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第二幕 あやかし兎の京都裏町、舞妓編 ~祇園に咲く真紅の紫陽花
9.祇園東の花街(2)
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鈴屋は、とっても狭い道にあります。
猫が好んで通りそうな細道の片側に、重ならないようにして四角い看板が顔を出しています。先斗町ですら白旗をあげるくらいの窮屈さで、勢いよく店から飛び出せば壁に激突できるでしょう。二人並んで歩くのもギリギリなのに、反対側は四条通と繋がっていまして、お昼時のせいか、若いカップルがこちらに向かってきました。私達は一列になり、すれ違いざまに「舞妓さんかな」「まさか。料亭の人でしょ」という声がして。
「変な場所どっしゃろ」
鈴夜ちゃんは自虐気味に微笑みました。
細道を抜けると富永町通に出ます。ここでも和風の料亭より雑居ビルが集合しているイメージで、所々に古めかしい木造家屋が姿を現すのですが、比率的には圧倒的に負けています。
「北側に花街があるって、知りはらへん人も多いんどす。南の方は観光客がようけいはりますけど」
「だよねぇ。私も知らなかった。寂しかったりする?」
「そうどすなぁ。でも、悪いことばかりやないんどす。静かやからこそ、常連さんとのんびりできますし。通な人に贔屓にしてもろてますし、移動が楽なんどす。あっちやと、引っ張られるんどす」
「あ、なるほどね」
観光客や、外国の方が増えたのは喜ばしいのですが、マナーを理解していない人もいて、アミューズメント施設のマスコットキャラだと勘違いしているケースもあるのですって。
仮にマスコットキャラだとしても、引っ張るのはダメなんですけど。
富永町通から、さっき私が通った歓亀稲荷神社への石畳を進むと、道が交わる先に和菓子屋さんがありました。
「さっき、気になってたんだよね~」
明らかに美味しそうな外観です。せっかくだから、何か買いたい。
「フルーツの大福が有名なんどす」
鈴夜ちゃんが教えてくれました。彼女にとっては生活圏内ですから、常連なのでしょう。
「私は蜜柑の大福が大好きで、いつもイチゴ大福とセットで――」
ここで鈴夜ちゃんはハッとした表情を浮かべて、石畳に視線を落としました。踊りの稽古を終えて、大福を買って帰る二人が情景となり、辺りの景観と混ざりました。それならば私が三人分を買ってあげようと、意気揚々と店に入って注文を告げます。
「キウイの大福と蜜柑に、イチゴ大福を」
和菓子屋さんの隣には、カフェの入り口と思わしき格子戸の玄関があるのですが、ここは『ぎおん楽宴小路』といって、ちょっとした休憩スペースになっています。
初見だと、入りづらいので穴場なのです。
小路を抜けると、ポッカリと開いた四角いスペースに、こじんまりとした日本庭園が現れます。腰の高さくらいの石壁が水を囲み、傍には茶色の火の見櫓が建っています。櫓の下は四人ほどが座れる茶室になっていて、外側に木製のベンチが配置されています。鈴夜ちゃんがベンチに腰かけると、私も隣に座って、膝に大福を乗せて、二人の間に緑茶のペットボトルを置きました。
「祇園東って、こういう場所。他の花街に比べたら、華やかさはないかもしれませんが……ささやかに時代に抵抗している感じがして」
「自分から祇園東を希望したの?」
「祇園をどりが、きっかけどしたから」
京都の秋を彩る『祇園をどり』。桜が舞う春に催し物が多い花街にあって、唯一、カエデの紅葉と共に踊ります。
「三年前に、祇園会館で見ました。綺麗やなぁって、私も舞妓さんになりたいと思って感動していたら、隣で肩を震わせている子がいて――それが鈴月ちゃんやったんどす」
「凄い偶然だね」
「ほんま、えらい奇遇で。その日、二人で意気投合して、そのままお茶屋組合の門を叩きました」
「決断力が凄い! その頃って……まだ十二、三歳ぐらいだよね?」
「勢いだけでやらしてもらってますから……でも、厳しい世界やさかい、勢いだけやとあきまへんって言われました。年齢とかの条件もよう知らんかったから、中学を卒業してから改めて、親御さんと一緒に来てくださいって。だから祇園東以外に花街があることも知らへんかったんどす。でも、やっぱりここで良かったと思うとります」
「二人で同じ日に志願して、同じ置屋に……そういうことってあるの?」
「さあ……紹介されたんが鈴屋の母さんのところで、長年、舞妓がおらへんかったから、それじゃあ二人で入りましょかって」
鈴夜ちゃんは目の前にある店の入り口を見つめて、それからお茶のペットボトルを両手でギュッと握りました。力強く引いた両眉に、あどけなさが残る頬が丸みを帯びています。
「だからこそ、続けられました」
彼女の横顔に映る瞳は、情熱と、疲労と、相反する感情を秘めて、まるで蝋燭の火が消えそうな、それがまた、ポッと燃えるような。
「華やかなことばっかりや、ないんどす。辛いこともようけあって、どちらかといえば、辛いことの方が多いかもしれません」
「舞妓になる前に、諦める子もいるって聞くもんね」
「何が辛いって、何もできへんっていう事実を突きつけられるのが辛いんどす。賑やかなようで、実際は孤独なんどす。見習いで入って、姐さん達に気を遣われながら、失敗ばっかりして……母さん達に世話になっているという自覚が、そのうち恐怖に変わるんどす。言ってみれば、こっちは捨て身やさかいに、それでもリタイヤできて帰る故郷があるだけマシかもしれませんけど、でも、帰れるっていう事実が、よけいに弱気にさせるんどす。休暇なんかで故郷に帰ったら、もう京都に行きたないって、顔を出さなくなった同期もおりました。ああ、あの子、辞めはったんやなって」
仕込みさん時代は短くはありませんが、決して長過ぎるわけでもありません。平均にして一年間。この期間を乗り越えれば舞妓になれる可能性は高いのに、それでも心が折れてしまうのは、若さと――
「将来への不安、なのかな」
「……そうどすね。高校に入った友達と久しぶりに会うたら、向こうからは羨ましいって言われますけど、ウチからしたら、むしろ普通の方が特別な気がして……舞妓の衣装を着てみたいって言いますけど、ウチは、制服が着たくなって……ないものねだりなんどすかね。それでも続けるのは、あの日の、憧れが強烈に胸に残っているから」
「音兎ちゃんも、同じだった?」
「入ったばかりの頃は、ここで、二人で、よう泣きながら、愚痴りました」
私と目を合わせて、照れ臭そうに笑いました。
「二人で舞妓になろうねって。絶対辞めへんでおこうねって。どちらかが辞めたくなった時は、もう一人が背中をさすって、励まして……でも、段々と、辞めたいって思わなくなったんどす。だって、何もできへんのが二人おったから。いつも二人で一緒やったから……悩みは半分、楽しさは二倍で……母さんも、昔は厳しくしてはったらしいんどすけど、ウチらが最後の希望やからって、言い方は変わらずきついどすけど、たまにこっちが気を遣うくらいに、気を回しはって」
「最後の、希望」
私は、置屋の和室を思い出しました。
「……母さんね、もう畳むつもりやったんどす」
「……そうだねよ、そういう雰囲気、してたから」
「長らく引退を留めてたんは、鈴華姐さんなんどす。次の舞妓が来るまで、芸妓を続けるからって母さんを説得して、だからウチらが入って、やっと下が来て嬉しかったって言うてくれはりました。鈴華姐さんったら、芸妓の時は慎ましくしてはりますけど、本当は豪快な人で、『あんたらが立派な舞妓になるまで、私が鍛えたるわ!』なんて酒に酔いながら……それで、縁談、断りはったって噂で聞いた時、本当にビックリしました」
京都の慣習らしいのです。舞妓さんは二十歳まで。芸妓さんは自ら引退するか、結婚するまで。
「姐さんには三十路になる前に結婚しよかって、以前から懇意にしてた人に言われて、でも、姐さんが結婚したら舞妓を引く芸妓が同じ屋形でおらへんくなるからって、あの子らを見届けるまでは私は結婚せえへんって、いったんは断ったんどす。そしたら、いつまで待てばいいか分からんからって、結婚話そのものまで消えてしもうて……たったの二、三年も待てへん男なんか知らんって、こっちから願い下げやって別れたんどすけど……姐さん、独りで泣いてはって……」
鈴夜ちゃんは両目の下に、涙を溜めていました。
「ウチね、ウチ……正直、鈴月ちゃんが辞めるってなって、ウチも辞めようかと思ったんどす」
「そんな……だってさっきは、辞める気はないって」
「仕事とか、舞妓修行とか、そういうのが嫌なんやなくて、別のことで心が折れてしもうて……ウチらは芸名も二人で一緒なんどす。片方が欠けたら、どちらも存在できません。夜は月がなかったら真っ暗で、月は夜がないと輝けない。二人で舞妓になるって決めて走ってきたから、鈴月ちゃんが舞妓になられへんのやったら……でも」
鈴月ちゃんは鼻をすすりながら、頬に流れる涙を、交互に、両手の甲で拭いました。
「とても言われへん、辞めるなんて、とても言われへん。母さんが、姐さんが……あんなに頑張って……それを……ウチ、鈴月ちゃんの気持ち、よう分かります。鈴屋を残したいから、母さんと姐さんの想いに応えようと、存続させたいって、だから身を引こうとしたんどす。ウチが残ってたら三人でやっていけるって、手紙にそう書いてありました……だけど、一緒にやるって……言ったやん……辞める時も一緒やって……言ったもん……ウチだけを残して、鈴月ちゃんが舞妓をできへん狭い世界なんて、ウチかて嫌や。それでもう分からんくなって、だけど、やっぱり、母さん達に、言われへんかった……」
「似ているね、二人とも」
気を強く持とうと振る舞っていても、まだ十六歳。今まで吐き出していた弱音を口にできなくなって、溜め込んで、少し突いただけで割れそうな感情の風船は、ここで破裂してしまって。
「悩み方も一緒。自分のことより、他の人のことで悩んで、それでぐちゃぐちゃになっちゃって――でもね、自分に遠慮することが自分自身にも、他の人にとっても、良い結果になるとは限らないの」
キウイの大福を先に食べて。
蜜柑の大福を渡します。
「貫こうよ。やりたいように、真っ直ぐに。やりたきゃ、やる。食べたきゃ、食べる」
「やりたい……ように?」
「本当の望みは何か、もう一度、考えてみればいいの。私もね、迷ったりすること、結構あるよ? でも、よくよく考えてみれば……悩ませているのって遠慮なのかなって。自分に嘘を付くから、もう一人の私が泣いているんだって。鈴夜ちゃんの本当の願いは何?」
「ウチは……二人で舞妓になって……姐さんと、みんなで、踊りたい……」
「じゃあ、悩むことなんてないじゃない。音兎ちゃんを取り戻せばいいだけ」
「でも、上手くいかなかった時は?」
「その時は、その時だ」
私の台詞ではありません。男性の、ぶっきらぼうな、よく聞き慣れた声。
「うっそ! いつからそこに!?」
そうです、全身が真っ黒な男、つまりはハル。なんと、私達の斜め横に平然と座っているじゃありませんか。
「まさか……盗み聞きしてたの?」
「人聞きの悪い。聞かされたんだ」
「……どこから聞いてた?」
「最初から」
「ちょっと、もう信じらんない! いったいどういう心境で聞いてたのよ!」
「問題を解決したいのは、俺も同じだ」
そう言ってハルは紙袋から二つ、大福を取り出しました。マスカットの大福のようです。それも美味しそう。もう一つは私にくれるのかな。
「知り合いの刑事に事情を話したら、個人的に捜査を引き受けてくれることになった。これからそいつの所へ行く」
「へえ、刑事さんが協力してくれるんだ」
とっても心強い。ハルはハルで、ちゃんと動いてくれていたようです。
「でも、そうなると……私のじゃないのね」
「何の話だ?」
猫が好んで通りそうな細道の片側に、重ならないようにして四角い看板が顔を出しています。先斗町ですら白旗をあげるくらいの窮屈さで、勢いよく店から飛び出せば壁に激突できるでしょう。二人並んで歩くのもギリギリなのに、反対側は四条通と繋がっていまして、お昼時のせいか、若いカップルがこちらに向かってきました。私達は一列になり、すれ違いざまに「舞妓さんかな」「まさか。料亭の人でしょ」という声がして。
「変な場所どっしゃろ」
鈴夜ちゃんは自虐気味に微笑みました。
細道を抜けると富永町通に出ます。ここでも和風の料亭より雑居ビルが集合しているイメージで、所々に古めかしい木造家屋が姿を現すのですが、比率的には圧倒的に負けています。
「北側に花街があるって、知りはらへん人も多いんどす。南の方は観光客がようけいはりますけど」
「だよねぇ。私も知らなかった。寂しかったりする?」
「そうどすなぁ。でも、悪いことばかりやないんどす。静かやからこそ、常連さんとのんびりできますし。通な人に贔屓にしてもろてますし、移動が楽なんどす。あっちやと、引っ張られるんどす」
「あ、なるほどね」
観光客や、外国の方が増えたのは喜ばしいのですが、マナーを理解していない人もいて、アミューズメント施設のマスコットキャラだと勘違いしているケースもあるのですって。
仮にマスコットキャラだとしても、引っ張るのはダメなんですけど。
富永町通から、さっき私が通った歓亀稲荷神社への石畳を進むと、道が交わる先に和菓子屋さんがありました。
「さっき、気になってたんだよね~」
明らかに美味しそうな外観です。せっかくだから、何か買いたい。
「フルーツの大福が有名なんどす」
鈴夜ちゃんが教えてくれました。彼女にとっては生活圏内ですから、常連なのでしょう。
「私は蜜柑の大福が大好きで、いつもイチゴ大福とセットで――」
ここで鈴夜ちゃんはハッとした表情を浮かべて、石畳に視線を落としました。踊りの稽古を終えて、大福を買って帰る二人が情景となり、辺りの景観と混ざりました。それならば私が三人分を買ってあげようと、意気揚々と店に入って注文を告げます。
「キウイの大福と蜜柑に、イチゴ大福を」
和菓子屋さんの隣には、カフェの入り口と思わしき格子戸の玄関があるのですが、ここは『ぎおん楽宴小路』といって、ちょっとした休憩スペースになっています。
初見だと、入りづらいので穴場なのです。
小路を抜けると、ポッカリと開いた四角いスペースに、こじんまりとした日本庭園が現れます。腰の高さくらいの石壁が水を囲み、傍には茶色の火の見櫓が建っています。櫓の下は四人ほどが座れる茶室になっていて、外側に木製のベンチが配置されています。鈴夜ちゃんがベンチに腰かけると、私も隣に座って、膝に大福を乗せて、二人の間に緑茶のペットボトルを置きました。
「祇園東って、こういう場所。他の花街に比べたら、華やかさはないかもしれませんが……ささやかに時代に抵抗している感じがして」
「自分から祇園東を希望したの?」
「祇園をどりが、きっかけどしたから」
京都の秋を彩る『祇園をどり』。桜が舞う春に催し物が多い花街にあって、唯一、カエデの紅葉と共に踊ります。
「三年前に、祇園会館で見ました。綺麗やなぁって、私も舞妓さんになりたいと思って感動していたら、隣で肩を震わせている子がいて――それが鈴月ちゃんやったんどす」
「凄い偶然だね」
「ほんま、えらい奇遇で。その日、二人で意気投合して、そのままお茶屋組合の門を叩きました」
「決断力が凄い! その頃って……まだ十二、三歳ぐらいだよね?」
「勢いだけでやらしてもらってますから……でも、厳しい世界やさかい、勢いだけやとあきまへんって言われました。年齢とかの条件もよう知らんかったから、中学を卒業してから改めて、親御さんと一緒に来てくださいって。だから祇園東以外に花街があることも知らへんかったんどす。でも、やっぱりここで良かったと思うとります」
「二人で同じ日に志願して、同じ置屋に……そういうことってあるの?」
「さあ……紹介されたんが鈴屋の母さんのところで、長年、舞妓がおらへんかったから、それじゃあ二人で入りましょかって」
鈴夜ちゃんは目の前にある店の入り口を見つめて、それからお茶のペットボトルを両手でギュッと握りました。力強く引いた両眉に、あどけなさが残る頬が丸みを帯びています。
「だからこそ、続けられました」
彼女の横顔に映る瞳は、情熱と、疲労と、相反する感情を秘めて、まるで蝋燭の火が消えそうな、それがまた、ポッと燃えるような。
「華やかなことばっかりや、ないんどす。辛いこともようけあって、どちらかといえば、辛いことの方が多いかもしれません」
「舞妓になる前に、諦める子もいるって聞くもんね」
「何が辛いって、何もできへんっていう事実を突きつけられるのが辛いんどす。賑やかなようで、実際は孤独なんどす。見習いで入って、姐さん達に気を遣われながら、失敗ばっかりして……母さん達に世話になっているという自覚が、そのうち恐怖に変わるんどす。言ってみれば、こっちは捨て身やさかいに、それでもリタイヤできて帰る故郷があるだけマシかもしれませんけど、でも、帰れるっていう事実が、よけいに弱気にさせるんどす。休暇なんかで故郷に帰ったら、もう京都に行きたないって、顔を出さなくなった同期もおりました。ああ、あの子、辞めはったんやなって」
仕込みさん時代は短くはありませんが、決して長過ぎるわけでもありません。平均にして一年間。この期間を乗り越えれば舞妓になれる可能性は高いのに、それでも心が折れてしまうのは、若さと――
「将来への不安、なのかな」
「……そうどすね。高校に入った友達と久しぶりに会うたら、向こうからは羨ましいって言われますけど、ウチからしたら、むしろ普通の方が特別な気がして……舞妓の衣装を着てみたいって言いますけど、ウチは、制服が着たくなって……ないものねだりなんどすかね。それでも続けるのは、あの日の、憧れが強烈に胸に残っているから」
「音兎ちゃんも、同じだった?」
「入ったばかりの頃は、ここで、二人で、よう泣きながら、愚痴りました」
私と目を合わせて、照れ臭そうに笑いました。
「二人で舞妓になろうねって。絶対辞めへんでおこうねって。どちらかが辞めたくなった時は、もう一人が背中をさすって、励まして……でも、段々と、辞めたいって思わなくなったんどす。だって、何もできへんのが二人おったから。いつも二人で一緒やったから……悩みは半分、楽しさは二倍で……母さんも、昔は厳しくしてはったらしいんどすけど、ウチらが最後の希望やからって、言い方は変わらずきついどすけど、たまにこっちが気を遣うくらいに、気を回しはって」
「最後の、希望」
私は、置屋の和室を思い出しました。
「……母さんね、もう畳むつもりやったんどす」
「……そうだねよ、そういう雰囲気、してたから」
「長らく引退を留めてたんは、鈴華姐さんなんどす。次の舞妓が来るまで、芸妓を続けるからって母さんを説得して、だからウチらが入って、やっと下が来て嬉しかったって言うてくれはりました。鈴華姐さんったら、芸妓の時は慎ましくしてはりますけど、本当は豪快な人で、『あんたらが立派な舞妓になるまで、私が鍛えたるわ!』なんて酒に酔いながら……それで、縁談、断りはったって噂で聞いた時、本当にビックリしました」
京都の慣習らしいのです。舞妓さんは二十歳まで。芸妓さんは自ら引退するか、結婚するまで。
「姐さんには三十路になる前に結婚しよかって、以前から懇意にしてた人に言われて、でも、姐さんが結婚したら舞妓を引く芸妓が同じ屋形でおらへんくなるからって、あの子らを見届けるまでは私は結婚せえへんって、いったんは断ったんどす。そしたら、いつまで待てばいいか分からんからって、結婚話そのものまで消えてしもうて……たったの二、三年も待てへん男なんか知らんって、こっちから願い下げやって別れたんどすけど……姐さん、独りで泣いてはって……」
鈴夜ちゃんは両目の下に、涙を溜めていました。
「ウチね、ウチ……正直、鈴月ちゃんが辞めるってなって、ウチも辞めようかと思ったんどす」
「そんな……だってさっきは、辞める気はないって」
「仕事とか、舞妓修行とか、そういうのが嫌なんやなくて、別のことで心が折れてしもうて……ウチらは芸名も二人で一緒なんどす。片方が欠けたら、どちらも存在できません。夜は月がなかったら真っ暗で、月は夜がないと輝けない。二人で舞妓になるって決めて走ってきたから、鈴月ちゃんが舞妓になられへんのやったら……でも」
鈴月ちゃんは鼻をすすりながら、頬に流れる涙を、交互に、両手の甲で拭いました。
「とても言われへん、辞めるなんて、とても言われへん。母さんが、姐さんが……あんなに頑張って……それを……ウチ、鈴月ちゃんの気持ち、よう分かります。鈴屋を残したいから、母さんと姐さんの想いに応えようと、存続させたいって、だから身を引こうとしたんどす。ウチが残ってたら三人でやっていけるって、手紙にそう書いてありました……だけど、一緒にやるって……言ったやん……辞める時も一緒やって……言ったもん……ウチだけを残して、鈴月ちゃんが舞妓をできへん狭い世界なんて、ウチかて嫌や。それでもう分からんくなって、だけど、やっぱり、母さん達に、言われへんかった……」
「似ているね、二人とも」
気を強く持とうと振る舞っていても、まだ十六歳。今まで吐き出していた弱音を口にできなくなって、溜め込んで、少し突いただけで割れそうな感情の風船は、ここで破裂してしまって。
「悩み方も一緒。自分のことより、他の人のことで悩んで、それでぐちゃぐちゃになっちゃって――でもね、自分に遠慮することが自分自身にも、他の人にとっても、良い結果になるとは限らないの」
キウイの大福を先に食べて。
蜜柑の大福を渡します。
「貫こうよ。やりたいように、真っ直ぐに。やりたきゃ、やる。食べたきゃ、食べる」
「やりたい……ように?」
「本当の望みは何か、もう一度、考えてみればいいの。私もね、迷ったりすること、結構あるよ? でも、よくよく考えてみれば……悩ませているのって遠慮なのかなって。自分に嘘を付くから、もう一人の私が泣いているんだって。鈴夜ちゃんの本当の願いは何?」
「ウチは……二人で舞妓になって……姐さんと、みんなで、踊りたい……」
「じゃあ、悩むことなんてないじゃない。音兎ちゃんを取り戻せばいいだけ」
「でも、上手くいかなかった時は?」
「その時は、その時だ」
私の台詞ではありません。男性の、ぶっきらぼうな、よく聞き慣れた声。
「うっそ! いつからそこに!?」
そうです、全身が真っ黒な男、つまりはハル。なんと、私達の斜め横に平然と座っているじゃありませんか。
「まさか……盗み聞きしてたの?」
「人聞きの悪い。聞かされたんだ」
「……どこから聞いてた?」
「最初から」
「ちょっと、もう信じらんない! いったいどういう心境で聞いてたのよ!」
「問題を解決したいのは、俺も同じだ」
そう言ってハルは紙袋から二つ、大福を取り出しました。マスカットの大福のようです。それも美味しそう。もう一つは私にくれるのかな。
「知り合いの刑事に事情を話したら、個人的に捜査を引き受けてくれることになった。これからそいつの所へ行く」
「へえ、刑事さんが協力してくれるんだ」
とっても心強い。ハルはハルで、ちゃんと動いてくれていたようです。
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