっしゃいます」
「それは、持て余している時間で作った物を寄付しているだけで、誰かのために作ったわけではありません」
「ですが・・・・・・」
「それより、蝶の刺繍を練習しましょう。この図案はまだニコル様には難しいので他の蝶にしてみましょう」
ニコルの言葉を遮ってアデールが刺繍の図案を描き始めたので、ニコルは大人しく刺繍を教わることにした。
アデールの作った物がどのように役に立っているのか、自分の目で確認できればきっとアデールの気持ちに変化が起きるという確信があった。
だが、今のニコルには何もできない。できないことを約束するわけにはいかない。
もどかしさを感じながら、ニコルは蝶の刺繍を始めた。
◇◇◇
前回、マカオンがニコルの前に現れてから1カ月が過ぎた。
「もう、少しぐらい顔を出してくれてもいいのに・・・・・・」
ブツブツ言いながら刺繍を刺す。
以前とは異なり、ニコルは布一面に小さな蝶を刺繍していた。
レナータやジル、他の講師陣からは物覚えが良いと褒められることが多くなり、礼儀作法でも注意される機会が減ってきていた。
勉強は捗っているが、マカオンに会えない苛立ちが日に日に高まっている。
警備の関係上、ニコルは基本的にソレイユから出ることを禁じられている。つまり、ニコルからマカオンに会いに行くことはできないのである。マカオンも当然、この規則を知っているのだからマカオンから会いに来てくれればいいのだが、会いに来てくれない。
「もう・・・・・・」
むくれながらも蝶を刺繍していると、侍女が呼びに来た。
今日は社交でも重要なワインの講習なのである。
ワインの善し悪しや違いを知り、お客様の好みや料理に合うものを選べなければ、お客様をもてなすことができない。
案内された部屋には国内外のワインがずらりと並んでいた。
ワインの知識は、フリュイ領でワイナリーを見学した時に教えてもらっていたが、味の違いや善し悪しは飲み比べてみないと分からない。
宮廷でワインの管理をしている責任者から説明を聞きながら、レナータとジルが「このワインは誰の好み」「女性向き」「食前酒向き」「肉料理に合わせる」などの細かい知識を教えてくれる。
ニコルはそれらの知識を頭に入れながら、勧められるままに、勉強だと思って飲んでいた。
ニコルは騎士団に所属していたこともあり、酒類は避けていた。
つまり、自分が酒に強いのか分からない。
次第に身体が温かくなり、頭がボーっとして来た。
だが、まだ飲んでいないボトルがあるし、レナータとジルは平然と飲んでいる。
酒は飲んでいると身体が温まるものなのだと思って、ニコルは飲んだ。
ところが、次第に眠気に襲われて来た。
「ニコル様。どうかされましたか」
「ニコル様」
レナータとジルの声が遠くから聞こえる。
ニコルは2人近くにいるはずなのに声が遠いいので、おかしいと思うが目が開かない。
「・・・・・・」
ニコルはレナータとジルを呼んでいるはずなのだが、唇が上手く動かず次第に意識が遠のいて行った。
喉の乾きを覚えてニコルが目を覚ますと、ベッドの天蓋が見えた。
「・・・・・・」
ベッドの中にしては暑いと思って起き上がろうとすると、頭がガンガンして吐き気に襲われて蹲る。
「大丈夫か」
隣から声がして驚いてそっと顔を上げると、ランプに照らされてキラキラと光る髪が映った。
「・・・・・・。マカオン。どうしたの」
「どうしたの?じゃない。意識がなくなるまでワインを飲むな」
文句を言いながらもマカオンは、水差しでレモン水注ぐと、コップをニコルに渡した。
「・・・・・・。美味しい」
ふうっと息を吐くと、実はマカオンがニコルのベッドに入っていたことに気が付いた。
「ちょっと、なんでマカオンが私のベッドに入っているのよ」
「お前を介抱していたのに、なぜ文句を言われなければいけないのだ」
「・・・・・・。え?」
ニコルは記憶を辿るが思い出せない。
「・・・・・・。お前、記憶がないのか」
マカオンは呆れた。
「うん。なぜだろう」
ニコルは首をかしげる。
「ただの飲み過ぎだ。さぁ、まだ夜中だ。寝ろ」
マカオンは言葉とは裏腹に、優しい手つきでニコルを寝かせる。
「ねぇ、隣で寝るの?」
ニコルは、そわそわし始める。
「酒に酔った者が、寝ている間に吐いたものを詰まらせて死ぬことがあるからな。お前は気にせずに寝ていろ」
マカオンはニコルの顔に手を当てると、ニコルの瞼を閉じさせた。
ニコルはマカオンが隣にいたら眠れないと思っていたが、酔いが残っていたのかすぐに眠ってしまった。
ニコルが眠ったのを確認すると、マカオンも横たわる。
ニコルが倒れたと護衛官が走って来たのは、国王の執務室を出た時だった。
マカオンは父のアルディ公爵補佐として、今でも国王を退陣させようとする貴族やニコルを消そうとする一味の対応で忙しい。加えて、実力不足や愛想のないマカオンは、王配に相応しくないと、息子を売り込む輩を蹴散らさなければいけないのである。
「大変です。王女殿下が倒れました」
「なぜだ」
マカオンが護衛官を問い詰める。
「それが、ワインを飲んでいて倒れられたと」
今日の講義は茶会や夜会の仕切り方だった。
茶会や夜会を開く時は女主人が取り仕切るのが通例である。女性は未婚の時から茶会を開きながら、準備や茶会の仕切り方を身に付ける。
だが、ニコルは騎士として働いていたので、ジルに教えてもらう日だった。
だから、マカオンは茶会でもしているのだと思っていたのだが、なぜワインを飲んだのか。
「毒が盛られていたのか」
ソレイユに向かいながら護衛官に訊ねる。
「いえ、城でワインを管理している責任者がいたので、その可能性は低いと思われます。なんでも、いろいろな種類のワインを飲まれていたとか」
マカオンには、ニコルがワインや酒類を飲んでいる場面を見た覚えがない。
フランソワーズの件で後宮に潜入した時にルイから、騎士はいつ何時非常事態に遭遇するのか分からない。禁酒しろと言われたのを思い出す。マカオンは一度、その約束を破ったがニコルは騎士であることに誇りを持っていたので、酒を飲んだことがないはずだった。
「酒に弱かったのを知らなかったのか、知っていて無理をしたのかだな」
マカオンは独り言を言いながらソレイユに入る。
ニコルはすでに王城の医師によって部屋に運ばれていた。
「お酒の飲み過ぎです。お酒が体質に合わないのでしょう」
医師はそう診断を下した。そして、休養とレモン水を摂らせるように指示をして部屋を出て行った。
ベッドを覗くとニコルはドレスから浴衣に着替えさせられて、気持ち良さそうに眠っている。
マカオンは安心すると、部屋の隅で安堵しているレナータとジルを睨む。
「どういうことか説明願えますか」
「はい。茶会や夜会で出すワインについての知識を得ていただこうと、試飲をしていたのです。数種類のワインを試飲したところで、意識を無くされました」
ジルが項垂れながら説明した。
「王女が酒を飲めるか確認しなかったのか」
「・・・・・・。てっきり飲めるとばかり」
レナータがボソっと言うと、マカオンの怒りが頂点に達した。
「酒が身体に合わない人の中には、死ぬ人間もいる。ワインの試飲をするなら本人に確認するべきだ。そもそもワインの試飲なんか必要ない。ワインが必要なら、ワインの産地であるアルディ公爵領から調達する」
「申し訳ございません」
レナータとジルは深々と頭を下げて謝罪をすると部屋を出て行った。
マカオンは夕方以降の仕事をキャンセルしてニコルに付き添う。
「うーん」
寝返りを打ったニコルは汗をかいていた。
マカオンは侍女が置いていったタオルで汗を拭く。すると、ニコルが目を開けた。
「起こしたか」
マカオンが驚いて訊ねると、ニコルは満面の笑みを見せた。
「マカオンだ」
ニコルは腕を広げるとマカオンに抱きついた。
「・・・・・・。おい」
騎士姿の時には気が付かなかったが、ニコルは意外と女性らしい体型をしている。
浴衣一枚で抱きつかれると、女性特有の柔らかさや弾力を直に感じてしまう。
マカオンはなんとか引き剥がそうとするが、ニコルは抱きついたまま体重をかけてくる。
「危ないだろ」
このままではニコルを落としかねない。仕方なくマカオンは身体を反転させると、ニコルに押し倒されてしまった。
「おい、どけ」
ニコルの身体を叩くがニコルはマカオンの胸に倒れ込んで目を閉じている。
「うーん・・・・・・」
悩ましげな声を上げられ、マカオンは嫌な汗をかく。
「あぁ、もう・・・・・・」
マカオンは力ずくでニコルを引き剥がすと、ベッドに寝かせた。そして、ベッドを降りようとすると、後ろに引っ張られた。
「もう行っちゃうの」
上目遣いでニコルが見つめる。
「・・・・・・。側に居るから安心しろ」
「ずっと会いに来てくれなかったくせに」
潤んだ目でニコルが睨む。
マカオンは髪をぐしゃぐしゃと掻く。
「それは、いろいろあって・・・・・・」
「私だって忙しい。でも、ここから出るなって言われているから、我慢しているの。それなのに、会いに来てくれなくて・・・・・・」
ぽろぽろとニコルの目から涙が溢れる。
「悪かった」
マカオンはニコルの頭を撫でた。
「本当に?」
先程マカオンが力ずくで自分の身体から剥がしたせいか、浴衣の襟が乱れて胸元が見えそうになっている。
マカオンは視線を逸らしながら、襟元を適当に直した。
「ねぇ、聞いている?」
「聞いている」
「私のこと好き?」
「はぁ?」
そんな話だっただろうか。マカオンは混乱する。
「キスしたし、プロポーズもしてくれたけど、言われてない」
ムッとした表情のニコルは、完全に目が据わっている。
このタイミングで言うのか。マカオンは自問自答した。言ったところで本人が覚えていない可能性もある。
「好きじゃなかったらプロポーズしない」
「・・・・・・。意気地なし」
「うるさい」
いつも溜め込んでいる本音を言い、脹れ面のニコルが可愛くてマカオンは抱き締める。
「今日はこうしていてやるから、眠れ」
マカオンは上着を脱ぐと、ニコルを抱きしめたままベッドに潜り込んだ。
ニコルは頷くと力一杯抱きついたまま眠った。
「会いたかったのはお前だけじゃない・・・・・・」
マカオンはニコルの温もりを感じながら目を閉じた。
◇◇◇
ニコルの酩酊事件後、マカオンは忙しくても2日に1時間は、ニコルとの時間を過ごすようになった。
王城内には、ニコルの部屋にマカオンが泊まったことが流布され、公認の仲になっているのでレナータやジル、講師陣はマカオンが姿を現すと席を外してくれる。
「なんか恥ずかしいわ」
「別に構わないだろ」
思い出したらもっと恥ずかしいことをしているくせに、とマカオンは思うが本人に伝える気はない。
さり気なくニコルの手を取りながら、ソレイユの庭を散策する。
「マカオンは普段、どんな仕事をしているの?」
「陛下の手伝いの手伝いだな」
「なぁに、それ」
ニコルが笑う。
マカオンは、ニコルが多くの人間を魅了していることを知らないことがいいのか、悩んでいた。
レナータとジルは議会を牛耳る貴族と敵対することを懸念しているようだが、珠璃人が多く住む領地の貴族はみんなニコルを幼い頃から知っており、娘か孫のように思っている。
「あのニコル様が女王になったら、ニコル様に盾突く輩は私が排除します」
と一人の貴族が言えば、「いやいや、私が」「私だって」と、次々名乗りを上げる始末。
マカオンはこれらの貴族がニコルを傀儡のように操らないか、後ろ暗い所がないか騎士団の諜報員に依頼をして、報告書をまとめているのだが、怪しい人物はいない。上がってくる調査内容は、ニコルの故郷ラーンジュ領へ視察に行ったおかげで、自分の領地が豊かになった。そのため、ニコルの両親である辺境伯夫妻を恩人と崇めているというものばかりだ。そのうえ、ラーンジュ領滞在中に人懐っこい幼いニコルに骨抜きにされた者や、騎士として自分の領地に来たニコルが領民達を味方に付けていくさまを見て、ニコルのファンになった者が大勢いる。
「我が娘ながらこんなに支持されているとは。辺境伯夫妻には感謝しかない」
報告を受けた国王は苦笑いした。
「女王を支えてくれる貴族を決めないといけないのだが、候補者が多すぎるのも困りものだな」
マカオンの父、アルディ公爵も眉間に皺を寄せている状況だ。
その結果、未だにニコル女王を支えてくれそうな有力貴族が決まっていないのである。
「ねぇ、マカオン」
「なんだ」
「なんか聞こえない?」
ニコルはソレイユの入り口を指刺す。
「何か騒がしいな」
「何かしら」
ニコルがマカオンから手を離して行こうとするので、マカオンは手を強く握る。
「待て」
「何?」
ニコルが不思議そうな顔をする。
「王女自ら確認しに行くな」
マカオンは遠巻きに護衛をしていた一人を呼ぶと、確認に行かせた。
「部屋に戻るぞ」
「そうね・・・・・・」
ニコルは護衛官が向かった先を気にしながら部屋へ戻った。
ニコルとマカオンが部屋に戻るとすぐに護衛官が報告に来たが、なぜかアデールも一緒である。
「アデール様の父上、ロシュジャクシャン伯爵が、アデール様に会いたいと入り口の護衛と揉めています」
護衛官が報告するとアデールが小さくなって「申し訳ございません」と謝る。
「アデール様、父上のご用件は何かわかりますか」
ニコルの問いにアデールは首を振る。
「わかりません」
アデールは気の毒なくらいに青ざめて震えていた。
「俺が行こう」
マカオンが立ち上がろうとすると「待って」とニコルが止めた。
「私が行くわ」
「ニコル様」
アデールが驚く。
「ここは、私が陛下から貸していただいているソレイユ(宮殿)よ。主人である私が対応するべきでしょう」
ニコルはマカオンに同意を求めた。
「わかった。だが、俺も付いていく」
「アデール様は、レナータ様とジル様と一緒に待っていてください」
「かしこまりました」
ニコルはマカオンを連れて部屋を出てソレイユの入り口へ行くと、老人が杖を振り回して暴れていた。
「自分の娘に会いに来て何が悪い。どけ」
強引に中へ入ろうとするのを護衛官が止めている。
「どきなさい」
ニコルが強い口調で命令すると護衛官が左右に退いた。
「これは、王女殿下」
アデ―ルの父は暴れるのを止めると、服の乱れを直した。
「ごきげんよう。ロシュジャクシャン伯爵」
ニコルは優雅に微笑む。
「ご機嫌麗しゅうございます。王女殿下」
ニヤニヤしながら挨拶をするアデールの父から、ニコルを馬鹿にしているのが見て取れる。
「上辺だけの挨拶はけっこう。ここは、王族以外は立ち入ることができません。何をしていたのですか」
将来女王になるには威厳が足りないと指摘されていたニコルは、講義がある時間は常に凜とした表情になるようなメイクと、シックな装いをしていた。
今日は、濃紺のプリンセスラインのドレスに黒のリボンを腰に巻き、リボンと共布のヘッドドレスを付けて、女王の仮面を被っている。
「それは、その、こちらが王女殿下の宮殿になったと聞きましたので、娘に会いたいと参じた次第です」
「陛下からのお許しはいただいていますか」
「いいえ」
ニコルは一度も無表情を崩さずに淡々と話す。
「それでは会わせることはできません。アデール様は一時的に陛下から、お借りしているのです。この場所も一時的にお借りしているだけで、後宮が解散したわけではありません。お引き取りください」
ニコルが立ち去ろうとすると、アデールの父は笑い声を上げた。
「アデールは凡庸な女です。王女殿下のお役に立てるとは思えません」
「まぁ、伯爵はアデール様の良いところをご存じないのね」
ニコルは軽蔑の眼差しを向けた。
「いえ、知っています。当然です」
アデールの父は狼狽えた。
「では、教えていただけますか。私もアデール様のすべてを知っているわけではありません。教えていただけると助かります」
ニコルは艶やかに笑う。
アデールの父は額に大粒の汗を浮かべた。
「え、えっと・・・・・・」
目を泳がせるアデールの父を睨み付けると、ニコルは手で追い払う。
「もうけっこう。お引き取りになって」
「あの、一目でいいので娘に会わせてください」
アデールの父は食い下がる。
「聞こえなかったのか。下がれ」
ニコルはいつもよりも低い声でぴしゃりと言い放つと、アデールの父は青ざめ、そそくさと去って行った。
ニコルは肩で息をすると踵を返す。
「なかなかやるじゃないか」
後方で事の成り行きを見守っていたマカオンが、片方の口角を上げて笑う。
「そうかしら。疲れるわ」
「まるで別人だ」
「だんだん自分が自分でなくなるような、嘘を吐いているような、変な気持ちになるわ」
「ここで生きるってことはそういうことだ」
「マカオンもそうなの」
ニコルは期待の目でマカオンを見上げる。
「さぁな」
「意地悪」
ニコルはマカオンを軽く睨んだ。
「ニコル様、上出来ですわ」
「見違えましたわ」
突然、柱の影からレナータとジル、アデールが出て来た。
「ありがとうございました」
アデールが深々と頭を下げる。
「いいえ、アデール様は悪くありません。アデール様のことを知らないお父上に腹が立っただけです」
「そんな私なんかのために。申し訳ございません」
アデールは恐縮した。
「でも、ニコル様の成長を見ることができて良かったわ。ただ、マカオン様が一緒だったのが残念だったけれど」
「えぇ。でも、心配なお気持ちもわかりますから」
レナータとジルの話に付いていけず、キョトンとするニコルにマカオンが説明する。
「俺との婚約は王城内の限られた人間しか知られていない。王族しか入れないソレイユに俺が居たことに気が付いた伯爵は、良いネタを掴んだと思っただろう」
「知られてはいけないの?」
「一斉に全員が知るのは構わないが、伯爵のように一人だけ先に知れば、伯爵が利権を得ようと一足先にアルディ公爵家に対して画策を始める。つまり、伯爵が抜け駆けしたような形になる」
「それは不公平ね」
ニコルは納得した。
「取りあえず、俺は陛下と話をしてくる」
マカオンはソレイユを出て行った。
「では、私達も講師の先生方と話し合わないといけませんね」
「えぇ、婚約発表や立太子が早くなるかも知れませんもの」
レナータとジルが頷き合う。
「では、ニコル様は刺繍の時間にしましょう」
「はい」
ソレイユには普段通りの空気が戻っていた。
◇◇◇
翌日、レナータの講義中にマカオンが飛び込んで来た。
「立太子の日が2週間後になった」
「そんな、間に合いませんわ」
レナータが立ち上がって叫んだ。
「どうしてそんな急に・・・・・・」
ニコルも青ざめる。
いくらなんでも人前に立てる自信はない。
「陛下の決定だ。覆すことはできない。これから、仕立屋が来る。ドレスの採寸とデザインを決めてくれ」
マカオンはそれだけ言うと出て行こうとする。
「待ちなさい。なぜ、急に早まったのか説明しなさい」
レナータは動転の余り、皇女の言葉遣いになっている。
「国民にフランソワーズの罪と、死の真相が知れ渡った。子育てもできない国王と王妃に国は任せられないという国民の声が上がっている。」
「どうして。一部の人間しか知らないはずなのに・・・・・・」
ニコルは信じられない思いでマカオンを見つめた。
「誰かが流布したとしか思えない。だが、信じられないのが一晩で王都から離れた辺境地まで一斉に広がっていることだ」
マカオンは信じられないと首を振った。
連絡手段は手紙や人や鳥による伝令しかない。それなのに、どうやって一晩で全土に知れ渡ったのか。
「そんなどうやって・・・・・・」
「わからない。今、ルイ達騎士団が調べている」
「現国王への反発を抑え込むために、ニコル様を利用するということね」
ジルがマカオンに確認する。
「張りぼてでも構わないから、それらしく見せて欲しいとのことだ」
マカオンはそう言い捨てると部屋を出て行った。
「張りぼてとは、失礼な」
レナータは珍しくムスッとした表情をする。
「でも、やるしかありません。レナータ様、ジル様、お願いします」
ニコルは悲壮な面持ちで頭を下げた。
「任せなさい」
「えぇ」
レナータとジルは、ニコルを元気づけるように胸を張って見せた。
◇◇◇
立太子の日が決まり、王城内は慌ただしくなった。
ニコルの準備はドレスや宝飾品選びだけではない。儀式の手順や招待客の名前と経歴を覚え、礼儀作法や社交のおさらいなど忙しい。
さらに立太子当日の朝、国民向けにニコルからのメッセージが新聞に掲載されることになっている。
国王夫妻への反発がある中、王族へのイメージを回復する狙いも含まれているため、一連の立太子関連のイベントで最重要に位置付けられている。
「当日スピーチするのではないの」
レナータが怪訝な顔をする。
「我が国では新聞に掲載することになっている。それも全土へ一斉だ。発表の三日前には仕上げて新聞社へ持ち込まないと間に合わない」
「まぁ、大変。日にちがないわ」
ジルが日にちを数える。
「内容によっては当日、反王族派が反乱を起こしかねない」
マカオンの言葉にニコルはじわりと嫌な汗をかいた。
反乱が起きないように国を纏める。そんなメッセージを自分が書けるだろうか。
自分に与えられた役割を果たすと意気込んで来たが、女王の任務はそんなに簡単なものではない。
ふと、ニコルは国王夫妻が自分の子供ときちんと向き合えなかった原因が分かった気がした。自分の子より国民を優先しなければ、多くの民を護ることはできないのである。だからといって、子供を蔑ろにしていい理由にはならないが。
「どうした。責任の重さに気が付いて逃げ出したくなったか」
黙っているニコルを見て、マカオンが口角の端を上げて笑った。
「違うわよ。何を伝えればいいのか分からないのよ。反乱を抑えるためのメッセージなんて考えたことないもの」
本心を見抜かれたニコルは早口で反論する。
「だったら、自分が伝えたいことを伝えればいい」
「え?」
「お前は王族だが、ずっと国民と共に育って来ただろう。だから国民の気持ちが分かるはずだ。その、お前が目指す国と国民が望んでいる国の姿は大きく異なることはないだろう」
先程の皮肉な笑みが消えて真剣な眼差しでニコルにアドバイスをする。
「・・・・・・。そうね。ありがとうマカオン」
満面の笑みでニコルはマカオンに抱きつく。
「・・・・・・。おい」
マカオンは慌てふためくが、ニコルは腕に力を込める。
「こら、いい加減にしろ・・・・・・」
マカオンが無理矢理引き剥がそうとするが、ニコルは離れない。
「ニコル様、私達がいることをお忘れなく」
見かねたレナータが止めに入った。
ニコルは今の状況を思い出し、マカオンから離れると謝った。
「申し訳ございません」
マカオンは「じゃあ」と、ポンとニコルの背中を叩くと部屋を出て行った。
レナータとジル、アデールは「仲がよろしくていいわね」と、笑い合う。
ニコルは恥ずかしくて、居たたまれない気持ちになった。
◇◇◇
数日経ってもニコルはメッセージを書けずに机で唸っていた。
そこへマカオンが顔を出し、ニコルを庭へ連れ出してくれた。
「あー、いい気持ち」
ニコルはウーンと背伸びをする。
「原稿が真っ白らしいな」
「期日までにはちゃんと書くわよ」
ニコルは嫌なところを突かれて喧嘩腰になる。
「すぐ喧嘩腰になるな」
マカオンはニコルの鼻を人差し指で突っつく。
「う、ごめんなさい」
ニコルはしゅんっと項垂れた。
最近、すぐ喧嘩腰なる話し方と勝ち気な態度をレナータやジル、他の講師陣に指摘されてニコルは気にしている。
「そんなに、しょんぼりすることないだろう」
事情を知らないマカオンは慌てた。
「だって、最近みんなに指摘されるし、女王が短気なのは良くないって言われたし・・・・・」
「まぁ、女王が短気なのは良くないが、お前の場合は話し方が喧嘩腰なだけで短気なわけではないだろう」
「でも、勝ち気すぎるのも良くないって言われたわ」
「勝ち気でないと国を背負えないぞ」
「じゃあ、私はどうすればいいの?」
ニコルははぁ、と盛大な溜息を吐く。
「お前はそのままでいい。後は俺がなんとかする」
「なんとかって?」
ニコルがマカオンを見上げると、マカオンはニヤリと笑う。
「それは秘密だ」
「えー、なんでよ」
マカオンの腕を掴んで「教えなさいよ」と、何度もニコルが言う。マカオンは「うるさい」と腕を振ってニコルを払おうとする。
「ねぇ、あそこ見て」
マカオンの腕を掴みながら声を潜めてニコルは、前方を指さす。
「どうした?」
マカオンはニコルの指先を視線で追う。
そこでは、レナータが見慣れない人物と話をしている様子が見える。
ニコルには、話し合いというより対峙しているように見えた。
「穏やかじゃないな」
マカオンの目にも不穏な空気が見えたようだ。
「そうね」
2人は気配を消しながら木立の影に身を潜め、レナータ達に近づく。
「私にできることはもうないわ。グラディスにも帰りません」
「それでは皇帝が納得しません」
レナータの相手は男だ。それも、王城の騎士と同じ制服を着ているが、腕や胸に付いている紋章が異なった。あれはグラディス帝国の紋章だ。
「だから、ニコル様を殺して跡継ぎを産めと?できないわ」
レナータの言葉にニコルは耳を疑い、とっさにマカオンの腕にしがみつく。
「それなら我らが殺るまで」
男は無機質な声で宣言した。
「それは私が許しません」
レナータは毅然と答えた。
すると、男は腰の剣を抜いた。
刹那、ニコルとマカオンは飛び出し、レナータを庇うように立つ。
「我が国にフランソワーズ様のことを流したのはお前達か」
マカオンは剣を構えながら男に問う。
「どこにそんな証拠がある」
「レナータ様が証拠だ」
マカオンは平然と言い放つ。
「ならば、ニコル王女共々葬り去るまで」
男はマカオンに斬りかかる。
ニコルは腰のリボンに仕込んでいた鞭を取り出すと、相手の手首に振り下ろす。
こういう時のために、アデールがリボンに仕掛けをしてくれたのだ。
「うぐっ」
男はあっけなく剣を落とした。
ホッとしたのも束の間、どこからともなく数人の男が出て来た。
「きゃあ」
レナータの悲鳴に振り向くと、男の一人がレナータを担いで逃げるところだった。
「レナータ様」
ニコルは先程男が落とした剣を拾うと、目の前に斬り付ける。だが、いつもの剣ではないので、スピードが出ない。
舌打ちをするニコルの隣で、マカオンはフランソワーズのパーティーで見た時とは比べ物にならない華麗な剣捌きで相手を倒している。ニコルは剣を捨て、鞭を握りしめるとレナータを担いで逃げる男を追いかけた。
ニコルは袖口に仕込んでいたカミソリの刃でドレスの裾を裂き、靴を脱いで裸足で走った。
「逃がすか」
男はニコルより足が遅い。あっという間に男の後ろに付けると、男の足下目掛けて鞭を振るう。
だが、上手く躱された。
「ニコル様。私に気を取られないで」
レナータが叫ぶ。
レナータはニコルを殺さなかった。それどころか、殺させまいと一人でグラディス帝国やグラディス皇帝と闘っていたのだ。
ニコルはその期待に応えたかった。
ニコルは男の太股を狙って鞭で打つ。今度は当たった。さらに、反対側の太股を狙って打つ。左右を交互に打ち、男のズボンがボロボロになり血が滴る頃、痛みで男が立ち止まった。そこでニコルは全体重をかけて、傷の深い箇所を目掛けて鞭で打った。
「うがぁ」
渾身の一撃を受けた男はレナータを放り出して倒れた。
呻く男にニコルはさらに鞭を見舞う。
ビシッバシッと急所に鞭を入れると、男は気を失った。
「レナータ様、大丈夫ですか」
レナータは放り出された拍子に植え込みに落ちた。
「・・・・・・。痛い・・・・・・」
ニコルの呼びかけにレナータは目を開くが、すぐに目を瞑る。
放り投げ出された場所は植え込みだが、皇女として育ったレナータは大怪我をしている可能性があった。
「レナータ様。大丈夫ですか」
ニコルは心配になってレナータを植え込みから降ろし、脚や腕を動かして骨折していないか確認する。
「もっと、スマートなやり方はなかったの」
レナータは頭を押さえているが意識はしっかりしているようだった。
ニコルはホッと胸をなで下ろす。
「レナータ様が、ご自分のことは気にしなくていいと仰ったのですよ。」
「まさか、あんな方法だと思わないでしょう。・・・・・・って、ニコル様、その格好は一体」
「あ・・・・・・」
ニコルは「しまった」と口を押さえた。
ドレスは膝下が裂け、そこから細身のパンツが見えている。
「ニコル様。騎士の真似事は禁止だと言ったはずです」
レナータが鬼のような顔をしている。
「ですが、自分が狙われている可能性がありましたし・・・・・・」
ニコルが口籠もっているとマカオンとルイ、護衛達が到着した。
「お2人共無事ですか」
ルイが座り込んでいるレナータに怪我の状況を聞き出す。
「大丈夫だったか」
「えぇ、この通り。ただ、レナータ様は医師に診てもらって」
「何があった」
マカオンに問われたニコルは状況を説明する。
「はぁ・・・・・・。応援を待つという考えはなかったのか」
「その間に逃げられたら意味がないでしょう。それに、レナータ様の許可は取っていたし」
「こんな方法、許可した覚えはないわ」
レナータが声を上げる。
「まぁまぁ、レナータ様。大声を出すと頭に響きます。まずは医師に診ていただきましょう」
「えぇ、わかったわ」
レナータはルイの手を借りて立ち上がる。
「お前はもう少し仲間を信頼しろ。お前が走って行ってすぐに護衛が駆けつけて男達を捉えた。これからは、人を使う立場だ。周囲と信頼関係が築けないと何もできないぞ」
マカオンの言葉が胸に刺さった。
騎士団に居た時からニコルはどんな相手でも周囲を頼らずに闘って来た。それは、仲間を信頼していなかったからだ。自分の命を預けてもいい相手を見つけられなかった、というより大きな秘密を抱えていたせいで、誰にも心を開けなかったのである。
「そうね。これからは、気をつけるわ」
「ところでレナータ様、診察の後に話を伺えますか」
マカオンはレナータを睨み付ける。
「えぇ、もちろんよ」
レナータも覚悟を決めた表情で答えた。
「レナータ様は悪くないわ」
「それは話を聞かないとわからない」
「マカオン様は正しいわ。でも、1つだけ確かなことがあるわ」
レナータはニコルの前に立つとニコルの手を取った。
「レナータ・グラディスはニコル・ドゥ・ヴェルミリオン王女に忠誠を誓います」
レナータは腰をかがめてニコルの手に口づけた。
この行為は本来、騎士が主に忠誠を誓う時に行うものである。それを、グラディス帝国の皇女が、立太子もしていないニコルに行ったのである。
呆然としているニコルにレナータは満面の笑みを見せた。
「さぁ、参りましょう。ルイ総統」
「かしこまりました」
ルイはレナータを横抱きにして運んで行く。
ニコルはレナータにかける言葉が見つからず、見送ることしかできなかった。
◇◇◇
レナータと対峙していた男達は捕らえられた後、隠し持っていた毒を飲んで死んだ。
一方で度重なる侵入者の出没に、騎士団は王城の警備体制を見直して強化した。
そして、国王自らの聴取に素直に応じたレナータは、無罪放免でソレイユに戻っている。
「では、レナータ様は皇帝から子供を産むか、ニコル様の殺害を迫られていたのですか」
ソレイユにあるレナータの私室に集まったニコルとジル、アデールはレナータから話を聞いていた。
「えぇ。でも、私は国王の寵愛どころか捨て置かれている身。そこをニコル様に拾われたようなものでしょ。ニコル様を殺そうなんて一度も考えたことはないわ」
「確かに、私達はニコル様に拾われたようなものですものね」
輪の中心になって話を進めるジルは感慨深げに頷いた。
「ちょっと待ってください。お姉様方に協力していただいてしますけど、拾った覚えはありません」
ニコルが慌てる。
「でも、行き場も役目もない私達に役目を与えてくださったのはニコル様です」
アデールが優しく微笑むと、レナータとジルが頷いた。
「それに、国王の子供を産めずに後宮が解散されたら、私はきっと老貴族か豪商の後妻になっていたはずです」
アデールの思わぬ発言にニコルは驚いた。
「後妻?アデール様が。なぜ、そうなるのですか」
「先日、父がソレイユの前で暴れていたのは、借金で首が回らなくなったので、私を財産目的で嫁がせるためだったのですよ」
アデールは淡々と打ち明けた。
「そうでしたか」
確か以前、アデールの情報を集めた時に、妻が散財すると嘆いている噂があった。その金額が膨らみ、切羽詰まっていたのだろう。それで、ニコルの教育係にアデールは役に立たないと主張したのだとニコルは合点がいった。
「どこも同じようなものね」
いつも明るいジルが憂鬱そうな顔を見せた。
「ジル様?」
ジルにも何かあるのだろうか、とニコルは不安になった。3人とはいつも一緒にいるのに、ニコルは何も知らないのだと今更ながら知る。
「私も国王の子を産めと散々言われ、産める歳ではなくなったら有力貴族の後妻になれるように手を打つから帰って来いと言われているの。だから、せめてレナータ様に子供ができるように王妃様に話しをつけて、後宮に入って仕事をした実績を作りたかったの。それで、後妻にならなくて済むようにしたかったのだけど、無理だったわ」
「そうだったのですか」
後宮に入る女達は、それぞれ重荷を背負っているのだとニコルは目の当たりにして、彼女達にかける言葉も見つからない。
「私が動かないから皇帝が間諜を放って来たけど、あの間諜は死んだのよね」
「マカオンの話では自ら毒を飲んで死んだと。今回の件は、内密に処理するようです」
「そう。外交問題にならなくて良かったわ」
レナータは安堵した表情をする。
本来なら外交問題に発展するような事件である。だが、ニコルは無事であったし、レナータが先導したわけでもない。加えて、下手をすれば戦争になりかねないので内々で処理したのである。
「ところで、レナータ様はこれからどうなるのかしら」
ジルがニコルに訊ねると、ニコルは複雑な顔をする。
「マカオンの話では後宮に置いておくわけにはいかないと」
「そうでしょうね」
レナータは納得する。
「ですが、私はレナータ様には側にいて欲しいのです」
ニコルは切実な思いでレナータに訴える。
「ちょっと待ちなさい。私は貴方を殺そうとした国の皇女なのよ」
「えぇ、でもレナータ様は私を殺せないと仰いました。それに、忠誠を誓ってくださったでしょう」
「そうだけど」
レナータは珍しく怯えたような顔をしている。
「ですから、この機会にどこかの養女になって、私の女官になっていただけませんか」
「はぁ?」
レナータは唖然とする。それは、ジルやアデールも同じだった。
「ニコル様。どんな機会かわかりませんが、レナータ様を養女にするって、どこの家がそんなことをするのですか。グラディス帝国にバレたら戦争になります」
「例えば、私の実家。辺境伯家とか」
「ニコル様。辺境伯様は臣籍降下されたとはいえ王族です」
ジルとニコルがやり取りしている間、考え込んでいたレナータが顔を上げた。
「待って。良い考えだわ」
「レナータ様まで」
ジルが呆れる。
「グラディス帝国に付け入るには、私は良い切り札になるわ。そう思わない?」
「まぁ、そうでしょうけど」
ジルは困惑顔で頷く。
「間諜達が死んだのならちょうどいいわ。レナータ皇女は間諜と揉めた挙げ句に自害した。その後、新しい身分でニコル様付きの女官になる。それで、グラディス帝国との折衝に出れば無言の圧力になるわ」
「さすが、レナータ様」
レナータの案にニコルはワクワクした。
「でも、レナータ様を死なせたとなれば我が国も責めを負うのではありませんか」
黙っていたアデールが不安そうに告げた。
「大丈夫よ。私がグラディス帝国に遺書を送るわ。それに、グラディス帝国には自害した者の遺体は引き取らない習慣があるの。私が死んだかどうかなんて調べようがないわ」
「・・・・・・。そういうことですか。それでしたら、私が実家と掛け合いましょう」
「ジル様?」
今まで反対していたジルが乗り気になり、ニコルは満面に笑みを浮かべる。
「子供も産めず、レナータ様に子供を産ませることもできませんでしたけど、時期女王の切り札を養女にするのであれば、実家に貢献できますもの。その代わりニコル様にお願いがあります」
「なんでも言って」
ニコルは上機嫌で答える。
「私とアデール様もニコル様付きの女官にしてください」
「もちろんよ。私は、初めからそのつもりよ」
ニコルはウインクして見せる。
「まぁ、私もですか」
アデールが歓喜の声を上げた。
「当たり前でしょう。リボンの仕掛けはアデール様しかできないもの」
「まぁ、あの仕掛けはアデール様が作ったのですか」
レナータが驚きの声を上げた。
「申し訳ございません」
レナータに睨まれ、アデールは謝る。
「まぁ、いいわ。おかげで私もニコル様も無事でしたもの。でも、今後も必要なのかしら」
「必要です。初の女王を認めない人達が多いもの」
ニコルが主張すると隣でジルが笑った。
「まぁ、ニコル様ご自身が引き起こしそうですけどね」
ジルの言葉にレナータとアデールが笑い、ニコルは「まぁ、酷い」と言いながら笑った。
その後、国王は国民から認められれば、後宮を解散してレナータ達3人をニコル付きの女官とすることを認めた。さらに、レナータの身分についても協力してくれるという。
「本当に無茶苦茶な奴だな」
ニコルの私室でマカオンはソファーにどさりと腰をおろすと呆れ顔をする。
「そうかしら」
ニコルは国民向けのメッセージを考えながら首をかしげる。
「止めろとは言わないが、事を起こす時には俺に相談してからにしてくれ」
「え、なんで?」
レナータ達3人と話した事をニコルはマカオンやマカオンの父に相談せず、国王に直接直談判したのである。
「こういう事には、根回しが必要なのだ」
「そう」
ニコルは相変わらずペンを走らせ、マカオンを見ようとしない。
「おい。聞いているのか。今後も同じように勝手に事を進めると信頼を失う。もしくは、見落としていた穴に落ちるぞ」
「わかったわ。これからマカオンに相談する」
ニコルはようやく不機嫌な顔でマカオンを見た。
「どうかしたのか」
「もう、うるさいな。一生懸命文章考えているのに、話しかけないでよ」
ニコルは自分の椅子に置いてあったクッションをマカオンに投げつけた。
「・・・・・・。悪かった。じゃあな」
マカオンは降参とばかりに部屋を出て行く。
ニコルはその背中を睨み付けると、またペンを走らせた。
だが、なかなか納得のいく文章は出来上がらない。
王城にはスピーチ原稿や国民向けの発表をする時に原稿を書く人材がいる。
だが、ニコルは自分の言葉で自分の思いを伝えたかった。
正確に言えばメッセージ文自体は出来上がっている。ただ、これならば自分の思いや考えが伝わるという自信が持てない。しかし、自信を持てないまま締め切り日を迎えた。
◇◇◇
「それにしても、意外な展開になりましたね」
明日はいよいよ立太子の日。
アデールはようやく伸びたニコルの髪をシニヨンに結いながら笑う。
「本当。びっくりしたわ」
ニコルは相槌を打った。
2人が話しているのは、ジルが実家のリッシュモン侯爵家へレナータを養子にして欲しいと依頼をした時のことである。
国王の許可が出てジルはレナータをグラディス帝国の皇女とは言わず、後宮の知り合いとして実家の家族に紹介をした。そのうえで養女にして欲しいと言ったのである。
ところがジルの弟が「この方は初恋の人だ。妹にはできない」と猛反対したのである。
ジルの弟は30過ぎて未だに独身だった。家柄が良くジルに似て社交家、秀才で見目も良い。超優良物件なのに、独身でいるので男色家の噂を立てられていた。
ジルの弟は、レナータとはグラディス帝国に、父のリッシュモン侯爵と共に特使として訪問した際に、パーティーでダンスを踊ったという。
しかし、レナータは覚えていなかった。だが、養女の話が流れるのは困る。
「妹にできないのなら、妻ならいいのかしら」
苦し紛れにレナータが言うとジルの弟は狂喜乱舞した。
「ありがとう。一生君を大事にする」
レナータはよく分からないまま、ジルの弟に抱き締められたという。
当初の予定通りジルの妹にはなれたが、少々形の異なる結果となった。だが、レナータの出自は艶福家だった先々代の国王の縁者とし、国王が後ろ盾になるらしい。
「でも、ジルの弟はレナータがグラディス帝国の皇女だと父上や母上には明かさなかったのよね」
「さすが、ジル様の弟君ですね。皇女様と知られたら結婚するチャンスを逃すと思ったのでしょう。ニコル様、痛いところはありませんか」
「大丈夫よ」
鏡で確認する。アデールは実家で使用人同然の扱いを受けていたので、ニコルの着替えの手伝いや髪のセット、ティータイムの準備など侍女の仕事全般ができた。
国王の許可は貰っていないが、すでにニコルの女官として働いている。
「これで、明日はティアラを付ければ完璧ですね」
「えぇ、そうね」
ニコルは少し表情が曇る。
すでに出した国民へのメッセージが受け入れられるのか不安だった。
その夜、ニコルは寝付けなかった。
明日、自分の気持ちが伝わらなければ国王に退陣を求めて暴動が起きるかも知れない。
そう考えると怖くて不安で眠れない。
仕方なくベッドから出てソファーでぼんやりとしていた。
するとドアをノックされ、マカオンの声が聞こえた。
「どうぞ」
ニコルは座ったまま、入室を促した。
「やっぱり眠れなかったのか」
ランタンを持ったマカオンがニコルの顔を照らした。
「当たり前でしょう。眩しいわ」
「すまない」
マカオンはテーブルにランタンとワインボトルを置くと、ニコルの隣に座った。
「あまり勧められないが、少し飲むといい。よく眠れる」
小さなグラスを上着のポケットから出すとワインを注いだ。
「ありがとう」
ニコルは少しずつ口に含む。
「美味しい」
「明日のパーティーでは飲むなよ。お前の前にはブドウジュースを置くように手配してある」
「どうして?」
「お前、ワイン飲み過ぎて倒れたのを忘れたのか。酒が合わない体質なのだ」
マカオンの説明にニコルはがっかりした。
「確かに倒れたけれど、あの後、気持ちがスッキリしたから、嫌なことがあったら飲もうと思ったのに」
マカオンは、ワインの力を借りて溜め込んだ気持ちを発散させたせいだと思う。そしてその時のニコルがとても可愛らしかったことを思い出した。
「まぁ、少しならいい。ただし、俺の前でだけだ」
「・・・・・・。ありがとう」
ニコルは昨日から王城の王族が住むフロアに部屋を移した。ソレイユに新婚夫婦を入居する部屋を造るためである。
昨日からマカオンは警備を兼ねて隣の部屋に居るが、壁を隔てている。
だが、新しくなったソレイユでは、二人の寝室は同じになる。
明日の立太子ではマカオンとの婚約が発表され、来年には挙式を挙げる予定だ。
「どうした。気分でも悪くなったのか」
黙りこくるニコルを不思議に思ったマカオンが顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫よ」
近くにあるマカオンの顔がランタンに照らされ眩い。
「眠くなったら寝ていいぞ。ベッドまで運んでやる」
マカオンはそう言うとソファーの肘掛けに掛かっていたコットンケットをニコルの肩に被せる。
「・・・・・・。ホント、素直に優しくないわね」
「お前もな」
「そんなことないわ。私は優しいわよ」
「記憶にないな」
2人はしばらくいつもの調子で話をしていた。
そのまま、眠ったニコルをベッドに運ぶとマカオンはニコルの額にキスをした。
「おやすみ。お転婆な王女様」
◇◇◇
「ニコル様、お美しいですわ」
女官のドレスを着たアデールが髪を結い終わると、新米女官のジルとレナータも口々に賛辞を送る。
「本当に美しいわ。瞳と同じ色のドレスにして正解でしたわね」
「えぇ、本当にニコル様の可愛らしさもアピールできているし。次はウエディングドレスですね」
「そうですね」
3人で盛り上がる中、ニコルは恥ずかしくて俯く。
「王女様が俯いてはいけません」
レナータがすぐに叱る。
「えぇ、そうね」
ニコルは背筋を伸ばした。
「私は結婚してもニコル様付きの女官として働きますからね」
「え、そうなのですか」
「まぁ、ニコル様。今日から私達に敬語を使ってはいけません。先程、話したばかりですよ」
さらに叱責を受けた。
レナータ、ジル、アデールの3人は、今日から正式にニコル付きの女官になったのである。
「はい。じゃなくて。そうだったわ」
急に名前を呼び捨てにすることや、敬語を使わずに話せと言われてもすぐにはできない。
「といころで、この大きなリボンにも仕掛けがあるの?」
ジルがアデールに確認する。
「はい。万が一ということがありますから」
「それなら、安心ね」
レナータはニコリと笑った。
ニコルが着ているプリンセスラインのドレスには、ドレスと共布でできたスカイブルーの大きなリボンが付いている。
襟の詰まったノースリーブにはプラチナブロンドと同じ色で蝶や花の刺繍が施してある。スカートの腰から裾までフリルが段々にあしらわれており、可愛らしさを演出している。
ちなみに、マカオンも同じ色のフロックコートを着ることになっているらしい。
ニコルはまだ見ていないが、マカオンなら格好良く着こなすに違いない。
性格は捻くれているが、容姿だけは抜群に良いのだ。
「さぁ、お時間ですよ」
アデールが穏やかに微笑む。
「さぁ、参りましょう」
レナータが先導する。
「えぇ」
ニコルは不安になってまた俯いてしまう。
「大丈夫ですよ。城の周りは静かです。それに、ニコル様の思いは伝わっています」
ジルが励ますと、ニコルはパっと顔を上げる。
「そうね」
ニコルはこの日初めて笑顔を見せ、3人の女官は安堵した。
立太子の儀式はつつがなく終了し、ニコルは国王から授けられた大粒のサファイアが付いたティアラを身に付け、国民の待つバルコニーへ向かう。
バルコニーへ近づくと、何やら外が騒がしい。
まさか、暴動が起きているのか。
ニコルが様子を見ようと駆け出そうとすると、肩を掴まれた。
「王女殿下」
「マカオン」
スカイブルーのフロックコートを着、蝶の刺繍をあしらったクラバット、胸にニコルと揃いのサファイアのブローチを付けたマカオンが居た。
「外が騒がしいのは未来の女王を人目見ようと、国中から集まった者の歓声だ」
「え?本当に」
「あぁ」
力強くマカオンが頷いた。
「さぁ、みんなお待ちかねだ。行くぞ」
マカオンが手を差し出す。
「えぇ、行きましょう」
ニコルは笑顔でマカオンの手を取った。
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