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第二幕 あやかし兎の京都裏町、舞妓編 ~祇園に咲く真紅の紫陽花

19.市会論争(6)

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 こういう事態に直面していても、あくまでハルは冷静です。息を荒げてもいません。

「おい、薫」

 ハルが弁慶さんの後ろから覗き込むようにして、私を見ました。きっと私が怪我をしていないか、聞いてくれるのでしょう。

「向きが逆だ」
「へ?」
「葛の葉。表裏が反対になっている」

 左手に視線を注ぐと……なるほど、葉脈の筋が綺麗に通って、葉が内側に少しヘコんでいます。つまりこれは表側で、私は相手に葉っぱの裏側を向けて構えていることになります。

 どーでもいい気遣い!

「陰陽師の若造」

 義経さんが、ハルを一瞥いちべつしました。

「俺は別に五臓に肩入れするつもりはないがな。みすみす乱波らっぱ者を逃がすのは気が引ける。大人しく投降するか、見事、ここから逃げてみせるか、好きな方を選べ」
「いいよ、やろうよ」

 アヤメさんの口調から、抑えきれない興奮を感じます。

「捕まる気はないからね、やるならやるよ」

 アヤメさんはボクサーのように両手を構えて、義経さんは刀の柄に手を添えて、弁慶さんは背中の棍棒を、ハルは術札を広げたまま動こうとしません。怒涛のチャンバラが始まりそうで、巻き込まれては大変ですから、私を含め、他の皆さんも早く逃げ出したいに決まっていますが――

 ここにいる誰かが動けば、それを合図に戦が始まりそう。

 しばらく、誰も動かないまま不穏な沈黙が続きました。

 右手の柏餅に、手汗がにじみます。

 滑って餅が落ちてしまいそうで、このままでは私の手から餅が地面に落ちた途端に乱戦に。ああ、誰か、私よりも先に動いて欲しい。リレーのピストルを鳴らす役目を負いたくない。

「喝っ!」

 緊張の静寂を破ったのは、天地を揺るがす怒号でした。これを皮切りに戦闘開始、ではなくて、むしろ動けません。突風が吹き荒れ、会議の資料が部屋中に舞い、ぼっと紙に火が点いて灰になると、全身に痺れが走りました。

「全員、動くな」

 静かな口調で威圧を放ったのは、一人、座ったままの玄桃斎さん。

「動いた者は、私の裁量で成敗する。もしも私と戦いたいのなら、好きにするがよい」

 どうして忘れていたのか。いえ、忘れてはいなかったのですが、何も発言しなかったので、黙認されていると誤解していました。あの玄桃斎さんが表京都で、こんな騒動を許すはずがない。

「動けねぇよ、オッサン」

 アヤメさんの右手が小刻みに揺れています。私と同じように、金縛りにあっているようです。

「全員、武具から手を離せ。もしもまた手をやれば、即座に滅する」

 唐突に力が抜けて、動けるようになりました。他の皆さんも同様らしく、アヤメさんは両手を降ろし、ハルは札を懐にしまい、額の汗を拭う人や、へなへなと椅子に腰かける人など。私の右手からは、ぼとりと柏餅が床に落ちましたが、武器に手を触れるなとのことですから、すぐに拾うのは止めておきましょう。

「義経、柄から手を離せ」

 玄桃斎さんは座ったまま、義経さんの手元を確認することなく注意しました。

「誰に上から言っている。見た目はお前の方が老けて見えるがな、実際は俺の方が遥かに年上だ」
「三十から成長を止めているなら年下のままだ。人の身ならいざ知らず、今の姿では私の術を直に受けるぞ」
「そういうのは詰まらん。子供の喧嘩に親が、とも言うが……それだけではないか。妖怪嫌いのお前が狐を見逃していた理由、何を企んでいる?」
「企んでいるのはどちらかな。連中に伝えておけ。裏でコソコソやるのは構わんが、表で事を起こせば、容赦しないと」
「やれやれ、本当に詰まらん奴だ。遊び心が足りない。まあいい。今は引くとしようか」

 義経さんも柄から手を離し、弁慶さんも遅れて棍棒から手を離しました。二人は、くるっと背を向けました。

「ちょ、義経はん! こいつら、ほっとくんでっか?」
「文句は玄桃斎に言え。どのみち話し合いを続けられる空気でもあるまい」
「そ、そうでっか……確かに会議が長引き過ぎてスケジュールが押しとるな」

 五臓さんは腕時計を見て、秘書の女性が頷くと、義経さんを追うように部屋から出て行こうとしました。

 なんとなく騒動が着地したような雰囲気になっていますが。

 全っ然、納得できない。

 何も問題が解決していないまま、有耶うや無耶むやの煙に巻かれています。

「逃げる気なの!?」

 私の追撃に、体を揺すって、辟易へきえきさを全身で表現しながら五臓さんが振り向きました。

「お前な、いったい何が目的なんや。そんなにワシが気に入らんのか」
「私が怒っているのは、音兎ちゃんを利用したこと。彼女に落とし穴を掘ったのは、あなたなんですからね」
「舞妓のことは、穏便に済ませる言うたやろ」
「香月さんと引き換えでしょ。ちっとも分かってない。それじゃあ、音兎ちゃんの心が救われない。非を認めて彼女に直接、謝りなさい」
「濡れ衣ばっかり着せよって。なんで問題解決に奮闘しとるワシが謝罪せなアカンねん。さては、お前、ワシを舐めとるな?」
「……くだらない。それがあなたの答え? だったら、私、ここで宣言します。音兎ちゃんを舞妓に復帰させて、香月さんの冤罪えんざいを晴らして、それから、五臓さん。あなたに非を認めさせるまで、私は戦います」
「ほう、ワシと戦うと……それで、名前はまだ、聞いとらんかったが」
「私は裏町案内人、玉藻たまものかおる
「ワシは平安平穏党の五臓ごぞう六腑ろっぷや。やると決めたら、徹底するで。尻尾はもう出しとるようやけどな。降参するなら、早めにしとけよ」

 ぶっきらぼうに手を振りながら、五臓さんが去りました。当惑の色を隠しきれない秘書の女性も慌てて彼を追いかけます。

 しばらく、誰も言葉を発しませんでした。

 少しだけ冷静になると、むしろ事を大きくしてしまったのではないかと自責の念に駆られました。これでもう、引くに引けなくなった。いい塩梅で手打ちにしておけば、少なくとも音兎ちゃんは復帰できたのかもしれない。でも、私は、自分の信念を裏切ることができなかった。私の勝手な行動で、周りまで巻き込むことに。

「今更だ」

 ハルが言いました。私の表情から察したのか、まるで心を読んでいるかのよう。普段は以心伝心、とはいかないけれど、こういう場面では通じ合えるのです。

「ええ啖呵たんかでしたよ。案内人にしとくのは惜しい」
「家訓は『やるからには全力』だっけ? だったら、とことんやってやろうぜ。アタシも、そういうの好きだしさ」
「本来は、私が言うべきことでした。何から何まで、申し訳ない」

 香月さんがゆっくりと、私に頭を下げました。他の市議会議員さんも、後援会の方々も、アヤカシが表沙汰になること危惧していた市民代表の方までもが、「力を合わせましょう」と言ってくれました。

「客観的に見たら、腑に落ちない点がいくつも出てきたものね」
「分かりやすい悪役になってたし」
「厄年って、五臓さんは五十六歳ですよね。どういうことなんでしょう?」

 ノートパソコンの男性が、首を何度も傾げながらキーボードを叩いている様子を見て、全員が、初めて笑いました。

 私は会議室のガラス窓から、外の景色を眺めます。

 ビル街を見下ろす遠くの白い雲に向かって、スズメの群れは、大きな鳥になっていました。
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