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第5章 天泣
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「大后宮が全国各地から僧都や阿闍梨、陰陽師を呼んで、鈴宮様に呪詛をかけようとしているようだよ」
玉藻前のこの一言で東宮様は、鈴宮様を龍ヶ池近くの別邸へ移すことをご決断されました。
「いいのか」
「もちろんです。あそこなら、龍神もいます。きっと鈴宮を護ってくれるでしょう。こちらのことは私が上手く対処しましょう」
東宮様は鈴宮様を不安がらせないように明るく仰いました。しかし、鈴宮様は妙な胸騒ぎがして素直に頷くことができません。
「鈴宮様、ここは小僧の言うとおりにしましょう。大后宮様が関わっている以上、東宮御所に居れば、帝にご迷惑がかかる事態になりかねませぬ」
八百比丘尼に説得された鈴宮様は「わかった」と頷くと、式部卿宮の別邸へ移られました。
東宮様は和やかに鈴宮様を見送られましたが、千里眼で視えてしまった未来が頭から離れず、思い悩まれるのでした。
一方で鈴宮様は別邸に到着されると、すぐに龍ヶ池へ向かわれました。
微かに瘴気を感じられたため天に向かって矢を放たれます。
瘴気が消えたのを感じて鈴宮様は、両手を広げて全身で龍ヶ池を感じられます。
「ようやく戻って来られたな」
鈴宮様は独りごちて苦笑されました。
東宮様が肩を落として悲しまれる様子が目に浮かんだからです。そして、独り寝がどうこうと言っていたのを思い出して、これからしばらく独り寝をしなければならないが、大丈夫だろうかと思われます。しかし、すぐに自分がいなくても更衣達が居ると気がついて、悲しいような複雑な気持ちになられました。
「・・・・・・。そうか、これが悋気か」
鈴宮様はなるほど、と頷きながら別邸へ戻られたのでした。
別邸へ戻った鈴宮様が、悋気がどんなものか理解できたという話をして玉藻前に大笑いされたのは言うまでもありません。
東宮様と鈴宮様が離ればなれになって10日が過ぎた頃、梅東風宮様が別邸に現れました。
「私が応対しましょう」
「いや、私が会おう」
「しかし・・・・・・」
八百比丘尼が心配そうに鈴宮様を見つめますが、鈴宮様は毅然とした面持ちで支度をされます。
「お会いになるのでしたら、いつもの鈴宮様のままでよろしいと思いますよ」
「いつもの、とは?」
「ありのままの鈴宮様でお会いするのです。そこら辺の姫君と違うと分かれば、梅東風宮も諦めがつきますよ」
玉藻前は鈴宮様の支度をしながら助言をします。
「なるほど」
「男も女も一目で気に入った相手を勝手に自分好みの人格に創り上げるもの。自分の思う鈴宮様と実物が違うと思えば、勝手に諦めます」
「そういうものか」
「はい」
玉藻前は満面の笑みを浮かべます。
「玉藻前の言うことは一理ありますが、自分の思うような人でなかったと逆上することもあります。お気をつけくださいまし」
八百比丘尼の忠告を胸に鈴宮様は梅東風宮様がお待ちになっている部屋へ向かわれました。
鈴宮様は助言された通りに屏風や御簾を取り払い、素顔を見せたまま梅東風宮様と対面なさいました。
梅東風宮様は上座に座る鈴宮様を穴が空くほど凝視しています。
「私の顔になにかついているか」
挨拶もなく凝視されて鈴宮様は仕方がなく口を開きました。
「・・・・・・。いえ、あの、その、お顔を拝見できるとは思いもしませんでしたので。申し訳ございません」
梅東風宮様は頭を下げられました。
「構わん。どうせ、風の日に見られているのだ。今更、隠すことではない。それより、今日は何か用があったのではないか」
「は、はい。急にお訪ねして申し訳ございません。そ、その・・・・・・」
梅東風宮様はあたふたと懐を探られると1枚の紙を取り出すと、鈴宮様にご覧に入れました。
「なんだこれは」
女の絵が描かれている紙からは梅東風宮様の純粋な想いが伝わりました。しかし、誰の絵か見当もつきません。
「これは・・・・・・。あの日、垣間見た鈴宮様の姿を忘れることができず毎日描いて持ち歩いております」
汗を拭きながらしどろもどろで話す梅東風宮様は、東宮様から話を聞いていた以上に人と話すのが苦手なようでした。
「絵がお上手のようだが、なぜ持ち歩くのだ」
「それは・・・・・・。み、宮様と一緒にいられるような気持ちになるからです」
「はぁ・・・・・・」
鈴宮様には梅東風宮様の気持ちが理解できません。鈴宮様は梅東風宮様に絵を返すと、梅東風宮様は俯きました。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
お互いに人と話すことが苦手なため、話題に区切りがついてしまうと沈黙の時間が流れて行きます。
「・・・・・・。ところで、貴方は東宮になりたいのか」
沈黙を破って鈴宮様がお訊ねになると、梅東風宮様は怯えたような表情をなさいました。
「・・・・・・。母宮の願いですから」
「それは、母の願いなら東宮にも帝にもなるという意味か」
「親の願いを叶えるのは子の役目、産み育てていただいた恩を返すのは当然です」
鈴宮様には梅東風宮様の考えが理解できません。親から忌み嫌われ、側に寄ることも一つ屋根の下で暮らすことも叶わなかったのです。しかし、鈴宮様は八百比丘尼や玉藻前という風変わりな養い親に大切に育てられてきました。2人は「鈴宮様が幸せなら」と常に鈴宮様の幸せを願っています。ですから、鈴宮様は親というものは子の幸せを願うものだと考えていました。
「母の願いを叶えて東宮や帝になることは、貴方の幸せなのだろうか。失礼だが、私には貴方が東宮や帝に向いているとは思えない」
率直な物言いしかできない鈴宮様は、思っていることをそのまま梅東風宮様にぶつけられました。梅東風宮様は青ざめた顔で身体をぶるぶる震わせます。
「貴方に何がわかるのですか。親から捨てられたような人に私の気持ちなどわからない」
梅東風宮様は吐き捨てるように言うと、挨拶もなしに出て行かれました。
鈴宮様は何が起きたのか分からず唖然としながら座って居ると、八百比丘尼と玉藻前がお茶と菓子を持って部屋に入って来ました。
「騒々しいのが帰ったのでこのままお茶にしましょう」
「宮様ともあろう方が無礼な振る舞いをするものだね。帝の世も終いだね」
「無礼なのは私も同じだ。あのような事を言うべきではなかった」
鈴宮様がふぅっと息を吐かれると八百比丘尼と玉藻前は「とんでもない」と口を揃えます。
「鈴宮様が気になさるようなことはありません」
「あれぐらい言わないとわからないさ。皆、宮様だからって気を遣いすぎだ。馬鹿に馬鹿と言わなければ、本人が可哀想だ。そうだろう八百比丘尼」
「私はそこまでは言っていませんよ。まぁ、でも梅東風宮様には言ってさしあげて正解だと思いますよ」
「そうだろうか」
「えぇ。本人が宮仕えに向いていないと思ったから、東宮様に相談していたのでしょう。本当は鈴宮様ではなく、東宮様が指摘するべきだったのですがね。あの小僧がはっきり言わないから」
「それは、出仕したばかりの梅東風宮様には言いにくかったのだろう」
「まぁ、鈴宮様は小僧に甘いのだから」
「いいじゃないか。仲が良いなら。それとも八百比丘尼は東宮様に嫉妬かい」
玉藻前がキキッと笑うと八百比丘尼は袖で玉藻前を叩きます。
「私が小僧に嫉妬なぞするか」
「してるじゃないか」
「これ、やめないか」
鈴宮様が一喝すると女房達は大人しくなりました。
「梅東風宮様が大后宮様を説得して、ご自分の幸せを掴めれば一番良いのだろうが、難しそうだな」
「無理でしょうね」
「あぁ、無理だね。それに、本物の鈴宮様をご覧になってさらに想いが募っちまったようだし」
「どういうことだ。玉藻前」
「人は自分に持っていないものを持つ人間に憧れるものなのさ。梅東風宮様から見れば鈴宮様の毅然とした態度や物の言い方は自分にはないだろう。だからこそ、鈴宮様を手に入れたいと思ってもおかしくない」
「東宮様が良い例ですよ。あの小僧は鈴宮様の毅然とした態度や物の言い方に惹かれて無理矢理入内させたではありませぬか」
訳知り顔の玉藻前に対して八百比丘尼は苦々しい顔をしていました。
「東宮様は政務の時は、毅然とした態度で臨まれている。それに梅東風宮様のように、おどおどしている所は見たことがない」
「梅東風宮様がおどおどしすぎなのです。それに、あの小僧が毅然とした態度で政務に臨めるのは千里眼があるからですよ。千里眼がなければ、鈴宮様に甘えているただの駄目男ですよ」
「そうだろうか」
鈴宮様は首を傾げられます。
「八百比丘尼は東宮様に手厳しいねぇ」
玉藻前が茶化すと八百比丘尼は睨みつけました。
「玉藻前は配下に梅東風宮様と大后宮様を見張るように言い付けておいで。このままでは、何が起きるかわからない」
「八百比丘尼に言われなくたって、もう手配済みだ」
「東宮様に危険が及ぶかも知れない。東宮様にも見張りをつけろ」
「承知しました」
「鈴宮様。あの小僧が危険というのは・・・・・・」
「大后宮様にとって邪魔なのは私と東宮様だ。大后宮様がどんな方かわからない以上、万全を期すべきだろう」
鈴宮様は自分に言い聞かせるように仰いました。
東宮様に危険が及ぶというのは鈴宮様の勘でしかありません。ただ、なにやら恐ろしい事が起きそうな気がしてなりません。鈴宮様は思いつく事は手を打っておこうと、あれこれ考え込まれます。そのため、玉藻前が配下の狐と何やら話している事に気がつきませんでした。
◇◇◇
梅東風宮様の急な訪問から3日後、東宮様が別邸に現れました。
「どうかしたのか」
急な訪問に鈴宮様は驚きを隠せません。
「梅東風宮と会ったというのは、真ですか」
「あぁ。そうだ」
鈴宮様が「それがどうかしたのか」不思議そうな顔をします。すると東宮様は突然、八百比丘尼と玉藻前を怒鳴りつけました。
「お前達がついていながらどういうことか。鈴宮が会うのを止めろとは言わないが、屏風や御簾を外すのは止めるべきだ。違うか」
鈴宮様は東宮様がお怒りになった姿を初めて見たので吃驚して声も出せません。
しかし、女房達はにやにやと笑っています。
「得意の千里眼で梅東風宮様が熱を上げられたのを知ったのでしょう」
「違いない。何しろ御仏の化身とでも言い出しかねないほど、鈴宮様を高潔で聡明な方だと心酔しているからねぇ」
「鈴宮と会えば梅東風宮がそうなるのは分かっていただろう。成人した女君は親子でも御簾や屏風越しに会うものだ。なぜ、止めなかった」
「こうでもしなければ、身代わりを立ててまで別邸に来なかったでしょうに」
「できもしない痩せ我慢をするからさ」
八百比丘尼と玉藻前は「私らに感謝して欲しいねぇ」と、口を揃えて言うと人払いもしていないのに、部屋を出て行きました。
「どうやら女房達に一杯食わされたらしいですね」
東宮様は苦笑いしながら鈴宮様を抱き寄せると、唐衣に手を掛けられます。
「そのようだな。すまない」
「いえいえ。長老には敵いませんよ。私なんか2人から見れば赤子同然ですから」
東宮様は笑いながら唐衣を脱がせて鈴宮様を単衣姿にしてしまわれました。
「そうだなって、何をしている」
「唐衣を着たままでは膝に乗せられません。さぁ、どうぞ」
「・・・・・・。」
東宮様はムっとしている鈴宮様を自分に背を向けるように膝に乗せると抱き締められました。
「鈴宮は寂しくありませんでしたか」
「・・・・・・。」
ここで、素直に寂しいと言えればいいのでしょうが、鈴宮様は恥ずかしくて言えません。その代わり、自分を抱き締める東宮様の手に自分の手を重ねられます。
こうして、鈴宮様と東宮様は久しぶりの逢瀬を楽しまれたのでした。
◇◇◇
東宮様が別邸にお越しになった翌日の午過ぎ。
大后宮様を乗せた女車を中心に東宮様の千里眼によって、悪事を暴かれて左遷された貴族やその従者が大群で別邸に向かって来ました。
「大后宮様自らご出陣とは恐れ入ったねぇ」
「感心している場合かい。配下の狐は大丈夫だろうね」
八百比丘尼が叱りつけると玉藻前は「はいはい」と面倒くさそうに返事をします。
「東宮様は八百比丘尼から離れないように」
鈴宮様は東宮様に指示すると、大弓と矢を担いで玉藻前と共に別邸を出て行きました。
「見守るしかできないのが歯がゆいですね」
「小僧の千里眼がなければ、逃げ回るしかできませんでしたよ」
「初めて八百比丘尼に褒められました」
「喜んでないで私達も行きますよ」
「はい」
東宮様は八百比丘尼と共に龍ヶ池へ向かわれました。
一足先に別邸を出ていた鈴宮様は女車を囲む瘴気の濃さに驚いていました。あまりの瘴気に女車を護衛する従者まで毒されています。
さらに、東宮様に左遷された貴族達や大后宮様に唆かされた貴族達の瘴気が混ざって、隊列が霞んで見えました。
「これは手強そうだ」
鈴宮様は隊列に向かって矢を放ちます。それを合図に周囲の草叢や、木の上に潜んでいた玉藻前の配下が矢を放ち始めました。玉藻前の配下が放つ矢には破魔の力もなければ、貴族達を傷つける力もありません。
ただ、左右の草叢や木の上から無数に放たれる矢は、兵を動揺させるには十分に効果がありました。
そこへ、鈴宮様は破魔矢を淡々と射ます。
貴族や従者、馬が騒ぎ始め隊列は乱れて始めると同時に瘴気が薄れました。
「なんだここは」
「恐ろしや。恐ろしや」
正気を取り戻した貴族と従者は、矢が飛び交う現状に慄くと、とどめに玉藻前が大きな狐火で貴族達を都へ向かう道へ追い返しました。
「あな恐ろしや」
「助けてくれー」
「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」
口々に声を上げながら大勢の貴族や従者は一目散に都への道に向かって去っていきます。
最後に残ったのは女車と護衛の従者だけでした。
鈴宮様は持っていた矢を使い果たすほど矢を射たのに、女車の瘴気は薄れた様子はありません。
「鬼になっているな」
「違いないね」
破魔の力を遣いすぎた鈴宮様に残っている力はほとんどありません。
女車と従者は、今までの騒ぎがなかったかのように龍ヶ池へと向かって行きます。
そこへ、東宮様が馬に乗って現れました。
「どこへ向かわれるのですか。大后宮様」
東宮様が穏やかに声を掛けると、女車の戸が少し開きました。
「丁度良い。ここで消えてもらおうかのう」
大后宮様が声を発するのと同時に傀儡のような従者が弓矢を放ちました。
至近距離で矢を胸に受けた東宮様は、馬上から落ちました。
「東宮様」
鈴宮様は身を潜めていた草叢から飛び出しました。
「狐憑きの宮もやってしまえ」
大后宮様の号令で従者が鈴宮様に向かって矢を射て刀を振り回します。
「目を覚ませ」
鈴宮様は大弓で従者達を払いのけます。
すると従者達は次々と正気を取り戻しました。
「ここは、どこだ」
「我らは何をしていた」
口々に言う従者に玉藻前が不気味な笑みを浮かべて見せます。
「お前達は殺したのさ。・・・・・・。梅東風宮様をね」
「そんな。まさか・・・・・・」
「この方は、梅東風宮様」
従者達は青ざめ膝から崩れ落ちました。
「何を言っている。東宮の間違いだろう」
女車から苛立つ声がします。
「それなら、ご自分の目で確かめてみたらいかがですか。大后宮様」
どこからともなく東宮様の声がしました。
「おのれ妾を愚弄する気か」
女車から大后宮様が降りてきました。
若かりし頃は、さぞかし美姫であっただろうと思わせる容姿に優雅な所作。大后宮様は正に優れた女の代表的な方でした。
しかし、今は黒々とした瘴気が大后宮様から放たれており、昔の面影を隠しておりました。
青ざめた従者達を払いのけて、倒れている男を見た大后宮様は人とは思えぬ唸り声を上げたのです。
「おのれ、東宮、狐憑きの宮。許すまじ」
美しかった黒髪はボサボサの白い髪に変わり、角が生えてきます。さらに、目は大きくギョロギョロと動き、爪は太く長く伸びて身体は何倍も大きく変化しました。
「鬼だ。鬼になったぞ」
玉藻前は鈴宮様の腕を引き龍ヶ池へ逃げ込もうとしましたが、その前に大后宮様の爪に鈴宮様が捕まってしまいました。
鈴宮様は大弓で振り払おうとしますが、大弓は簡単にひしゃげて使い物になりません。
鬼に変化した大后宮様は人とは思えぬ力で、鈴宮様をギリギリと握り潰し始めました。
鈴宮様はそれでも残っていた矢を腕に突き立てますが効きません。
「鈴宮様」
玉藻前は狐火で応戦しますが鬼の髪が焼けるだけで、痛くも痒くもないようです。
龍ヶ池の近くに潜んでいた東宮様は龍ヶ池へ向かうと、池に向かって叫びました。
「龍神。お前を護る守人が鬼に襲われても姿を現さないのか。それでも、そなたは神か」
すると、池の水面が揺れ始め次第に大地が揺れ始めました。
「なんだ」
「龍神のお出ましです」
東宮様に追いついた八百比丘尼が東宮様の身体を支えます。
ザバンっと水飛沫を上げ、池から黒い龍が姿を現しました。
龍は池の周囲を見渡すように目を動かすと、咆吼を上げました。
その途端、鬼の手から力が抜けて鈴宮様の身体が草叢に落ち、転がって行きます。鈴宮様が目を開けると大后宮様の従者がブルブルと身体を震わせて座り込んでいました。
「弓・・・・・・。弓矢を・・・・・・」
力を振り絞って鈴宮様が従者に手を伸ばすと、近くにいた従者が弓矢を鈴宮様に握らせます。
「鈴宮様」
玉藻前が鈴宮様に駆け寄ると鈴宮様の身体を起こしました。
鈴宮様は渾身の力を振り絞って矢を放ちました。
矢は金色の光を放って鬼の背中に命中します。
「うぎゃー」
獣のような声を上げながら鬼の姿が消えていきました。
その姿を見届けると鈴宮様は静かに息を引き取りました。
「我が守人の命を奪った罪は重いぞ」
池の周囲に響き渡るような声がします。
「ならば我の命をもろうてくだされ」
「八百比丘尼」
鈴宮様の死を信じられない東宮様の横で、八百比丘尼は毅然とした眼差しで龍神を見つめていました。
「ならば、我も連れて行け。ただし、鈴宮様の命は返してもらうぞ。お主ならできるであろう」
玉藻前が九尾狐に姿を変えて現れました。背中に鈴宮様の亡骸を背負っています。
「それはまことか」
東宮様は八百比丘尼と玉藻前を振り返りました。
「黒龍は命を司る神です。顎の球を使えばできます。ですから、我らの命と引き換えに鈴宮様をお助けくだされ」
八百比丘尼が願い出ました。
「待て。それでは鈴宮はどうする。生き返ってもお前達が居なければ悲しみます。そもそも、お前達は鈴宮をこのままにして龍神の元へ行けるのですか」
東宮様の問いに八百比丘尼と玉藻前は黙りこくってしまいます。
「龍神よ。もっと良いものがある」
東宮様は龍神に提案すると懐刀を取り出して、ご自分の目に刃を突き立てました。
「小僧」
「何をするつもりじゃ」
八百比丘尼と玉藻前の叫び声が龍ヶ池に轟く中、青空から突然、雨が降り出しました。
その雨粒を受けた鈴宮様の目が開いていきます。
「天泣・・・・・・」
鈴宮様の呟きは騒乱の中で誰にも届きませんでした。
◇◇◇
「はぁ、帝になりたくありません」
即位に関する儀式が控えている東宮様は、鈴宮様の膝枕でごろごろしておられます。
「情けないこと」
八百比丘尼は文句を言いながら東宮様に唐衣を被せます。
「すまない」
「鈴宮様が礼を言うことではありません」
龍ヶ池の一件は龍の守人である鈴宮様に横恋慕した梅東風宮様が、鈴宮様を奪おうと兵を挙げて龍ヶ池に押し入ったので龍神を怒らせてしまった、と全ての罪を被って出家なさりました。その告白を聞いた帝は騒動の責任を取って退位し、東宮様が帝に即位することで決着となったのです。
「さっさと東宮に譲位して鈴宮とゆっくりすごそう」
「その東宮が不在だが、どうするつもりだ」
「私の弟に世継ぎ争いから遠ざけるために、寺に預けられているのが数人います。良い年頃の弟を還俗させます。その後は、この子に継がせれば良い」
鈴宮様の腹を触りながら幸せそうな顔をなさります。
龍神は鈴宮様を生き返らせたうえ、子まで授けていたのです。
「龍神はちゃっかりしているねぇ。次の守人まで確保するなんてさ」
玉藻前は憎まれ口を叩きながらも、こっそり配下の狐から優れた子を選んで調教しているのでした。
「それより、何かわかったのか玉藻前」
鈴宮様が訊ねると玉藻前は得意げな顔をしました。
「配下に調べさせて正解だったね」
「そろそろ起き上がったらどうだ」
鈴宮様に促されようやく東宮様が起き上がります。
「千里眼がなくなると不便だな」
東宮様の黒目は赤目に変わっています。
東宮様は鈴宮様の命と引き換えに千里眼を龍神に差し出したのです。しかし、龍神はそれだけでは足りぬと、八百比丘尼には鈴宮様が亡くなった後に冥土へ向かうことを、玉藻前には神の世界に戻るように約束させたのでした。
「だから私達が側にいるのだ」
鈴宮様は八百比丘尼や玉藻前を見回して微笑まれました。
「そうでした」
「元々、我らが居ることを計算して厄介な千里眼を龍神に押しつけたのでしょうに」
東宮様の目が赤いことを知っているのはこの4人だけです。普段の東宮様には、龍ヶ池で東宮様や梅東風宮様が死んだように見えた時と同じ術を用いて、他の人にはこれまでと同じ姿が見えるようにしているのでした。
「そういう八百比丘尼だって冥土へ行く機会を得たではないか」
東宮様に代わって玉藻前が言い返しました。
「そうでもしなれば不老不死の身では冥土に行き損ねてしまうからね。そういう玉藻前はよく神の元へ戻る気になったねぇ」
八百比丘尼が感心して笑います。
「見てくれが良ければ、ほいほい引っかかる男で遊ぶのも飽きたし、鈴宮様まで居なくなったら人の世にいる意味がないじゃやないか」
「理由はどうであれ2人が居てくれるのはありがたいですね」
「そうだな。だが、そろそろ起きろ。足が痛い」
「まぁ、大変。小僧、起きろ」
八百比丘尼が乱暴に東宮様の肩を掴んで起き上がらせました。
「これ、八百比丘尼。帝になる方だぞ」
鈴宮様が注意をすると東宮様は無言で頷きます。
「我らにとっては、小僧より鈴宮様のお身体が大事です」
「確かにそうだねぇ」
「八百比丘尼、玉藻前。それはあんまりではないか」
東宮様が慌てて仰られると、八百比丘尼と玉藻前は堪えきれずに吹き出しました。
「相変わらず騒々しいな・・・・・・」
鈴宮様はお腹をさすりながら呟かれますが、その顔にはとても穏やかな笑みが浮かんでいたのでした。
玉藻前のこの一言で東宮様は、鈴宮様を龍ヶ池近くの別邸へ移すことをご決断されました。
「いいのか」
「もちろんです。あそこなら、龍神もいます。きっと鈴宮を護ってくれるでしょう。こちらのことは私が上手く対処しましょう」
東宮様は鈴宮様を不安がらせないように明るく仰いました。しかし、鈴宮様は妙な胸騒ぎがして素直に頷くことができません。
「鈴宮様、ここは小僧の言うとおりにしましょう。大后宮様が関わっている以上、東宮御所に居れば、帝にご迷惑がかかる事態になりかねませぬ」
八百比丘尼に説得された鈴宮様は「わかった」と頷くと、式部卿宮の別邸へ移られました。
東宮様は和やかに鈴宮様を見送られましたが、千里眼で視えてしまった未来が頭から離れず、思い悩まれるのでした。
一方で鈴宮様は別邸に到着されると、すぐに龍ヶ池へ向かわれました。
微かに瘴気を感じられたため天に向かって矢を放たれます。
瘴気が消えたのを感じて鈴宮様は、両手を広げて全身で龍ヶ池を感じられます。
「ようやく戻って来られたな」
鈴宮様は独りごちて苦笑されました。
東宮様が肩を落として悲しまれる様子が目に浮かんだからです。そして、独り寝がどうこうと言っていたのを思い出して、これからしばらく独り寝をしなければならないが、大丈夫だろうかと思われます。しかし、すぐに自分がいなくても更衣達が居ると気がついて、悲しいような複雑な気持ちになられました。
「・・・・・・。そうか、これが悋気か」
鈴宮様はなるほど、と頷きながら別邸へ戻られたのでした。
別邸へ戻った鈴宮様が、悋気がどんなものか理解できたという話をして玉藻前に大笑いされたのは言うまでもありません。
東宮様と鈴宮様が離ればなれになって10日が過ぎた頃、梅東風宮様が別邸に現れました。
「私が応対しましょう」
「いや、私が会おう」
「しかし・・・・・・」
八百比丘尼が心配そうに鈴宮様を見つめますが、鈴宮様は毅然とした面持ちで支度をされます。
「お会いになるのでしたら、いつもの鈴宮様のままでよろしいと思いますよ」
「いつもの、とは?」
「ありのままの鈴宮様でお会いするのです。そこら辺の姫君と違うと分かれば、梅東風宮も諦めがつきますよ」
玉藻前は鈴宮様の支度をしながら助言をします。
「なるほど」
「男も女も一目で気に入った相手を勝手に自分好みの人格に創り上げるもの。自分の思う鈴宮様と実物が違うと思えば、勝手に諦めます」
「そういうものか」
「はい」
玉藻前は満面の笑みを浮かべます。
「玉藻前の言うことは一理ありますが、自分の思うような人でなかったと逆上することもあります。お気をつけくださいまし」
八百比丘尼の忠告を胸に鈴宮様は梅東風宮様がお待ちになっている部屋へ向かわれました。
鈴宮様は助言された通りに屏風や御簾を取り払い、素顔を見せたまま梅東風宮様と対面なさいました。
梅東風宮様は上座に座る鈴宮様を穴が空くほど凝視しています。
「私の顔になにかついているか」
挨拶もなく凝視されて鈴宮様は仕方がなく口を開きました。
「・・・・・・。いえ、あの、その、お顔を拝見できるとは思いもしませんでしたので。申し訳ございません」
梅東風宮様は頭を下げられました。
「構わん。どうせ、風の日に見られているのだ。今更、隠すことではない。それより、今日は何か用があったのではないか」
「は、はい。急にお訪ねして申し訳ございません。そ、その・・・・・・」
梅東風宮様はあたふたと懐を探られると1枚の紙を取り出すと、鈴宮様にご覧に入れました。
「なんだこれは」
女の絵が描かれている紙からは梅東風宮様の純粋な想いが伝わりました。しかし、誰の絵か見当もつきません。
「これは・・・・・・。あの日、垣間見た鈴宮様の姿を忘れることができず毎日描いて持ち歩いております」
汗を拭きながらしどろもどろで話す梅東風宮様は、東宮様から話を聞いていた以上に人と話すのが苦手なようでした。
「絵がお上手のようだが、なぜ持ち歩くのだ」
「それは・・・・・・。み、宮様と一緒にいられるような気持ちになるからです」
「はぁ・・・・・・」
鈴宮様には梅東風宮様の気持ちが理解できません。鈴宮様は梅東風宮様に絵を返すと、梅東風宮様は俯きました。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
お互いに人と話すことが苦手なため、話題に区切りがついてしまうと沈黙の時間が流れて行きます。
「・・・・・・。ところで、貴方は東宮になりたいのか」
沈黙を破って鈴宮様がお訊ねになると、梅東風宮様は怯えたような表情をなさいました。
「・・・・・・。母宮の願いですから」
「それは、母の願いなら東宮にも帝にもなるという意味か」
「親の願いを叶えるのは子の役目、産み育てていただいた恩を返すのは当然です」
鈴宮様には梅東風宮様の考えが理解できません。親から忌み嫌われ、側に寄ることも一つ屋根の下で暮らすことも叶わなかったのです。しかし、鈴宮様は八百比丘尼や玉藻前という風変わりな養い親に大切に育てられてきました。2人は「鈴宮様が幸せなら」と常に鈴宮様の幸せを願っています。ですから、鈴宮様は親というものは子の幸せを願うものだと考えていました。
「母の願いを叶えて東宮や帝になることは、貴方の幸せなのだろうか。失礼だが、私には貴方が東宮や帝に向いているとは思えない」
率直な物言いしかできない鈴宮様は、思っていることをそのまま梅東風宮様にぶつけられました。梅東風宮様は青ざめた顔で身体をぶるぶる震わせます。
「貴方に何がわかるのですか。親から捨てられたような人に私の気持ちなどわからない」
梅東風宮様は吐き捨てるように言うと、挨拶もなしに出て行かれました。
鈴宮様は何が起きたのか分からず唖然としながら座って居ると、八百比丘尼と玉藻前がお茶と菓子を持って部屋に入って来ました。
「騒々しいのが帰ったのでこのままお茶にしましょう」
「宮様ともあろう方が無礼な振る舞いをするものだね。帝の世も終いだね」
「無礼なのは私も同じだ。あのような事を言うべきではなかった」
鈴宮様がふぅっと息を吐かれると八百比丘尼と玉藻前は「とんでもない」と口を揃えます。
「鈴宮様が気になさるようなことはありません」
「あれぐらい言わないとわからないさ。皆、宮様だからって気を遣いすぎだ。馬鹿に馬鹿と言わなければ、本人が可哀想だ。そうだろう八百比丘尼」
「私はそこまでは言っていませんよ。まぁ、でも梅東風宮様には言ってさしあげて正解だと思いますよ」
「そうだろうか」
「えぇ。本人が宮仕えに向いていないと思ったから、東宮様に相談していたのでしょう。本当は鈴宮様ではなく、東宮様が指摘するべきだったのですがね。あの小僧がはっきり言わないから」
「それは、出仕したばかりの梅東風宮様には言いにくかったのだろう」
「まぁ、鈴宮様は小僧に甘いのだから」
「いいじゃないか。仲が良いなら。それとも八百比丘尼は東宮様に嫉妬かい」
玉藻前がキキッと笑うと八百比丘尼は袖で玉藻前を叩きます。
「私が小僧に嫉妬なぞするか」
「してるじゃないか」
「これ、やめないか」
鈴宮様が一喝すると女房達は大人しくなりました。
「梅東風宮様が大后宮様を説得して、ご自分の幸せを掴めれば一番良いのだろうが、難しそうだな」
「無理でしょうね」
「あぁ、無理だね。それに、本物の鈴宮様をご覧になってさらに想いが募っちまったようだし」
「どういうことだ。玉藻前」
「人は自分に持っていないものを持つ人間に憧れるものなのさ。梅東風宮様から見れば鈴宮様の毅然とした態度や物の言い方は自分にはないだろう。だからこそ、鈴宮様を手に入れたいと思ってもおかしくない」
「東宮様が良い例ですよ。あの小僧は鈴宮様の毅然とした態度や物の言い方に惹かれて無理矢理入内させたではありませぬか」
訳知り顔の玉藻前に対して八百比丘尼は苦々しい顔をしていました。
「東宮様は政務の時は、毅然とした態度で臨まれている。それに梅東風宮様のように、おどおどしている所は見たことがない」
「梅東風宮様がおどおどしすぎなのです。それに、あの小僧が毅然とした態度で政務に臨めるのは千里眼があるからですよ。千里眼がなければ、鈴宮様に甘えているただの駄目男ですよ」
「そうだろうか」
鈴宮様は首を傾げられます。
「八百比丘尼は東宮様に手厳しいねぇ」
玉藻前が茶化すと八百比丘尼は睨みつけました。
「玉藻前は配下に梅東風宮様と大后宮様を見張るように言い付けておいで。このままでは、何が起きるかわからない」
「八百比丘尼に言われなくたって、もう手配済みだ」
「東宮様に危険が及ぶかも知れない。東宮様にも見張りをつけろ」
「承知しました」
「鈴宮様。あの小僧が危険というのは・・・・・・」
「大后宮様にとって邪魔なのは私と東宮様だ。大后宮様がどんな方かわからない以上、万全を期すべきだろう」
鈴宮様は自分に言い聞かせるように仰いました。
東宮様に危険が及ぶというのは鈴宮様の勘でしかありません。ただ、なにやら恐ろしい事が起きそうな気がしてなりません。鈴宮様は思いつく事は手を打っておこうと、あれこれ考え込まれます。そのため、玉藻前が配下の狐と何やら話している事に気がつきませんでした。
◇◇◇
梅東風宮様の急な訪問から3日後、東宮様が別邸に現れました。
「どうかしたのか」
急な訪問に鈴宮様は驚きを隠せません。
「梅東風宮と会ったというのは、真ですか」
「あぁ。そうだ」
鈴宮様が「それがどうかしたのか」不思議そうな顔をします。すると東宮様は突然、八百比丘尼と玉藻前を怒鳴りつけました。
「お前達がついていながらどういうことか。鈴宮が会うのを止めろとは言わないが、屏風や御簾を外すのは止めるべきだ。違うか」
鈴宮様は東宮様がお怒りになった姿を初めて見たので吃驚して声も出せません。
しかし、女房達はにやにやと笑っています。
「得意の千里眼で梅東風宮様が熱を上げられたのを知ったのでしょう」
「違いない。何しろ御仏の化身とでも言い出しかねないほど、鈴宮様を高潔で聡明な方だと心酔しているからねぇ」
「鈴宮と会えば梅東風宮がそうなるのは分かっていただろう。成人した女君は親子でも御簾や屏風越しに会うものだ。なぜ、止めなかった」
「こうでもしなければ、身代わりを立ててまで別邸に来なかったでしょうに」
「できもしない痩せ我慢をするからさ」
八百比丘尼と玉藻前は「私らに感謝して欲しいねぇ」と、口を揃えて言うと人払いもしていないのに、部屋を出て行きました。
「どうやら女房達に一杯食わされたらしいですね」
東宮様は苦笑いしながら鈴宮様を抱き寄せると、唐衣に手を掛けられます。
「そのようだな。すまない」
「いえいえ。長老には敵いませんよ。私なんか2人から見れば赤子同然ですから」
東宮様は笑いながら唐衣を脱がせて鈴宮様を単衣姿にしてしまわれました。
「そうだなって、何をしている」
「唐衣を着たままでは膝に乗せられません。さぁ、どうぞ」
「・・・・・・。」
東宮様はムっとしている鈴宮様を自分に背を向けるように膝に乗せると抱き締められました。
「鈴宮は寂しくありませんでしたか」
「・・・・・・。」
ここで、素直に寂しいと言えればいいのでしょうが、鈴宮様は恥ずかしくて言えません。その代わり、自分を抱き締める東宮様の手に自分の手を重ねられます。
こうして、鈴宮様と東宮様は久しぶりの逢瀬を楽しまれたのでした。
◇◇◇
東宮様が別邸にお越しになった翌日の午過ぎ。
大后宮様を乗せた女車を中心に東宮様の千里眼によって、悪事を暴かれて左遷された貴族やその従者が大群で別邸に向かって来ました。
「大后宮様自らご出陣とは恐れ入ったねぇ」
「感心している場合かい。配下の狐は大丈夫だろうね」
八百比丘尼が叱りつけると玉藻前は「はいはい」と面倒くさそうに返事をします。
「東宮様は八百比丘尼から離れないように」
鈴宮様は東宮様に指示すると、大弓と矢を担いで玉藻前と共に別邸を出て行きました。
「見守るしかできないのが歯がゆいですね」
「小僧の千里眼がなければ、逃げ回るしかできませんでしたよ」
「初めて八百比丘尼に褒められました」
「喜んでないで私達も行きますよ」
「はい」
東宮様は八百比丘尼と共に龍ヶ池へ向かわれました。
一足先に別邸を出ていた鈴宮様は女車を囲む瘴気の濃さに驚いていました。あまりの瘴気に女車を護衛する従者まで毒されています。
さらに、東宮様に左遷された貴族達や大后宮様に唆かされた貴族達の瘴気が混ざって、隊列が霞んで見えました。
「これは手強そうだ」
鈴宮様は隊列に向かって矢を放ちます。それを合図に周囲の草叢や、木の上に潜んでいた玉藻前の配下が矢を放ち始めました。玉藻前の配下が放つ矢には破魔の力もなければ、貴族達を傷つける力もありません。
ただ、左右の草叢や木の上から無数に放たれる矢は、兵を動揺させるには十分に効果がありました。
そこへ、鈴宮様は破魔矢を淡々と射ます。
貴族や従者、馬が騒ぎ始め隊列は乱れて始めると同時に瘴気が薄れました。
「なんだここは」
「恐ろしや。恐ろしや」
正気を取り戻した貴族と従者は、矢が飛び交う現状に慄くと、とどめに玉藻前が大きな狐火で貴族達を都へ向かう道へ追い返しました。
「あな恐ろしや」
「助けてくれー」
「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」
口々に声を上げながら大勢の貴族や従者は一目散に都への道に向かって去っていきます。
最後に残ったのは女車と護衛の従者だけでした。
鈴宮様は持っていた矢を使い果たすほど矢を射たのに、女車の瘴気は薄れた様子はありません。
「鬼になっているな」
「違いないね」
破魔の力を遣いすぎた鈴宮様に残っている力はほとんどありません。
女車と従者は、今までの騒ぎがなかったかのように龍ヶ池へと向かって行きます。
そこへ、東宮様が馬に乗って現れました。
「どこへ向かわれるのですか。大后宮様」
東宮様が穏やかに声を掛けると、女車の戸が少し開きました。
「丁度良い。ここで消えてもらおうかのう」
大后宮様が声を発するのと同時に傀儡のような従者が弓矢を放ちました。
至近距離で矢を胸に受けた東宮様は、馬上から落ちました。
「東宮様」
鈴宮様は身を潜めていた草叢から飛び出しました。
「狐憑きの宮もやってしまえ」
大后宮様の号令で従者が鈴宮様に向かって矢を射て刀を振り回します。
「目を覚ませ」
鈴宮様は大弓で従者達を払いのけます。
すると従者達は次々と正気を取り戻しました。
「ここは、どこだ」
「我らは何をしていた」
口々に言う従者に玉藻前が不気味な笑みを浮かべて見せます。
「お前達は殺したのさ。・・・・・・。梅東風宮様をね」
「そんな。まさか・・・・・・」
「この方は、梅東風宮様」
従者達は青ざめ膝から崩れ落ちました。
「何を言っている。東宮の間違いだろう」
女車から苛立つ声がします。
「それなら、ご自分の目で確かめてみたらいかがですか。大后宮様」
どこからともなく東宮様の声がしました。
「おのれ妾を愚弄する気か」
女車から大后宮様が降りてきました。
若かりし頃は、さぞかし美姫であっただろうと思わせる容姿に優雅な所作。大后宮様は正に優れた女の代表的な方でした。
しかし、今は黒々とした瘴気が大后宮様から放たれており、昔の面影を隠しておりました。
青ざめた従者達を払いのけて、倒れている男を見た大后宮様は人とは思えぬ唸り声を上げたのです。
「おのれ、東宮、狐憑きの宮。許すまじ」
美しかった黒髪はボサボサの白い髪に変わり、角が生えてきます。さらに、目は大きくギョロギョロと動き、爪は太く長く伸びて身体は何倍も大きく変化しました。
「鬼だ。鬼になったぞ」
玉藻前は鈴宮様の腕を引き龍ヶ池へ逃げ込もうとしましたが、その前に大后宮様の爪に鈴宮様が捕まってしまいました。
鈴宮様は大弓で振り払おうとしますが、大弓は簡単にひしゃげて使い物になりません。
鬼に変化した大后宮様は人とは思えぬ力で、鈴宮様をギリギリと握り潰し始めました。
鈴宮様はそれでも残っていた矢を腕に突き立てますが効きません。
「鈴宮様」
玉藻前は狐火で応戦しますが鬼の髪が焼けるだけで、痛くも痒くもないようです。
龍ヶ池の近くに潜んでいた東宮様は龍ヶ池へ向かうと、池に向かって叫びました。
「龍神。お前を護る守人が鬼に襲われても姿を現さないのか。それでも、そなたは神か」
すると、池の水面が揺れ始め次第に大地が揺れ始めました。
「なんだ」
「龍神のお出ましです」
東宮様に追いついた八百比丘尼が東宮様の身体を支えます。
ザバンっと水飛沫を上げ、池から黒い龍が姿を現しました。
龍は池の周囲を見渡すように目を動かすと、咆吼を上げました。
その途端、鬼の手から力が抜けて鈴宮様の身体が草叢に落ち、転がって行きます。鈴宮様が目を開けると大后宮様の従者がブルブルと身体を震わせて座り込んでいました。
「弓・・・・・・。弓矢を・・・・・・」
力を振り絞って鈴宮様が従者に手を伸ばすと、近くにいた従者が弓矢を鈴宮様に握らせます。
「鈴宮様」
玉藻前が鈴宮様に駆け寄ると鈴宮様の身体を起こしました。
鈴宮様は渾身の力を振り絞って矢を放ちました。
矢は金色の光を放って鬼の背中に命中します。
「うぎゃー」
獣のような声を上げながら鬼の姿が消えていきました。
その姿を見届けると鈴宮様は静かに息を引き取りました。
「我が守人の命を奪った罪は重いぞ」
池の周囲に響き渡るような声がします。
「ならば我の命をもろうてくだされ」
「八百比丘尼」
鈴宮様の死を信じられない東宮様の横で、八百比丘尼は毅然とした眼差しで龍神を見つめていました。
「ならば、我も連れて行け。ただし、鈴宮様の命は返してもらうぞ。お主ならできるであろう」
玉藻前が九尾狐に姿を変えて現れました。背中に鈴宮様の亡骸を背負っています。
「それはまことか」
東宮様は八百比丘尼と玉藻前を振り返りました。
「黒龍は命を司る神です。顎の球を使えばできます。ですから、我らの命と引き換えに鈴宮様をお助けくだされ」
八百比丘尼が願い出ました。
「待て。それでは鈴宮はどうする。生き返ってもお前達が居なければ悲しみます。そもそも、お前達は鈴宮をこのままにして龍神の元へ行けるのですか」
東宮様の問いに八百比丘尼と玉藻前は黙りこくってしまいます。
「龍神よ。もっと良いものがある」
東宮様は龍神に提案すると懐刀を取り出して、ご自分の目に刃を突き立てました。
「小僧」
「何をするつもりじゃ」
八百比丘尼と玉藻前の叫び声が龍ヶ池に轟く中、青空から突然、雨が降り出しました。
その雨粒を受けた鈴宮様の目が開いていきます。
「天泣・・・・・・」
鈴宮様の呟きは騒乱の中で誰にも届きませんでした。
◇◇◇
「はぁ、帝になりたくありません」
即位に関する儀式が控えている東宮様は、鈴宮様の膝枕でごろごろしておられます。
「情けないこと」
八百比丘尼は文句を言いながら東宮様に唐衣を被せます。
「すまない」
「鈴宮様が礼を言うことではありません」
龍ヶ池の一件は龍の守人である鈴宮様に横恋慕した梅東風宮様が、鈴宮様を奪おうと兵を挙げて龍ヶ池に押し入ったので龍神を怒らせてしまった、と全ての罪を被って出家なさりました。その告白を聞いた帝は騒動の責任を取って退位し、東宮様が帝に即位することで決着となったのです。
「さっさと東宮に譲位して鈴宮とゆっくりすごそう」
「その東宮が不在だが、どうするつもりだ」
「私の弟に世継ぎ争いから遠ざけるために、寺に預けられているのが数人います。良い年頃の弟を還俗させます。その後は、この子に継がせれば良い」
鈴宮様の腹を触りながら幸せそうな顔をなさります。
龍神は鈴宮様を生き返らせたうえ、子まで授けていたのです。
「龍神はちゃっかりしているねぇ。次の守人まで確保するなんてさ」
玉藻前は憎まれ口を叩きながらも、こっそり配下の狐から優れた子を選んで調教しているのでした。
「それより、何かわかったのか玉藻前」
鈴宮様が訊ねると玉藻前は得意げな顔をしました。
「配下に調べさせて正解だったね」
「そろそろ起き上がったらどうだ」
鈴宮様に促されようやく東宮様が起き上がります。
「千里眼がなくなると不便だな」
東宮様の黒目は赤目に変わっています。
東宮様は鈴宮様の命と引き換えに千里眼を龍神に差し出したのです。しかし、龍神はそれだけでは足りぬと、八百比丘尼には鈴宮様が亡くなった後に冥土へ向かうことを、玉藻前には神の世界に戻るように約束させたのでした。
「だから私達が側にいるのだ」
鈴宮様は八百比丘尼や玉藻前を見回して微笑まれました。
「そうでした」
「元々、我らが居ることを計算して厄介な千里眼を龍神に押しつけたのでしょうに」
東宮様の目が赤いことを知っているのはこの4人だけです。普段の東宮様には、龍ヶ池で東宮様や梅東風宮様が死んだように見えた時と同じ術を用いて、他の人にはこれまでと同じ姿が見えるようにしているのでした。
「そういう八百比丘尼だって冥土へ行く機会を得たではないか」
東宮様に代わって玉藻前が言い返しました。
「そうでもしなれば不老不死の身では冥土に行き損ねてしまうからね。そういう玉藻前はよく神の元へ戻る気になったねぇ」
八百比丘尼が感心して笑います。
「見てくれが良ければ、ほいほい引っかかる男で遊ぶのも飽きたし、鈴宮様まで居なくなったら人の世にいる意味がないじゃやないか」
「理由はどうであれ2人が居てくれるのはありがたいですね」
「そうだな。だが、そろそろ起きろ。足が痛い」
「まぁ、大変。小僧、起きろ」
八百比丘尼が乱暴に東宮様の肩を掴んで起き上がらせました。
「これ、八百比丘尼。帝になる方だぞ」
鈴宮様が注意をすると東宮様は無言で頷きます。
「我らにとっては、小僧より鈴宮様のお身体が大事です」
「確かにそうだねぇ」
「八百比丘尼、玉藻前。それはあんまりではないか」
東宮様が慌てて仰られると、八百比丘尼と玉藻前は堪えきれずに吹き出しました。
「相変わらず騒々しいな・・・・・・」
鈴宮様はお腹をさすりながら呟かれますが、その顔にはとても穏やかな笑みが浮かんでいたのでした。
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