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第二幕 あやかし兎の京都裏町、舞妓編 ~祇園に咲く真紅の紫陽花
7.清水の舞い(2)
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私達は一番前の席ですから眼前に清水の舞台があるのですが、観客席との通路の間を白い緞帳が仕切っていまして、緞帳の下が風でヒラヒラと揺れています。どうやって宙に緞帳を固定しているのかと見上げたら、鴉天狗と赤鼻天狗が左右から掴んで飛んでいます。
べべんと、三味線が縦に音を切りました。
緞帳の白に、黒い獣の形をした影絵が浮かびます。
幾つもの影が左右から中央に集まって、それらが和傘を模して歯車のようにクルクルと回り、舞台の奥から女性の透き通る歌声がこちらへと突き抜けます。桜の花びらが上から散って、ついに緞帳は空へと投げられたのです。
舞台の奥には、十人ばかりの黒い和風を着た地方さんが和楽器と共に正座していました。中央には一人の女性が背を向けて立っています。漆黒に灰色の混ざった髪を長く垂らし、白い彼岸花の簪を頭に添えて、梅をあしらった赤い羽織の肩には細長い太刀を鞘のまま担いでいます。あれは男性が着る肩衣でしょうか、江戸町のお侍さんのような羽織です。
静かに彼女がこちらへ振り向いたら、白黒模様の留袖を肩衣の内側に着ているのが分かりました。目力がとても強い女性で、日本人のようで、少し異国の血が入っているような、独特の妖艶さを醸し出しています。
間違いなく、彼女が阿国さんでしょう。
女性の優雅さと男性の力強さが融合していまして、黄昏が照らす清水の舞台に戦国を生き抜いた乙女が堂々と立っている。ただそれだけで、もう私達の意識を飲み込んでしまったのです。
「いずれも様、ご機嫌よろしゅうござりまする」
阿国さんが膝を突いて、深々と頭を垂れました。
「阿国歌舞伎の座長、出雲阿国にござりまする。子々孫々が知人も知人、ご愛顧の思し召しを下さる方々の顔ぶれが嬉しゅう匂いますが、どうやら表から来てくださった方もおりますようで――」
ここで、こちらへ視線を向けました。音兎ちゃんのことのようです。
「若い息吹を感じますと、水々しさを覚えるこの頃にございます。さて、本日は清水の舞台にて演目を披露させていただきますが、これは歌舞伎ではございません。芸妓の舞とも違いまして、歌舞伎と芸妓の舞いを合わせた、亜流、阿国の都をどり、とでも申しましょうか。令和の新芽、裏町祇園の奔放な若き舞妓達を皆様にお披露目すると共に、芸妓の神髄を心ゆくまで楽しんでいただきたく、何卒、今後のお力添えの程を、隅から隅まで、ずずずいっと、乞い願い、申し上げ奉りまする~」
歌舞伎はやらない、と言っていましたが、しっかりと歌舞伎風の口上を採用しています。
「さあ、固い挨拶はここいらで堪忍させてもらいます。何でしたら京言葉も、関西も、出雲も、江戸も、テキトーにしますさかい、皆さんも足を崩して頭も崩して、威勢も虚勢も作法も忘れてくださいな。そもそも作法なんて、私が一番、知らんのですわ。あの戦国の覇王、信長公を前にしても、当時は今みたいにスマホとかありませんやろ? 誰なんかよう知らんかったから、てっきり町人や思うて一緒に踊ってたら、皆で相撲にしよかって信長公がおっしゃっりはって、配下の者を適当に二三人、土に転がしてやったら、『意気や良し、誠、強き男よ』って言いはりました。私は男ちゃうって、何なら証拠に膨らんだ胸を見せましょかって言うたら、私んとこの弟子が『姐さん、たいして胸あらへんのに、証拠になりませんわ』とか言うたんですよ」
ドッと笑いが起きます。
おおっと、何故でしょう。私だけが、苦笑い。
「さて、前置きはここまでにして、夕暮れに沈むお天道様に変わりまして、私共が、京都裏町を照らす曙光となりましょうや。さあ、どうぞご覧あれ――都をどりは~!」
――ヨーイヤーサァー!
阿国さんの掛け声と共に舞台の左右から一列に、舞妓さん達が柳と桜の団扇を掲げながら、しずしずと入ってきました。青い生地に花柄の、丈の長い裾引きを着ています。裏町の舞妓さんですから全員がアヤカシで、濡れ女子に、緑の帽子を被ったカッパちゃんに、アメフラシに、花子さんって……トイレの幽霊でしょうか?
地方さん達の唄声に乗せて三味線に太鼓や笛の打音が混ざると、可愛いアヤカシの舞妓さん達が優雅に団扇を散らつかせて、素敵に踊り始めました。
――よい、よい!
時折、ドンドンと片足で木の床を鳴らしながら、所作を見事にシンクロさせています。
「音兎ちゃん、これって?」
「はい。祇園甲部の『都をどり』どすえ」
音兎ちゃんの所属は祇園東ですが、他流派の踊りも知っているようです。阿国さんの「自由にやる」との宣言通り、実際の『都をどり』とは演目の順番が違うようで、さらには歌舞伎らしく『ツケ木』をタタンと叩いたりもして、演出が派手になっています。
「あ、高千穂」
紅白の振袖を着た高千穂が、清水の舞台の中央に現れました。憂いた表情で扇子と刀を漂わせる高千穂が、いつも見ているはずなのに、とっても素敵。
「さすが、お綺麗どすな。高千穂姐さん、阿国はん役にピッタリどす」
「阿国さん? 高千穂が?」
「これは『四条河原・阿国舞』どす。阿国はんの夫である山三郎はんの霊と再会して、再び別れるという切ないストーリーなんどすえ。山三郎はんは男装が通例どすから、おそらく、阿国はんが夫をやりはるのかと」
「高千穂が阿国役で、阿国さんは夫役なんだ。ややこしい」
音兎ちゃんの説明通り、青い着物で男装した阿国さんが空から颯爽と降りてきました。目力の強い方ですから男性役もハマっています。今生で再会した二人は、嬉しい感情を祝いの舞いで表現しています。
――山三は後ろを、振り返り、振り返り~。
最後は物寂しい雰囲気になって、まるで織姫と彦星のように手と手が遠くへ離れてゆきます。ここで切ない別れになるのかと思われましたが――
「ここは裏町、常世も幽世も同じやさかい! 幽霊でも一緒に暮らしたらよろし!」
あれれ、別れるどころか再びくっ付いて、テンションがさらに極まります。笛や太鼓が激しくなり、セリ木がバンバンに叩かれて、両側から歌舞伎の連獅子が赤髪と白髪をグルグルと派手に回して、春が終わってもシフトに空きがないといつも嘆いている花咲か爺さんが空に桜の灰を散らしました。
「大覚寺の桜比ならぬ、裏清水の桜比ですわ! そ~れっ!」
阿国さんが男装を手品のようにバッと解いて平安の十二単に衣替えすると、「あ~それっ! それっ!」と地方さんたちが合いの手で合唱し、ぶわっと風が下から大きく吹き上がりました。
清水の舞台の屋根がドーム球場のように開きます。
私達は座布団をお尻にくっ付けたまま、なんと、夕日が陰る空へと放り出されたのです。
「あわわわわ、何どすか!?」
状況が飲み込めない私と音兎ちゃんは慌てふためきましたが、他のアヤカシ達は待ってましたと諸手を挙げて、愉快に大声を張り上げながら手拍子で囃し立てます。
――あ~、それっ!
桜吹雪にアヤカシの渦が空に舞う。
せり出した清水の舞台ごと空へと飛んで、その周りを観客達が回っているのです。まるで遊園地にある魔法の絨毯のアトラクションに乗っているみたい。
「これは、阿国はんの妖術どっしゃろか?」
「そんなはずは……あっ、あそこ!」
強力な風の正体が分かりました。清水の舞台から少し離れた空に、黄色い雲。大きな緑色の羽をバサバサと振っているのは孫悟空でした。
「芭蕉扇だ!」
一生懸命に芭蕉扇を振っている孫悟空の隣では本来の持ち主である羅刹女が、頑張ってね、と他人事のように応援しています。
「さあ、皆さん! もっと愉快に舞いさらし!」
阿国さんを中心とした台風はさらに激しくなって、私達は清水寺の上空を回りながら踊りを鑑賞するのです。地面に落ちる心配はきっとない、と分かればとっても楽しくなって、思わず笑みがこぼれました。
「さあ、皆さん、ご一緒に! あ~それそれ!」
――あ~、それっそれっ!
「夢にうつつに、妄想、戯言。言えば勝ちやし、言わぬは負けよ! 乙女は美し、花いちもんめ」
――あ~、それっそれっ!
「三歩進んで、五歩下がる。そしたらどうでも良くなりますわ。漢は豪気に、花いちもんめ!」
――あ~、それっそれっ!
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。輪廻転生、永劫回帰、理屈はトンチでアンポンタン。梅にしようか、桜にしよか、好きに選べばよろしおす。ここは日の本、大和魂。人間、アヤカシ、手を取り合って、京都の空へと踊りなんせ!」
「めっちゃ楽しおす~!」
私も音兎ちゃんも、他のアヤカシ達も、両手を叩きながら、それぞれが思い思いに自由に空で踊りました。今までに体験した、どんなアトラクションよりも気持ちがいい。ずっと空中遊泳に身を任せていたかったのですが、孫悟空がもうダメだとバッタリとへばると、風の渦が徐々に弱まって、舞妓さん達がバッと空へ扇子を投げたのを合図に、私達は清水の舞台へと再び舞い戻ったのです。
座席に着地すると、遅れて、エアバッグのように膨らんだ紫色の座布団が頭にボフンと当たります。
「みなさん、へたばらはったら、少し休んでおくれやす。最後は、真面目に締めますさかい、観覧しとくれやす」
阿国さんが微笑むと、汗に興奮の吐息を交えていた観客達は呼吸を整えて、また、芸術を堪能する雰囲気へと落ち着きました。阿国さんと高千穂が前に出て、周りを舞妓さん達が囲みます。全員が背中を向けて、それから一斉に振り向きました。
月はおぼろに 東山
かすむ夜毎 かがり火に
夢もいざよう 紅桜
袖を胸の上で垂らしながら全員が揃って、伝統舞踊を華麗に表現していました。
「これは……『都をどり』と違う」
隣に座っている音兎ちゃんの手が動いています。どうやら袖だけで小さく踊っているようです。遠慮がちに、それでいて、もう我慢ができないと。
「祇園東小唄……秋の『祇園をどり』でやるからって、ずっと練習してきました。何度も、何度も……夢でも踊れるくらいに、何度も、何度も」
真正面にいる高千穂の踊りは、音兎ちゃんに訴えかけるように、ゆったりと、暮れの陰りに輝いていました。他の舞妓さん達も、舞台を斜め下から照らすスポットライトを浴びて、自信に満ちた、誇らしい顔を映しているのです。
「ほんま……綺麗どすなぁ……美しおすなぁ……こんなん見たら、こんなん、見せられたら」
音兎ちゃんが羨望の眼差しで舞台を見つめながら、肩を震わせて、それから、静かに、ポロポロと涙をこぼしました。頬から垂れた雫が清水の床板に染みて、じわっと雨粒のように広がります。
かくす涙の口紅も
燃えて身を焼く大文字
祇園恋しや だらりの帯よ
「薫はん……ウチ、もう分からへん……ウチ、どないしたらええんどすか?」
くしゃくしゃになった泣き顔をこちらに見せる音兎ちゃんに、私は両手を伸ばすと、そっと、胸に抱き寄せました。
「続ければ、いいと思うよ。やりたいのなら、舞妓を続ければいいと思う」
「でも……ウチ、どうしようもあらへん。それに、そんな我儘を言ったら、みんなに迷惑、かけてしまうんどす」
「迷惑だなんて、誰か言ったの?」
「……ううん、言葉には、しはらへんけど……でも……」
「続けて欲しいに決まっているよ、置屋のみんなも、裏町の芸妓も、舞妓さん達も。音兎ちゃんにね、続けて欲しいの。それは私も、一緒だから」
高千穂の方へ視線を移すと、互いに目配せをして、ニッコリと微笑みました。
「音兎ちゃん、もう一回、言ってごらん? 本当の願いを、言ってごらん?」
「……薫はん……ウチ……ウチ……」
音兎ちゃんが強く抱き着いて、それから顔を少し離して、私を見つめました。
「……本当は、辞めとうない……ウチ、舞妓、辞めとうない……続けたい……踊りたい……」
彼女の決意の言葉を聞いて、私はぺったりと垂れた兎の耳を右手でそっと、撫でました。
あの、紅い紐を思い出しました。
玉手箱に閉じ込められていた、縁結びのご利益があるとされる――バッグから一本だけ取り出したら、紐は蝶に代わって、虹色の帯を宙に舞わせて、音兎ちゃんのツインテールを括る大きなリボンに止まりました。
「じゃあ、ここからが本当の案内だね」
彼女の髪に結んであげます。
「必ず音兎ちゃんを、晴れ舞台に立たせてあげる」
祇園恋しや だらりの帯よ。
沈んだ夕日が朝日となって昇るように、彼女の夢もまた、山裾から昇る日が来るのですから。
べべんと、三味線が縦に音を切りました。
緞帳の白に、黒い獣の形をした影絵が浮かびます。
幾つもの影が左右から中央に集まって、それらが和傘を模して歯車のようにクルクルと回り、舞台の奥から女性の透き通る歌声がこちらへと突き抜けます。桜の花びらが上から散って、ついに緞帳は空へと投げられたのです。
舞台の奥には、十人ばかりの黒い和風を着た地方さんが和楽器と共に正座していました。中央には一人の女性が背を向けて立っています。漆黒に灰色の混ざった髪を長く垂らし、白い彼岸花の簪を頭に添えて、梅をあしらった赤い羽織の肩には細長い太刀を鞘のまま担いでいます。あれは男性が着る肩衣でしょうか、江戸町のお侍さんのような羽織です。
静かに彼女がこちらへ振り向いたら、白黒模様の留袖を肩衣の内側に着ているのが分かりました。目力がとても強い女性で、日本人のようで、少し異国の血が入っているような、独特の妖艶さを醸し出しています。
間違いなく、彼女が阿国さんでしょう。
女性の優雅さと男性の力強さが融合していまして、黄昏が照らす清水の舞台に戦国を生き抜いた乙女が堂々と立っている。ただそれだけで、もう私達の意識を飲み込んでしまったのです。
「いずれも様、ご機嫌よろしゅうござりまする」
阿国さんが膝を突いて、深々と頭を垂れました。
「阿国歌舞伎の座長、出雲阿国にござりまする。子々孫々が知人も知人、ご愛顧の思し召しを下さる方々の顔ぶれが嬉しゅう匂いますが、どうやら表から来てくださった方もおりますようで――」
ここで、こちらへ視線を向けました。音兎ちゃんのことのようです。
「若い息吹を感じますと、水々しさを覚えるこの頃にございます。さて、本日は清水の舞台にて演目を披露させていただきますが、これは歌舞伎ではございません。芸妓の舞とも違いまして、歌舞伎と芸妓の舞いを合わせた、亜流、阿国の都をどり、とでも申しましょうか。令和の新芽、裏町祇園の奔放な若き舞妓達を皆様にお披露目すると共に、芸妓の神髄を心ゆくまで楽しんでいただきたく、何卒、今後のお力添えの程を、隅から隅まで、ずずずいっと、乞い願い、申し上げ奉りまする~」
歌舞伎はやらない、と言っていましたが、しっかりと歌舞伎風の口上を採用しています。
「さあ、固い挨拶はここいらで堪忍させてもらいます。何でしたら京言葉も、関西も、出雲も、江戸も、テキトーにしますさかい、皆さんも足を崩して頭も崩して、威勢も虚勢も作法も忘れてくださいな。そもそも作法なんて、私が一番、知らんのですわ。あの戦国の覇王、信長公を前にしても、当時は今みたいにスマホとかありませんやろ? 誰なんかよう知らんかったから、てっきり町人や思うて一緒に踊ってたら、皆で相撲にしよかって信長公がおっしゃっりはって、配下の者を適当に二三人、土に転がしてやったら、『意気や良し、誠、強き男よ』って言いはりました。私は男ちゃうって、何なら証拠に膨らんだ胸を見せましょかって言うたら、私んとこの弟子が『姐さん、たいして胸あらへんのに、証拠になりませんわ』とか言うたんですよ」
ドッと笑いが起きます。
おおっと、何故でしょう。私だけが、苦笑い。
「さて、前置きはここまでにして、夕暮れに沈むお天道様に変わりまして、私共が、京都裏町を照らす曙光となりましょうや。さあ、どうぞご覧あれ――都をどりは~!」
――ヨーイヤーサァー!
阿国さんの掛け声と共に舞台の左右から一列に、舞妓さん達が柳と桜の団扇を掲げながら、しずしずと入ってきました。青い生地に花柄の、丈の長い裾引きを着ています。裏町の舞妓さんですから全員がアヤカシで、濡れ女子に、緑の帽子を被ったカッパちゃんに、アメフラシに、花子さんって……トイレの幽霊でしょうか?
地方さん達の唄声に乗せて三味線に太鼓や笛の打音が混ざると、可愛いアヤカシの舞妓さん達が優雅に団扇を散らつかせて、素敵に踊り始めました。
――よい、よい!
時折、ドンドンと片足で木の床を鳴らしながら、所作を見事にシンクロさせています。
「音兎ちゃん、これって?」
「はい。祇園甲部の『都をどり』どすえ」
音兎ちゃんの所属は祇園東ですが、他流派の踊りも知っているようです。阿国さんの「自由にやる」との宣言通り、実際の『都をどり』とは演目の順番が違うようで、さらには歌舞伎らしく『ツケ木』をタタンと叩いたりもして、演出が派手になっています。
「あ、高千穂」
紅白の振袖を着た高千穂が、清水の舞台の中央に現れました。憂いた表情で扇子と刀を漂わせる高千穂が、いつも見ているはずなのに、とっても素敵。
「さすが、お綺麗どすな。高千穂姐さん、阿国はん役にピッタリどす」
「阿国さん? 高千穂が?」
「これは『四条河原・阿国舞』どす。阿国はんの夫である山三郎はんの霊と再会して、再び別れるという切ないストーリーなんどすえ。山三郎はんは男装が通例どすから、おそらく、阿国はんが夫をやりはるのかと」
「高千穂が阿国役で、阿国さんは夫役なんだ。ややこしい」
音兎ちゃんの説明通り、青い着物で男装した阿国さんが空から颯爽と降りてきました。目力の強い方ですから男性役もハマっています。今生で再会した二人は、嬉しい感情を祝いの舞いで表現しています。
――山三は後ろを、振り返り、振り返り~。
最後は物寂しい雰囲気になって、まるで織姫と彦星のように手と手が遠くへ離れてゆきます。ここで切ない別れになるのかと思われましたが――
「ここは裏町、常世も幽世も同じやさかい! 幽霊でも一緒に暮らしたらよろし!」
あれれ、別れるどころか再びくっ付いて、テンションがさらに極まります。笛や太鼓が激しくなり、セリ木がバンバンに叩かれて、両側から歌舞伎の連獅子が赤髪と白髪をグルグルと派手に回して、春が終わってもシフトに空きがないといつも嘆いている花咲か爺さんが空に桜の灰を散らしました。
「大覚寺の桜比ならぬ、裏清水の桜比ですわ! そ~れっ!」
阿国さんが男装を手品のようにバッと解いて平安の十二単に衣替えすると、「あ~それっ! それっ!」と地方さんたちが合いの手で合唱し、ぶわっと風が下から大きく吹き上がりました。
清水の舞台の屋根がドーム球場のように開きます。
私達は座布団をお尻にくっ付けたまま、なんと、夕日が陰る空へと放り出されたのです。
「あわわわわ、何どすか!?」
状況が飲み込めない私と音兎ちゃんは慌てふためきましたが、他のアヤカシ達は待ってましたと諸手を挙げて、愉快に大声を張り上げながら手拍子で囃し立てます。
――あ~、それっ!
桜吹雪にアヤカシの渦が空に舞う。
せり出した清水の舞台ごと空へと飛んで、その周りを観客達が回っているのです。まるで遊園地にある魔法の絨毯のアトラクションに乗っているみたい。
「これは、阿国はんの妖術どっしゃろか?」
「そんなはずは……あっ、あそこ!」
強力な風の正体が分かりました。清水の舞台から少し離れた空に、黄色い雲。大きな緑色の羽をバサバサと振っているのは孫悟空でした。
「芭蕉扇だ!」
一生懸命に芭蕉扇を振っている孫悟空の隣では本来の持ち主である羅刹女が、頑張ってね、と他人事のように応援しています。
「さあ、皆さん! もっと愉快に舞いさらし!」
阿国さんを中心とした台風はさらに激しくなって、私達は清水寺の上空を回りながら踊りを鑑賞するのです。地面に落ちる心配はきっとない、と分かればとっても楽しくなって、思わず笑みがこぼれました。
「さあ、皆さん、ご一緒に! あ~それそれ!」
――あ~、それっそれっ!
「夢にうつつに、妄想、戯言。言えば勝ちやし、言わぬは負けよ! 乙女は美し、花いちもんめ」
――あ~、それっそれっ!
「三歩進んで、五歩下がる。そしたらどうでも良くなりますわ。漢は豪気に、花いちもんめ!」
――あ~、それっそれっ!
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。輪廻転生、永劫回帰、理屈はトンチでアンポンタン。梅にしようか、桜にしよか、好きに選べばよろしおす。ここは日の本、大和魂。人間、アヤカシ、手を取り合って、京都の空へと踊りなんせ!」
「めっちゃ楽しおす~!」
私も音兎ちゃんも、他のアヤカシ達も、両手を叩きながら、それぞれが思い思いに自由に空で踊りました。今までに体験した、どんなアトラクションよりも気持ちがいい。ずっと空中遊泳に身を任せていたかったのですが、孫悟空がもうダメだとバッタリとへばると、風の渦が徐々に弱まって、舞妓さん達がバッと空へ扇子を投げたのを合図に、私達は清水の舞台へと再び舞い戻ったのです。
座席に着地すると、遅れて、エアバッグのように膨らんだ紫色の座布団が頭にボフンと当たります。
「みなさん、へたばらはったら、少し休んでおくれやす。最後は、真面目に締めますさかい、観覧しとくれやす」
阿国さんが微笑むと、汗に興奮の吐息を交えていた観客達は呼吸を整えて、また、芸術を堪能する雰囲気へと落ち着きました。阿国さんと高千穂が前に出て、周りを舞妓さん達が囲みます。全員が背中を向けて、それから一斉に振り向きました。
月はおぼろに 東山
かすむ夜毎 かがり火に
夢もいざよう 紅桜
袖を胸の上で垂らしながら全員が揃って、伝統舞踊を華麗に表現していました。
「これは……『都をどり』と違う」
隣に座っている音兎ちゃんの手が動いています。どうやら袖だけで小さく踊っているようです。遠慮がちに、それでいて、もう我慢ができないと。
「祇園東小唄……秋の『祇園をどり』でやるからって、ずっと練習してきました。何度も、何度も……夢でも踊れるくらいに、何度も、何度も」
真正面にいる高千穂の踊りは、音兎ちゃんに訴えかけるように、ゆったりと、暮れの陰りに輝いていました。他の舞妓さん達も、舞台を斜め下から照らすスポットライトを浴びて、自信に満ちた、誇らしい顔を映しているのです。
「ほんま……綺麗どすなぁ……美しおすなぁ……こんなん見たら、こんなん、見せられたら」
音兎ちゃんが羨望の眼差しで舞台を見つめながら、肩を震わせて、それから、静かに、ポロポロと涙をこぼしました。頬から垂れた雫が清水の床板に染みて、じわっと雨粒のように広がります。
かくす涙の口紅も
燃えて身を焼く大文字
祇園恋しや だらりの帯よ
「薫はん……ウチ、もう分からへん……ウチ、どないしたらええんどすか?」
くしゃくしゃになった泣き顔をこちらに見せる音兎ちゃんに、私は両手を伸ばすと、そっと、胸に抱き寄せました。
「続ければ、いいと思うよ。やりたいのなら、舞妓を続ければいいと思う」
「でも……ウチ、どうしようもあらへん。それに、そんな我儘を言ったら、みんなに迷惑、かけてしまうんどす」
「迷惑だなんて、誰か言ったの?」
「……ううん、言葉には、しはらへんけど……でも……」
「続けて欲しいに決まっているよ、置屋のみんなも、裏町の芸妓も、舞妓さん達も。音兎ちゃんにね、続けて欲しいの。それは私も、一緒だから」
高千穂の方へ視線を移すと、互いに目配せをして、ニッコリと微笑みました。
「音兎ちゃん、もう一回、言ってごらん? 本当の願いを、言ってごらん?」
「……薫はん……ウチ……ウチ……」
音兎ちゃんが強く抱き着いて、それから顔を少し離して、私を見つめました。
「……本当は、辞めとうない……ウチ、舞妓、辞めとうない……続けたい……踊りたい……」
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あの、紅い紐を思い出しました。
玉手箱に閉じ込められていた、縁結びのご利益があるとされる――バッグから一本だけ取り出したら、紐は蝶に代わって、虹色の帯を宙に舞わせて、音兎ちゃんのツインテールを括る大きなリボンに止まりました。
「じゃあ、ここからが本当の案内だね」
彼女の髪に結んであげます。
「必ず音兎ちゃんを、晴れ舞台に立たせてあげる」
祇園恋しや だらりの帯よ。
沈んだ夕日が朝日となって昇るように、彼女の夢もまた、山裾から昇る日が来るのですから。
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