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W難病彼女と天才彼氏が出した答え
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章タイトル:W難病彼女と天才彼氏が出した答え
数日後、高臣はブロンドの髪を巻いた派手な美人を連れて帰って来た。
怜は不機嫌を隠さずにダイニングへ案内をする。
「ジュリアは留学時代に怜と同じ研究をしていて、今は母校で研究をしている」
「そうですか。まだ若いのにすごいですね」
怜が来客を案内しているので、瀬名は鞄とコートを持って高臣の部屋で着替えを手伝っていた。
「そうだな」
ジュリア・スミスはマサチューセッツ工科大学で怜と同級生だった工学博士で、大手企業と共同研究を手がけている才女だという。
瀬名はジュリアに玄関でぎこちない英語で挨拶したら、盛大に顔を背けられ無視された。そのせいで、瀬名にはすっかりジュリアに対して苦手意識がついている。
「英語が話せないので、おもてなしできるか不安です」
着替え終った高臣に付いて階下へ向かいながら、ポツリとこぼすと高臣が笑った。
「心配しなくても怜が応対してくれるだろう。瀬名は裏方に徹しなさい」
「はい」
その後、高臣が言った通り怜は瀬名にダイニングに近寄らないように命令された。
「あの性悪女には近寄らないでください。瀬名が汚れます」
「汚れるってどういうことですか?」
「そのままの意味です」
怜はそれ以上、瀬名の質問に答えず不機嫌なまま夕食の準備をして接客をしていた。
瀬名はジュリアと怜の様子が気になって、廊下を覗くが姿を見ることも声を聞くこともできない。
ジュリアは怜の元カノなのか、怜は年上なのだから仕方がないなど瀬名はモヤモヤしながら夕食を食べ終えると食器を片付けて、お風呂に入った。
お風呂上がりにバスタオルで髪を拭きながら部屋に向かって歩いていると、ジュリアがグラス片手に佇んでいた。
瀬名は英語が話せず無視されていたので、思わず固まってしまう。
「なんでこんな子供がいいのかしら。英語も話せなければ、社交もできない妻なんてふさわしくないわ」
ジュリアは流暢な日本語で言った。
「それは怜さんに聞いてください。失礼します」
瀬名がジュリアの横を通ろうとすると、ジュリアが立ちはだかる。
「ねぇ、貴方わかっているの?怜は日本でくすぶっているような人間じゃないの」
「怜さんがすごい人だということはわかっています」
「それなら話が早いわ。怜と別れて」
「え?」
瀬名は意味が解らず固まった。
「怜が日本に留まるのは貴方がいるからよ。怜はもっと世界で活躍するべきなのよ。こんなところで病人の看病をさせているなんて信じられない」
声は落ち着いているが、ジュリアの目がさらに吊り上がる。
「看病をさせているわけではありません。それに、怜さんなら日本に居ながらでも世界を変えられると思います」
ジュリアの怒りが伝わって瀬名は震えを隠しながら答えた。
「何を言っているの。アメリカの方がいいに決まっているじゃない。IT後進国の日本で何ができるっていうの」
それまで瀬名を真っ直ぐ見つめていたジュリアが瀬名から視線を外した。
瀬名はジュリアが嘘を吐いたと勘づいた。
「ジュリアさんは、怜さんのことが好きなんですね」
「えぇ、彼とは何度もベッドを共にしているわ」
自慢げに胸を張るジュリアに、瀬名はモヤモヤを解消するチャンスだと切り込んだ。
「どうして別れたんですか」
怯むと思った瀬名が意外にも勝ち気な態度を取ったので、ジュリアは驚いた顔をした。
「私は天才で野心家が好きなの。でも、怜は天才だけど野心がなかった。それで別れたのよ。でもその後、付き合った男は怜ほど才能がないのに、傲慢で女なんかアクセサリーぐらいにしか思わない。まぁ、怜も冷たかったけど」
瀬名はジュリアも水琴と同様に、怜の才能にしか興味がないことが分かって悲しかった。怜は人間としても素敵な人なのに皆、怜自身を見てくれない。だから、怜が本当は何をしたいのか理解してくれないのだ。
「だから恋人に戻りたいんですか」
「そうよ」
平然と言うジュリアは、怜の才能を活かすパートナーとして申し分ないと思う。怜がエンジニアとして今後の人生を歩むのなら。
「わかりました。怜さんがジュリアさんを選ぶなら私は別れてもいいです」
「本当ね」
「はい。ただ、怜さんがエンジニアとしての人生を望んでいないのに、強要するようなことはしないと約束してください。怜さんは、しばらく趣味を楽しみたいと言っています」
「何言っているの。彼はまだ若いのよ」
信じられない、という表情をするジュリアに瀬名は諭すように言う。
「確かに年齢は若いですが、人生経験だけで言えば他人の倍以上も苦しく辛い経験をしているんです。だから、怜さんが本当にやりたいことを楽しんで欲しいんです」
瀬名が話し終わった途端、階下から怜の声が聞こえた。
「瀬名、どうかしましたか」
怜が階段を上がる音がすると、ジュリアが顔色を変えた。
「怜さん、ごめんなさい。少し身体が痛くなったのでジュリアさんに助けてもらっていました。ジュリアさん、迷われたみたいなので案内してもらえますか」
階下に向かって瀬名は言うとジュリアを階段に行くように促す。その後、瀬名は自分の部屋に飛び込んだ。
扉を閉めた途端に瀬名は自分の胸を抉られるような痛みに涙が止まらなくなった。
ジュリアに言ったことは本心だ。
怜には幸せになって欲しいし、怜が幸せになるためならば自分が身を引いてもいい。
それなのに、胸が痛くて涙が溢れて止まらない。
瀬名が声を殺して泣いていると、扉がノックされた。
無視するわけにもいかず、涙を拭いて扉を開けると怜が驚いた顔をした。
「そんなに痛みが酷かったんですか。どうして呼んでくれなかったですか」
「ジュリアさんに背中をさすってもらったら良くなってきたから」
怜は瀬名を優しく抱き締める。
「身体が冷え切っています。もう一度、お風呂に入って温まってください。寝る前に漢方を飲みましょう」
「はい」
怜の提案に、瀬名は俯いたまま頷いた。
瀬名が風呂場に行くのを見届けた怜はジュリアを案内した客室を訪れる。
「怜から来てくれるなんて嬉しい」
ジュリアは怜に腕を伸ばして来たが、怜は無表情でジュリアの片手をピシャリと叩いた。
「痛い。何するのよ」
睨みつけるジュリアを怜は無表情で見つめる。
「瀬名に何を言った」
いつもの柔らかい口調ではなく冷徹な声で問いただす。ジュリアは怯えた表情を見せた。
「何も言ってないわ。苦しんでいたから、介抱してあげただけよ」
「それにしては時間が長い。瀬名の病気を知らない貴方が十分も介抱するなら、僕を呼べば済む」
怜の説明にジュリアは大きな目をさらに大きく見開いた。
「ちょっと待って。どうして時間がわかるの。監視カメラかGPSでも付けているの」
「この屋敷は僕のテスト場だ。何があっても不思議ではない」
怜の放つ冷淡さは二人を包む空気を冷やしていく。ジュリアはぶるりと身体を震わせた。
「瀬名との会話を洗いざらい話せ」
ギラリと刺すような眼差しで見つめられたジュリアは、しどろもどろになりながら話し始める。
「たいしたことは話してないわ。貴方と付き合っていたこととか……」
「付き合ってない」
「何言っているのよ。付き合っていたじゃない」
思わずジュリアは怜の腕を掴むと、再び手を叩かれた。
「触るな」
怜はジュリアから離れると溜息交じりに言う。
「あれは、利害が一致したからだ。互いの生理的欲求を解消するために、互いの身体を利用しただけだ。恋人でも何でもない」
感情の無い声で淡々と道具扱いされた現実を告げられたジュリアは青ざめた。
「それより、他に何を言ったのか言え」
大学時代にも見たことのない形相で睨まれたジュリアは全て話した。
「女じゃなかったら殴っていた」
話を聞き終えて怜は呟いた。
「ちょっと、あんな何もできない子供のどこがいいの?私の方が怜には相応しいわ」
「は?他人を見る目のない凡人が、何を偉そうに言っているんだ。欲しいものが手に入らなくて、八つ当たりで人を傷つける貴方の方がずっと子供だ」
怜の言葉にジュリアはプライドを傷つけられた。
「私のどこが凡人なの」
15歳で大学を卒業後、順調に大学院を卒業して22歳で大学院教授になったジュリアは知性と美貌を兼ね備えており、周囲から羨望の眼差しで見られることはあっても凡人扱いされたことはない。
「貴方はいつも人の表面しか見ていない。僕のことだって知能指数しか見てないだろう」
「それのどこがいけないの?私は優秀な人間が好きなの。優れた遺伝子を求めるのは本能じゃない。むしろ、病弱な人間を求める貴方の方がどうかしているわ」
一矢報いろうと皮肉ったが怜は動じない。
「つまり、優秀な人間なら僕ではなくてもいいはずだ。恋愛感情なんか貴方には必要ないということだろう」
「そうは言ってない。誰でもいいわけないじゃない。それに、彼女は怜が私を選ぶなら身を引くって言っていたのよ。彼女も私と同じよ」
瀬名の泣きはらした顔が、怜の頭に浮かび拳を握り締める。そして、ふぅーっと溜息を吐くと微笑みを浮かべた。
「そういうことでしたか」
急に笑みを浮かべた怜に、ジュリアは恐ろしいものを感じて鳥肌が立った。
「何?」
無意識にジュリアの声が震える。
「社会的に抹殺されるのと、事故あるいは病死するのとどちらがいいですか」
「え……」
「今後、僕と瀬名の前に姿を現さないと約束するなら、このまま帰します。ですが、視界に入ることがあれば実行します。まぁ、命を奪うのはハイリスクですから、横領や論文の盗用で社会的に抹殺した方が貴方には効果的でしょう」
腕を組みながら突然、怜はニコニコ笑いながら愉快そうに話す。
「なんで、そんなことされなきゃいけないの?」
「瀬名を傷つけたからですよ」
「そんなことぐらいで……。貴方、おかしいわ」
「僕は生まれつき普通ではありません」
平然と言い放つ怜に、ジュリアは底知れない恐ろしさを感じて、立っていることがやっとだった。
ジュリアの部屋からキッチンへ向かった怜は、お風呂上がりの瀬名に漢方を服用させる準備をしていると、高臣が入って来た。
「何かご用ですか」
「ジュリアとの話し合いは済んだか」
「はい。お騒がせしました」
「やりすぎてないだろうな。いくら我々でもフォローできるのは国内までだ。まぁ、Busiitは買いだったから結果オーライだが、これ以上は貸しになるぞ」
怜の方がフォーカスされがちだが、高臣もSAIS(ジョンズ・ホプキンズ大学ポール・H・ニッツェ高等国際関係大学院)を卒業した秀才だ。本人が希望するように外務省に入っていたら、高級官僚の中でも特別扱いされるような待遇を受けていたに違いない。
そもそも弟がやっていることを会社や自分の損にはならないと見越して止めずに静観して、会社や自分の利益に繋げるあたり腹黒いと思う。
「その割には、Busiitのグローバルサイトの仕事が回って来ているのは、どういうことでしょう」
怜は苦笑いしながら高臣にナイトキャップを用意する。
「自業自得だろう。早くスローライフを楽しみたかったら、大人になるんだな」
「どういうことでしょうか」
「お気に入りの玩具を壊された子供のように、いちいち報復していたら切りが無いぞ」
「そういうことですか。難しそうです」
怜は用意したナイトキャップを高臣に押し付ける。
「僕は姫のお世話がありますから、後はご自分でお願いします」
嬉しそうな弟の後ろ姿を呆れた顔で高臣は見送った。
お風呂から出た瀬名は部屋に戻ると漢方を服用した後、上の空でドレッサーの前に座るとジュリアのことをどう切り出そうか悩む。
「何か訊きたいことがあるんでしょう。終ったら聞きますよ」
怜は瀬名の髪を乾かす前に地肌と髪を保湿するオイルをつける。
瀬名はシェーグレン症候群の影響で体中が乾燥する。そのせいで、地肌に毛嚢炎や湿疹ができやすいので、予防として殺菌効果のあるシャンプーを使い、乾かす前に地肌や髪を保湿ケアする。
これを瀬名自身が完璧にやろうとすると、髪が長いことや身体の痛み、握力の低下があるので難しい。
一度、瀬名は自分でケアできる長さに髪を切りたいと怜に言ったが、自分が瀬名の髪を乾かすから切る必要はないと言われてしまった。
「こっちに来てください」
髪を乾かし終えた怜はベッドのヘッドボードに背中を預けて座ると瀬名に手招きした。瀬名が大人しく怜の隣に座ろうとすると、怜は瀬名の手を引き「こっちです」と自分の太腿を叩いた。
瀬名は戸惑いながら、怜に背中を預けるように座る。怜は両脚で瀬名の身体を挟み、さらに背後から抱きすくめる。
「これだと話にくい」
「話が長くなったら湯冷めしてしまいます」
振り向く瀬名に、怜は耳元で囁く。
「それは怜さんも同じでしょ」
瀬名は肩に掛けていたショールを、怜の肩に掛けた。
「ありがとうございます。それで僕に何を聞きたいんですか」
唇が触れそうな距離で言われ、瀬名は慌てて前を向いた。
「ジュリアさんはどうしましたか」
「明日帰りますよ。もう、僕らの前に姿を出すことはありません」
「え、どういうことですか」
「彼女、忙しいですから」
怜の言葉にホッとする反面、瀬名は少し寂しさを感じた。
「ロバートさんも、もう来ないのでしょうか。」
「いいえ、彼は来月も来ます。母の月命日前後には必ず来ていますから」
「そう、だったんですか」
瀬名は初耳だった。
怜は毎月15日前後に栞の墓参りをしていた。瀬名が家に居ると怜が気にするので、瀬名は病院の予約を15日前後に入れるようにしている。
だが、アメリカ在住のロバートが毎月墓参りをしているのにも驚いた。
「本当に栞さんのことが好きだったんですね」
「さぁ、どうでしょう。後悔している、と言った方が正しいかも知れません」
「後悔、ですか」
「えぇ。そうですね。聞いてもらってもいいですか。僕と母のこと」
怜はギュッと瀬名を抱き締めた。怜が不安を感じているように思えた瀬名は自分を抱き締める怜の手に、自分の手を重ねて言う。
「教えてください。怜さんと栞さんのこと」
「母はずっと祖父の言うとおりに学校を出て、言われるままに結婚しました。ところが、兄の家庭教師だったロバートと生まれて初めての恋をしたんです」
淡々と話す怜の口から「兄」という言葉が出たことに驚いたが、瀬名は黙って聞いた。
「まぁ、さすがに僕が生まれる直前になって夫や祖父にバレてロバートはクビ。二人は引き離されました。さらに、母は堕胎を迫られたようですが頑なに拒んで僕を産んだそうです。その、代償として夫は兄を連れて家を出て行き、母は兄とも引き離されました。それでも、小春さんが散歩や塾の送迎時に兄を連れて来てくれましたけどね」
「ロバートさんとは連絡を取らなかったのでしょうか」
「それも禁じられたようです。母が手紙を送っても返ってきていました。僕が五歳ぐらいの時に、ロバートが結婚したと聞いて、母が号泣していたのを覚えています。その後からです。精神的に不安定になったのは。その母を慰めようと僕が作曲をして母が詩を付ける作曲遊びや、僕の作った話に母が挿絵を描く作家ごっこなんかしましたけど、一時的に気分が晴れてもすぐ鬱々としてしまいましたね」
当時の事を思い出したのか、怜は少し弱々しい声で語る。
だが、瀬名はその作曲ごっこで作った曲がガーディアングループのコマーシャルや、提供しているミニ番組で流れていることや、二人で創った絵本が賞を受賞してベストセラーになっているのを知っていたので、遊びで生まれた曲や絵本だった事実に衝撃を受けた。
「栞さんって多才な方だったんですね」
「頭の良い人でした。僕の推測ですが、大旦那様は他人の言うことに耳を貸すタイプではありません。まして、社会人経験のないお嬢様だった母の言うことなど、聞く耳を持たなかったでしょう。でも、母は時流を読むのが上手かったし、工学系の知識もありました。だから、夫のやり方に不満があって意見をして、夫婦仲をこじらせてしまったのだと思います。自分を理解してくれる人がいなくて淋しかった所に、話を聞いて理解してくれるロバートが現れて恋に落ちたのでしょう」
「そうだったんですね」
瀬名には栞の気持ちがよく分かった。栞と瀬名の境遇は違うが、周囲に理解者がおらず孤独を感じていることや、急に自分を理解しようとしてくる人が現れてあっという間に恋に落ちてしまう所が似ている。
瀬名には栞と怜の苦しみが分かって辛かった。
「僕が七歳の時に母は、僕とロバートとの見分けが付かなくなって僕に、自分を捨てた恨み辛みを言っては泣き叫び、最後には私を捨てないでと縋り付くようになったんです。幸か不幸か僕は普通の子供ではなかった。だから、母と一緒に居るために泣き喚く母をなだめながら、一生懸命世話をしました。でも、治療まではできません。母はその後、心因性の失語症になって僕が八歳の夏、昼寝をしている間に車にはねられて死にました。今でも事故か自殺か分かりません。ただ、僕と一緒に昼寝をしていた母が自分の意志で外に出て行ったのは事実です。僕は結局、母を守り切れなかった」
怜は瀬名の肩に額を乗せて、瀬名を抱き締める手に力を入れた。
瀬名はこのまま聞くべきか迷った。だが、怜が今まで抱えてきたものを知りたい。それに、瀬名に話すことで怜の負担が軽くなれば力になりたいと思い、黙って怜の言葉を待つことにした。
「母が亡くなった後、僕と祖父が暮らしていた家に兄達が帰って来ました。僕は施設に入るのだろうと思っていました。ところが、すでに僕の知能指数に目を付けた祖父が周囲を説得して、兄の勉強や習い事相手兼執事見習いとして南條家に残ったんです」
「じゃあ、怜さんの話し方はそのせい?」
「そうですね。まぁ、処世術という意味合いが強いかも知れません」
ふふっと怜は笑う。
「その後は瀬名が知っている通り兄達とアメリカに留学しました。そこで、ロバートと出会ったんです。恐らく兄はロバートと連絡を取っていて、わざわざその大学を選んだのでしょう。ただ、ロバートの講義は純粋に面白いと思ったし、工学や医学にも興味があったのでアメリカ留学は楽しかった。できれば、そのままアメリカにいたかった。でも、南條家には育ててもらった恩、兄には母を奪ってしまった贖罪として兄の助けをしなければならない。だから、日本に戻りました」
「待ってください。怜さんは南條家の人間だし、高臣様からお母様を奪ったのは怜さんではありません」
瀬名は身体を反転させて言う。
怜は大人達の事情に巻き込まれた被害者なのにおかしい、と瀬名は珍しく瀬名は憤る。
だが、いつものように怜は微笑んだ。
「おかしいことはありません。僕は母を護ることができなかった。だから、南條家のために何かしなければならない。だからロボットのように働こうそう思って帰国したんです。そこで、瀬名と会って考えが変わった」
「えっ」
そこで怜はサイドボードからスマホを出して写真を見せた。
写真には、『源氏物語』の若紫をモデルにした日本人形が写っていた。
顎のラインで切りそろえられた黒髪や黒目の大きな瞳が高校生時代の自分に似ている、と瀬名は思う。
「これは、母が大切にしていた人形です。母が亡くなった後は僕が留学先まで持って行って大切にしていましたが、今は仏壇に置いてあります」
「どういうこと?」
瀬名が首を傾げると、怜は愛おしそうに瀬名の頬を撫でる。
「瀬名を護りたいと思ったからです。一生かけても」
「でも、私は・・・・・・」
「初めは人形に似ていたから興味を持ちました。でも、瀬名と母が違うことはすぐに分かりました。瀬名は自分の意見を持っていて、自分の生きる道を自分の力で切り開ける人です。それでも、僕は瀬名のことを護りたい。瀬名が我慢や無理をし過ぎて倒れてしまわないように。何より、僕には瀬名が必要なんです。僕を金になるモノを生むロボットや贖罪のために生きる人間にならないために。だから、身を引くなんて言わないでください」
いつになく真剣な眼差しで瀬名を見つめて怜が言った。
瀬名は怜の告白を聞いて自分が重荷になるという恐れよりも、純粋に怜を独りにしたくないと思った。
「私も独りにしないでくれるなら」
「もちろん」
怜は笑顔で言うと瀬名を抱き寄せて啄むようにキスを繰り返していると、次第に深くなる。
怜の舌は瀬名の口腔内を我が物顔で蹂躙した。怜がキスの角度を変えながら、パジャマの上から瀬名の胸を揉みしだく。
パジャマ姿で怜の話を聞いていた瀬名の体温は下がっていたが、怜の掌はいつもより熱い。
瀬名はもっと怜の体温を感じたくて、怜が着ているセーターの裾を引っ張る。
怜は唇を離すと、ふふっと笑う。
「今日はじっくり愛そうと思ったのに、瀬名はせっかちですね」
瀬名は真っ赤になりながらも怜のセーターを脱がせると怜の首に抱付いた。
「瀬名は抱っこが好きですね」
「うん」
怜の熱すぎる体温が気持ち良くて、首筋や頬にキスをする。その間に怜は器用に胸元のボタンを外して肩を剥き出しにして押し倒した。
怜の唇は首筋や鎖骨、胸、腹と全身を這う。
もう少し抱き付いていたかった瀬名は怜を止めたいが頭がボーっとして唇が動かない。ただ「あぁ。ん・・・・・・」という嬌声が漏れるだけだ。
怜はいつも瀬名の体力を考えて最低限の愛撫だけをして瀬名の胎内に入ってくるが、今日は全身を丹念に愛撫する。
瀬名はもどかしくて腰を揺らす。
しかし、怜はパジャマや下着を脱がせながら足の指の一本一本まで口づけていて瀬名が触れて欲しいと思っている所に触れてくれない。
「もう、いいから。怜さん」
焦れったくなって怜を呼ぶと、怜が瀬名の両脚を大きく開くと瀬名の下生えを覗き込む。
「いや・・・・・・、見ないで」
今までに何度も抱き合っているが、こんな風にじっくり愛撫されたことも視姦されたこともなかった。
「もう、溢れてますね」
獲物を捕らえた獣のように舌舐めずりをした怜は、瀬名の秘裂に口づけた。
「ああ・・・・・・ん」
ようやく触れてもらえた悦びで叫び声のような声を出してしまう。
怜は一心不乱に瀬名の蜜を舐め、膨らんだ花芽に吸いつく。
新しい刺激を与えられる度に瀬名の腰が跳ね、全身に愉悦が駆け巡り背筋を反らした。
「あぁ、もうダメ・・・・・・」
ドクンと大きな愉悦の波が押し寄せ、瀬名の頭が真っ白になって意識が飛んだ。
次に瀬名が目を開けた時には、怜が両乳房を寄せて二つの乳首を一気にしゃぶりついていた。
絶えず腰に刺激を与えられている瀬名はのろのろと腕を伸ばして、怜の首に腕を回した。
「瀬名?」
心配そうに顔を覗き込む。
「早く・・・・・・」
「わかりました」
優しく言うと、ゆっくり腰を入れた。
瀬名はいつものように一気に奥処まで挿れると思っていたが、怜は浅い処で抽挿を繰り返している。しかし、瀬名の媚肉は雄茎を引き込もうと絡みついて締め付ける。
「そんなに締め付けないでください」
汗を流しながら怜は言うが、瀬名はどうすればいいのかわからず長い髪を振り乱して首を振る。
「いや・・・・・・わかんない」
もっと強い刺激を知っている身体はもどかしさで腰が動く。
瀬名は気を紛らわそうと怜にキスを強請る。互いに舌を絡め合い口腔内を探り合う。
怜は深くキスをしながら抽挿を繰り返し、瀬名の媚肉は逃がすまいと雄茎と締め付ける。
飲み込めない唾液が瀬名の口角から零れるのを舐め取ると怜は突然、奥処を突いた。
「はぁん」
突然の強い刺激に瀬名はのけぞった。
だが、胎内ではもっと刺激を求めて怜の雄茎をぎゅうぎゅう締め付けた。
「うぁ・・・・・・」
思わず怜が呻く。
自然と互いに強く抱き締め合い、全神経でお互いを感じ合う。
「ん・・・・・・気持ちいい」
「気持ちがいいですよ。瀬名」
互いの気持ちが同じ方向を向くと、こんなにも多幸感を味わえるのかと実感をした。
「動きますよ」
瀬名は脚怜に絡ませて怜と一緒に絶頂を目指す。
怜は子宮口をコツンコツンと何度も突き上げながら、片手で花芽を弄る。
激しく奥処を突かれた瀬名は淫水を吹き出しながら絶頂を迎え、怜は腹に淫水を浴びながら瀬名の胎内で爆ぜた。
瀬名は怜の胸にもたれて鼓動を聞きながら、怜とずっと一緒に居たいと思った。
月に一度の通院日は瀬名が一人で買い物をする日でもある。
男性が一緒だと買いにくいものは、この日にまとめて買うことにしている。
店先を眺めて、瀬名はバレンタインデーが昨日だったことを思い出した。
身体のだるさや痛みのせいで家に居ることが多いうえに、薬の副作用もあってボンヤリと過ごしているうちに日付の感覚が麻痺してしまったらしい。
しまった、と思いながら「今からでも間に合う」というポップに自信を得て、高臣と悠仁、周子にチョコレートを購入した。
今年ぐらい怜には手作りを渡したいと思う。だが、キッチンを使える時間は限られるし、冷やすには冷蔵庫を使わないといけない。つまり、キッチンの冷蔵庫を使えば怜にはバレバレだ。
「仕方ないか」
バレても喜んでくれると信じて瀬名は、唯一自分が作れるオムレツケーキの材料とチョコレート、風船を買った。
オムレツケーキはホットケーキミックスにバターや砂糖、卵と混ぜてレンジでチンしてできたものを冷やし、ホイップクリームやフルーツを挟んでできる。市販品の『丸ごと○○』のようなお菓子だ。
瀬名はさらに洗った風船に溶かしたホワイトチョコレートを塗り、冷やしてオムレツケーキに被せるドームを作ることにした。
病院を終えて帰宅すると怜はまだ墓参りから戻って来ていなかったので、瀬名は慌てて材料を混ぜてケーキとチョコレートドームを作った。ちょうど、作ったものを冷蔵庫に入れたところで怜が帰って来た。
「あれ、瀬名どうしたんですか」
「すみません。冷蔵庫を借りていました」
「別に、冷蔵庫は僕のものではないのでいいですよ」
いつものように微笑む怜に、なんとなく視線を合わせにくい瀬名はペコリと頭を下げると部屋に戻った。
「一日遅れてしまったのですが、バレンタインデーのチョコレートです」
夕食時に瀬名は高臣にチョコレートを渡した。
「ありがとう」
高臣はニコリと笑って受け取る。さらに、悠仁や周子に渡した。
「サンキュー瀬名ちゃん」
「私のもあるの?ありがとー」
「怜ちゃんは?何貰ったの」
周子が怜に振ったので瀬名は慌てた。
「え、怜さんには・・・・・・」
「僕はいつも貰っていますから」
瀬名の声に被せるように怜が少し拗ねたように言うと、周子はあからさまに、「しまった」という顔をした。
「ごめん、ごめん」
「いいえ、怜さんにはちゃんと用意してあるんです。まだ準備が終ってないだけです」
怜が拗ねているので瀬名は正直に話した。
「なんだ。怜ちゃんは手作りかよ」
悠仁がふて腐れると怜がドヤ顔で言う。
「僕と悠仁が同じ物のはずがありません」
そんな怜の様子を高臣と周子は珍しいものを見る目で見つめた。
「今日は怜さんが先にお風呂に入ってください」
夕食の片付けが終ると瀬名は、怜の背中を押してキッチンから追い出した。
「怪我だけはしないでくださいね」
怜は苦笑いをしながら出て行った。
瀬名は冷蔵庫から生地を出すと片面にクリームやフルーツを乗せ、もう片方の生地を被せる。出来上がったオムレツケーキを半分に切り、お皿に移す。
その上にホワイトチョコレートドームを被せた。
いつも怜が淹れてくれているルイボスティーを淹れ、オムレツケーキと一緒に怜の部屋に持って行った。
ノックをすると「どうぞ」と返事があったので躊躇せずに瀬名は部屋に入ったが、怜は上がったばかりだったらしく、上半身裸で髪を乾かしている最中だった。
普段にも増して艶のある怜に瀬名は慌てて目を逸らす。
お城のように豪華な南條邸だが、怜の部屋はウッドテイストのフローリングと壁、必要最低限の家具しか置いていないシンプルな造りになっていた。
瀬名は二人用の小さなテーブルセットに持ってきたオムレツケーキとルイボスティーを置いた。
「わー、美味しそうですね」
瀬名の背後から半裸のまま怜が近づいてテーブルの上を覗く。
風呂上がりのホカホカした蒸気と怜の匂い甘く上品な心地よい香りが漂って、瀬名の胎内が疼いた。
「早く着替えないと風邪引きますよ」
正面を向いたまま言うと瀬名の耳元で笑った。
「座って待っていてくださいね」
瀬名は頷くと椅子に腰掛けながら、怜が着替えているのを覗き見た。
少しストレートになった髪から滴り落ちる滴、華奢だが引き締まった肉体を見ているだけで瀬名は、ドキドキして疼いる所が潤ってくるのを感じてしまう。
赤面していないだろうかと掌を頬に当てていると、怜が目の前に座った。
「すみません。お待たせしました」
「どうかしましたか。具合が悪くなりましたか」
「え、違います」
瀬名は慌てて首を横に振る。
「それは良かった。では、早速いただきます」
怜は手を合わせてから、デザートナイフとフォークを手に取った。
「ちょっと待ってください。仕上げをします」
瀬名はエプロンのポケットから温めておいたチョコレートリキュールを取り出し、ホワイトチョコレートドームにかける。リキュールがかかった所からチョコレートが溶けて、中のオムレツケーキが見えるようになった。
「すごいですね。美味しそうです」
満面の笑みを浮かべて怜は言うが、豚肉のハーブレモン塩釜焼きを作るような人に言われても恐縮するだけだ。
「お口に合うといいんですけど」
怜は上手くドームを崩しながら一口食べる。
「美味しいです」
「甘過ぎませんか」
怜は甘い物が少し苦手で、チョコレートもハイカカオのものしか食べない。
だが、瀬名は見た目でホワイトチョコレートドームにようと決めたが、オムレツケーキにもハーフカロリーとはいえ生クリームを使っているので怜には甘すぎたのではないか、と心配だった。
「いいえ。チョコレートリキュールが効いていていい感じです」
「よかった」
「瀬名はホワイトチョコレートが好きですよね」
「時々、無性に食べたくなるんです」
「それは、バニラの香りに鎮痛効果があるからかも知れませんね」
「そうなんですか」
「えぇ。日本の大学が研究発表していますよ」
「へぇー、面白いですね」
瀬名と会話をしながらも怜はペロリと平らげた。
「美味しかったです。旦那様達に申し訳ないぐらいです」
「じゃあ、まだ半分残っているので明日・・・・・・」
瀬名が顔を輝かせて言うと怜が眉間に皺を寄せた。
「ダメです。それも僕が食べます」
「えっ」
「瀬名が作ったものは全部僕のものです」
ニコリと笑って言う。
「なんか、怜さん変わった」
今までの怜と何か違うような気がして瀬名が言うと、怜は首を振った。
「僕は元々独占欲が強いんですよ。知りませんでしたか」
「うん」
瀬名が頷くと怜が立ち上がり瀬名の前に立った。
「瀬名、おいで」
怜の声音でキスされるのが分かって瀬名の胸が高鳴る。
一日遅れのバレンタインデーは、深夜まで続いた。
黒髪を乱したまま瀬名が全裸で自分のベッドでグッタリしているのを見下ろしながら、怜は口元に笑みを称える。
ここ半年近く瀬名の部屋で寝ているのでセックスした後の瀬名が、自分のベッドに倒れていると本当に瀬名が手に入ったと感じる。
栞のことを置いても瀬名だけは手に入れたかった。
心が手に入らないのなら、身体だけでもいいと瀬名が自分の匂いに敏感なことを利用して、毎日一緒に寝て、日常的にスキンシップを取ってきた。
その甲斐あって、今では自分の匂いだけで身体が反応するようになったようだ。
さっきもコットンワンピースを捲ると、すでにレギンスまで蜜が垂れている状態だった。そこで怜は瀬名の胸に膝がつくように脚を折り曲げた。
「レギンスにシミが付いてますよ」
怜はニヤリと笑って、手で顔を覆う瀬名の手ベッドに押しつけて顔を覗き込む。
「いつから濡らしていたんでしょう」
「・・・・・・わかんない」
怜は頤に手をかけると怜は瀬名の瞳を見つめた。
「教えてください」
「・・・・・・たぶん、怜さんの匂いを嗅いだ時です」
瀬名は真っ赤になりながら言っていた。
思い出しただけで脂下がった顔になってしまう。
怜は気絶したように眠る瀬名の横に潜り込んで抱き締める。
「ん・・・・・・」
無意識に瀬名は怜の胸元に顔を擦りつけて怜の匂いを確認している。
自分では分からないが、瀬名は感覚が鋭いせいか自分が発しているオスの匂いがするらしい。
他の女が惹きつけられると迷惑でしかないが、瀬名が惹きつけられてくるなら匂いが消えないように研究しなくてはいけない、と怜は本気で考えている。
すでに瀬名は自分の匂いに欲情して身体を求めるようになっている。
人の心はすぐに変わる。
あんなに自分に縋って泣いた栞ですら、自分を置いてあっさり死んだ。
瀬名も病気が寛解して自由に動けるようになったら、他の男に走るかも知れない。
それなら、身体に快楽を教え込んで逃れられないようにすればいい。
その考えが怜を占める。
それだけに、瀬名の身体が辛くなると分かっていても激しく身体を求めてしまう。
瀬名がどんなに一緒にいてくれると言ってくれても、病気で身体が辛くても手作りケーキをプレゼントしてくれても、怜の心には不安が消えない。
瀬名が他の女達と違って南條怜という人間性を好きでいてくれるとしても。
初めて会った時、瀬名は南條邸の庭を案内する怜に言った。
「この花は庭師さんが育てているんですか」
「いいえ。基本的には僕が育てています」
何気なく返事をした怜に瀬名は笑って言った。
「優しいんですね」
「優しい?」
驚く怜に瀬名は続けた。
「そうです。だって、私は自分のことしか考えられないから植物を育てることはできません。でも自分のことやお兄様のお世話をしながら、こんなに沢山の命を大切に育てられるのは優しい証拠です」
今なら分かる。きっと、その時自分は瀬名に恋をしたのだと。
「絶対に逃がしませんよ」
眠る瀬名に囁くと、抱き締める腕に力を込めて怜は目を閉じた。
二月下旬は寒さの底になる。
瀬名は、身体は痛みが酷くなって部屋から出るのも困難になっていた。
それでも瀬名は周囲に迷惑をかけられないとリモートで働いていた。
「あまり無理しないでくださいね」
緑茶を持ってきた怜が呆れた表情で声をかける。
瀬名は首が動かしにくいので、パソコンの画面に顔を向けたまま答えた。
「大丈夫」
瀬名は新卒学生から入社に関する質問への回答や、連絡事項の伝達事項などを行っていた。
本社採用の新入社員は新人研修を千葉県の関東支社で一ヶ月行う。そのため、新入社員全員にマンスリーマンションへ入居してもらうのが慣例になっている。瀬名はマンスリーマンションの契約や新入社員へ入居日や引っ越しに関する連絡を行っていた。
連絡や調整は慎重かつ迅速に行わなければいけないので、精神的な負担と首や肩への負荷が大きい。
だが、怜は自分が代わるとも、止めることもしない。
高臣が行った説明会の時もそうだが、瀬名の身体に良くないと分かってはいるが、怜は瀬名が納得するまでやらせることにしていた。
瀬名の病気は病状が良くなる可能性もゼロではないが、悪化する可能性の方が高い。
悪い未来を見据えてリモート勤務すら出来なくなった時に後悔をさせたくなかった。それに、瀬名は人の役に立ちたいという思いが強い。その思いを無視して仕事を取り上げれば「自分は生きて居る価値がない」と心を病みかねない。
ただ、瀬名は自分の限界を超えるまで「できない」「手伝って」とは言わない。
だから、怜は時折お茶を出しながら注意を払っているのである。
仕事が一区切りついたところで、瀬名はノートパソコンを閉じた。
怜はポットカバーを外して緑茶をタンブラーに注いで瀬名に出すと、肩に温めた小豆の入った袋を肩に乗せる。
「熱くないですか」
「うん」
「熱くなったら言ってくださいね。低温火傷をするといけませんから」
怜が言うと瀬名は無言で頷いた。
小豆を温めると蒸気温熱で身体の芯から身体を温めてくれる効果がある。もちろん、効果は一時的なものだが、やらないよりはマシにはなる。
「会社は大丈夫なの?」
「えぇ。旦那様や悠仁、周子に任せておけば大丈夫です。それから、人事採用チームは来期から由紀さんが指揮を執るらしいですから」
「え?由紀さんが?お子さんやご両親もいらっしゃって大変なのに大丈夫かな」
瀬名は心配になった。由紀は仕事もできるが子供や両親、膠原病の妹を養っている。その由紀が採用チームをマネジメントするのは大変なのではないか。
「まぁ、浜崎麻子さんがサブに入るようですし、僕も新卒採用で導入している性格分析検査を中途採用や外国人採用向けに作ります。会議もリモートでの出席を許可しているのでサポート体制は万全ですよ」
性格分析とは新卒採用で導入されている適性検査システムのことである。
精神分析に長けている怜がガーディアングループ内で活躍している人物を百人以上、性格分析した結果を元に作成したオリジナルの適性検査システムである。
適性検査システムでは本人の性格や思考、地頭の良さ、相性などが細かく分析できるうえ、主体性の有無まで判断可能だ。
この適性検査システムは精度が高く、新卒採用と昇格、人事異動で導入後からグループ会社の退職者が大幅に減り、パフォーマンスが上がった。
その実績から、由紀が採用チームのマネジメントをするにあたり、現在は未導入の中途採用と外国人向けの開発を依頼したという。
「そう」
「それに、リモートで仕事をする時に、仕事部屋が必要でリフォームや引っ越しをする補助を出す制度も出来るようですよ」
「それなら、いろんな状況の人が仕事を続けられるね」
ガーディアングループはホワイトカラーにリモート勤務を認めており、サテライトオフィスやホテル利用を整備していたが、介護や子育てがある人には利用できないという声もあった。
新しい制度が上手く運用されれば、怜や由紀のように介護する人や瀬名のように病気の人も多く雇用されるだろう、と瀬名は期待した。
「私も退職した後、由紀さん達の力になれるといいんだけど」
呟きながらお茶を飲む瀬名の隣で、怜が複雑な表情をしていたが瀬名は気が付かなかった。
3月に入ると卒業式後にすぐ引っ越しをする学生も出て来る頃になると、引っ越しやマンスリーマンションへの入居関係の問い合わせが増えた。
瀬名は人事部やガーディアンのマンスリーマンション事業部との調整役としてメールや電話応対に追われた。
怜は相変わらずガーディアンエンジニアリングの引き継ぎや新居のリノベーションで忙しくしている。
そのため、日中に家を空けることが多くなったが、怜は瀬名を一人にすることが心配で断ろうとするので毎回言い合いになる。
「子供じゃないから大丈夫」
「僕が行かなくてもどうにでもなります」
「それは無責任だと思う」
「瀬名の看病は僕しかできませんが、会社のことは他の人間に任せても大丈夫です」
「看病してもらうほどの病気じゃないから大丈夫。だから、会社に行って」
こんな言い争いが繰り広げられるが、最後は瀬名が怜を部屋から閉め出してしまうので、怜が諦めて出かけることになる。
その間、瀬名はリモートで仕事をするかダラダラ過ごす。昼食は怜が弁当を用意して行くので作る必要もないので快適に過ごせるようになっている。
怜が安心して出かけられるようにするには、怜が居ない間に体調が悪化しないようにするだけだった。
怜が出かけると、ただでさえ静かな南條邸から音が消えて静まり返る。
怜が出かけた途端に瀬名は心細くなって何をしていても怜のことを考えてしまう。少しでも物音がすれば廊下や外を見て怜が帰って来ないか確認してしまう。
これでは怜が出掛けたがらないのも無理はない、と瀬名も思う。
怜が帰って来たのは午後2時過ぎだった。
そわそわしていた瀬名はガレージを出て庭の花々を見回っている怜を見つけると、玄関まで駆け下りて行った。すると、ちょうど怜が玄関を開けた時だった。
「お帰りなさい」
瀬名は怜の首に腕を伸ばす。
「ただいま戻りました。いい子にしていましたか」
瀬名の身体を抱き留めながら笑顔を見せる。
瀬名は無言で頷くと顔を上げて怜に笑顔を見せると、額にキスをされた。
「ここは冷えます。部屋に入りましょう」
瀬名は名残惜しそうに怜から離れると、怜が瀬名の頭をくしゃくしゃと撫でた。
その後、瀬名の部屋で怜が買って来たケーキとハーブティーでティータイムを楽しむ。
「今日は会議だったんですか」
なんとなく不機嫌な怜を見て瀬名が訊くと怜は自嘲気味に笑った。
「瀬名にはお見通しですね。ですが、会議ではありません。内閣からIT推進会議のメンバーとして招聘されたようです」
「すごいですね」
瀬名は胸の前で手を合わせて尊敬の眼差しで怜を見つめる。だが、怜は眉間に皺を寄せていた。
「怜さん、気が進まないんですか」
怜は瀬名の手からティーカップを取り上げるとテーブルに置き、瀬名の肩を抱き寄せる。瀬名も身体を寄せてもたれ掛かった。
「瀬名と居る時間を増やすために会社を辞めるのに、内閣の仕事を引き受けたら本末転倒ですよ」
「そうですか。怜さんの気が進まないなら仕方がありませんね」
「それに、僕よりもふさわしい人間がいます。そろそろ表に出してもいい頃ですから、彼を推薦する予定です」
「ガーディアンの方ですか」
「いいえ。個人的な知り合いです。でも、僕に喧嘩を売って来るぐらい優秀ですよ」
「へぇ、すごい人なんですね。でも、そんな人なら安心して推薦できますね」
「瀬名が理解してくれて嬉しいです」
今まで周囲にいた人間なら迷わず引き受けるように言って来ただろう、と思う。
怜は瀬名が愛しくて堪らなくなった。
夕方、帰宅した高臣や周子、悠仁達と一緒に瀬名と怜はリビングでお茶を飲んでいた。
「ところで、瀬名と一緒に引っ越しをするらしいが、場所は決まったのか」
「あら。じゃぁ、いよいよ結婚」
「俺のメシは?どうすんの」
「悠仁のご飯くらいなんとかなるでしょ」
周子が睨むと悠仁は項垂れた。
隣でキャーキャー騒いでいるのを無視するように高臣が話を進めた。
「わざわざ、土地や家を購入するなら、ここの敷地を使っても構わないが」
「実はすでに湯河原に家を購入しました。ただ、冬は寒くなるので冬場はこちらで過ごそうと思っています」
「そうか。それなら、この屋敷も建て替えの時期だから二人の居住スペースを設けよう」
「僕は構いませんが、旦那様がご結婚されたら困るのではないでしょうか」
怜の発言に瀬名と周子、悠仁がドキッとする。高臣の結婚話は聞いたことがなかった。
「・・・・・・。私には当面その予定がないから心配はいらない」
高臣の無言に何かを感じる瀬名だが、さすがに言い出せない。それは周子と悠仁も同じようだった。すると怜が溜息を吐く。
「また、仕事のことばかり考えて、ご自分の結婚を忘れていたのでしょう」
「さすが怜だな」
高臣はクククッと笑う。
「笑い事ではありません。南條家の当主なんですから。少しは考えてください」
怜はそう言うと瀬名の手を取って立ち上がる。
「夕食の支度がありますので、失礼します」
怜に引きずられるように瀬名は頭を下げてリビングを後にした。
キッチンへ向かう途中、瀬名は気になっていたことを訊いた。
「湯河原に家を買ったって本当?」
「えぇ。本当は瀬名の体調が良い時に連れて行って驚かせるつもりでした」
しょんぼりと肩を落として怜が言う。
「でも、嬉しかったです。湯河原なら通院もできますし、お屋敷にも近いですから」
瀬名が笑顔を見せると怜も笑顔を見せた。
「それに、さっきの旦那様との会話」
瀬名はふふっと笑う。
「さっきの会話がどうかしましたか」
怜は不思議そうに瀬名を見る。
「ご兄弟なんだなって思いました」
瀬名がニッコリと笑って怜を見上げると、怜が突然瀬名を抱き締めた。
「怜さん」
訳がわからないまま瀬名は怜の首に腕を絡めると、怜が瀬名の肩に額を乗せる。
「どうかしましたか」
よく分からないまま怜の頭を撫でる。そこで、怜の耳が赤くなっていることに気が付いた。
「もしかして・・・・・・照れていますか」
「いけませんか」
「いいえ。カワイイです」
瀬名の返答に怜は溜息を吐いて、瀬名を離した。
「はぁ、格好悪いですね」
「そんなことありません。いつもカッコイイので、格好悪いところがあると安心します」
瀬名はフォローするが怜の表情は冴えない。
「それに、ご兄弟として話をしているところを初めて見たので、ちょっと感動しました」
「感動?」
「だってお屋敷を出たら、主従関係はなくなるでしょう。怜さんは会社を辞めるし、今後は兄弟として旦那様と接するようになるから、今後はさっきのような関係を見られると思うと嬉しくて感動しました」
キッチンにあるカウチソファーに座りながら瀬名が言うと、怜は何か考え込みながら黙ってお茶を淹れた。
「怜さん、どうかしましたか」
「いえ、瀬名に言われるまで気が付きませんでした。確かに、ここを出れば主従関係はなくなりますね」
「はい。だから、今後は旦那様と呼んではいけませんよ」
茶目っ気たっぷりに瀬名が言うと、怜は困った表情をする。
「怜さん?」
首を傾げる瀬名に怜はお茶を出しながら、溜息を吐く。
「困りましたね。僕は旦那様や社長としか呼んだことがありません」
「え・・・・・・」
「旦那様に初めて会った時は、すでに執事見習いでしたから。まぁ、当時は若様でしたが」
「そうなんですか。でも、今回をきっかけに、お兄様とか兄さんとか呼んでみたら、旦那様も喜ばれると思います」
瀬名は若干はしゃいで提案するが、怜は浮かない顔をする。
「・・・・・・想像ができません」
いつも自信満々な怜の困惑する表情に瀬名は、怜が変化を恐れていると感じた。そこで瀬名はネックレスに通していたブルージルコンとダイヤの指輪を出し、もう片方の手を怜の手に重ねる。
「怜さん、ブルージルコンってパワーストーンとしての効果があるんですよ。知っていますか」
「石の効果?石言葉が安らぎや祈願だと知って選びましたが、そんな力があるのは知りませんでした」
「ブルージルコンの効果は、新しい事への挑戦です。今まで私は、今まで出来ていた事ができなくなっていくことに不安しか感じませんでした。今回の引っ越しを機に怜さんと新しい生活は始まるけど、今まで頑張って来た仕事を辞めます。もしかしたら、そのまま社会復帰することは出来ないかも知れません。だけど、病気になって自由に時間が使えるようになるんだから、思い切って今までやりたくても、後回しにしていたことをやろうと思ったんです。とはいっても、小さなことですけど」
「なんですか。瀬名がやりたかった事って」
興味津津に怜が瀬名の顔を覗き込む。
「時代小説の読破です。お屋敷の書庫にシリーズ全巻揃っているでしょう。時代劇になってタイトルは知っているけど、読んだことがない作品がたくさんあったので読破してみたいんです」
大したことではないでしょう、と笑うと怜が首を振って否定する。
「それに、画像加工とか。内定者向けのSNSで何枚か作ったんですけど、自分で撮影した写真を加工して3D画像にしたり、グラフィックアートに変換したり、絵を描くのが苦手な私でもアート作品を創れるのが楽しくて。その写真を投稿サイトに投稿してお小銭稼ぎもできるみたいだし。いろいろやってみようと思っているんです。だから、怜さんも新しい事に挑戦しましょう」
自分がやろうと思っていることと、怜が高臣との関係を変えるのでは話が違うとは分かっているが、怜に新しい一歩を踏み出して欲しいと瀬名は思って怜の手を握る。
「瀬名は強いですね。僕が瀬名の立場だったら、そんな風には思えないでしょう」
「あれ、怜さん。もしかして知らないんですか。この世界に本当にか弱い乙女なんていませんよ。会社が辛いと人事に泣き言を言ってくるのは大抵男性です」
瀬名がキッパリと言い放つと怜は肩を揺らして笑った。
「確かにそうですね。男の方がぐずぐずしているかも知れません。僕ももう区切りを付ける時なのでしょう」
怜はそう言うとスッキリとした表情を見せ、瀬名は少しだけ怜の役に立てた気がした。
ここ数日、3月上旬とは思えない寒さと暑さを繰り返しており、健康な人でさえ倦怠感を覚えるような気候だった。ただでさえ倦怠感に悩まされている瀬名は、肩甲骨や首の痛み、腕の肉がちぎられるような痛み、めまいと頭痛に襲われていた。
「今日は風が強くて最悪」
2月上旬の気温とテレビでは言っているが、窓を揺らしながら唸る風の音が一日中聞こえた。
「えぇ。明日は庭の手入れだけで一日終りそうです」
瀬名の髪を乾かしながら怜が言う。
「明日は晴れるの?」
「えぇ。今日より気温が上がって、地域によっては初夏の気温だとか」
「そう」
まだまだ気温の変動が激しいことを知って瀬名はがっかりする。
「今は安静にしていてください。月末月初の仕事は終っていますし、人事のお手伝いも一段落したのでしょう」
怜が優しく宥める。
「来週から中途入社データのチェックもあるし、体調を整えないと」
瀬名は俯くのを止めてニコリと笑った。
「まだ、あの仕事するんですか」
「怜さんの適性検査システムができるまで」
「すぐ完成させます」
怜が呆れ顔で言う。怜のシステムができるまでは瀬名が直感で「すぐ辞めそうな人」を振り分けることで、人事業務のサポートをすることになっている。これも、由紀からのマネジメントを引き受ける上でのリクエストだった。
「由紀さんは有能なマネージャーになりますね」
皮肉を込めて怜が言うと瀬名は顔を輝かせて同意した。
「そう。由紀さんってスゴイの。海外エージェントの手数料を値切るのも上手だし、仕事も早いし。リーダーシップもあるから採用チームのマネージャー以上になれると思う」
そういう意味ではなかったのに、と怜がこっそり溜息を吐くと屋敷の警報装置が鳴った。
「何?」
驚く瀬名を抱き寄せて怜は警報装置アプリを確認する。
「庭で火事です。庭のスプリンクラーが動いているので大丈夫だと思いますが、瀬名は念のためシャワールームの近くに居てください」
怜はそう言い残すと瀬名の部屋を出て行った。
瀬名は部屋に残ったが、シャワールームではなく窓から火元を確認する。しかし、スプリンクラーの水が風に煽られて窓を叩いて、よく見えない。
なんとか見ようと背伸びをしていると、部屋の扉が開いた。
「瀬名、大丈夫か」
「旦那様」
「怜が庭で火事が起きていると言っていたが、すぐにスプリンクラーが動いて消えたらしい。ただ、放火の可能性が高い。今から警察が来る」
「わかりました。すぐに支度をして怜さんのお手伝いをします」
「体調が優れないのに済まない」
「いいえ。大丈夫です」
高臣が出て行くと瀬名は身体を冷やさないように厚着をして、怜の元へ向かった。
瀬名がキッチンに入ると怜の姿はなかった。
取りあえず瀬名は湯を沸かしながらお茶の準備をする。
夜遅いこともあり、カフェインが少ない焙じ茶を出すために急須と湯呑みを多めに出した。ポットに残っていた熱湯を注いで急須と湯呑みを温める。
お茶菓子を用意しているとサイレンの音が聞こえて来た。
セキュリティシステムの端末で防犯カメラを動かしながら確認すると、パトカーが門の前に集まって来た。
放火の可能性があるとはいえ、こんなに車が来るものなのかと驚いているとインターホンが鳴らされたので、瀬名は応対しながら門を解錠する。そして高臣に警察が到着したことを告げた。
怜が来ないことを訝しむが、とりあえず瀬名は高臣と共に警察を出迎えると、所轄ではなく警視庁から捜査員が派遣されて来たことに驚いた。
「わざわざ本庁が来るようなことではないのに、申し訳ない」
応接間に捜査員を通すと高臣が頭を下げた。
「いいえ。南條様には全国の科警研や科捜研、鑑識がお世話になっております。その南條家の一大事とあれば、我々が捜査をするのも当然のことです」
捜査指揮を執る捜査主任の清田が愛想笑いをしながら高臣にゴマをする。
瀬名はそれを横目に見ながらお茶を出した。
ガーディアンエンジニアリングで開発した機器の中には、鑑識や科警研・科捜研などに納入しているものが多いことから、高臣は警察庁や警視庁の幹部に顔が利く。恐らくこの清田は上司から早期解決を求められて必死なのだろう、と内心清田に同情しながら瀬名は部屋を出た。
怜の姿が見えないが気にかかる。恐らく怜のことだから、なんらかの考えがあって姿を見せないのだろうと分かってはいるが、瀬名は落ち着かない。
一方、庭ではブルーシートの幕が張られてライトが煌々と照らされている。
家の周囲に大人数の気配がしているので自室に戻る気にもなれず、瀬名はキッチンのカウチソファーで残りの焙じ茶を飲んでいた。
捜査は時間がかかるらしくキッチンで待機していた瀬名はウトウトし始めた。
「瀬名、いますか」
突然、呼びかけられてビクッと身体を起こした。
「こんなところで寝てはいけませんよ」
「あ、怜さん」
ボンヤリと返事をしながら怜を見上げると、珍しく怜が厳しい表情をしていた。
「一緒に来てください」
「え・・・・・・」
怜は有無を言わさず瀬名の腕を取ると、応接間に連れて行く。
「失礼します。犯人が判りました」
「そうか」
「えぇ、まだ通報から1時間も経っていませんよ」
平然と返事をする高臣の横で清田や一緒にいた捜査員が驚きの声を上げた。
「嘘だろう」
「いや、あの南條怜だぞ。本当かも」
瀬名の背後からヒソヒソと声が聞こえる。
「早速だが、どうやって調べたか説明してくれ」
高臣の言葉に怜は無言で頷くと応接間の灯りを消してスクリーンを下ろし、持っていたパソコンの画面を映し出した。
「これが、放火前の防犯カメラの映像です。少し分かりにくいですが、手にした瓶に火を点けて投げ入れているのが判ります」
怜の説明通りガッチリした体格の人物が火炎瓶に火を点けて、門から2メートル以上離れた花壇へ瓶を投げ入れているのが映っている。
「でも、この映像では誰だかわかりませんよ。帽子を被っているように見えますし」
清田の言葉に怜は無言で頷くと、次の映像を出した。
「僕はこの背格好に見覚えがありました。そこで、去年の11月に行われた新製品発表の映像を使って、骨格認証及び歩容認証で検索した結果、両方で一致した人物がいました」
怜はそこで区切ると、鑑定結果を表示させた。
「まさか」
瀬名は思わず声に出してしまい、慌てて手で口を塞ぐ。
「先日、民事再生法が適用された松島精機社長の息子、松島啓介です」
怜は話し終わると部屋の灯りを点けてパソコンからUSBメモリを抜くと、捜査主任に渡した。
「民間人の、それも被害者の鑑定結果ですから証拠能力があるかわかりませんが、お持ちください」
「ご協力感謝します」
清田は立ち上がって受け取る。怜はUSBメモリを私ながらも、唇を歪ませて笑う。
「いいんですか。そんなに信用して」
「え」
呆気にとられる清田に怜は続けた。
「僕なら映像を加工することも、記録を書き換えることも可能ですよ」
「いや、しかし、貴方には松嶋啓介を犯人にする動機がないのでは・・・・・・」
清田はアタフタしながら高臣に助けを求めた。
「怜。警察をからかうな」
「失礼しました。しかし、単純に信用されるのも警察としてどうなのか、と疑問に思いまして」
怜は肩を揺らして笑う。
「ところで、松島啓介の動機に心当たりはありますか」
冷や汗を拭う清田の横にいた若い捜査員が高臣に訊く。
「恐らく、取引を止めたことだろう」
高臣の言葉に捜査員が頷く。
「自業自得です。そもそも不法就労させていたのも、粗悪品を納品してきたのも松島です」
怜が冷たく言い放つ。
「だとすれば、ガーディアングループへ対する恨みになります。当時の社長はお父上だったのではありませんか」
捜査員の指摘に怜が口を開いた。
「個人的な恨みというなら、彼女に振られたことでしょうか。ですが、僕の婚約者だと知っていて強引に見合いを設けて振られただけです」
怜の眼差しが鋭くなる。
不幸なことに眼差しを正面から受け止めた捜査員は目を逸らした。
「そうでしたか」
「では、僕からは以上です。鑑識作業が終ったら声をかけてください。聴取が必要でしたら、明朝にしてください。旦那様もお疲れですから」
ピリピリした雰囲気で怜が言うと、清田を始めとした捜査員が立ち上がった。
「これは、失礼しました。鑑識はまだ残りますが、我々は明朝に伺います」
アタフタしながら出て行く捜査員を見送ると高臣は自室に戻り、片付けをすると言った瀬名も怜の手でベッドに運ばれてしまった。
だが、瀬名は衝撃が大きすぎて眠れない。
松島を異性として好意を持つことはできなかったが、犯罪に手を染めるような人だと思ったことはなかった。
眠れないままゴロゴロしていると、怜がベッドに入って来た。
「眠れませんか」
「うん」
瀬名は頷きながら怜の首に腕を回して身体を寄せる。怜は瀬名を抱き締めながら頭を撫でた。
「怜さんの怒った顔、初めて見た」
「そんなに怖い顔していましたか」
「うん」
瀬名が頷くと怜は溜息を吐いた。
「最近はダメなところばかり見られている気がします」
「そんなことありません。どんな怜さんも好きです」
ふふっと笑って瀬名が言うと、怜は片手で顔を覆う。
「あんまり可愛いこと言わないでください。瀬名の体調を気遣えなくなります」
「気にしなくていいのに」
「そんなこと言ってはいけません。明日も忙しいんですよ。さぁ、寝ましょう」
怜はそう言うと疲れていたのか、すぐに寝息を立て始めた。
だが、瀬名はいろいろ考えすぎて明け方まで寝付けなかった。
翌朝、ほとんど眠れないまま瀬名がキッチンに向かうと怜が朝食を用意していた。
「怜さん」
瀬名が声をかけると怜は爽やかな笑顔を見せる。
「おはようございます。もしかして、眠れませんでしたか」
怜は瀬名に近寄るとクマができているのか、目の下を親指で撫でる。
「あの、怜さんにお願いがあるんです」
「なんでしょう」
「松島さんと話がしたいんです。一緒に行ってくれませんか」
「え・・・・・・」
瀬名の申し出に怜は、絶句した。
「松島さんが放火をした理由が知りたいんです」
「何故ですか」
怜は腕組みをしながら、考え込む。
「横領事件の後、水琴さんの口から動機を訊きたいと思ったんです。でも、できませんでした。ですが、松島さんからなら動機を訊くことができます」
「動機を訊いてどうするんですか。何も解決しません」
怜の指摘に瀬名は少し考えてから口を開いた。
「怜さんの言うとおりです。ただの自己満足です。でも、このままは嫌なんです。私は陰口や聞こえよがしの陰口を言う人に、そういう事は直接言って欲しいと相手に言って来ました。だから、ハッキリさせたいんです」
「瀬名、そんな事をしていたんですか」
気が強い方ではないのに自分の陰口を言っている相手に、わざわざ喧嘩を売りに行くとは、と怜は片手で顔を覆う。
「まぁ、確かに昨日の今日で警察も逮捕しないでしょう。ただ、僕の指示に従ってくださいね」
「ありがとう。怜さん」
瀬名が顔を輝かせて怜に抱きつく。
甘やかしすぎだと思いながら、怜は瀬名を抱き締め返した。
昼過ぎに瀬名は松島啓介に会うために電話をした。
瀬名は啓介が犯人なら電話に出ないのではないか、と思っていたが啓介はすぐに出た。
「もしもし、瀬名さん?」
思いの外、明るい声に瀬名は一瞬戸惑ってしまった。
「あの、急にすみません。松島さんに相談したいことがあるんですけど今日、お時間ありますか」
「もちろん。いつでもいいですよ」
軽い調子で了承されて瀬名はさらに戸惑う。
「では、夕方の3時に渋谷駅前のガーディアンホテルでお待ちしています」
「3時ね。じゃあ、また後で」
「はい。では、失礼します」
瀬名は約束を取り付けると電話を切った。
「脳天気というか楽天的というか、警戒していませんでしたね」
スマホのスーピーカーから聞いていた怜は、呆れ顔で言った。
「そうですね」
「さぁ、ホテルに行く準備をしましょう。瀬名は動きやすいようにパンツスタイルにしてください」
「へ?わかりました」
理由がわからないまま瀬名は返事をした。
瀬名は服にあまり興味がなく、悩んだ末にスモーキーピンクのワイドパンツに白いセーター、格子柄のジャケット合わせた。アクセサリーは怜からもらったリングと、ホワイトデーにもらったパールとスワロフスキーを交互に配置したロングネックレスという貰い物オンリーのコーディネートにした。
だが、怜は瀬名の姿を見るなり不機嫌になる。
「かわいすぎませんか」
怜の態度に瀬名は首を傾げる。
「そうですか。会社に行く時よりちょっとオシャレしただけですよ」
普段、ホテルに行く時は高臣や怜に誕生日プレゼントで買ってもらったブランドのワンピースを着ていけば場違いにならないだろう、という感覚でワンピースばかり着て行っている。
だから、今日のようにパンツスタイルというオーダーが来ると、どうしていいのかわからなくなる。そこで思い付いたのが、アクセサリーさえ付ければなんとかなるだろう、という安易な考えからだった。
「そうでしょうか。ちょっと不安です」
怜は難しい顔をしている。
「それより、怜さん、格好良すぎます」
黒のテーラージャケットに海島綿シャツ、グレーのネクタイにブルージルコンのラペルピンを合わせていた。
「婚約者として付き添うのですから当然です。さぁ、行きましょう」
怜と瀬名は車で待ち合わせのホテルに向かった。
松島と会うためにリザーブしたのはジュニアスイートだった。ただし、いつも使う最上階に近いフロアではなく、VIP専用のコンシェルジュラウンジがある階だった。
瀬名は疑問に思ったが、怜には計画があるのだと思い言われたとおり部屋に入った。
そして三時前に松島が訪れた。
怜とスマホで合図を交わした後、瀬名が返事をして扉を開けた。
「お久しぶりです。どうぞ」
「どうも」
啓介はジャケットにジーパンというラフな格好で現れ、挨拶もそこそこに部屋に入ると瀬名の手首を掴むと引きずるようにソファーセットに向かう。
「何・・・・・・」
驚いた瀬名は踏みとどまろうとするが、力では松島に叶わない。そのままソファーに押し倒された。
「やめて」
瀬名は起き上がろうと暴れるが、松島が覆い被さるようにソファーに上がった。瀬名は全身の毛が逆立つのを感じた。
「うるさい。ホテルで男女が二人きりになるといったら、やることは一つだろう」
瀬名の腕を押さえつけた啓介は突然「ぐえっ」と呻いて瀬名の手を離した。
「婚約者を一人でホテルに行かせる男がどこにいるんですか。僕もいますよ」
怜は涼しい顔で啓介の首を腕で締め上げながら床に転がした。
床に転がされた啓介は膝を付き、激しく咳き込んだ。
瀬名は起き上がると怜の胸に飛び込んだ。
「松島さん。座ってください。訊きたいことがあります」
怜は安心させるように瀬名の背中をさすりながら、一緒にソファーに腰を下ろす。
啓介は涙目のまま、なんとかソファーに座った。
「昨日の夜、南條邸の前にいたのはなぜですか」
瀬名は先ほどのことで啓介が恐ろしくなり、前置きもせずに単刀直入に訊いた。
「はぁ?そんな所に行かねぇよ」
ゲホゲホと咳き込みながら啓介は答える。
「証拠はありますよ」
怜はタブレットで証拠の動画と鑑定結果を示した。
啓介はチラリと見たると「フン」とそっぽを向く。
「天才エンジニアの手にかかればねつ造も簡単だろ」
「怜さんはそんなことはしません」
怜を侮辱された瀬名はカッとなって腰を浮かせて啓介に反論する。
「婚約者がいるくせに見合いに来る尻軽女が何言っているんだよ」
「え?」
啓介の言葉に瀬名は怜の顔を見てから首を傾げた。
「婚約者が居ると知りながら見合いを申し込んだ恥知らずは、そちらでしょう」
「ふうん。それで意趣返しとばかりに、あんな地味な着物着て、さっさと帰ったのか。こっちは、嫁ぎ先もなく役にも立たない、病気の女を貰ってやろうと見合いを申し込んだのに、馬鹿にしやがって」
ソファーにふんぞり返って啓介は不満を口にした。
「地味な着物って、あの着物は南條家の紋が入った一点物です。家が一軒建つような値段が付くような着物なのに」
瀬名が言うと怜が馬鹿を見る目で啓介を見つめた。
「瀬名。彼にそんなことを言っても無駄ですよ。彼は人を見る目もなければ、一流の物を見極める目も持っていません」
「なんだと」
怜の言葉に啓介が声を荒げた。
「では訊きますが、瀬名のことは誰に聞いたのでしょう。新村水琴さんからではありませんか」
「あの女は、ソイツの同級生だろう。どこがおかしい」
「他人の婚約者をソイツ呼ばわりするとは、失礼にも程があります。松島家はどんな教育をしたのでしょう」
「何が言いたい」
「新村水琴さんに騙されたんですよ、貴方は。貴方が彼女ではなく、瀬名に興味を持ったから、嫌がらせをされたんです」
「なんだ、それ。知るか」
啓介は予め出されていた紅茶をがぶ飲みすると「なんだ?冷めているじゃねぇか」文句を言う。
「話を戻してもいいですか」
「どうぞ」
瀬名が怜に了解を取ると啓介を見つめて口を開いた。
「もう一度訊きます。なぜ、南條邸の前にいたんですか。私がお見合いを断ったからですか」
「なんで、あんたに見合いを断られて南條家に放火するんだよ。あんたが住んでいるわけでもないのに」
そこで二人は啓介が、南條邸に瀬名が住んでいることを知らなかったことを知る。
「南條家が放火されたことは、まだニュースになっていません。放火を認めるということですね」
「だったら、なんだ」
怜の指摘に啓介がキレた。
「では、南條家に恨みがあった、ということですか」
瀬名は以前に会った検察官を思い出して冷静に訊いた。
「あぁ、そうだよ」
啓介はわしゃわしゃと頭を掻くと、そのまま頭を抱えた。
「ガーディアンが契約を切って、不法就労を告発したから会社が傾いた。だから、少しぐらい痛い目に遭えばいいと思った。それだけだ」
「でも、松島さんはMBAを取った優秀な方なのでしょう。だったら、会社を建て直せたのではありませんか」
病気も障害もなく、働けるだけで幸せなのに金やステイタスのために犯罪に手を出す人の気持ちが分からない。
瀬名の問いに頭を抱えたまま啓介は何も言わない。代わりに怜が答えた。
「金で買った経歴では何もできません」
「え?」
「大学と留学先は裏口入学。MBAも本当に取得したのか怪しいものです」
「そうなんですか」
瀬名は松島を見るが啓介はふふっと不気味に笑う。
「さすが、天才エンジニアは違うな。なんでもお見通しってことか」
ハハっと啓介は嘲笑する。
「確かに俺の経歴は嘘だよ。でも、ガーディアンが今まで通りに契約してくれればウチの会社は倒産せずに済んだ」
「言っておきますが、不法就労の告発はしていません。松島家が瀬名に見合いを申し込んだことから、高臣社長が松島精機を調査したんですよ。入手した情報に出入国管理局が松島精機に目を付けていることが判ったのです。そもそも、貴方が帰国した直後からですよね、不法就労が横行し始めたのは。闇ブローカーを引き込んだのは貴方でしょう」
「だいたい、会社が不正をしていたのが悪いんでしょ。どうして南條家を恨むんですか」
「うっせぇな。なんなんだお前ら。」
啓介が立ち上がると、怜も立ち上がり瀬名を庇うように立つ。
「本人はこう言っていますが、どうですか。清田さん」
怜の呼びかけに応じるように、清田を始めとした警察官が部屋のあちらこちらから出て来た。
「松嶋啓介、南條邸の放火について話を聞かせてもらおう」
「は?なんなんだよ。お前ら」
啓介は状況が理解できないまま警察官に連行された。
「南條さん。ご協力ありがとうございました」
清田が怜に挨拶をすると、怜はテーブルの上にあったシュガーポットを渡した。このシュガーポットには録画装置が仕込まれている。
「今の音声と動画が録音されています。お持ちください」
「何から何までありがとうございます。では、明日お伺いします」
清田は挨拶をすると出て行った。
「怜さんの計画ってこういうことだったんですね」
「えぇ。相手が逆上した場合、僕だけで対処できませんし、危険分子はさっさと排除するべきです」
「ありがとうございます」
「いいえ。それで、瀬名はスッキリしましたか」
怜に問われて瀬名は俯く。
「わかりません。やっぱり、私は水琴さんとちゃんと向き合わなければスッキリできないのかも知れません」
見合いの件に水琴が絡んでいたことを考えると、水琴が何を思って瀬名に嫌がらせをするのかを聞き出さなければスッキリしないと思った。
「それはどうでしょう」
「え?」
「人の好き嫌いは理屈ではありません。何となく嫌い。何故かわからないけど好き、そういうことの方が多いでしょう。水琴に訊いても、ハッキリはしないと思いますよ。彼女自身が判っていないのですから」
怜の言葉を自分自身に置き換えて瀬名は考える。確かに、友人達のどこを好きになったのかを言葉にするのは難しい。瀬名が水琴に苦手意識を持つのは、わざわざ自分に構って嫌がらせをするからなのだが、他に苦手や嫌いな人など全員の理由を問われると、答えるのが難しい人もいる。
そこまで考えて、人の好き嫌いが感覚的で、怜を好きな理由が曖昧だと気がついた。
「そうですね」
「まぁ、彼の場合は現実に向き合わず周囲や環境のせいにしていることが、道を踏み外した原因でしょう。高臣社長もすぐに切り捨てずに、企業体質の改善と製品の質を向上させれば、再契約する話をしていたようですから」
「そうなんですか」
「そうですよ。それを彼は断ったんです」
「でも、さっきはそんなこと言ってなかったのに」
「言えなかったのでしょう。言えば、自分の判断が間違っていたことが知られてしまいます。男は好きな女性の前では格好つけたいものですよ。さぁ、帰りましょう」
「はい」
自分の気持ちはスッキリしなかったが、自分が知らなかった背景を知れただけでも啓介と会って良かったと瀬名は思い、反対しながらも機会を設けてくれた怜に感謝をした。
帰りの車中で瀬名はホテルでの怜と交わした会話を考えた。
人の好き嫌いに限らず、世の中は案外いい加減だと思う。
何が正解か明確になっている事の方が少ないのではないか。
そもそも、未来のことは誰にもわからない。
啓介だって自分が社長になる未来は思い描いていただろうが、犯罪者になるとは思っていなかっただろう。
そこまで考えてふと気が付いた。
健康な人も、いつか病気になって働けなくなるかもしれない。
自分は何をグズグズ考えて迷っていたのか。
すでに怜は病気の自分を受け入れて世話をしたいと言ってくれているのに。
瀬名はすでに怜のいない生活なんか考えられない。
だったら自分に正直になってもいいじゃないか。
信号が赤になったタイミングで怜は左腕を伸ばして瀬名の頬を撫でた。
「大丈夫ですか」
怜に少し撫でられただけなのに瀬名はドキドキしてしまい、気を紛らわせるために視線を外に向けた。
「大丈夫。ちょっと疲れただけ」
程なくして南條邸に着くと、瀬名の部屋で怜とお茶を飲む。
「怜さん、あのね・・・・・・」
「なんでしょう」
瀬名は車の中で考えていたことを伝えようとするが、上手く口が動かない。
「えっと・・・・・・」
瀬名は怜から視線を外した。
「何ですか」
怜が心配そうに瀬名の顔色を伺う。
「怜さんのお嫁さんになりたい」
瀬名は思い切って怜に告げる。
「・・・・・・本当に」
怜は口を手で覆って立ち上がった。
「うん」
瀬名は真っ赤になって俯いた。怜は座っている瀬名を閉じ込めるようにソファーの背もたれに両手を突いた。
「こんなに嬉しいことがあると思いませんでした」
怜が瀬名の目を覗き込む。色香ただよう怜に見つめられた瀬名は降参する。
「そんなに・・・・・・?」
瀬名が白状すると怜は片手で顔を覆い、そのまま髪を掻き上げた。
「じゃあ、誓いのキスをしましょう」
怜はそう言うと劣情を湛えた目で瀬名を見下ろすと、片手を項に添えて噛みつくようにキスをする。
「んん・・・・・・」
怜が角度を変える度に瀬名の声が漏れ、怜のキスが激しくなる。瀬名はクラクラしながら、怜の首に腕を回す。
互いの口内を十分に堪能すると、どちらともなく唇を離した。
荒い息をしながら見つめ合い、怜は無言で瀬名の身体を抱き上げるとベッドに優しく寝かせた。
「すみません。できるだけ優しくします」
「ううん。怜さんの好きなようにして」
「いけません。そんなふうに僕を甘やかしては」
耐えられない、とばかりに言って怜は瀬名にキスをすると服を脱がせ始めた。
瀬名は甘い声を上げながら、身体の痛みを無視する。
身体が痛いから無理だ、と言えば怜は止めてくれるだろう。だが、痛いからと断っていくうちに怜の気持ちが離れていく方が瀬名には辛い。
それに、いくら気持ちが通じ合っていても身体が繋がっている時ほど愛されている実感を得らない。心も体も繋がってこそ、女としての幸せを得られると瀬名は思っている。
怜は自分も服を脱ぎながら瀬名の身体を慮って、瀬名が感じやすい所を効率的に攻めて感度を上げていく。
「あぁん」
怜に快楽を教え込まれた身体は、簡単に快感を極めてしまう。
だが、いつもなら性急に挿入してくるのだが、今日は丹念に身体を愛撫する。ピンと勃起した乳首をしゃぶりながら、片手でもう片方の乳首を執拗に嬲った。そして、まだ脱がせていないショーツの上から秘裂目がけてかぶりついた。
「あぁ、いや・・・・・・」
こんなことをされると思っていなかった瀬名は戦くが、怜はそこを舌で舐め始めた。水分を含んで張り付く布の上から舐められる感触が、瀬名にはもどかしい。
さらに、怜がピチャピチャ音を立てているので、羞恥と大きな快感を得られない熱が胎内でくすぶる。
「怜さんの意地悪」
思わず言葉に出すと、怜はククっと喉で笑った。
「これはもういりませんね」
ショーツを脱がせて瀬名を横臥させると背後から抱き締めた。
燃えるような怜の身体に抱き締められると、瀬名の秘裂に漲りが擦れる。
「ん・・・・・・気持ちいい」
瀬名は身体と心の両方が満足していくのを感じた。
怜の匂いと体温、骨格や筋肉の質感、どれもが瀬名を安心させてくれる。
「瀬名、今日はゆっくり愛し合いましょう」
色香を漂わせた怜の声が鼓膜に響いて、それだけで胎内が蠢く。
「はい」
背後から怜は瀬名の胸に掌を当てて揉みしだき、項や肩にキスをして赤い斑点をつけて楽しむ。怜が悪戯をする度に瀬名の身体が反応し、秘裂に怜の漲りが擦れて甘い声が漏れてしまう。
「んん、やめて・・・・・・」
「瀬名は敏感で、本当に可愛い・・・・・・」
「はぁ。怜さん、顔が見たい」
瀬名の言葉に怜が半身を起こして顔を覗き込むと、潤んだ目で瀬名が怜を見つめる。
怜は瀬名の太腿に挟んだ漲りを抜いて起き上がると、瀬名を抱き起こして正面在位の体勢にした。
「この体勢だと身体が辛いですか」
「大丈夫」
「これなら抱き締め合えますね」
瀬名を見つめて艶然と微笑む。
「うん」
瀬名は嬉しくなって怜の唇を舌で舐めると、怜は驚いた顔をする。だが、すぐに瀬名の唇を噛みつくようにキスで塞ぐと互いの舌を吸い、表面を舐め合う。
自然と腕を伸ばして抱き締め合うと、瀬名の秘裂からは蜜が零れ怜の漲りを濡らしている。
「はぁ」
唇を離すと互いに笑みを交わす。
「そろそろ挿れますよ」
「うん」
怜は瀬名の身体を浮かしてゆっくり挿入すると、瀬名はそれだけで極めてしまった。
「はぁああん」
仰け反る瀬名の首筋にキスをすると、瀬名の胎内は怜の漲りをキュウキュウと締め付ける。
「はぁ、堪らない・・・・・・。しばらく、このままでいましょう」
薄らと汗を浮かべる怜を瀬名はうっとりしながら見つめ、無言で頷いた。
抱き締め合ったまま何度も濃厚なキスを交わす。ただ、身体を撫でられるだけで激しく穿たれているわけでもないので、瀬名はもどかしさを感じるが気持ちがいい。
「動かなくても、こんなに締め付けてくるんですね」
「そんなこと言われてもわかんない」
「本当ですか」
意地悪く笑うと怜は軽く腰を振った。
「ああぁん」
急な刺激に瀬名の胎内が激しく反応した。
そのまま、しばらく抱き合ってじっとしていたが、先に音を上げたのは瀬名だった。このままでも、気持ちはいいが、もっと強い快感を求めて自然と腰が動いた。
瀬名が怜の胸にもたれながら熱い吐息をこぼすと、怜も堪らず腰を振り始めた。
「あぁ、もう限界です」
「ひゃぁぁん」
突然、胎内を穿たれ始めて瀬名はうっとりとした気持ちから目覚めるが、怜は数回激しく奥を突くと薄膜越しに胎内に熱を放った。
気を失うように眠る瀬名を抱き締めながら怜は自己嫌悪に陥った。
帰りの車で瀬名が腰をさすっていたので、腰が痛いことは判っていた。だから、帰ったら寝かせてあげようと思っていたのだが「怜さんのお嫁さんになりたい」と、予想外の一言に理性が飛んだ。
生きてきた中で泣きたいぐらいに嬉しいことがあるのを、怜は人生で初めて知った。
元々、啓介に瀬名が襲われた時から帰ったら瀬名の身体を消毒しなければ、と思っていたのだ。
体調が悪いのなら添い寝するだけでもいい、と考えていたのだが……。
ずっと待っていたプロポーズの返事をもらえた喜と、恥ずかしそうに返事をくれた瀬名が可愛くて愛しくて、抱かずにはいられなかった。
いつも身体に負担をかけないようにと思うのだが、行動が伴わない。
服の上から抱き締めても甘い声が出るぐらい感じやすいのに、滑らかな肌と初な色をした乳首、濡れやすい秘裂も処女のように綺麗だ。
しかも、艶やかな黒髪を振り乱して喘ぐ姿は蠱惑的で劣情を煽る。さらに、狭い隘路を進んで胎内に入ればドロドロに蕩けた肉襞がキュキュウと絡みついて離そうとしない。
これで理性を保てる男がいるのだろうか、と怜は真剣に考えてしまう。
あれでも自分は理性の欠片が残っていた方なのだ。理性を完全に消し去っていたら避妊もせずに、瀬名を人形のように揺さぶっていたに違いない。
その状況を避けられただけマシだと思う。
そもそも、瀬名に敵うはずがないのだ。
容姿が自分好みのうえ、考え方や生き方も好ましい。何より、怜を見た目やステイタス、スキルで判断せずに好きだと言ってくれる。
出生や過去、家族構成、社会的立場なんか瀬名と一緒に居る時は関係ない。瀬名と一緒にいる時は、世話好きな南條怜という一人の男になる。
だから、怜は瀬名と一緒に居られる時だけ癒やされるのだ。
だからこそ結婚という鎖で瀬名を縛り付け、知り合いのいない家に閉じ込めようとしている。
「早く二人だけで暮らしましょうね」
グッタリとして眠る瀬名の髪を撫で、頬にキスをすると部屋を出た。
「湯河原の引っ越し先を見に行く前に、ご両親に挨拶に行きましょう」
怜の一言で急遽、瀬名の実家に行くことになった。
瀬名の実家は高雄が住む田園調布に近い多摩川駅前にある、ごく普通の一軒家だ。
予め要件を伝えていたせいか、悟と小春は普段着ではなく外出するような服装だった。
瀬名は藍色のワンピースに怜からもらったブルージルコンのリングとパールとスワロフスキーを交互に配置したロングネックレスを二重に巻いた。
怜は三つ揃いのオーダーメイドスーツに、瀬名のリングとお揃いのネクタイピンとカフス、ブルージルコンの付いたラペルピンを付けている。だが、会社に出社する時とは異なり前髪は下ろしたままだ。
「小春さんの前で今更繕っても仕方がありませんからね」
怜は笑って瀬名の手を取ると、名波家のインターホンを鳴らした。
現会長の高雄も知っている仲であり、高臣も公認であることから「高臣様が許可するなら」という理由で、あっさりと結婚の許可が貰えた。
さらに、結婚式も瀬名の体調を考えて体調の良い時期を見計らって写真撮影のみにし、瀬名の両親と高臣、ロバートで食事をするだけで済ますことも了承を得た。
だが、それは怜の前だけだった。
昼食を一緒に食べる約束をしていたので、キッチンで小春の手伝いをするとブツブツ言い始めた。
「本当に結婚して大丈夫なの?」
「病気が酷くなったからって帰って来ても困るわ」
親心から来る心配だとわかってはいても瀬名には煩わしい。
「私も散々悩んで怜さんと相談して決めたの。万が一、離婚しても迷惑かけないから安心して」
「そんな簡単な話じゃないのよ。離婚して戻って来たら世間体も悪いし、高臣坊ちゃまにも顔向けできないじゃない」
それは両親の都合であって瀬名には関係ない。
小春が気にしているのは自分よりも世間体であり、我が子同然に育てた高臣である。だから、自分が鬱病になった時にさっさと怜に看病を任せたのだと瀬名は本気で思っている。だから、小春が傷つくと判っていながら、敢えて口にした。
「だいたい、怜さんは私が今よりも酷い精神状態だった時や身体の痛みが酷い時に献身的に看病してくれたのよ。病気が悪化したからって、離婚するわけがないでしょ」
「そうね。怜さんなら大丈夫よね」
瀬名の言葉に小春は少し寂しそうに頷いた。
それ以降、結婚に関する話を両親は出さなかったが、やはり自分に結婚は無理なのだろうかと落ち込んだ。
その後、予定通り二人で湯河原へ向かうことになった。
湯河原に着くと二人は、不動産やとリノベーションしてくれた建築家やインテリアデザイナーと最終チェックをして引き渡しをしてもらった後、ガーデニングデザイナーと庭の打ち合わせをしてホテルに入った。
その夜、二人が宿泊したのはミシュラン掲載のホテルだった。
瀬名は生まれて初めての離れをもの珍しそうに見て、豪華な夕食を堪能した。
「せっかくの露天風呂です。ゆっくりお風呂に入りましょう」
「えっと、そうですね」
正直、すぐにでもお風呂に入りたいが、瀬名は露天風呂が部屋の中から丸見えなのが気になった。
「早くしないと、夕食が来てしまいますよ」
怜は瀬名を連れて露天風呂に向かうと、サッとワンピースを脱がせて露天風呂に瀬名を放り込む。
瀬名は仕方なく身体を流してから湯船に浸かると、気持ちが良くて目を瞑って浸かる。
しばらく目を瞑っていると、怜が入ってきた気配がして目を開けた。
「瀬名、大丈夫ですか」
怜が心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫です」
瀬名が笑って見せると、怜は安心したような笑顔を見せて湯船に浸かる。
「夕食を食べたら、すぐに寝ましょう」
「寝るだけですよ」
「明日帰りますからねえ。もちろんです」
妖艶な笑みを浮かべる怜に、瀬名は危険な予感がして湯船から出た。
その後、髪を乾かしてベッドに潜り込むと、すぐに怜が寝室に入ってきた。
ドキドキしている瀬名をよそに、いつもと変わらない雰囲気でベッドに入った怜は瀬名を抱き締めて、ため息を付く。
「やっぱり、瀬名がいると安心できます」
瀬名も自然と怜の首に腕を回して怜の匂いを感じる。
「怜さんの匂いがする」
互いに見つめ合うと軽くキスをした。
「さぁ、寝ましょう」
怜の一言で瀬名も目を瞑る。だが、先に眠ったのは怜だった。
いつもなら、寝付きの悪い瀬名が眠るのを確認してから眠る怜が珍しい、と瀬名は怜の顔を覗き込むとうっすらクマが見える。
もしかしたら急な仕事で徹夜だったのだろうか、と心配になった。だが、すぐに普段の怜に比べて寝顔が少し幼いな、睫が長くて綺麗などとどうでもいいことばかり思う。そして、怜に見とれている内に自然と眠ってしまった。
きっちり2時間後に目が覚めた怜は、自分に寄り添って眠る瀬名の姿に満足する。
十数年前まで人の温もりなど欲しくもなかったのが嘘のようだ、と自分を嘲笑する。
瀬名の頬や首筋にキスをするが長距離の移動で疲れたのだろう、目覚める気配はない。
朝までゆっくり寝かせてあげようと、そっとベッドを抜けると庭に出た。
焦る必要はない。
もうすでに瀬名は自分の手に入ったのだ。
それなのに最近は、瀬名を見ると感触や匂い、温もりを感じたくて独占したくて堪らなくなる。
十代のガキではあるまいし、情けない。
今まで完璧に瀬名が求める大人を振る舞って来たのに、一緒に暮らし始めて瀬名が離れてしまわなないだろうか。
ざわり、と不安がよぎる。
南條家や学校で居場所を作るのには、製品開発や勉強で実績を上げれば良かったのだから簡単だった。
だが、瀬名の場合は違う。
精神分析はできるが、怜は人の心が読めるわけではない。
自分の愛情が伝わっていて、瀬名も自分を愛してくれているはずなのに、ちょっと風が吹いただけで瀬名が居なくなってしまいそうな気がしてならない。
どうしても怜、は愛情や信頼という目に見えないものを信じることができない。
いっそうのこと、瀬名が自分の与える悦楽に溺れてしまえば簡単なのだが、瀬名の体調を考えると難しい。
だから、長い時間をかけて信頼できるのは自分だけ、瀬名を甘やかしてあげられるのは自分だけだと刷り込ませてきたのだ。
「怜さん」
呼ばれて振り向けば、まだ目覚めきっていない瀬名が立っていた。
「喉が渇いたんですか」
目を擦りながらぼんやりしている瀬名は子供のようだ。
「違う。怜さんがいなかったから」
思わぬ一言に、怜はニヤニヤしてしまいそうになるのを堪える。
「そうでしたか。それは申し訳ありません」
「まだ時間大丈夫だよね」
「えぇ」
怜が部屋に上がると瀬名が怜の袖を掴んで寝室へ連れて行く。
その姿が可愛らしくて、襲いたくなるのを怜は必死で堪えた。
瀬名がベッドに潜り込むと怜が隣に寝転がる。
「ねぇ、怜さん。昨日は忙しかったの?」
怜の首に腕を回しながら瀬名が訊いた。
「いいえ。ただ、眠れなかっただけです」
「そう」
少し不満そうな表情を瀬名が見せる。
「どうかしましたか」
「ううん。なんでもない」
ぐりぐりと鼻先を首筋に押し付ける瀬名の頭を撫でながら「心配をかけて、すみませんでした」と謝ると、瀬名は首を振った。
「こうして居られるから、もういい」
二人でクスクス笑うと、抱き締め合いながら眠りについた。
怜が購入した別荘は湯河原の別荘群にあった。近くには足湯が楽しめる万葉公園があり、自然豊かな環境でかつ、赤坂とは異なる静けさがあった。
シャッター付きの車庫に車を止めて正門へ向かう。
「ここですか」
「はい」
瀬名は呆然と建物を見上げた。三階建てと思われる建物は門からでは全体図が掴めない。
怜が購入するのだから、庭が広いことは予想していたが二人暮らしなのだから、こぢんまりした建物を想像していた。
考えてみれば怜は南條家の人間なのだから、庶民育ちの瀬名とは感覚が違うのだ。
そもそも、赤坂の南條邸は母屋しか使っておらず、離れの客間は十年近く使っていない。母屋と棟続きの離れを含めて何部屋あるのか把握している人がいないという本物の金持ちである。
つまり、普通の一軒家の基準が違うのだ。
別荘は門を抜けると屋根付きのスロープがあり、雨の日でも濡れずに家に入れるようになっていた。
広い玄関ホールを抜けて行くとリビングとキッチンがある。
キッチンはコの字カウンターで仕切られており、最新調理家電とオーブンに収納やハッチが備え付けられており、怜のこだわりが各所で見られた。
ダイニングとリビングには仕切りがなく、ダイニングテーブルとソファーセットとオーディオ機器以外は何もない、だだっ広い空間になっている。
「家具はインテリアコーディネーターに任せて選びました。ただラグやクッション、リネン類は瀬名の好きなモノを選んでくださいね」
「え?私が選ぶんですか」
「はい。だから、瀬名の好きな北欧風デザインでもいいですよ」
瀬名はパリのアーティストによる北欧デザインのポーチやタオル、部屋着を集めるのにハマっていた。そのことを知っている怜は、瀬名が北欧デザインのカーテンやリネンを集められるようにインテリアコーディネーターに選ばせなかったのだと悟った。
「でも、怜さんの好みもあるでしょう」
そもそも、家は怜の所有物である。
「家の中は瀬名が好きなようにしていいですよ。その代わり僕は、庭を好きなように造らせてもらいます」
ニコリと笑う怜に、瀬名は「それなら」と頷いた。
「カタログと生地見本をもらってあるので、後で選びましょう」
そして、リビングの窓から外を眺めるとレンガテラスが見えた。
「ここから、お庭が見えるんですね」
「初夏なら、外でティータイムを楽しめますね」
「うん。楽しそう」
瀬名が笑顔を見せると怜は嬉しそうに笑う。
ゆったりと流れる時間の中で二人は、この部屋で何をしようか、あと必要な物は何かと、とりとめもない話をしながら部屋を見て歩く。
寝室に入ると、南條邸で瀬名が使っているものと同じメーカーのベッドマットをはめ込んだクイーンサイズのベッドと書棚やパソコンデスクが置いてあったが、それでもゆったりとした広さがある。
庭側にはサンルーム、反対側にはウォークインクロゼットがあり、瀬名は一階だけで十分生活できそうだと感じた。
「このサンルームには、今キッチンに置いているカウチを持ってくる予定です。寝付けない夜にここで夜更かしするのもいいでしょう?」
怜の提案に瀬名は手を叩いて頷いた。
「寝る前に一緒にお茶を飲むのもいいんじゃない」
「そうですね」
新しい生活でやってみたいことが次々と浮かんで来て、二人はいろんなプランを立てながら部屋を回る。
浴室の前には広々とした洗面化粧台があり、広々とした浴室には温泉が引かれているという。
「正式に入居してから、温泉やインフラが開通するようになっているので、今は空っぽです。でも、これだけ広いと一緒には入れますね」
怜はにこやかに言うが、瀬名は旅行でのことを思い出して「う、うん」と曖昧に頷くしかできなかった。
それに、南條邸では(怜のせいで)瀬名が立ち上がれない時以外、一緒に入ることはない。だが、高臣達の目を気にしなくなれば一緒に入る機会も増えるのか、と瀬名はようやく気が付いた。
二階三階には客間があった。一階のダークブラウンではなく明るい木目のフローリングのせいか、全体的に明るい雰囲気がある。
さらに、二階と三階にはルーフバルコニーがあり、相模湾が一望できる。
二階にも浴室があり湯河原の山並みと海を眺めることができ、こちらも温泉が出る。
「瀬名の調子がいい時はこちらの浴室を使いましょうか」
「え?というより、二人暮らしなのに浴室が二つあるの?」
「もしかしたら、高臣さん達が来るかも知れません。それに、瀬名のご両親も。そのために二つあります」
「そう」
渋谷から湯河原はそれ程離れていない。それに、今後ガーディアンを背負う高臣は休みも不規則になるだろう。今ですら、高臣の目付きが鋭くなって近寄りがたくなっているので、ふらっと弟の住む家で温泉に浸かるのもいいかも知れない、と瀬名は思った。なにしろ、高雄の秘書をしている父が土日祝日や夏休みもなく働いているのを見ていたので想像に難くない。
言葉にはしないが怜が高臣のこと大事に思っているのを知って瀬名は嬉しくなった。
このまま普通の兄弟になれればいい、と。
三階の執務室には天井に階段が隠されており、そこを登ると大型のグルニエ(屋根裏収納)に上がれるようになっていた。
「うわー、スゴイ。秘密基地みたい」
映像や本でしか屋根裏部屋を見たことがない瀬名が感嘆の声を上げると、怜が苦笑いする。
「夏場は暑いですから、置けるものは限られるでしょうね」
「あぁ、そっか」
「まぁ、工夫をして使いましょう」
「はい」
その後、庭を見てから昼食を食べて南條邸に戻った。
湯河原から戻ると、新居のラグやカーテンなどを選びながら四月の入社式と新人研修準備に追われ、瀬名はプライベートも仕事も忙しくなった。
痛み止めの注射を打つが、なかなか効き目がなく痛み止めの錠剤を追加しながら仕事に行き、帰って来ると怜に小豆を蒸したホットパッドを背中や首に乗せてもらいながら夕食まで昼寝をするというルーティンで四月を乗り切った。
一方で怜は業務の引継ぎや引っ越しの手配、長年南條家のハウスキーパーを担当していた女性を家政婦に雇うために引継ぎを行っており、多忙を極めていた。
「本当に引っ越しちゃうのね」
いよいよ引っ越しを明日に控えた夕食、周子が寂しそうに呟く。
「別に会えなくなるわけじゃないし、夏は泊まりに行くんだからいいじゃん」
悠仁が明るく言う。
「まぁ、それはそうだけど。この屋敷も社長一人じゃ広すぎるわね」
「でも、冬には二人とも帰って来るんだろ」
悠仁が高臣に視線を送るが、高臣は黙々と食事をする。
「はい」
南條兄弟の代わりに瀬名が答えた。
「だったら、今までと大して変わらないじゃん。なぁ」
悠仁が再び視線を送って同意を求めると「あぁ」と高臣が頷き、微笑んだ。
「社長もプライベートを充実させてくれるといいんだけど」
周子が呟くと、悠仁と高臣が聞こえないふりをした。
「しばらくは、難しそうですね」
二人の声を怜が代弁する。すると、自然と全員が笑い始めて和やかなまま最後の夜が更けた。
翌朝、瀬名は屋敷を出る前に高臣に挨拶に行った。
「旦那様、使用人としても社員としても役に立てず、申し訳ございませんでした。高校時代から、いつも温かく見守っていただいたこと忘れません。長年、お世話になりました」
瀬名が深々と頭を下げると、高臣が「ふっ」と笑う気配がした。瀬名が頭を上げると高臣がクスクス笑っていた。
「娘を嫁に出す父親のようだ」
笑いながら高臣に言われて、瀬名は「そういえば」と、笑った。
「これで怜を南條家から解放してやれる。瀬名のおかげだ」
「一つ、お尋ねしてもいいでしょうか」
「なんだ」
「使用人として役に立たない私を、どうして今まで置いていただけたのでしょうか」
「怜には瀬名が必要だったからだ。私に怜が必要なように。瀬名がいなければ、怜はただガーディアンの製品を開発するだけロボットだっただろう。それが、瀬名の世話をするうちに人間らしい表情と、私も知らない怜の個性が現れてきたのだ。瀬名のおかげだ」
「いいえ。そんなことはありません。それに、怜さんが必要なのに……」
「そこは心配しなくていい。怜なら離れていても助けてくれる」
高臣は朗らかに笑う。
高臣の表情に、瀬名は心配しているほど兄弟の心は離れていないと確信して嬉しくなった。
「瀬名、ここにいたんですね。荷物は玄関ホールに出ていたものでだけですか」
「はい」
瀬名が頷くと、怜は高臣の前に立つ。
「では、旦那様。行って参ります。仕事に精を出すのもいいですが、たまには湯河原に休みに来てください」
怜の言葉には長く住んだ屋敷を離れる寂寥は微塵も感じさせない。
瀬名は冬場にこの屋敷に戻って来るのだから、自分の挨拶はやはりズレていたのだ、と今更ながら赤面していた。
「そうだな。怜。これを持って行きなさい」
高臣は執務デスクの引き出しから、箱根旅行の土産で買った箱根細工のレターボックスを怜に渡した。
「なんでしょうか」
怜は意図も簡単に箱根細工のレターボックスを開ける。そこには手紙と表紙に交換日記の書かれたB6サイズのノートが数冊入っていた。
「私がロバートやり取りしていた手紙と、母との交換日記だ」
「え・・・・・・」
呆気にとられながらも、怜は手紙や日記を読む。
「どちらも、怜の成長を喜び、子供らしからぬしっかりとした怜を心配する親心が記されている。私が持っているよりもいいだろう。持って行きなさい」
「ありがとうございます」
怜は複雑な笑みを浮かべて丁寧に受け取った。
初夏を思わせる5月の日、瀬名と怜は南條邸を出た。
引っ越して2ヶ月後。
怜が丹精込めて造った庭には、終わりかけのアナベルやユリの他にクレマチスやヒャクニチソウ、ノウゼンカツラなどが咲き乱れている。
ある夜、珍しく怜がはしゃいだ声を上げた。
「瀬名、来てください。早く、早く」
お風呂上がりの瀬名は、頭にバスタオルを巻き、長袖のパジャマ姿で怜が手招きする、リビングの窓際に駆け寄った。
瀬名は夏でも風(自然な風、クーラーや扇風機の風)に当たると痛みや痺れが起きるので、寝る時は長袖のパジャマを愛用している。
「どうしたの」
「見てください。月下美人が咲きそうです」
怜が指を指した先で白い花がゆっくり開こうとしている。
「月下美人ってこうやって咲くんだ。初めて見た」
「なかなか咲いているところを見るのが難しいのですが、今日は運が良かったです」
「そうなの?」
怜が窓を開けると月下美人の、優しい香りが漂ってくる。
「怜さんの匂いに似ている」
「そうなんですか?」
怜は自分の手首や腕の匂いを確かめる。
「やはり、自分ではわかりませんね」
苦笑いする怜を見て瀬名も笑う。
「今日はここで髪を乾かしましょう」
二人は窓際で髪を乾かして、互いのパソコンを持ち寄って月下美人を長めながら仕事を始めた。
「ねぇ、このアジサイどう思う」
瀬名は以前から言っていた画像加工で、世の中に存在しそうでしない花を作成して画像投稿サイトで、お小遣いを稼いでいる。
「うーん、最近できた新種に似ています。ほら、これとか」
瀬名が怜の手元を覗く。
「これはなんて言う名前なんですか」
「まだ、名前は決まっていないようです」
「そっか。存在するアジサイなら、また考えないと」
瀬名は気合いを入れて考え始める。
無理に働く必要がなくなり、温泉の効果もあって瀬名の体調は良くなって来ていた。怜はその原因として、ストレスの緩和を上げていた。
それについては、瀬名も認めていた。『今日中に何かしないといけない』という縛りがなくなって、瀬名の気持ちはすごく軽くなった。
その隣で怜は瀬名には判らない文字の並んだ画面で作業をしている。
怜は性格分析やBusiitのグローバルサイト開設の仕事を終えても、次々と高臣から依頼が来ている。「人使いが荒いですね」と言いながらも怜の表情は、東京に居た頃より、ずっと活き活きしている。
先日、高臣が別荘に泊まりに来た時には、怜は高臣が好きな料理を楽しそうに作ってもてなした。
高臣が来る数日前から、高臣に出す料理のことばかり話題にするので瀬名が焼き餅を焼いたぐらいだった。
以前は高臣と距離を取っていた怜が、自分から高臣に歩み寄り始めている。
「今の怜が、本来の姿なのだな」
高臣は少し寂しそうに、だが嬉しそうに言って東京へ戻って行った。
怜は瀬名の体調によって献立を考え、アレルギー症状が酷くなった瀬名のためにプロ並の掃除を実践している。さらに、趣味の造園に加え、温泉供給には毎日欠かせない硫黄や湯の花を取り除く。そのボランティア参加した怜は、作業に危険が伴うことを知って、ロボット化できないのか研究をしている。そのため、東京に居た頃と変わらない多忙の日々を送っている。
瀬名は湯河原に来るまで、怜は嫌々研究開発をしていると思っていた。だが、怜は元々研究開発が好きなのだと改めて知った。ただ、与えられた研究開発をするのではなく、テーマを自分で選べるようになっただけで仕事の充実度や満足度が上がっているので、ガーディアンを離れたのは正解だったと感じている。
湯河原に来て二人は誰にも遠慮せず、自分を偽ることもなく生活できて幸せだった。
日本の社会では両手足を使い両目で見て、両耳で聞き、相手とコミュニケーションを取れる言葉を話す。決められた年齢で学校を出て働き、異性を愛して子供を生み家庭を築く。このレールに乗れる人は正しくて、レールに乗れない人は肩身の狭い思いをして生きなければならない。
その片隅で出会った二人は、互いを支え合いながら自ら社会をはみ出して生きていく道を選んだ。
「怜さん、満開になりましたよ」
「あ、本当ですね」
「綺麗」
「瀬名の方が綺麗ですよ」
「もう」
顔を背ける瀬名を怜は背後から抱きすくめる。
「ずっと一緒にこうしていましょう」
「うん」
二人は月下美人の花が閉じるまで眺めていた。
数日後、高臣はブロンドの髪を巻いた派手な美人を連れて帰って来た。
怜は不機嫌を隠さずにダイニングへ案内をする。
「ジュリアは留学時代に怜と同じ研究をしていて、今は母校で研究をしている」
「そうですか。まだ若いのにすごいですね」
怜が来客を案内しているので、瀬名は鞄とコートを持って高臣の部屋で着替えを手伝っていた。
「そうだな」
ジュリア・スミスはマサチューセッツ工科大学で怜と同級生だった工学博士で、大手企業と共同研究を手がけている才女だという。
瀬名はジュリアに玄関でぎこちない英語で挨拶したら、盛大に顔を背けられ無視された。そのせいで、瀬名にはすっかりジュリアに対して苦手意識がついている。
「英語が話せないので、おもてなしできるか不安です」
着替え終った高臣に付いて階下へ向かいながら、ポツリとこぼすと高臣が笑った。
「心配しなくても怜が応対してくれるだろう。瀬名は裏方に徹しなさい」
「はい」
その後、高臣が言った通り怜は瀬名にダイニングに近寄らないように命令された。
「あの性悪女には近寄らないでください。瀬名が汚れます」
「汚れるってどういうことですか?」
「そのままの意味です」
怜はそれ以上、瀬名の質問に答えず不機嫌なまま夕食の準備をして接客をしていた。
瀬名はジュリアと怜の様子が気になって、廊下を覗くが姿を見ることも声を聞くこともできない。
ジュリアは怜の元カノなのか、怜は年上なのだから仕方がないなど瀬名はモヤモヤしながら夕食を食べ終えると食器を片付けて、お風呂に入った。
お風呂上がりにバスタオルで髪を拭きながら部屋に向かって歩いていると、ジュリアがグラス片手に佇んでいた。
瀬名は英語が話せず無視されていたので、思わず固まってしまう。
「なんでこんな子供がいいのかしら。英語も話せなければ、社交もできない妻なんてふさわしくないわ」
ジュリアは流暢な日本語で言った。
「それは怜さんに聞いてください。失礼します」
瀬名がジュリアの横を通ろうとすると、ジュリアが立ちはだかる。
「ねぇ、貴方わかっているの?怜は日本でくすぶっているような人間じゃないの」
「怜さんがすごい人だということはわかっています」
「それなら話が早いわ。怜と別れて」
「え?」
瀬名は意味が解らず固まった。
「怜が日本に留まるのは貴方がいるからよ。怜はもっと世界で活躍するべきなのよ。こんなところで病人の看病をさせているなんて信じられない」
声は落ち着いているが、ジュリアの目がさらに吊り上がる。
「看病をさせているわけではありません。それに、怜さんなら日本に居ながらでも世界を変えられると思います」
ジュリアの怒りが伝わって瀬名は震えを隠しながら答えた。
「何を言っているの。アメリカの方がいいに決まっているじゃない。IT後進国の日本で何ができるっていうの」
それまで瀬名を真っ直ぐ見つめていたジュリアが瀬名から視線を外した。
瀬名はジュリアが嘘を吐いたと勘づいた。
「ジュリアさんは、怜さんのことが好きなんですね」
「えぇ、彼とは何度もベッドを共にしているわ」
自慢げに胸を張るジュリアに、瀬名はモヤモヤを解消するチャンスだと切り込んだ。
「どうして別れたんですか」
怯むと思った瀬名が意外にも勝ち気な態度を取ったので、ジュリアは驚いた顔をした。
「私は天才で野心家が好きなの。でも、怜は天才だけど野心がなかった。それで別れたのよ。でもその後、付き合った男は怜ほど才能がないのに、傲慢で女なんかアクセサリーぐらいにしか思わない。まぁ、怜も冷たかったけど」
瀬名はジュリアも水琴と同様に、怜の才能にしか興味がないことが分かって悲しかった。怜は人間としても素敵な人なのに皆、怜自身を見てくれない。だから、怜が本当は何をしたいのか理解してくれないのだ。
「だから恋人に戻りたいんですか」
「そうよ」
平然と言うジュリアは、怜の才能を活かすパートナーとして申し分ないと思う。怜がエンジニアとして今後の人生を歩むのなら。
「わかりました。怜さんがジュリアさんを選ぶなら私は別れてもいいです」
「本当ね」
「はい。ただ、怜さんがエンジニアとしての人生を望んでいないのに、強要するようなことはしないと約束してください。怜さんは、しばらく趣味を楽しみたいと言っています」
「何言っているの。彼はまだ若いのよ」
信じられない、という表情をするジュリアに瀬名は諭すように言う。
「確かに年齢は若いですが、人生経験だけで言えば他人の倍以上も苦しく辛い経験をしているんです。だから、怜さんが本当にやりたいことを楽しんで欲しいんです」
瀬名が話し終わった途端、階下から怜の声が聞こえた。
「瀬名、どうかしましたか」
怜が階段を上がる音がすると、ジュリアが顔色を変えた。
「怜さん、ごめんなさい。少し身体が痛くなったのでジュリアさんに助けてもらっていました。ジュリアさん、迷われたみたいなので案内してもらえますか」
階下に向かって瀬名は言うとジュリアを階段に行くように促す。その後、瀬名は自分の部屋に飛び込んだ。
扉を閉めた途端に瀬名は自分の胸を抉られるような痛みに涙が止まらなくなった。
ジュリアに言ったことは本心だ。
怜には幸せになって欲しいし、怜が幸せになるためならば自分が身を引いてもいい。
それなのに、胸が痛くて涙が溢れて止まらない。
瀬名が声を殺して泣いていると、扉がノックされた。
無視するわけにもいかず、涙を拭いて扉を開けると怜が驚いた顔をした。
「そんなに痛みが酷かったんですか。どうして呼んでくれなかったですか」
「ジュリアさんに背中をさすってもらったら良くなってきたから」
怜は瀬名を優しく抱き締める。
「身体が冷え切っています。もう一度、お風呂に入って温まってください。寝る前に漢方を飲みましょう」
「はい」
怜の提案に、瀬名は俯いたまま頷いた。
瀬名が風呂場に行くのを見届けた怜はジュリアを案内した客室を訪れる。
「怜から来てくれるなんて嬉しい」
ジュリアは怜に腕を伸ばして来たが、怜は無表情でジュリアの片手をピシャリと叩いた。
「痛い。何するのよ」
睨みつけるジュリアを怜は無表情で見つめる。
「瀬名に何を言った」
いつもの柔らかい口調ではなく冷徹な声で問いただす。ジュリアは怯えた表情を見せた。
「何も言ってないわ。苦しんでいたから、介抱してあげただけよ」
「それにしては時間が長い。瀬名の病気を知らない貴方が十分も介抱するなら、僕を呼べば済む」
怜の説明にジュリアは大きな目をさらに大きく見開いた。
「ちょっと待って。どうして時間がわかるの。監視カメラかGPSでも付けているの」
「この屋敷は僕のテスト場だ。何があっても不思議ではない」
怜の放つ冷淡さは二人を包む空気を冷やしていく。ジュリアはぶるりと身体を震わせた。
「瀬名との会話を洗いざらい話せ」
ギラリと刺すような眼差しで見つめられたジュリアは、しどろもどろになりながら話し始める。
「たいしたことは話してないわ。貴方と付き合っていたこととか……」
「付き合ってない」
「何言っているのよ。付き合っていたじゃない」
思わずジュリアは怜の腕を掴むと、再び手を叩かれた。
「触るな」
怜はジュリアから離れると溜息交じりに言う。
「あれは、利害が一致したからだ。互いの生理的欲求を解消するために、互いの身体を利用しただけだ。恋人でも何でもない」
感情の無い声で淡々と道具扱いされた現実を告げられたジュリアは青ざめた。
「それより、他に何を言ったのか言え」
大学時代にも見たことのない形相で睨まれたジュリアは全て話した。
「女じゃなかったら殴っていた」
話を聞き終えて怜は呟いた。
「ちょっと、あんな何もできない子供のどこがいいの?私の方が怜には相応しいわ」
「は?他人を見る目のない凡人が、何を偉そうに言っているんだ。欲しいものが手に入らなくて、八つ当たりで人を傷つける貴方の方がずっと子供だ」
怜の言葉にジュリアはプライドを傷つけられた。
「私のどこが凡人なの」
15歳で大学を卒業後、順調に大学院を卒業して22歳で大学院教授になったジュリアは知性と美貌を兼ね備えており、周囲から羨望の眼差しで見られることはあっても凡人扱いされたことはない。
「貴方はいつも人の表面しか見ていない。僕のことだって知能指数しか見てないだろう」
「それのどこがいけないの?私は優秀な人間が好きなの。優れた遺伝子を求めるのは本能じゃない。むしろ、病弱な人間を求める貴方の方がどうかしているわ」
一矢報いろうと皮肉ったが怜は動じない。
「つまり、優秀な人間なら僕ではなくてもいいはずだ。恋愛感情なんか貴方には必要ないということだろう」
「そうは言ってない。誰でもいいわけないじゃない。それに、彼女は怜が私を選ぶなら身を引くって言っていたのよ。彼女も私と同じよ」
瀬名の泣きはらした顔が、怜の頭に浮かび拳を握り締める。そして、ふぅーっと溜息を吐くと微笑みを浮かべた。
「そういうことでしたか」
急に笑みを浮かべた怜に、ジュリアは恐ろしいものを感じて鳥肌が立った。
「何?」
無意識にジュリアの声が震える。
「社会的に抹殺されるのと、事故あるいは病死するのとどちらがいいですか」
「え……」
「今後、僕と瀬名の前に姿を現さないと約束するなら、このまま帰します。ですが、視界に入ることがあれば実行します。まぁ、命を奪うのはハイリスクですから、横領や論文の盗用で社会的に抹殺した方が貴方には効果的でしょう」
腕を組みながら突然、怜はニコニコ笑いながら愉快そうに話す。
「なんで、そんなことされなきゃいけないの?」
「瀬名を傷つけたからですよ」
「そんなことぐらいで……。貴方、おかしいわ」
「僕は生まれつき普通ではありません」
平然と言い放つ怜に、ジュリアは底知れない恐ろしさを感じて、立っていることがやっとだった。
ジュリアの部屋からキッチンへ向かった怜は、お風呂上がりの瀬名に漢方を服用させる準備をしていると、高臣が入って来た。
「何かご用ですか」
「ジュリアとの話し合いは済んだか」
「はい。お騒がせしました」
「やりすぎてないだろうな。いくら我々でもフォローできるのは国内までだ。まぁ、Busiitは買いだったから結果オーライだが、これ以上は貸しになるぞ」
怜の方がフォーカスされがちだが、高臣もSAIS(ジョンズ・ホプキンズ大学ポール・H・ニッツェ高等国際関係大学院)を卒業した秀才だ。本人が希望するように外務省に入っていたら、高級官僚の中でも特別扱いされるような待遇を受けていたに違いない。
そもそも弟がやっていることを会社や自分の損にはならないと見越して止めずに静観して、会社や自分の利益に繋げるあたり腹黒いと思う。
「その割には、Busiitのグローバルサイトの仕事が回って来ているのは、どういうことでしょう」
怜は苦笑いしながら高臣にナイトキャップを用意する。
「自業自得だろう。早くスローライフを楽しみたかったら、大人になるんだな」
「どういうことでしょうか」
「お気に入りの玩具を壊された子供のように、いちいち報復していたら切りが無いぞ」
「そういうことですか。難しそうです」
怜は用意したナイトキャップを高臣に押し付ける。
「僕は姫のお世話がありますから、後はご自分でお願いします」
嬉しそうな弟の後ろ姿を呆れた顔で高臣は見送った。
お風呂から出た瀬名は部屋に戻ると漢方を服用した後、上の空でドレッサーの前に座るとジュリアのことをどう切り出そうか悩む。
「何か訊きたいことがあるんでしょう。終ったら聞きますよ」
怜は瀬名の髪を乾かす前に地肌と髪を保湿するオイルをつける。
瀬名はシェーグレン症候群の影響で体中が乾燥する。そのせいで、地肌に毛嚢炎や湿疹ができやすいので、予防として殺菌効果のあるシャンプーを使い、乾かす前に地肌や髪を保湿ケアする。
これを瀬名自身が完璧にやろうとすると、髪が長いことや身体の痛み、握力の低下があるので難しい。
一度、瀬名は自分でケアできる長さに髪を切りたいと怜に言ったが、自分が瀬名の髪を乾かすから切る必要はないと言われてしまった。
「こっちに来てください」
髪を乾かし終えた怜はベッドのヘッドボードに背中を預けて座ると瀬名に手招きした。瀬名が大人しく怜の隣に座ろうとすると、怜は瀬名の手を引き「こっちです」と自分の太腿を叩いた。
瀬名は戸惑いながら、怜に背中を預けるように座る。怜は両脚で瀬名の身体を挟み、さらに背後から抱きすくめる。
「これだと話にくい」
「話が長くなったら湯冷めしてしまいます」
振り向く瀬名に、怜は耳元で囁く。
「それは怜さんも同じでしょ」
瀬名は肩に掛けていたショールを、怜の肩に掛けた。
「ありがとうございます。それで僕に何を聞きたいんですか」
唇が触れそうな距離で言われ、瀬名は慌てて前を向いた。
「ジュリアさんはどうしましたか」
「明日帰りますよ。もう、僕らの前に姿を出すことはありません」
「え、どういうことですか」
「彼女、忙しいですから」
怜の言葉にホッとする反面、瀬名は少し寂しさを感じた。
「ロバートさんも、もう来ないのでしょうか。」
「いいえ、彼は来月も来ます。母の月命日前後には必ず来ていますから」
「そう、だったんですか」
瀬名は初耳だった。
怜は毎月15日前後に栞の墓参りをしていた。瀬名が家に居ると怜が気にするので、瀬名は病院の予約を15日前後に入れるようにしている。
だが、アメリカ在住のロバートが毎月墓参りをしているのにも驚いた。
「本当に栞さんのことが好きだったんですね」
「さぁ、どうでしょう。後悔している、と言った方が正しいかも知れません」
「後悔、ですか」
「えぇ。そうですね。聞いてもらってもいいですか。僕と母のこと」
怜はギュッと瀬名を抱き締めた。怜が不安を感じているように思えた瀬名は自分を抱き締める怜の手に、自分の手を重ねて言う。
「教えてください。怜さんと栞さんのこと」
「母はずっと祖父の言うとおりに学校を出て、言われるままに結婚しました。ところが、兄の家庭教師だったロバートと生まれて初めての恋をしたんです」
淡々と話す怜の口から「兄」という言葉が出たことに驚いたが、瀬名は黙って聞いた。
「まぁ、さすがに僕が生まれる直前になって夫や祖父にバレてロバートはクビ。二人は引き離されました。さらに、母は堕胎を迫られたようですが頑なに拒んで僕を産んだそうです。その、代償として夫は兄を連れて家を出て行き、母は兄とも引き離されました。それでも、小春さんが散歩や塾の送迎時に兄を連れて来てくれましたけどね」
「ロバートさんとは連絡を取らなかったのでしょうか」
「それも禁じられたようです。母が手紙を送っても返ってきていました。僕が五歳ぐらいの時に、ロバートが結婚したと聞いて、母が号泣していたのを覚えています。その後からです。精神的に不安定になったのは。その母を慰めようと僕が作曲をして母が詩を付ける作曲遊びや、僕の作った話に母が挿絵を描く作家ごっこなんかしましたけど、一時的に気分が晴れてもすぐ鬱々としてしまいましたね」
当時の事を思い出したのか、怜は少し弱々しい声で語る。
だが、瀬名はその作曲ごっこで作った曲がガーディアングループのコマーシャルや、提供しているミニ番組で流れていることや、二人で創った絵本が賞を受賞してベストセラーになっているのを知っていたので、遊びで生まれた曲や絵本だった事実に衝撃を受けた。
「栞さんって多才な方だったんですね」
「頭の良い人でした。僕の推測ですが、大旦那様は他人の言うことに耳を貸すタイプではありません。まして、社会人経験のないお嬢様だった母の言うことなど、聞く耳を持たなかったでしょう。でも、母は時流を読むのが上手かったし、工学系の知識もありました。だから、夫のやり方に不満があって意見をして、夫婦仲をこじらせてしまったのだと思います。自分を理解してくれる人がいなくて淋しかった所に、話を聞いて理解してくれるロバートが現れて恋に落ちたのでしょう」
「そうだったんですね」
瀬名には栞の気持ちがよく分かった。栞と瀬名の境遇は違うが、周囲に理解者がおらず孤独を感じていることや、急に自分を理解しようとしてくる人が現れてあっという間に恋に落ちてしまう所が似ている。
瀬名には栞と怜の苦しみが分かって辛かった。
「僕が七歳の時に母は、僕とロバートとの見分けが付かなくなって僕に、自分を捨てた恨み辛みを言っては泣き叫び、最後には私を捨てないでと縋り付くようになったんです。幸か不幸か僕は普通の子供ではなかった。だから、母と一緒に居るために泣き喚く母をなだめながら、一生懸命世話をしました。でも、治療まではできません。母はその後、心因性の失語症になって僕が八歳の夏、昼寝をしている間に車にはねられて死にました。今でも事故か自殺か分かりません。ただ、僕と一緒に昼寝をしていた母が自分の意志で外に出て行ったのは事実です。僕は結局、母を守り切れなかった」
怜は瀬名の肩に額を乗せて、瀬名を抱き締める手に力を入れた。
瀬名はこのまま聞くべきか迷った。だが、怜が今まで抱えてきたものを知りたい。それに、瀬名に話すことで怜の負担が軽くなれば力になりたいと思い、黙って怜の言葉を待つことにした。
「母が亡くなった後、僕と祖父が暮らしていた家に兄達が帰って来ました。僕は施設に入るのだろうと思っていました。ところが、すでに僕の知能指数に目を付けた祖父が周囲を説得して、兄の勉強や習い事相手兼執事見習いとして南條家に残ったんです」
「じゃあ、怜さんの話し方はそのせい?」
「そうですね。まぁ、処世術という意味合いが強いかも知れません」
ふふっと怜は笑う。
「その後は瀬名が知っている通り兄達とアメリカに留学しました。そこで、ロバートと出会ったんです。恐らく兄はロバートと連絡を取っていて、わざわざその大学を選んだのでしょう。ただ、ロバートの講義は純粋に面白いと思ったし、工学や医学にも興味があったのでアメリカ留学は楽しかった。できれば、そのままアメリカにいたかった。でも、南條家には育ててもらった恩、兄には母を奪ってしまった贖罪として兄の助けをしなければならない。だから、日本に戻りました」
「待ってください。怜さんは南條家の人間だし、高臣様からお母様を奪ったのは怜さんではありません」
瀬名は身体を反転させて言う。
怜は大人達の事情に巻き込まれた被害者なのにおかしい、と瀬名は珍しく瀬名は憤る。
だが、いつものように怜は微笑んだ。
「おかしいことはありません。僕は母を護ることができなかった。だから、南條家のために何かしなければならない。だからロボットのように働こうそう思って帰国したんです。そこで、瀬名と会って考えが変わった」
「えっ」
そこで怜はサイドボードからスマホを出して写真を見せた。
写真には、『源氏物語』の若紫をモデルにした日本人形が写っていた。
顎のラインで切りそろえられた黒髪や黒目の大きな瞳が高校生時代の自分に似ている、と瀬名は思う。
「これは、母が大切にしていた人形です。母が亡くなった後は僕が留学先まで持って行って大切にしていましたが、今は仏壇に置いてあります」
「どういうこと?」
瀬名が首を傾げると、怜は愛おしそうに瀬名の頬を撫でる。
「瀬名を護りたいと思ったからです。一生かけても」
「でも、私は・・・・・・」
「初めは人形に似ていたから興味を持ちました。でも、瀬名と母が違うことはすぐに分かりました。瀬名は自分の意見を持っていて、自分の生きる道を自分の力で切り開ける人です。それでも、僕は瀬名のことを護りたい。瀬名が我慢や無理をし過ぎて倒れてしまわないように。何より、僕には瀬名が必要なんです。僕を金になるモノを生むロボットや贖罪のために生きる人間にならないために。だから、身を引くなんて言わないでください」
いつになく真剣な眼差しで瀬名を見つめて怜が言った。
瀬名は怜の告白を聞いて自分が重荷になるという恐れよりも、純粋に怜を独りにしたくないと思った。
「私も独りにしないでくれるなら」
「もちろん」
怜は笑顔で言うと瀬名を抱き寄せて啄むようにキスを繰り返していると、次第に深くなる。
怜の舌は瀬名の口腔内を我が物顔で蹂躙した。怜がキスの角度を変えながら、パジャマの上から瀬名の胸を揉みしだく。
パジャマ姿で怜の話を聞いていた瀬名の体温は下がっていたが、怜の掌はいつもより熱い。
瀬名はもっと怜の体温を感じたくて、怜が着ているセーターの裾を引っ張る。
怜は唇を離すと、ふふっと笑う。
「今日はじっくり愛そうと思ったのに、瀬名はせっかちですね」
瀬名は真っ赤になりながらも怜のセーターを脱がせると怜の首に抱付いた。
「瀬名は抱っこが好きですね」
「うん」
怜の熱すぎる体温が気持ち良くて、首筋や頬にキスをする。その間に怜は器用に胸元のボタンを外して肩を剥き出しにして押し倒した。
怜の唇は首筋や鎖骨、胸、腹と全身を這う。
もう少し抱き付いていたかった瀬名は怜を止めたいが頭がボーっとして唇が動かない。ただ「あぁ。ん・・・・・・」という嬌声が漏れるだけだ。
怜はいつも瀬名の体力を考えて最低限の愛撫だけをして瀬名の胎内に入ってくるが、今日は全身を丹念に愛撫する。
瀬名はもどかしくて腰を揺らす。
しかし、怜はパジャマや下着を脱がせながら足の指の一本一本まで口づけていて瀬名が触れて欲しいと思っている所に触れてくれない。
「もう、いいから。怜さん」
焦れったくなって怜を呼ぶと、怜が瀬名の両脚を大きく開くと瀬名の下生えを覗き込む。
「いや・・・・・・、見ないで」
今までに何度も抱き合っているが、こんな風にじっくり愛撫されたことも視姦されたこともなかった。
「もう、溢れてますね」
獲物を捕らえた獣のように舌舐めずりをした怜は、瀬名の秘裂に口づけた。
「ああ・・・・・・ん」
ようやく触れてもらえた悦びで叫び声のような声を出してしまう。
怜は一心不乱に瀬名の蜜を舐め、膨らんだ花芽に吸いつく。
新しい刺激を与えられる度に瀬名の腰が跳ね、全身に愉悦が駆け巡り背筋を反らした。
「あぁ、もうダメ・・・・・・」
ドクンと大きな愉悦の波が押し寄せ、瀬名の頭が真っ白になって意識が飛んだ。
次に瀬名が目を開けた時には、怜が両乳房を寄せて二つの乳首を一気にしゃぶりついていた。
絶えず腰に刺激を与えられている瀬名はのろのろと腕を伸ばして、怜の首に腕を回した。
「瀬名?」
心配そうに顔を覗き込む。
「早く・・・・・・」
「わかりました」
優しく言うと、ゆっくり腰を入れた。
瀬名はいつものように一気に奥処まで挿れると思っていたが、怜は浅い処で抽挿を繰り返している。しかし、瀬名の媚肉は雄茎を引き込もうと絡みついて締め付ける。
「そんなに締め付けないでください」
汗を流しながら怜は言うが、瀬名はどうすればいいのかわからず長い髪を振り乱して首を振る。
「いや・・・・・・わかんない」
もっと強い刺激を知っている身体はもどかしさで腰が動く。
瀬名は気を紛らわそうと怜にキスを強請る。互いに舌を絡め合い口腔内を探り合う。
怜は深くキスをしながら抽挿を繰り返し、瀬名の媚肉は逃がすまいと雄茎と締め付ける。
飲み込めない唾液が瀬名の口角から零れるのを舐め取ると怜は突然、奥処を突いた。
「はぁん」
突然の強い刺激に瀬名はのけぞった。
だが、胎内ではもっと刺激を求めて怜の雄茎をぎゅうぎゅう締め付けた。
「うぁ・・・・・・」
思わず怜が呻く。
自然と互いに強く抱き締め合い、全神経でお互いを感じ合う。
「ん・・・・・・気持ちいい」
「気持ちがいいですよ。瀬名」
互いの気持ちが同じ方向を向くと、こんなにも多幸感を味わえるのかと実感をした。
「動きますよ」
瀬名は脚怜に絡ませて怜と一緒に絶頂を目指す。
怜は子宮口をコツンコツンと何度も突き上げながら、片手で花芽を弄る。
激しく奥処を突かれた瀬名は淫水を吹き出しながら絶頂を迎え、怜は腹に淫水を浴びながら瀬名の胎内で爆ぜた。
瀬名は怜の胸にもたれて鼓動を聞きながら、怜とずっと一緒に居たいと思った。
月に一度の通院日は瀬名が一人で買い物をする日でもある。
男性が一緒だと買いにくいものは、この日にまとめて買うことにしている。
店先を眺めて、瀬名はバレンタインデーが昨日だったことを思い出した。
身体のだるさや痛みのせいで家に居ることが多いうえに、薬の副作用もあってボンヤリと過ごしているうちに日付の感覚が麻痺してしまったらしい。
しまった、と思いながら「今からでも間に合う」というポップに自信を得て、高臣と悠仁、周子にチョコレートを購入した。
今年ぐらい怜には手作りを渡したいと思う。だが、キッチンを使える時間は限られるし、冷やすには冷蔵庫を使わないといけない。つまり、キッチンの冷蔵庫を使えば怜にはバレバレだ。
「仕方ないか」
バレても喜んでくれると信じて瀬名は、唯一自分が作れるオムレツケーキの材料とチョコレート、風船を買った。
オムレツケーキはホットケーキミックスにバターや砂糖、卵と混ぜてレンジでチンしてできたものを冷やし、ホイップクリームやフルーツを挟んでできる。市販品の『丸ごと○○』のようなお菓子だ。
瀬名はさらに洗った風船に溶かしたホワイトチョコレートを塗り、冷やしてオムレツケーキに被せるドームを作ることにした。
病院を終えて帰宅すると怜はまだ墓参りから戻って来ていなかったので、瀬名は慌てて材料を混ぜてケーキとチョコレートドームを作った。ちょうど、作ったものを冷蔵庫に入れたところで怜が帰って来た。
「あれ、瀬名どうしたんですか」
「すみません。冷蔵庫を借りていました」
「別に、冷蔵庫は僕のものではないのでいいですよ」
いつものように微笑む怜に、なんとなく視線を合わせにくい瀬名はペコリと頭を下げると部屋に戻った。
「一日遅れてしまったのですが、バレンタインデーのチョコレートです」
夕食時に瀬名は高臣にチョコレートを渡した。
「ありがとう」
高臣はニコリと笑って受け取る。さらに、悠仁や周子に渡した。
「サンキュー瀬名ちゃん」
「私のもあるの?ありがとー」
「怜ちゃんは?何貰ったの」
周子が怜に振ったので瀬名は慌てた。
「え、怜さんには・・・・・・」
「僕はいつも貰っていますから」
瀬名の声に被せるように怜が少し拗ねたように言うと、周子はあからさまに、「しまった」という顔をした。
「ごめん、ごめん」
「いいえ、怜さんにはちゃんと用意してあるんです。まだ準備が終ってないだけです」
怜が拗ねているので瀬名は正直に話した。
「なんだ。怜ちゃんは手作りかよ」
悠仁がふて腐れると怜がドヤ顔で言う。
「僕と悠仁が同じ物のはずがありません」
そんな怜の様子を高臣と周子は珍しいものを見る目で見つめた。
「今日は怜さんが先にお風呂に入ってください」
夕食の片付けが終ると瀬名は、怜の背中を押してキッチンから追い出した。
「怪我だけはしないでくださいね」
怜は苦笑いをしながら出て行った。
瀬名は冷蔵庫から生地を出すと片面にクリームやフルーツを乗せ、もう片方の生地を被せる。出来上がったオムレツケーキを半分に切り、お皿に移す。
その上にホワイトチョコレートドームを被せた。
いつも怜が淹れてくれているルイボスティーを淹れ、オムレツケーキと一緒に怜の部屋に持って行った。
ノックをすると「どうぞ」と返事があったので躊躇せずに瀬名は部屋に入ったが、怜は上がったばかりだったらしく、上半身裸で髪を乾かしている最中だった。
普段にも増して艶のある怜に瀬名は慌てて目を逸らす。
お城のように豪華な南條邸だが、怜の部屋はウッドテイストのフローリングと壁、必要最低限の家具しか置いていないシンプルな造りになっていた。
瀬名は二人用の小さなテーブルセットに持ってきたオムレツケーキとルイボスティーを置いた。
「わー、美味しそうですね」
瀬名の背後から半裸のまま怜が近づいてテーブルの上を覗く。
風呂上がりのホカホカした蒸気と怜の匂い甘く上品な心地よい香りが漂って、瀬名の胎内が疼いた。
「早く着替えないと風邪引きますよ」
正面を向いたまま言うと瀬名の耳元で笑った。
「座って待っていてくださいね」
瀬名は頷くと椅子に腰掛けながら、怜が着替えているのを覗き見た。
少しストレートになった髪から滴り落ちる滴、華奢だが引き締まった肉体を見ているだけで瀬名は、ドキドキして疼いる所が潤ってくるのを感じてしまう。
赤面していないだろうかと掌を頬に当てていると、怜が目の前に座った。
「すみません。お待たせしました」
「どうかしましたか。具合が悪くなりましたか」
「え、違います」
瀬名は慌てて首を横に振る。
「それは良かった。では、早速いただきます」
怜は手を合わせてから、デザートナイフとフォークを手に取った。
「ちょっと待ってください。仕上げをします」
瀬名はエプロンのポケットから温めておいたチョコレートリキュールを取り出し、ホワイトチョコレートドームにかける。リキュールがかかった所からチョコレートが溶けて、中のオムレツケーキが見えるようになった。
「すごいですね。美味しそうです」
満面の笑みを浮かべて怜は言うが、豚肉のハーブレモン塩釜焼きを作るような人に言われても恐縮するだけだ。
「お口に合うといいんですけど」
怜は上手くドームを崩しながら一口食べる。
「美味しいです」
「甘過ぎませんか」
怜は甘い物が少し苦手で、チョコレートもハイカカオのものしか食べない。
だが、瀬名は見た目でホワイトチョコレートドームにようと決めたが、オムレツケーキにもハーフカロリーとはいえ生クリームを使っているので怜には甘すぎたのではないか、と心配だった。
「いいえ。チョコレートリキュールが効いていていい感じです」
「よかった」
「瀬名はホワイトチョコレートが好きですよね」
「時々、無性に食べたくなるんです」
「それは、バニラの香りに鎮痛効果があるからかも知れませんね」
「そうなんですか」
「えぇ。日本の大学が研究発表していますよ」
「へぇー、面白いですね」
瀬名と会話をしながらも怜はペロリと平らげた。
「美味しかったです。旦那様達に申し訳ないぐらいです」
「じゃあ、まだ半分残っているので明日・・・・・・」
瀬名が顔を輝かせて言うと怜が眉間に皺を寄せた。
「ダメです。それも僕が食べます」
「えっ」
「瀬名が作ったものは全部僕のものです」
ニコリと笑って言う。
「なんか、怜さん変わった」
今までの怜と何か違うような気がして瀬名が言うと、怜は首を振った。
「僕は元々独占欲が強いんですよ。知りませんでしたか」
「うん」
瀬名が頷くと怜が立ち上がり瀬名の前に立った。
「瀬名、おいで」
怜の声音でキスされるのが分かって瀬名の胸が高鳴る。
一日遅れのバレンタインデーは、深夜まで続いた。
黒髪を乱したまま瀬名が全裸で自分のベッドでグッタリしているのを見下ろしながら、怜は口元に笑みを称える。
ここ半年近く瀬名の部屋で寝ているのでセックスした後の瀬名が、自分のベッドに倒れていると本当に瀬名が手に入ったと感じる。
栞のことを置いても瀬名だけは手に入れたかった。
心が手に入らないのなら、身体だけでもいいと瀬名が自分の匂いに敏感なことを利用して、毎日一緒に寝て、日常的にスキンシップを取ってきた。
その甲斐あって、今では自分の匂いだけで身体が反応するようになったようだ。
さっきもコットンワンピースを捲ると、すでにレギンスまで蜜が垂れている状態だった。そこで怜は瀬名の胸に膝がつくように脚を折り曲げた。
「レギンスにシミが付いてますよ」
怜はニヤリと笑って、手で顔を覆う瀬名の手ベッドに押しつけて顔を覗き込む。
「いつから濡らしていたんでしょう」
「・・・・・・わかんない」
怜は頤に手をかけると怜は瀬名の瞳を見つめた。
「教えてください」
「・・・・・・たぶん、怜さんの匂いを嗅いだ時です」
瀬名は真っ赤になりながら言っていた。
思い出しただけで脂下がった顔になってしまう。
怜は気絶したように眠る瀬名の横に潜り込んで抱き締める。
「ん・・・・・・」
無意識に瀬名は怜の胸元に顔を擦りつけて怜の匂いを確認している。
自分では分からないが、瀬名は感覚が鋭いせいか自分が発しているオスの匂いがするらしい。
他の女が惹きつけられると迷惑でしかないが、瀬名が惹きつけられてくるなら匂いが消えないように研究しなくてはいけない、と怜は本気で考えている。
すでに瀬名は自分の匂いに欲情して身体を求めるようになっている。
人の心はすぐに変わる。
あんなに自分に縋って泣いた栞ですら、自分を置いてあっさり死んだ。
瀬名も病気が寛解して自由に動けるようになったら、他の男に走るかも知れない。
それなら、身体に快楽を教え込んで逃れられないようにすればいい。
その考えが怜を占める。
それだけに、瀬名の身体が辛くなると分かっていても激しく身体を求めてしまう。
瀬名がどんなに一緒にいてくれると言ってくれても、病気で身体が辛くても手作りケーキをプレゼントしてくれても、怜の心には不安が消えない。
瀬名が他の女達と違って南條怜という人間性を好きでいてくれるとしても。
初めて会った時、瀬名は南條邸の庭を案内する怜に言った。
「この花は庭師さんが育てているんですか」
「いいえ。基本的には僕が育てています」
何気なく返事をした怜に瀬名は笑って言った。
「優しいんですね」
「優しい?」
驚く怜に瀬名は続けた。
「そうです。だって、私は自分のことしか考えられないから植物を育てることはできません。でも自分のことやお兄様のお世話をしながら、こんなに沢山の命を大切に育てられるのは優しい証拠です」
今なら分かる。きっと、その時自分は瀬名に恋をしたのだと。
「絶対に逃がしませんよ」
眠る瀬名に囁くと、抱き締める腕に力を込めて怜は目を閉じた。
二月下旬は寒さの底になる。
瀬名は、身体は痛みが酷くなって部屋から出るのも困難になっていた。
それでも瀬名は周囲に迷惑をかけられないとリモートで働いていた。
「あまり無理しないでくださいね」
緑茶を持ってきた怜が呆れた表情で声をかける。
瀬名は首が動かしにくいので、パソコンの画面に顔を向けたまま答えた。
「大丈夫」
瀬名は新卒学生から入社に関する質問への回答や、連絡事項の伝達事項などを行っていた。
本社採用の新入社員は新人研修を千葉県の関東支社で一ヶ月行う。そのため、新入社員全員にマンスリーマンションへ入居してもらうのが慣例になっている。瀬名はマンスリーマンションの契約や新入社員へ入居日や引っ越しに関する連絡を行っていた。
連絡や調整は慎重かつ迅速に行わなければいけないので、精神的な負担と首や肩への負荷が大きい。
だが、怜は自分が代わるとも、止めることもしない。
高臣が行った説明会の時もそうだが、瀬名の身体に良くないと分かってはいるが、怜は瀬名が納得するまでやらせることにしていた。
瀬名の病気は病状が良くなる可能性もゼロではないが、悪化する可能性の方が高い。
悪い未来を見据えてリモート勤務すら出来なくなった時に後悔をさせたくなかった。それに、瀬名は人の役に立ちたいという思いが強い。その思いを無視して仕事を取り上げれば「自分は生きて居る価値がない」と心を病みかねない。
ただ、瀬名は自分の限界を超えるまで「できない」「手伝って」とは言わない。
だから、怜は時折お茶を出しながら注意を払っているのである。
仕事が一区切りついたところで、瀬名はノートパソコンを閉じた。
怜はポットカバーを外して緑茶をタンブラーに注いで瀬名に出すと、肩に温めた小豆の入った袋を肩に乗せる。
「熱くないですか」
「うん」
「熱くなったら言ってくださいね。低温火傷をするといけませんから」
怜が言うと瀬名は無言で頷いた。
小豆を温めると蒸気温熱で身体の芯から身体を温めてくれる効果がある。もちろん、効果は一時的なものだが、やらないよりはマシにはなる。
「会社は大丈夫なの?」
「えぇ。旦那様や悠仁、周子に任せておけば大丈夫です。それから、人事採用チームは来期から由紀さんが指揮を執るらしいですから」
「え?由紀さんが?お子さんやご両親もいらっしゃって大変なのに大丈夫かな」
瀬名は心配になった。由紀は仕事もできるが子供や両親、膠原病の妹を養っている。その由紀が採用チームをマネジメントするのは大変なのではないか。
「まぁ、浜崎麻子さんがサブに入るようですし、僕も新卒採用で導入している性格分析検査を中途採用や外国人採用向けに作ります。会議もリモートでの出席を許可しているのでサポート体制は万全ですよ」
性格分析とは新卒採用で導入されている適性検査システムのことである。
精神分析に長けている怜がガーディアングループ内で活躍している人物を百人以上、性格分析した結果を元に作成したオリジナルの適性検査システムである。
適性検査システムでは本人の性格や思考、地頭の良さ、相性などが細かく分析できるうえ、主体性の有無まで判断可能だ。
この適性検査システムは精度が高く、新卒採用と昇格、人事異動で導入後からグループ会社の退職者が大幅に減り、パフォーマンスが上がった。
その実績から、由紀が採用チームのマネジメントをするにあたり、現在は未導入の中途採用と外国人向けの開発を依頼したという。
「そう」
「それに、リモートで仕事をする時に、仕事部屋が必要でリフォームや引っ越しをする補助を出す制度も出来るようですよ」
「それなら、いろんな状況の人が仕事を続けられるね」
ガーディアングループはホワイトカラーにリモート勤務を認めており、サテライトオフィスやホテル利用を整備していたが、介護や子育てがある人には利用できないという声もあった。
新しい制度が上手く運用されれば、怜や由紀のように介護する人や瀬名のように病気の人も多く雇用されるだろう、と瀬名は期待した。
「私も退職した後、由紀さん達の力になれるといいんだけど」
呟きながらお茶を飲む瀬名の隣で、怜が複雑な表情をしていたが瀬名は気が付かなかった。
3月に入ると卒業式後にすぐ引っ越しをする学生も出て来る頃になると、引っ越しやマンスリーマンションへの入居関係の問い合わせが増えた。
瀬名は人事部やガーディアンのマンスリーマンション事業部との調整役としてメールや電話応対に追われた。
怜は相変わらずガーディアンエンジニアリングの引き継ぎや新居のリノベーションで忙しくしている。
そのため、日中に家を空けることが多くなったが、怜は瀬名を一人にすることが心配で断ろうとするので毎回言い合いになる。
「子供じゃないから大丈夫」
「僕が行かなくてもどうにでもなります」
「それは無責任だと思う」
「瀬名の看病は僕しかできませんが、会社のことは他の人間に任せても大丈夫です」
「看病してもらうほどの病気じゃないから大丈夫。だから、会社に行って」
こんな言い争いが繰り広げられるが、最後は瀬名が怜を部屋から閉め出してしまうので、怜が諦めて出かけることになる。
その間、瀬名はリモートで仕事をするかダラダラ過ごす。昼食は怜が弁当を用意して行くので作る必要もないので快適に過ごせるようになっている。
怜が安心して出かけられるようにするには、怜が居ない間に体調が悪化しないようにするだけだった。
怜が出かけると、ただでさえ静かな南條邸から音が消えて静まり返る。
怜が出かけた途端に瀬名は心細くなって何をしていても怜のことを考えてしまう。少しでも物音がすれば廊下や外を見て怜が帰って来ないか確認してしまう。
これでは怜が出掛けたがらないのも無理はない、と瀬名も思う。
怜が帰って来たのは午後2時過ぎだった。
そわそわしていた瀬名はガレージを出て庭の花々を見回っている怜を見つけると、玄関まで駆け下りて行った。すると、ちょうど怜が玄関を開けた時だった。
「お帰りなさい」
瀬名は怜の首に腕を伸ばす。
「ただいま戻りました。いい子にしていましたか」
瀬名の身体を抱き留めながら笑顔を見せる。
瀬名は無言で頷くと顔を上げて怜に笑顔を見せると、額にキスをされた。
「ここは冷えます。部屋に入りましょう」
瀬名は名残惜しそうに怜から離れると、怜が瀬名の頭をくしゃくしゃと撫でた。
その後、瀬名の部屋で怜が買って来たケーキとハーブティーでティータイムを楽しむ。
「今日は会議だったんですか」
なんとなく不機嫌な怜を見て瀬名が訊くと怜は自嘲気味に笑った。
「瀬名にはお見通しですね。ですが、会議ではありません。内閣からIT推進会議のメンバーとして招聘されたようです」
「すごいですね」
瀬名は胸の前で手を合わせて尊敬の眼差しで怜を見つめる。だが、怜は眉間に皺を寄せていた。
「怜さん、気が進まないんですか」
怜は瀬名の手からティーカップを取り上げるとテーブルに置き、瀬名の肩を抱き寄せる。瀬名も身体を寄せてもたれ掛かった。
「瀬名と居る時間を増やすために会社を辞めるのに、内閣の仕事を引き受けたら本末転倒ですよ」
「そうですか。怜さんの気が進まないなら仕方がありませんね」
「それに、僕よりもふさわしい人間がいます。そろそろ表に出してもいい頃ですから、彼を推薦する予定です」
「ガーディアンの方ですか」
「いいえ。個人的な知り合いです。でも、僕に喧嘩を売って来るぐらい優秀ですよ」
「へぇ、すごい人なんですね。でも、そんな人なら安心して推薦できますね」
「瀬名が理解してくれて嬉しいです」
今まで周囲にいた人間なら迷わず引き受けるように言って来ただろう、と思う。
怜は瀬名が愛しくて堪らなくなった。
夕方、帰宅した高臣や周子、悠仁達と一緒に瀬名と怜はリビングでお茶を飲んでいた。
「ところで、瀬名と一緒に引っ越しをするらしいが、場所は決まったのか」
「あら。じゃぁ、いよいよ結婚」
「俺のメシは?どうすんの」
「悠仁のご飯くらいなんとかなるでしょ」
周子が睨むと悠仁は項垂れた。
隣でキャーキャー騒いでいるのを無視するように高臣が話を進めた。
「わざわざ、土地や家を購入するなら、ここの敷地を使っても構わないが」
「実はすでに湯河原に家を購入しました。ただ、冬は寒くなるので冬場はこちらで過ごそうと思っています」
「そうか。それなら、この屋敷も建て替えの時期だから二人の居住スペースを設けよう」
「僕は構いませんが、旦那様がご結婚されたら困るのではないでしょうか」
怜の発言に瀬名と周子、悠仁がドキッとする。高臣の結婚話は聞いたことがなかった。
「・・・・・・。私には当面その予定がないから心配はいらない」
高臣の無言に何かを感じる瀬名だが、さすがに言い出せない。それは周子と悠仁も同じようだった。すると怜が溜息を吐く。
「また、仕事のことばかり考えて、ご自分の結婚を忘れていたのでしょう」
「さすが怜だな」
高臣はクククッと笑う。
「笑い事ではありません。南條家の当主なんですから。少しは考えてください」
怜はそう言うと瀬名の手を取って立ち上がる。
「夕食の支度がありますので、失礼します」
怜に引きずられるように瀬名は頭を下げてリビングを後にした。
キッチンへ向かう途中、瀬名は気になっていたことを訊いた。
「湯河原に家を買ったって本当?」
「えぇ。本当は瀬名の体調が良い時に連れて行って驚かせるつもりでした」
しょんぼりと肩を落として怜が言う。
「でも、嬉しかったです。湯河原なら通院もできますし、お屋敷にも近いですから」
瀬名が笑顔を見せると怜も笑顔を見せた。
「それに、さっきの旦那様との会話」
瀬名はふふっと笑う。
「さっきの会話がどうかしましたか」
怜は不思議そうに瀬名を見る。
「ご兄弟なんだなって思いました」
瀬名がニッコリと笑って怜を見上げると、怜が突然瀬名を抱き締めた。
「怜さん」
訳がわからないまま瀬名は怜の首に腕を絡めると、怜が瀬名の肩に額を乗せる。
「どうかしましたか」
よく分からないまま怜の頭を撫でる。そこで、怜の耳が赤くなっていることに気が付いた。
「もしかして・・・・・・照れていますか」
「いけませんか」
「いいえ。カワイイです」
瀬名の返答に怜は溜息を吐いて、瀬名を離した。
「はぁ、格好悪いですね」
「そんなことありません。いつもカッコイイので、格好悪いところがあると安心します」
瀬名はフォローするが怜の表情は冴えない。
「それに、ご兄弟として話をしているところを初めて見たので、ちょっと感動しました」
「感動?」
「だってお屋敷を出たら、主従関係はなくなるでしょう。怜さんは会社を辞めるし、今後は兄弟として旦那様と接するようになるから、今後はさっきのような関係を見られると思うと嬉しくて感動しました」
キッチンにあるカウチソファーに座りながら瀬名が言うと、怜は何か考え込みながら黙ってお茶を淹れた。
「怜さん、どうかしましたか」
「いえ、瀬名に言われるまで気が付きませんでした。確かに、ここを出れば主従関係はなくなりますね」
「はい。だから、今後は旦那様と呼んではいけませんよ」
茶目っ気たっぷりに瀬名が言うと、怜は困った表情をする。
「怜さん?」
首を傾げる瀬名に怜はお茶を出しながら、溜息を吐く。
「困りましたね。僕は旦那様や社長としか呼んだことがありません」
「え・・・・・・」
「旦那様に初めて会った時は、すでに執事見習いでしたから。まぁ、当時は若様でしたが」
「そうなんですか。でも、今回をきっかけに、お兄様とか兄さんとか呼んでみたら、旦那様も喜ばれると思います」
瀬名は若干はしゃいで提案するが、怜は浮かない顔をする。
「・・・・・・想像ができません」
いつも自信満々な怜の困惑する表情に瀬名は、怜が変化を恐れていると感じた。そこで瀬名はネックレスに通していたブルージルコンとダイヤの指輪を出し、もう片方の手を怜の手に重ねる。
「怜さん、ブルージルコンってパワーストーンとしての効果があるんですよ。知っていますか」
「石の効果?石言葉が安らぎや祈願だと知って選びましたが、そんな力があるのは知りませんでした」
「ブルージルコンの効果は、新しい事への挑戦です。今まで私は、今まで出来ていた事ができなくなっていくことに不安しか感じませんでした。今回の引っ越しを機に怜さんと新しい生活は始まるけど、今まで頑張って来た仕事を辞めます。もしかしたら、そのまま社会復帰することは出来ないかも知れません。だけど、病気になって自由に時間が使えるようになるんだから、思い切って今までやりたくても、後回しにしていたことをやろうと思ったんです。とはいっても、小さなことですけど」
「なんですか。瀬名がやりたかった事って」
興味津津に怜が瀬名の顔を覗き込む。
「時代小説の読破です。お屋敷の書庫にシリーズ全巻揃っているでしょう。時代劇になってタイトルは知っているけど、読んだことがない作品がたくさんあったので読破してみたいんです」
大したことではないでしょう、と笑うと怜が首を振って否定する。
「それに、画像加工とか。内定者向けのSNSで何枚か作ったんですけど、自分で撮影した写真を加工して3D画像にしたり、グラフィックアートに変換したり、絵を描くのが苦手な私でもアート作品を創れるのが楽しくて。その写真を投稿サイトに投稿してお小銭稼ぎもできるみたいだし。いろいろやってみようと思っているんです。だから、怜さんも新しい事に挑戦しましょう」
自分がやろうと思っていることと、怜が高臣との関係を変えるのでは話が違うとは分かっているが、怜に新しい一歩を踏み出して欲しいと瀬名は思って怜の手を握る。
「瀬名は強いですね。僕が瀬名の立場だったら、そんな風には思えないでしょう」
「あれ、怜さん。もしかして知らないんですか。この世界に本当にか弱い乙女なんていませんよ。会社が辛いと人事に泣き言を言ってくるのは大抵男性です」
瀬名がキッパリと言い放つと怜は肩を揺らして笑った。
「確かにそうですね。男の方がぐずぐずしているかも知れません。僕ももう区切りを付ける時なのでしょう」
怜はそう言うとスッキリとした表情を見せ、瀬名は少しだけ怜の役に立てた気がした。
ここ数日、3月上旬とは思えない寒さと暑さを繰り返しており、健康な人でさえ倦怠感を覚えるような気候だった。ただでさえ倦怠感に悩まされている瀬名は、肩甲骨や首の痛み、腕の肉がちぎられるような痛み、めまいと頭痛に襲われていた。
「今日は風が強くて最悪」
2月上旬の気温とテレビでは言っているが、窓を揺らしながら唸る風の音が一日中聞こえた。
「えぇ。明日は庭の手入れだけで一日終りそうです」
瀬名の髪を乾かしながら怜が言う。
「明日は晴れるの?」
「えぇ。今日より気温が上がって、地域によっては初夏の気温だとか」
「そう」
まだまだ気温の変動が激しいことを知って瀬名はがっかりする。
「今は安静にしていてください。月末月初の仕事は終っていますし、人事のお手伝いも一段落したのでしょう」
怜が優しく宥める。
「来週から中途入社データのチェックもあるし、体調を整えないと」
瀬名は俯くのを止めてニコリと笑った。
「まだ、あの仕事するんですか」
「怜さんの適性検査システムができるまで」
「すぐ完成させます」
怜が呆れ顔で言う。怜のシステムができるまでは瀬名が直感で「すぐ辞めそうな人」を振り分けることで、人事業務のサポートをすることになっている。これも、由紀からのマネジメントを引き受ける上でのリクエストだった。
「由紀さんは有能なマネージャーになりますね」
皮肉を込めて怜が言うと瀬名は顔を輝かせて同意した。
「そう。由紀さんってスゴイの。海外エージェントの手数料を値切るのも上手だし、仕事も早いし。リーダーシップもあるから採用チームのマネージャー以上になれると思う」
そういう意味ではなかったのに、と怜がこっそり溜息を吐くと屋敷の警報装置が鳴った。
「何?」
驚く瀬名を抱き寄せて怜は警報装置アプリを確認する。
「庭で火事です。庭のスプリンクラーが動いているので大丈夫だと思いますが、瀬名は念のためシャワールームの近くに居てください」
怜はそう言い残すと瀬名の部屋を出て行った。
瀬名は部屋に残ったが、シャワールームではなく窓から火元を確認する。しかし、スプリンクラーの水が風に煽られて窓を叩いて、よく見えない。
なんとか見ようと背伸びをしていると、部屋の扉が開いた。
「瀬名、大丈夫か」
「旦那様」
「怜が庭で火事が起きていると言っていたが、すぐにスプリンクラーが動いて消えたらしい。ただ、放火の可能性が高い。今から警察が来る」
「わかりました。すぐに支度をして怜さんのお手伝いをします」
「体調が優れないのに済まない」
「いいえ。大丈夫です」
高臣が出て行くと瀬名は身体を冷やさないように厚着をして、怜の元へ向かった。
瀬名がキッチンに入ると怜の姿はなかった。
取りあえず瀬名は湯を沸かしながらお茶の準備をする。
夜遅いこともあり、カフェインが少ない焙じ茶を出すために急須と湯呑みを多めに出した。ポットに残っていた熱湯を注いで急須と湯呑みを温める。
お茶菓子を用意しているとサイレンの音が聞こえて来た。
セキュリティシステムの端末で防犯カメラを動かしながら確認すると、パトカーが門の前に集まって来た。
放火の可能性があるとはいえ、こんなに車が来るものなのかと驚いているとインターホンが鳴らされたので、瀬名は応対しながら門を解錠する。そして高臣に警察が到着したことを告げた。
怜が来ないことを訝しむが、とりあえず瀬名は高臣と共に警察を出迎えると、所轄ではなく警視庁から捜査員が派遣されて来たことに驚いた。
「わざわざ本庁が来るようなことではないのに、申し訳ない」
応接間に捜査員を通すと高臣が頭を下げた。
「いいえ。南條様には全国の科警研や科捜研、鑑識がお世話になっております。その南條家の一大事とあれば、我々が捜査をするのも当然のことです」
捜査指揮を執る捜査主任の清田が愛想笑いをしながら高臣にゴマをする。
瀬名はそれを横目に見ながらお茶を出した。
ガーディアンエンジニアリングで開発した機器の中には、鑑識や科警研・科捜研などに納入しているものが多いことから、高臣は警察庁や警視庁の幹部に顔が利く。恐らくこの清田は上司から早期解決を求められて必死なのだろう、と内心清田に同情しながら瀬名は部屋を出た。
怜の姿が見えないが気にかかる。恐らく怜のことだから、なんらかの考えがあって姿を見せないのだろうと分かってはいるが、瀬名は落ち着かない。
一方、庭ではブルーシートの幕が張られてライトが煌々と照らされている。
家の周囲に大人数の気配がしているので自室に戻る気にもなれず、瀬名はキッチンのカウチソファーで残りの焙じ茶を飲んでいた。
捜査は時間がかかるらしくキッチンで待機していた瀬名はウトウトし始めた。
「瀬名、いますか」
突然、呼びかけられてビクッと身体を起こした。
「こんなところで寝てはいけませんよ」
「あ、怜さん」
ボンヤリと返事をしながら怜を見上げると、珍しく怜が厳しい表情をしていた。
「一緒に来てください」
「え・・・・・・」
怜は有無を言わさず瀬名の腕を取ると、応接間に連れて行く。
「失礼します。犯人が判りました」
「そうか」
「えぇ、まだ通報から1時間も経っていませんよ」
平然と返事をする高臣の横で清田や一緒にいた捜査員が驚きの声を上げた。
「嘘だろう」
「いや、あの南條怜だぞ。本当かも」
瀬名の背後からヒソヒソと声が聞こえる。
「早速だが、どうやって調べたか説明してくれ」
高臣の言葉に怜は無言で頷くと応接間の灯りを消してスクリーンを下ろし、持っていたパソコンの画面を映し出した。
「これが、放火前の防犯カメラの映像です。少し分かりにくいですが、手にした瓶に火を点けて投げ入れているのが判ります」
怜の説明通りガッチリした体格の人物が火炎瓶に火を点けて、門から2メートル以上離れた花壇へ瓶を投げ入れているのが映っている。
「でも、この映像では誰だかわかりませんよ。帽子を被っているように見えますし」
清田の言葉に怜は無言で頷くと、次の映像を出した。
「僕はこの背格好に見覚えがありました。そこで、去年の11月に行われた新製品発表の映像を使って、骨格認証及び歩容認証で検索した結果、両方で一致した人物がいました」
怜はそこで区切ると、鑑定結果を表示させた。
「まさか」
瀬名は思わず声に出してしまい、慌てて手で口を塞ぐ。
「先日、民事再生法が適用された松島精機社長の息子、松島啓介です」
怜は話し終わると部屋の灯りを点けてパソコンからUSBメモリを抜くと、捜査主任に渡した。
「民間人の、それも被害者の鑑定結果ですから証拠能力があるかわかりませんが、お持ちください」
「ご協力感謝します」
清田は立ち上がって受け取る。怜はUSBメモリを私ながらも、唇を歪ませて笑う。
「いいんですか。そんなに信用して」
「え」
呆気にとられる清田に怜は続けた。
「僕なら映像を加工することも、記録を書き換えることも可能ですよ」
「いや、しかし、貴方には松嶋啓介を犯人にする動機がないのでは・・・・・・」
清田はアタフタしながら高臣に助けを求めた。
「怜。警察をからかうな」
「失礼しました。しかし、単純に信用されるのも警察としてどうなのか、と疑問に思いまして」
怜は肩を揺らして笑う。
「ところで、松島啓介の動機に心当たりはありますか」
冷や汗を拭う清田の横にいた若い捜査員が高臣に訊く。
「恐らく、取引を止めたことだろう」
高臣の言葉に捜査員が頷く。
「自業自得です。そもそも不法就労させていたのも、粗悪品を納品してきたのも松島です」
怜が冷たく言い放つ。
「だとすれば、ガーディアングループへ対する恨みになります。当時の社長はお父上だったのではありませんか」
捜査員の指摘に怜が口を開いた。
「個人的な恨みというなら、彼女に振られたことでしょうか。ですが、僕の婚約者だと知っていて強引に見合いを設けて振られただけです」
怜の眼差しが鋭くなる。
不幸なことに眼差しを正面から受け止めた捜査員は目を逸らした。
「そうでしたか」
「では、僕からは以上です。鑑識作業が終ったら声をかけてください。聴取が必要でしたら、明朝にしてください。旦那様もお疲れですから」
ピリピリした雰囲気で怜が言うと、清田を始めとした捜査員が立ち上がった。
「これは、失礼しました。鑑識はまだ残りますが、我々は明朝に伺います」
アタフタしながら出て行く捜査員を見送ると高臣は自室に戻り、片付けをすると言った瀬名も怜の手でベッドに運ばれてしまった。
だが、瀬名は衝撃が大きすぎて眠れない。
松島を異性として好意を持つことはできなかったが、犯罪に手を染めるような人だと思ったことはなかった。
眠れないままゴロゴロしていると、怜がベッドに入って来た。
「眠れませんか」
「うん」
瀬名は頷きながら怜の首に腕を回して身体を寄せる。怜は瀬名を抱き締めながら頭を撫でた。
「怜さんの怒った顔、初めて見た」
「そんなに怖い顔していましたか」
「うん」
瀬名が頷くと怜は溜息を吐いた。
「最近はダメなところばかり見られている気がします」
「そんなことありません。どんな怜さんも好きです」
ふふっと笑って瀬名が言うと、怜は片手で顔を覆う。
「あんまり可愛いこと言わないでください。瀬名の体調を気遣えなくなります」
「気にしなくていいのに」
「そんなこと言ってはいけません。明日も忙しいんですよ。さぁ、寝ましょう」
怜はそう言うと疲れていたのか、すぐに寝息を立て始めた。
だが、瀬名はいろいろ考えすぎて明け方まで寝付けなかった。
翌朝、ほとんど眠れないまま瀬名がキッチンに向かうと怜が朝食を用意していた。
「怜さん」
瀬名が声をかけると怜は爽やかな笑顔を見せる。
「おはようございます。もしかして、眠れませんでしたか」
怜は瀬名に近寄るとクマができているのか、目の下を親指で撫でる。
「あの、怜さんにお願いがあるんです」
「なんでしょう」
「松島さんと話がしたいんです。一緒に行ってくれませんか」
「え・・・・・・」
瀬名の申し出に怜は、絶句した。
「松島さんが放火をした理由が知りたいんです」
「何故ですか」
怜は腕組みをしながら、考え込む。
「横領事件の後、水琴さんの口から動機を訊きたいと思ったんです。でも、できませんでした。ですが、松島さんからなら動機を訊くことができます」
「動機を訊いてどうするんですか。何も解決しません」
怜の指摘に瀬名は少し考えてから口を開いた。
「怜さんの言うとおりです。ただの自己満足です。でも、このままは嫌なんです。私は陰口や聞こえよがしの陰口を言う人に、そういう事は直接言って欲しいと相手に言って来ました。だから、ハッキリさせたいんです」
「瀬名、そんな事をしていたんですか」
気が強い方ではないのに自分の陰口を言っている相手に、わざわざ喧嘩を売りに行くとは、と怜は片手で顔を覆う。
「まぁ、確かに昨日の今日で警察も逮捕しないでしょう。ただ、僕の指示に従ってくださいね」
「ありがとう。怜さん」
瀬名が顔を輝かせて怜に抱きつく。
甘やかしすぎだと思いながら、怜は瀬名を抱き締め返した。
昼過ぎに瀬名は松島啓介に会うために電話をした。
瀬名は啓介が犯人なら電話に出ないのではないか、と思っていたが啓介はすぐに出た。
「もしもし、瀬名さん?」
思いの外、明るい声に瀬名は一瞬戸惑ってしまった。
「あの、急にすみません。松島さんに相談したいことがあるんですけど今日、お時間ありますか」
「もちろん。いつでもいいですよ」
軽い調子で了承されて瀬名はさらに戸惑う。
「では、夕方の3時に渋谷駅前のガーディアンホテルでお待ちしています」
「3時ね。じゃあ、また後で」
「はい。では、失礼します」
瀬名は約束を取り付けると電話を切った。
「脳天気というか楽天的というか、警戒していませんでしたね」
スマホのスーピーカーから聞いていた怜は、呆れ顔で言った。
「そうですね」
「さぁ、ホテルに行く準備をしましょう。瀬名は動きやすいようにパンツスタイルにしてください」
「へ?わかりました」
理由がわからないまま瀬名は返事をした。
瀬名は服にあまり興味がなく、悩んだ末にスモーキーピンクのワイドパンツに白いセーター、格子柄のジャケット合わせた。アクセサリーは怜からもらったリングと、ホワイトデーにもらったパールとスワロフスキーを交互に配置したロングネックレスという貰い物オンリーのコーディネートにした。
だが、怜は瀬名の姿を見るなり不機嫌になる。
「かわいすぎませんか」
怜の態度に瀬名は首を傾げる。
「そうですか。会社に行く時よりちょっとオシャレしただけですよ」
普段、ホテルに行く時は高臣や怜に誕生日プレゼントで買ってもらったブランドのワンピースを着ていけば場違いにならないだろう、という感覚でワンピースばかり着て行っている。
だから、今日のようにパンツスタイルというオーダーが来ると、どうしていいのかわからなくなる。そこで思い付いたのが、アクセサリーさえ付ければなんとかなるだろう、という安易な考えからだった。
「そうでしょうか。ちょっと不安です」
怜は難しい顔をしている。
「それより、怜さん、格好良すぎます」
黒のテーラージャケットに海島綿シャツ、グレーのネクタイにブルージルコンのラペルピンを合わせていた。
「婚約者として付き添うのですから当然です。さぁ、行きましょう」
怜と瀬名は車で待ち合わせのホテルに向かった。
松島と会うためにリザーブしたのはジュニアスイートだった。ただし、いつも使う最上階に近いフロアではなく、VIP専用のコンシェルジュラウンジがある階だった。
瀬名は疑問に思ったが、怜には計画があるのだと思い言われたとおり部屋に入った。
そして三時前に松島が訪れた。
怜とスマホで合図を交わした後、瀬名が返事をして扉を開けた。
「お久しぶりです。どうぞ」
「どうも」
啓介はジャケットにジーパンというラフな格好で現れ、挨拶もそこそこに部屋に入ると瀬名の手首を掴むと引きずるようにソファーセットに向かう。
「何・・・・・・」
驚いた瀬名は踏みとどまろうとするが、力では松島に叶わない。そのままソファーに押し倒された。
「やめて」
瀬名は起き上がろうと暴れるが、松島が覆い被さるようにソファーに上がった。瀬名は全身の毛が逆立つのを感じた。
「うるさい。ホテルで男女が二人きりになるといったら、やることは一つだろう」
瀬名の腕を押さえつけた啓介は突然「ぐえっ」と呻いて瀬名の手を離した。
「婚約者を一人でホテルに行かせる男がどこにいるんですか。僕もいますよ」
怜は涼しい顔で啓介の首を腕で締め上げながら床に転がした。
床に転がされた啓介は膝を付き、激しく咳き込んだ。
瀬名は起き上がると怜の胸に飛び込んだ。
「松島さん。座ってください。訊きたいことがあります」
怜は安心させるように瀬名の背中をさすりながら、一緒にソファーに腰を下ろす。
啓介は涙目のまま、なんとかソファーに座った。
「昨日の夜、南條邸の前にいたのはなぜですか」
瀬名は先ほどのことで啓介が恐ろしくなり、前置きもせずに単刀直入に訊いた。
「はぁ?そんな所に行かねぇよ」
ゲホゲホと咳き込みながら啓介は答える。
「証拠はありますよ」
怜はタブレットで証拠の動画と鑑定結果を示した。
啓介はチラリと見たると「フン」とそっぽを向く。
「天才エンジニアの手にかかればねつ造も簡単だろ」
「怜さんはそんなことはしません」
怜を侮辱された瀬名はカッとなって腰を浮かせて啓介に反論する。
「婚約者がいるくせに見合いに来る尻軽女が何言っているんだよ」
「え?」
啓介の言葉に瀬名は怜の顔を見てから首を傾げた。
「婚約者が居ると知りながら見合いを申し込んだ恥知らずは、そちらでしょう」
「ふうん。それで意趣返しとばかりに、あんな地味な着物着て、さっさと帰ったのか。こっちは、嫁ぎ先もなく役にも立たない、病気の女を貰ってやろうと見合いを申し込んだのに、馬鹿にしやがって」
ソファーにふんぞり返って啓介は不満を口にした。
「地味な着物って、あの着物は南條家の紋が入った一点物です。家が一軒建つような値段が付くような着物なのに」
瀬名が言うと怜が馬鹿を見る目で啓介を見つめた。
「瀬名。彼にそんなことを言っても無駄ですよ。彼は人を見る目もなければ、一流の物を見極める目も持っていません」
「なんだと」
怜の言葉に啓介が声を荒げた。
「では訊きますが、瀬名のことは誰に聞いたのでしょう。新村水琴さんからではありませんか」
「あの女は、ソイツの同級生だろう。どこがおかしい」
「他人の婚約者をソイツ呼ばわりするとは、失礼にも程があります。松島家はどんな教育をしたのでしょう」
「何が言いたい」
「新村水琴さんに騙されたんですよ、貴方は。貴方が彼女ではなく、瀬名に興味を持ったから、嫌がらせをされたんです」
「なんだ、それ。知るか」
啓介は予め出されていた紅茶をがぶ飲みすると「なんだ?冷めているじゃねぇか」文句を言う。
「話を戻してもいいですか」
「どうぞ」
瀬名が怜に了解を取ると啓介を見つめて口を開いた。
「もう一度訊きます。なぜ、南條邸の前にいたんですか。私がお見合いを断ったからですか」
「なんで、あんたに見合いを断られて南條家に放火するんだよ。あんたが住んでいるわけでもないのに」
そこで二人は啓介が、南條邸に瀬名が住んでいることを知らなかったことを知る。
「南條家が放火されたことは、まだニュースになっていません。放火を認めるということですね」
「だったら、なんだ」
怜の指摘に啓介がキレた。
「では、南條家に恨みがあった、ということですか」
瀬名は以前に会った検察官を思い出して冷静に訊いた。
「あぁ、そうだよ」
啓介はわしゃわしゃと頭を掻くと、そのまま頭を抱えた。
「ガーディアンが契約を切って、不法就労を告発したから会社が傾いた。だから、少しぐらい痛い目に遭えばいいと思った。それだけだ」
「でも、松島さんはMBAを取った優秀な方なのでしょう。だったら、会社を建て直せたのではありませんか」
病気も障害もなく、働けるだけで幸せなのに金やステイタスのために犯罪に手を出す人の気持ちが分からない。
瀬名の問いに頭を抱えたまま啓介は何も言わない。代わりに怜が答えた。
「金で買った経歴では何もできません」
「え?」
「大学と留学先は裏口入学。MBAも本当に取得したのか怪しいものです」
「そうなんですか」
瀬名は松島を見るが啓介はふふっと不気味に笑う。
「さすが、天才エンジニアは違うな。なんでもお見通しってことか」
ハハっと啓介は嘲笑する。
「確かに俺の経歴は嘘だよ。でも、ガーディアンが今まで通りに契約してくれればウチの会社は倒産せずに済んだ」
「言っておきますが、不法就労の告発はしていません。松島家が瀬名に見合いを申し込んだことから、高臣社長が松島精機を調査したんですよ。入手した情報に出入国管理局が松島精機に目を付けていることが判ったのです。そもそも、貴方が帰国した直後からですよね、不法就労が横行し始めたのは。闇ブローカーを引き込んだのは貴方でしょう」
「だいたい、会社が不正をしていたのが悪いんでしょ。どうして南條家を恨むんですか」
「うっせぇな。なんなんだお前ら。」
啓介が立ち上がると、怜も立ち上がり瀬名を庇うように立つ。
「本人はこう言っていますが、どうですか。清田さん」
怜の呼びかけに応じるように、清田を始めとした警察官が部屋のあちらこちらから出て来た。
「松嶋啓介、南條邸の放火について話を聞かせてもらおう」
「は?なんなんだよ。お前ら」
啓介は状況が理解できないまま警察官に連行された。
「南條さん。ご協力ありがとうございました」
清田が怜に挨拶をすると、怜はテーブルの上にあったシュガーポットを渡した。このシュガーポットには録画装置が仕込まれている。
「今の音声と動画が録音されています。お持ちください」
「何から何までありがとうございます。では、明日お伺いします」
清田は挨拶をすると出て行った。
「怜さんの計画ってこういうことだったんですね」
「えぇ。相手が逆上した場合、僕だけで対処できませんし、危険分子はさっさと排除するべきです」
「ありがとうございます」
「いいえ。それで、瀬名はスッキリしましたか」
怜に問われて瀬名は俯く。
「わかりません。やっぱり、私は水琴さんとちゃんと向き合わなければスッキリできないのかも知れません」
見合いの件に水琴が絡んでいたことを考えると、水琴が何を思って瀬名に嫌がらせをするのかを聞き出さなければスッキリしないと思った。
「それはどうでしょう」
「え?」
「人の好き嫌いは理屈ではありません。何となく嫌い。何故かわからないけど好き、そういうことの方が多いでしょう。水琴に訊いても、ハッキリはしないと思いますよ。彼女自身が判っていないのですから」
怜の言葉を自分自身に置き換えて瀬名は考える。確かに、友人達のどこを好きになったのかを言葉にするのは難しい。瀬名が水琴に苦手意識を持つのは、わざわざ自分に構って嫌がらせをするからなのだが、他に苦手や嫌いな人など全員の理由を問われると、答えるのが難しい人もいる。
そこまで考えて、人の好き嫌いが感覚的で、怜を好きな理由が曖昧だと気がついた。
「そうですね」
「まぁ、彼の場合は現実に向き合わず周囲や環境のせいにしていることが、道を踏み外した原因でしょう。高臣社長もすぐに切り捨てずに、企業体質の改善と製品の質を向上させれば、再契約する話をしていたようですから」
「そうなんですか」
「そうですよ。それを彼は断ったんです」
「でも、さっきはそんなこと言ってなかったのに」
「言えなかったのでしょう。言えば、自分の判断が間違っていたことが知られてしまいます。男は好きな女性の前では格好つけたいものですよ。さぁ、帰りましょう」
「はい」
自分の気持ちはスッキリしなかったが、自分が知らなかった背景を知れただけでも啓介と会って良かったと瀬名は思い、反対しながらも機会を設けてくれた怜に感謝をした。
帰りの車中で瀬名はホテルでの怜と交わした会話を考えた。
人の好き嫌いに限らず、世の中は案外いい加減だと思う。
何が正解か明確になっている事の方が少ないのではないか。
そもそも、未来のことは誰にもわからない。
啓介だって自分が社長になる未来は思い描いていただろうが、犯罪者になるとは思っていなかっただろう。
そこまで考えてふと気が付いた。
健康な人も、いつか病気になって働けなくなるかもしれない。
自分は何をグズグズ考えて迷っていたのか。
すでに怜は病気の自分を受け入れて世話をしたいと言ってくれているのに。
瀬名はすでに怜のいない生活なんか考えられない。
だったら自分に正直になってもいいじゃないか。
信号が赤になったタイミングで怜は左腕を伸ばして瀬名の頬を撫でた。
「大丈夫ですか」
怜に少し撫でられただけなのに瀬名はドキドキしてしまい、気を紛らわせるために視線を外に向けた。
「大丈夫。ちょっと疲れただけ」
程なくして南條邸に着くと、瀬名の部屋で怜とお茶を飲む。
「怜さん、あのね・・・・・・」
「なんでしょう」
瀬名は車の中で考えていたことを伝えようとするが、上手く口が動かない。
「えっと・・・・・・」
瀬名は怜から視線を外した。
「何ですか」
怜が心配そうに瀬名の顔色を伺う。
「怜さんのお嫁さんになりたい」
瀬名は思い切って怜に告げる。
「・・・・・・本当に」
怜は口を手で覆って立ち上がった。
「うん」
瀬名は真っ赤になって俯いた。怜は座っている瀬名を閉じ込めるようにソファーの背もたれに両手を突いた。
「こんなに嬉しいことがあると思いませんでした」
怜が瀬名の目を覗き込む。色香ただよう怜に見つめられた瀬名は降参する。
「そんなに・・・・・・?」
瀬名が白状すると怜は片手で顔を覆い、そのまま髪を掻き上げた。
「じゃあ、誓いのキスをしましょう」
怜はそう言うと劣情を湛えた目で瀬名を見下ろすと、片手を項に添えて噛みつくようにキスをする。
「んん・・・・・・」
怜が角度を変える度に瀬名の声が漏れ、怜のキスが激しくなる。瀬名はクラクラしながら、怜の首に腕を回す。
互いの口内を十分に堪能すると、どちらともなく唇を離した。
荒い息をしながら見つめ合い、怜は無言で瀬名の身体を抱き上げるとベッドに優しく寝かせた。
「すみません。できるだけ優しくします」
「ううん。怜さんの好きなようにして」
「いけません。そんなふうに僕を甘やかしては」
耐えられない、とばかりに言って怜は瀬名にキスをすると服を脱がせ始めた。
瀬名は甘い声を上げながら、身体の痛みを無視する。
身体が痛いから無理だ、と言えば怜は止めてくれるだろう。だが、痛いからと断っていくうちに怜の気持ちが離れていく方が瀬名には辛い。
それに、いくら気持ちが通じ合っていても身体が繋がっている時ほど愛されている実感を得らない。心も体も繋がってこそ、女としての幸せを得られると瀬名は思っている。
怜は自分も服を脱ぎながら瀬名の身体を慮って、瀬名が感じやすい所を効率的に攻めて感度を上げていく。
「あぁん」
怜に快楽を教え込まれた身体は、簡単に快感を極めてしまう。
だが、いつもなら性急に挿入してくるのだが、今日は丹念に身体を愛撫する。ピンと勃起した乳首をしゃぶりながら、片手でもう片方の乳首を執拗に嬲った。そして、まだ脱がせていないショーツの上から秘裂目がけてかぶりついた。
「あぁ、いや・・・・・・」
こんなことをされると思っていなかった瀬名は戦くが、怜はそこを舌で舐め始めた。水分を含んで張り付く布の上から舐められる感触が、瀬名にはもどかしい。
さらに、怜がピチャピチャ音を立てているので、羞恥と大きな快感を得られない熱が胎内でくすぶる。
「怜さんの意地悪」
思わず言葉に出すと、怜はククっと喉で笑った。
「これはもういりませんね」
ショーツを脱がせて瀬名を横臥させると背後から抱き締めた。
燃えるような怜の身体に抱き締められると、瀬名の秘裂に漲りが擦れる。
「ん・・・・・・気持ちいい」
瀬名は身体と心の両方が満足していくのを感じた。
怜の匂いと体温、骨格や筋肉の質感、どれもが瀬名を安心させてくれる。
「瀬名、今日はゆっくり愛し合いましょう」
色香を漂わせた怜の声が鼓膜に響いて、それだけで胎内が蠢く。
「はい」
背後から怜は瀬名の胸に掌を当てて揉みしだき、項や肩にキスをして赤い斑点をつけて楽しむ。怜が悪戯をする度に瀬名の身体が反応し、秘裂に怜の漲りが擦れて甘い声が漏れてしまう。
「んん、やめて・・・・・・」
「瀬名は敏感で、本当に可愛い・・・・・・」
「はぁ。怜さん、顔が見たい」
瀬名の言葉に怜が半身を起こして顔を覗き込むと、潤んだ目で瀬名が怜を見つめる。
怜は瀬名の太腿に挟んだ漲りを抜いて起き上がると、瀬名を抱き起こして正面在位の体勢にした。
「この体勢だと身体が辛いですか」
「大丈夫」
「これなら抱き締め合えますね」
瀬名を見つめて艶然と微笑む。
「うん」
瀬名は嬉しくなって怜の唇を舌で舐めると、怜は驚いた顔をする。だが、すぐに瀬名の唇を噛みつくようにキスで塞ぐと互いの舌を吸い、表面を舐め合う。
自然と腕を伸ばして抱き締め合うと、瀬名の秘裂からは蜜が零れ怜の漲りを濡らしている。
「はぁ」
唇を離すと互いに笑みを交わす。
「そろそろ挿れますよ」
「うん」
怜は瀬名の身体を浮かしてゆっくり挿入すると、瀬名はそれだけで極めてしまった。
「はぁああん」
仰け反る瀬名の首筋にキスをすると、瀬名の胎内は怜の漲りをキュウキュウと締め付ける。
「はぁ、堪らない・・・・・・。しばらく、このままでいましょう」
薄らと汗を浮かべる怜を瀬名はうっとりしながら見つめ、無言で頷いた。
抱き締め合ったまま何度も濃厚なキスを交わす。ただ、身体を撫でられるだけで激しく穿たれているわけでもないので、瀬名はもどかしさを感じるが気持ちがいい。
「動かなくても、こんなに締め付けてくるんですね」
「そんなこと言われてもわかんない」
「本当ですか」
意地悪く笑うと怜は軽く腰を振った。
「ああぁん」
急な刺激に瀬名の胎内が激しく反応した。
そのまま、しばらく抱き合ってじっとしていたが、先に音を上げたのは瀬名だった。このままでも、気持ちはいいが、もっと強い快感を求めて自然と腰が動いた。
瀬名が怜の胸にもたれながら熱い吐息をこぼすと、怜も堪らず腰を振り始めた。
「あぁ、もう限界です」
「ひゃぁぁん」
突然、胎内を穿たれ始めて瀬名はうっとりとした気持ちから目覚めるが、怜は数回激しく奥を突くと薄膜越しに胎内に熱を放った。
気を失うように眠る瀬名を抱き締めながら怜は自己嫌悪に陥った。
帰りの車で瀬名が腰をさすっていたので、腰が痛いことは判っていた。だから、帰ったら寝かせてあげようと思っていたのだが「怜さんのお嫁さんになりたい」と、予想外の一言に理性が飛んだ。
生きてきた中で泣きたいぐらいに嬉しいことがあるのを、怜は人生で初めて知った。
元々、啓介に瀬名が襲われた時から帰ったら瀬名の身体を消毒しなければ、と思っていたのだ。
体調が悪いのなら添い寝するだけでもいい、と考えていたのだが……。
ずっと待っていたプロポーズの返事をもらえた喜と、恥ずかしそうに返事をくれた瀬名が可愛くて愛しくて、抱かずにはいられなかった。
いつも身体に負担をかけないようにと思うのだが、行動が伴わない。
服の上から抱き締めても甘い声が出るぐらい感じやすいのに、滑らかな肌と初な色をした乳首、濡れやすい秘裂も処女のように綺麗だ。
しかも、艶やかな黒髪を振り乱して喘ぐ姿は蠱惑的で劣情を煽る。さらに、狭い隘路を進んで胎内に入ればドロドロに蕩けた肉襞がキュキュウと絡みついて離そうとしない。
これで理性を保てる男がいるのだろうか、と怜は真剣に考えてしまう。
あれでも自分は理性の欠片が残っていた方なのだ。理性を完全に消し去っていたら避妊もせずに、瀬名を人形のように揺さぶっていたに違いない。
その状況を避けられただけマシだと思う。
そもそも、瀬名に敵うはずがないのだ。
容姿が自分好みのうえ、考え方や生き方も好ましい。何より、怜を見た目やステイタス、スキルで判断せずに好きだと言ってくれる。
出生や過去、家族構成、社会的立場なんか瀬名と一緒に居る時は関係ない。瀬名と一緒にいる時は、世話好きな南條怜という一人の男になる。
だから、怜は瀬名と一緒に居られる時だけ癒やされるのだ。
だからこそ結婚という鎖で瀬名を縛り付け、知り合いのいない家に閉じ込めようとしている。
「早く二人だけで暮らしましょうね」
グッタリとして眠る瀬名の髪を撫で、頬にキスをすると部屋を出た。
「湯河原の引っ越し先を見に行く前に、ご両親に挨拶に行きましょう」
怜の一言で急遽、瀬名の実家に行くことになった。
瀬名の実家は高雄が住む田園調布に近い多摩川駅前にある、ごく普通の一軒家だ。
予め要件を伝えていたせいか、悟と小春は普段着ではなく外出するような服装だった。
瀬名は藍色のワンピースに怜からもらったブルージルコンのリングとパールとスワロフスキーを交互に配置したロングネックレスを二重に巻いた。
怜は三つ揃いのオーダーメイドスーツに、瀬名のリングとお揃いのネクタイピンとカフス、ブルージルコンの付いたラペルピンを付けている。だが、会社に出社する時とは異なり前髪は下ろしたままだ。
「小春さんの前で今更繕っても仕方がありませんからね」
怜は笑って瀬名の手を取ると、名波家のインターホンを鳴らした。
現会長の高雄も知っている仲であり、高臣も公認であることから「高臣様が許可するなら」という理由で、あっさりと結婚の許可が貰えた。
さらに、結婚式も瀬名の体調を考えて体調の良い時期を見計らって写真撮影のみにし、瀬名の両親と高臣、ロバートで食事をするだけで済ますことも了承を得た。
だが、それは怜の前だけだった。
昼食を一緒に食べる約束をしていたので、キッチンで小春の手伝いをするとブツブツ言い始めた。
「本当に結婚して大丈夫なの?」
「病気が酷くなったからって帰って来ても困るわ」
親心から来る心配だとわかってはいても瀬名には煩わしい。
「私も散々悩んで怜さんと相談して決めたの。万が一、離婚しても迷惑かけないから安心して」
「そんな簡単な話じゃないのよ。離婚して戻って来たら世間体も悪いし、高臣坊ちゃまにも顔向けできないじゃない」
それは両親の都合であって瀬名には関係ない。
小春が気にしているのは自分よりも世間体であり、我が子同然に育てた高臣である。だから、自分が鬱病になった時にさっさと怜に看病を任せたのだと瀬名は本気で思っている。だから、小春が傷つくと判っていながら、敢えて口にした。
「だいたい、怜さんは私が今よりも酷い精神状態だった時や身体の痛みが酷い時に献身的に看病してくれたのよ。病気が悪化したからって、離婚するわけがないでしょ」
「そうね。怜さんなら大丈夫よね」
瀬名の言葉に小春は少し寂しそうに頷いた。
それ以降、結婚に関する話を両親は出さなかったが、やはり自分に結婚は無理なのだろうかと落ち込んだ。
その後、予定通り二人で湯河原へ向かうことになった。
湯河原に着くと二人は、不動産やとリノベーションしてくれた建築家やインテリアデザイナーと最終チェックをして引き渡しをしてもらった後、ガーデニングデザイナーと庭の打ち合わせをしてホテルに入った。
その夜、二人が宿泊したのはミシュラン掲載のホテルだった。
瀬名は生まれて初めての離れをもの珍しそうに見て、豪華な夕食を堪能した。
「せっかくの露天風呂です。ゆっくりお風呂に入りましょう」
「えっと、そうですね」
正直、すぐにでもお風呂に入りたいが、瀬名は露天風呂が部屋の中から丸見えなのが気になった。
「早くしないと、夕食が来てしまいますよ」
怜は瀬名を連れて露天風呂に向かうと、サッとワンピースを脱がせて露天風呂に瀬名を放り込む。
瀬名は仕方なく身体を流してから湯船に浸かると、気持ちが良くて目を瞑って浸かる。
しばらく目を瞑っていると、怜が入ってきた気配がして目を開けた。
「瀬名、大丈夫ですか」
怜が心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫です」
瀬名が笑って見せると、怜は安心したような笑顔を見せて湯船に浸かる。
「夕食を食べたら、すぐに寝ましょう」
「寝るだけですよ」
「明日帰りますからねえ。もちろんです」
妖艶な笑みを浮かべる怜に、瀬名は危険な予感がして湯船から出た。
その後、髪を乾かしてベッドに潜り込むと、すぐに怜が寝室に入ってきた。
ドキドキしている瀬名をよそに、いつもと変わらない雰囲気でベッドに入った怜は瀬名を抱き締めて、ため息を付く。
「やっぱり、瀬名がいると安心できます」
瀬名も自然と怜の首に腕を回して怜の匂いを感じる。
「怜さんの匂いがする」
互いに見つめ合うと軽くキスをした。
「さぁ、寝ましょう」
怜の一言で瀬名も目を瞑る。だが、先に眠ったのは怜だった。
いつもなら、寝付きの悪い瀬名が眠るのを確認してから眠る怜が珍しい、と瀬名は怜の顔を覗き込むとうっすらクマが見える。
もしかしたら急な仕事で徹夜だったのだろうか、と心配になった。だが、すぐに普段の怜に比べて寝顔が少し幼いな、睫が長くて綺麗などとどうでもいいことばかり思う。そして、怜に見とれている内に自然と眠ってしまった。
きっちり2時間後に目が覚めた怜は、自分に寄り添って眠る瀬名の姿に満足する。
十数年前まで人の温もりなど欲しくもなかったのが嘘のようだ、と自分を嘲笑する。
瀬名の頬や首筋にキスをするが長距離の移動で疲れたのだろう、目覚める気配はない。
朝までゆっくり寝かせてあげようと、そっとベッドを抜けると庭に出た。
焦る必要はない。
もうすでに瀬名は自分の手に入ったのだ。
それなのに最近は、瀬名を見ると感触や匂い、温もりを感じたくて独占したくて堪らなくなる。
十代のガキではあるまいし、情けない。
今まで完璧に瀬名が求める大人を振る舞って来たのに、一緒に暮らし始めて瀬名が離れてしまわなないだろうか。
ざわり、と不安がよぎる。
南條家や学校で居場所を作るのには、製品開発や勉強で実績を上げれば良かったのだから簡単だった。
だが、瀬名の場合は違う。
精神分析はできるが、怜は人の心が読めるわけではない。
自分の愛情が伝わっていて、瀬名も自分を愛してくれているはずなのに、ちょっと風が吹いただけで瀬名が居なくなってしまいそうな気がしてならない。
どうしても怜、は愛情や信頼という目に見えないものを信じることができない。
いっそうのこと、瀬名が自分の与える悦楽に溺れてしまえば簡単なのだが、瀬名の体調を考えると難しい。
だから、長い時間をかけて信頼できるのは自分だけ、瀬名を甘やかしてあげられるのは自分だけだと刷り込ませてきたのだ。
「怜さん」
呼ばれて振り向けば、まだ目覚めきっていない瀬名が立っていた。
「喉が渇いたんですか」
目を擦りながらぼんやりしている瀬名は子供のようだ。
「違う。怜さんがいなかったから」
思わぬ一言に、怜はニヤニヤしてしまいそうになるのを堪える。
「そうでしたか。それは申し訳ありません」
「まだ時間大丈夫だよね」
「えぇ」
怜が部屋に上がると瀬名が怜の袖を掴んで寝室へ連れて行く。
その姿が可愛らしくて、襲いたくなるのを怜は必死で堪えた。
瀬名がベッドに潜り込むと怜が隣に寝転がる。
「ねぇ、怜さん。昨日は忙しかったの?」
怜の首に腕を回しながら瀬名が訊いた。
「いいえ。ただ、眠れなかっただけです」
「そう」
少し不満そうな表情を瀬名が見せる。
「どうかしましたか」
「ううん。なんでもない」
ぐりぐりと鼻先を首筋に押し付ける瀬名の頭を撫でながら「心配をかけて、すみませんでした」と謝ると、瀬名は首を振った。
「こうして居られるから、もういい」
二人でクスクス笑うと、抱き締め合いながら眠りについた。
怜が購入した別荘は湯河原の別荘群にあった。近くには足湯が楽しめる万葉公園があり、自然豊かな環境でかつ、赤坂とは異なる静けさがあった。
シャッター付きの車庫に車を止めて正門へ向かう。
「ここですか」
「はい」
瀬名は呆然と建物を見上げた。三階建てと思われる建物は門からでは全体図が掴めない。
怜が購入するのだから、庭が広いことは予想していたが二人暮らしなのだから、こぢんまりした建物を想像していた。
考えてみれば怜は南條家の人間なのだから、庶民育ちの瀬名とは感覚が違うのだ。
そもそも、赤坂の南條邸は母屋しか使っておらず、離れの客間は十年近く使っていない。母屋と棟続きの離れを含めて何部屋あるのか把握している人がいないという本物の金持ちである。
つまり、普通の一軒家の基準が違うのだ。
別荘は門を抜けると屋根付きのスロープがあり、雨の日でも濡れずに家に入れるようになっていた。
広い玄関ホールを抜けて行くとリビングとキッチンがある。
キッチンはコの字カウンターで仕切られており、最新調理家電とオーブンに収納やハッチが備え付けられており、怜のこだわりが各所で見られた。
ダイニングとリビングには仕切りがなく、ダイニングテーブルとソファーセットとオーディオ機器以外は何もない、だだっ広い空間になっている。
「家具はインテリアコーディネーターに任せて選びました。ただラグやクッション、リネン類は瀬名の好きなモノを選んでくださいね」
「え?私が選ぶんですか」
「はい。だから、瀬名の好きな北欧風デザインでもいいですよ」
瀬名はパリのアーティストによる北欧デザインのポーチやタオル、部屋着を集めるのにハマっていた。そのことを知っている怜は、瀬名が北欧デザインのカーテンやリネンを集められるようにインテリアコーディネーターに選ばせなかったのだと悟った。
「でも、怜さんの好みもあるでしょう」
そもそも、家は怜の所有物である。
「家の中は瀬名が好きなようにしていいですよ。その代わり僕は、庭を好きなように造らせてもらいます」
ニコリと笑う怜に、瀬名は「それなら」と頷いた。
「カタログと生地見本をもらってあるので、後で選びましょう」
そして、リビングの窓から外を眺めるとレンガテラスが見えた。
「ここから、お庭が見えるんですね」
「初夏なら、外でティータイムを楽しめますね」
「うん。楽しそう」
瀬名が笑顔を見せると怜は嬉しそうに笑う。
ゆったりと流れる時間の中で二人は、この部屋で何をしようか、あと必要な物は何かと、とりとめもない話をしながら部屋を見て歩く。
寝室に入ると、南條邸で瀬名が使っているものと同じメーカーのベッドマットをはめ込んだクイーンサイズのベッドと書棚やパソコンデスクが置いてあったが、それでもゆったりとした広さがある。
庭側にはサンルーム、反対側にはウォークインクロゼットがあり、瀬名は一階だけで十分生活できそうだと感じた。
「このサンルームには、今キッチンに置いているカウチを持ってくる予定です。寝付けない夜にここで夜更かしするのもいいでしょう?」
怜の提案に瀬名は手を叩いて頷いた。
「寝る前に一緒にお茶を飲むのもいいんじゃない」
「そうですね」
新しい生活でやってみたいことが次々と浮かんで来て、二人はいろんなプランを立てながら部屋を回る。
浴室の前には広々とした洗面化粧台があり、広々とした浴室には温泉が引かれているという。
「正式に入居してから、温泉やインフラが開通するようになっているので、今は空っぽです。でも、これだけ広いと一緒には入れますね」
怜はにこやかに言うが、瀬名は旅行でのことを思い出して「う、うん」と曖昧に頷くしかできなかった。
それに、南條邸では(怜のせいで)瀬名が立ち上がれない時以外、一緒に入ることはない。だが、高臣達の目を気にしなくなれば一緒に入る機会も増えるのか、と瀬名はようやく気が付いた。
二階三階には客間があった。一階のダークブラウンではなく明るい木目のフローリングのせいか、全体的に明るい雰囲気がある。
さらに、二階と三階にはルーフバルコニーがあり、相模湾が一望できる。
二階にも浴室があり湯河原の山並みと海を眺めることができ、こちらも温泉が出る。
「瀬名の調子がいい時はこちらの浴室を使いましょうか」
「え?というより、二人暮らしなのに浴室が二つあるの?」
「もしかしたら、高臣さん達が来るかも知れません。それに、瀬名のご両親も。そのために二つあります」
「そう」
渋谷から湯河原はそれ程離れていない。それに、今後ガーディアンを背負う高臣は休みも不規則になるだろう。今ですら、高臣の目付きが鋭くなって近寄りがたくなっているので、ふらっと弟の住む家で温泉に浸かるのもいいかも知れない、と瀬名は思った。なにしろ、高雄の秘書をしている父が土日祝日や夏休みもなく働いているのを見ていたので想像に難くない。
言葉にはしないが怜が高臣のこと大事に思っているのを知って瀬名は嬉しくなった。
このまま普通の兄弟になれればいい、と。
三階の執務室には天井に階段が隠されており、そこを登ると大型のグルニエ(屋根裏収納)に上がれるようになっていた。
「うわー、スゴイ。秘密基地みたい」
映像や本でしか屋根裏部屋を見たことがない瀬名が感嘆の声を上げると、怜が苦笑いする。
「夏場は暑いですから、置けるものは限られるでしょうね」
「あぁ、そっか」
「まぁ、工夫をして使いましょう」
「はい」
その後、庭を見てから昼食を食べて南條邸に戻った。
湯河原から戻ると、新居のラグやカーテンなどを選びながら四月の入社式と新人研修準備に追われ、瀬名はプライベートも仕事も忙しくなった。
痛み止めの注射を打つが、なかなか効き目がなく痛み止めの錠剤を追加しながら仕事に行き、帰って来ると怜に小豆を蒸したホットパッドを背中や首に乗せてもらいながら夕食まで昼寝をするというルーティンで四月を乗り切った。
一方で怜は業務の引継ぎや引っ越しの手配、長年南條家のハウスキーパーを担当していた女性を家政婦に雇うために引継ぎを行っており、多忙を極めていた。
「本当に引っ越しちゃうのね」
いよいよ引っ越しを明日に控えた夕食、周子が寂しそうに呟く。
「別に会えなくなるわけじゃないし、夏は泊まりに行くんだからいいじゃん」
悠仁が明るく言う。
「まぁ、それはそうだけど。この屋敷も社長一人じゃ広すぎるわね」
「でも、冬には二人とも帰って来るんだろ」
悠仁が高臣に視線を送るが、高臣は黙々と食事をする。
「はい」
南條兄弟の代わりに瀬名が答えた。
「だったら、今までと大して変わらないじゃん。なぁ」
悠仁が再び視線を送って同意を求めると「あぁ」と高臣が頷き、微笑んだ。
「社長もプライベートを充実させてくれるといいんだけど」
周子が呟くと、悠仁と高臣が聞こえないふりをした。
「しばらくは、難しそうですね」
二人の声を怜が代弁する。すると、自然と全員が笑い始めて和やかなまま最後の夜が更けた。
翌朝、瀬名は屋敷を出る前に高臣に挨拶に行った。
「旦那様、使用人としても社員としても役に立てず、申し訳ございませんでした。高校時代から、いつも温かく見守っていただいたこと忘れません。長年、お世話になりました」
瀬名が深々と頭を下げると、高臣が「ふっ」と笑う気配がした。瀬名が頭を上げると高臣がクスクス笑っていた。
「娘を嫁に出す父親のようだ」
笑いながら高臣に言われて、瀬名は「そういえば」と、笑った。
「これで怜を南條家から解放してやれる。瀬名のおかげだ」
「一つ、お尋ねしてもいいでしょうか」
「なんだ」
「使用人として役に立たない私を、どうして今まで置いていただけたのでしょうか」
「怜には瀬名が必要だったからだ。私に怜が必要なように。瀬名がいなければ、怜はただガーディアンの製品を開発するだけロボットだっただろう。それが、瀬名の世話をするうちに人間らしい表情と、私も知らない怜の個性が現れてきたのだ。瀬名のおかげだ」
「いいえ。そんなことはありません。それに、怜さんが必要なのに……」
「そこは心配しなくていい。怜なら離れていても助けてくれる」
高臣は朗らかに笑う。
高臣の表情に、瀬名は心配しているほど兄弟の心は離れていないと確信して嬉しくなった。
「瀬名、ここにいたんですね。荷物は玄関ホールに出ていたものでだけですか」
「はい」
瀬名が頷くと、怜は高臣の前に立つ。
「では、旦那様。行って参ります。仕事に精を出すのもいいですが、たまには湯河原に休みに来てください」
怜の言葉には長く住んだ屋敷を離れる寂寥は微塵も感じさせない。
瀬名は冬場にこの屋敷に戻って来るのだから、自分の挨拶はやはりズレていたのだ、と今更ながら赤面していた。
「そうだな。怜。これを持って行きなさい」
高臣は執務デスクの引き出しから、箱根旅行の土産で買った箱根細工のレターボックスを怜に渡した。
「なんでしょうか」
怜は意図も簡単に箱根細工のレターボックスを開ける。そこには手紙と表紙に交換日記の書かれたB6サイズのノートが数冊入っていた。
「私がロバートやり取りしていた手紙と、母との交換日記だ」
「え・・・・・・」
呆気にとられながらも、怜は手紙や日記を読む。
「どちらも、怜の成長を喜び、子供らしからぬしっかりとした怜を心配する親心が記されている。私が持っているよりもいいだろう。持って行きなさい」
「ありがとうございます」
怜は複雑な笑みを浮かべて丁寧に受け取った。
初夏を思わせる5月の日、瀬名と怜は南條邸を出た。
引っ越して2ヶ月後。
怜が丹精込めて造った庭には、終わりかけのアナベルやユリの他にクレマチスやヒャクニチソウ、ノウゼンカツラなどが咲き乱れている。
ある夜、珍しく怜がはしゃいだ声を上げた。
「瀬名、来てください。早く、早く」
お風呂上がりの瀬名は、頭にバスタオルを巻き、長袖のパジャマ姿で怜が手招きする、リビングの窓際に駆け寄った。
瀬名は夏でも風(自然な風、クーラーや扇風機の風)に当たると痛みや痺れが起きるので、寝る時は長袖のパジャマを愛用している。
「どうしたの」
「見てください。月下美人が咲きそうです」
怜が指を指した先で白い花がゆっくり開こうとしている。
「月下美人ってこうやって咲くんだ。初めて見た」
「なかなか咲いているところを見るのが難しいのですが、今日は運が良かったです」
「そうなの?」
怜が窓を開けると月下美人の、優しい香りが漂ってくる。
「怜さんの匂いに似ている」
「そうなんですか?」
怜は自分の手首や腕の匂いを確かめる。
「やはり、自分ではわかりませんね」
苦笑いする怜を見て瀬名も笑う。
「今日はここで髪を乾かしましょう」
二人は窓際で髪を乾かして、互いのパソコンを持ち寄って月下美人を長めながら仕事を始めた。
「ねぇ、このアジサイどう思う」
瀬名は以前から言っていた画像加工で、世の中に存在しそうでしない花を作成して画像投稿サイトで、お小遣いを稼いでいる。
「うーん、最近できた新種に似ています。ほら、これとか」
瀬名が怜の手元を覗く。
「これはなんて言う名前なんですか」
「まだ、名前は決まっていないようです」
「そっか。存在するアジサイなら、また考えないと」
瀬名は気合いを入れて考え始める。
無理に働く必要がなくなり、温泉の効果もあって瀬名の体調は良くなって来ていた。怜はその原因として、ストレスの緩和を上げていた。
それについては、瀬名も認めていた。『今日中に何かしないといけない』という縛りがなくなって、瀬名の気持ちはすごく軽くなった。
その隣で怜は瀬名には判らない文字の並んだ画面で作業をしている。
怜は性格分析やBusiitのグローバルサイト開設の仕事を終えても、次々と高臣から依頼が来ている。「人使いが荒いですね」と言いながらも怜の表情は、東京に居た頃より、ずっと活き活きしている。
先日、高臣が別荘に泊まりに来た時には、怜は高臣が好きな料理を楽しそうに作ってもてなした。
高臣が来る数日前から、高臣に出す料理のことばかり話題にするので瀬名が焼き餅を焼いたぐらいだった。
以前は高臣と距離を取っていた怜が、自分から高臣に歩み寄り始めている。
「今の怜が、本来の姿なのだな」
高臣は少し寂しそうに、だが嬉しそうに言って東京へ戻って行った。
怜は瀬名の体調によって献立を考え、アレルギー症状が酷くなった瀬名のためにプロ並の掃除を実践している。さらに、趣味の造園に加え、温泉供給には毎日欠かせない硫黄や湯の花を取り除く。そのボランティア参加した怜は、作業に危険が伴うことを知って、ロボット化できないのか研究をしている。そのため、東京に居た頃と変わらない多忙の日々を送っている。
瀬名は湯河原に来るまで、怜は嫌々研究開発をしていると思っていた。だが、怜は元々研究開発が好きなのだと改めて知った。ただ、与えられた研究開発をするのではなく、テーマを自分で選べるようになっただけで仕事の充実度や満足度が上がっているので、ガーディアンを離れたのは正解だったと感じている。
湯河原に来て二人は誰にも遠慮せず、自分を偽ることもなく生活できて幸せだった。
日本の社会では両手足を使い両目で見て、両耳で聞き、相手とコミュニケーションを取れる言葉を話す。決められた年齢で学校を出て働き、異性を愛して子供を生み家庭を築く。このレールに乗れる人は正しくて、レールに乗れない人は肩身の狭い思いをして生きなければならない。
その片隅で出会った二人は、互いを支え合いながら自ら社会をはみ出して生きていく道を選んだ。
「怜さん、満開になりましたよ」
「あ、本当ですね」
「綺麗」
「瀬名の方が綺麗ですよ」
「もう」
顔を背ける瀬名を怜は背後から抱きすくめる。
「ずっと一緒にこうしていましょう」
「うん」
二人は月下美人の花が閉じるまで眺めていた。
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