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1巻

1-2

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 幼馴染おさななじみですし、同じ京都に住んでいますし、それでいて互いにアヤカシですし、本来であれば月に一回くらいは会合しても良いのですが、ちょっと彼女の距離が近過ぎるというか、友人として親しくされているのか、はたまた同性なのに恋人として期待されているのか、段々と分からなくなってくるので、ついつい身の危険を感じて遠慮してしまうのでした。

「どうして土御門屋に来たん? 薫は人間社会に染まりたいって言うてたから、ここに用はないって思ってたわ。まさか、私を探して会いに来てくれたん?」
「違う」

 即座に否定。

「アヤカシ・チックな仕事を探したくて」
「え、商社は?」
「辞めちゃった。向いてなかったみたい」
「せやろね」

 サラッといわれます。当たっているけど、ちょっと酷い。

「とにかく裏町なら一風変わった仕事があるかもしれないかなって、それで久しぶりにお婆ちゃんに会って仕事を紹介してもらおうと。でもここの場所が分からなくてさ、偶然出会った猫ちゃんを追い掛けてたら着いたってわけ」
「ははあ、あの猫ちゃんか。晴明せいめいはんの子孫の飼い猫に狐が導かれるやなんて、奇妙な巡り合わせもあるもんやねぇ」

 高千穂は、ちらっと、奥のテーブルで背筋を伸ばして立っている黒猫を見ました。猫はもう、さっきまでのように光ってはいないみたい。
 猫の正面のソファには、何やら難しい顔をした男性が座っています。
 短い黒髪にスラっとした体型で、墨汁のような真っ黒な着流し。眼光は鋭く、横顔は男前。でも、優男の美男子というよりは男臭い硬派な感じ。
 彼の目線はテーブルの上に並べられた数枚の絵札の上に落ちていて、それらを投げたり、ひっくり返したりしていました。

「晴明さんの子孫? あの妖怪退治の安倍晴明あべのせいめいさんのこと?」

 私が尋ねました。

「そう。せやかて妖怪退治が本業やのうて、占術や学問で問題を解決するのが生業なりわいやったそうよ。それに、もう今は妖怪退治なんてしてないらしいから、別にそんなに警戒することはないんよ」

 この高千穂の発言を受けてか、男性は小さな声で、

「必要だったら今でも退治するが」

 素気なく言いました。
 それから目の前の猫をジロッと見ます。

豆大福まめだいふく、今晩は妙な客を連れて来たな。随分と人間臭いキツネだ」

 彼は猫に話しかけました。豆大福は名前でしょうか、にゃあ、と可愛く甘えています。

「そこの女狐めぎつねさん。名前は薫……だっけか。いつまでも突っ立っていないで、俺の前に座ってくれ」

 晴明さんの子孫とやらの男性は、テーブルをトントンと叩きました。
 どういうわけだか、私に用事があるらしいのですが。彼はずっと、テーブルの上の絵札を眺めたままなのです。一切、こちらに顔を向けていません。さらに初対面だというのに平気で呼び捨て。
 それでいて、私から来いと命令?
 なんなの、この人、失礼しちゃう!

「私はこの店のマスターにお話を伺いたいだけで、別に同じ客である、あなたに用はないんですけど」

 こう言い放ってやりました。

「アンタになくても、俺にはある」

 これが男の返し。

「ここに来たからには裏町に用があるんだろ? 裏町へ行くには案内人を通す必要がある」

 ここでやっと、彼は私の方を見ました。薄暗い店内で、彼の右目が青く光っています。

「俺が裏町の案内人。大した時間を掛ける気はないから、そんな膨れっ面をしていないで早く座ってくれないか」

 視線をこちらに向けたのは評価に値しますが、命令口調は訂正されていません。どうやら彼はこの店の関係者らしいのですが、それならば尚更、客に対しての命令口調とタメ口はいかがなものか。
 こうまで軽々に扱われて引き下がっては、狐の名折れ。
 これはもはや合戦です、ええ、絶対に負けませんとも。
 慇懃無礼な俺様男子の正面に、不服ながらも座ってやることにしました。
 ドカッとソファに腰かける私。
 侍の如く強気に敵を威圧したつもりが、思いのほかに皮のソファも反骨心をお持ちだったようで、深く沈めた私の体を勢いよく持ち上げて、軽く二、三回、バインと上下に跳ねました。
 いきなりこっ恥ずかしい。

「アンタ、俺が敵だと勘違いしていないか? 俺は確かに陰陽師の末裔だが、別にアヤカシの敵じゃない」

 眉間に皺を寄せている私の顔を見て、男が言いました。私としては陰陽師とアヤカシという間柄は別に気にしてはいなくて、私とあなたが不倶戴天ふぐたいてんの敵だと言いたいのです。

「俺は表と裏の仲介屋、裏町を案内するのも俺の役目。だから金を取るつもりはない。あくまでこれはボランティア活動……ただ、そうだな、そうは言ってもせめて一杯くらいは注文してくれ。メニューはそこにある」

 男は木製のメニュースタンドを顎でクイッと示しました。お酒を頼みなさい、とのことです。飲食店の暗黙の礼儀ですから、頼んで然るべきだと異論はありません。

「え~と、スコッチ、アイリッシュ、ジャパニーズ……」

 これはウイスキーの産地?
 あまりお酒に詳しくない私。憧れはあるものの、黒い帽子を深く被ってリボルバー片手に、「バーボンをロックで頼む」なんて言える程にハードボイルド世界に染まってはおらず。
 もう少し取っ付きやすいカクテル類はないのかな?

「マティーニ、マンハッタン、バラライカ……」

 う~ん、聞いたことあるような、ないような。有名なのでしょうが、少なくとも初心者が好んで飲むようなお酒ではなさそう。

「梅酒とかはないの?」

 お酒といえば梅酒、飲み会でもいつも梅酒を頼む私は、ここでも要求しました。

「日本酒や焼酎は裏だ」

 相変わらずのぶっきらぼう。ああそうですかと、黒いメニュー表をペラッとめくります。

「純米酒、麦焼酎、え~と、梅酒は……」

 梅酒を探している私の目に、妖怪酒、と書かれた欄が目に留まりました。白い血が垂れているかのような怪しいフォントの文字で名称が羅列されています。

百鬼夜行ひゃっきやこうに、九尾の狐、大雨降らしに、夜行灯よるあんどん? これは何? 面白そう」

 一度も聞いたことのない銘柄にテンションが上がります。別にお酒を趣味にしてはいないけど、こんな名前のお酒、ちょっと飲んでみたい。

「えっとね、九尾の狐が飲みたい」
「まんま、だな」

 冷静にツッコミを入れられましたが、別に構いません。むしろ私が狐であるからこそ、九尾の狐を飲んでみたいというのは自然な感情です。
 どんな味がするのだろうとワクワクしていたら、横目にチラッと赤い色が映りました。気になってテーブルの隅に視線を移すと、背の低いアクリルのメニュースタンドが私に向かってアピールしています。どうやらデザートのようで、手に取って確認しますと、期間限定のパフェ・千紅花火せんこうはなびと書いてありました。

「あ、パフェもあるの? イチゴとラズベリーなんだ。美味しそう」

 お酒と一緒にパフェを食べる。酒好きは甘党も兼ねる時代です。

「他にもパフェはないの?」
「デザートも載ってたろ、最後の方に」

 再びテンションを上昇させて、メニュー表をガバッとめくります。

「巨峰の黒真珠パフェ、金柑きんかんの黄金パフェ、宇治茶と紅茶とコーヒーの対決……あ~、金柑きんかんも食べたいけど、やっぱりここは期間限定かな」

 限定という響き、万人の弱点だと思います。

「じゃあ、九尾の狐と、千紅花火で」
「ええのん?」

 高千穂が私の隣に座りました。

「九尾の狐って薫のご先祖様の『玉藻前たまものまえ』はんが好んで飲んではったお酒なんよ。つまり相当、度数が強いけど、薫って私みたいにお酒につよないわよね? 梅酒にしとけば?」
「いいの、いいの。一杯くらい何てこたないわよ。ご先祖様が飲んでいたお酒なら、尚のこと子孫が飲むのは道理じゃない」
「薫がそう言うならええけどね。マスターはん、玉藻前はんのお酒、ストックあります?」
「勿論、ご用意してあります」

 髭のマスターは嬉しそうでした。滅多に出ない高価なお酒、ということで、酒を出す側としても冥利に尽きるのだそう。
 高価って、そういえば値段を……見ていなかった。
 改めて確認。
 一杯で五万円。
 口があんぐり。

「や、やっぱり止めようかな。だって一杯で五万も――」
「さあ、どうぞ。素晴らしいお酒でございますよ」

 時、既に遅し。
 咄嗟の制止も虚しく、既に目の前のグラスにお酒が注がれていました。もう後戻りはできません。
 九尾の狐が描かれたラベルの貼られた瓶からは、如何にも妖怪酒らしく、禍々まがまがしい白黒のオーラが放たれて――
 いましたが、注がれた液体の方は、まるで稲荷寿司いなりずし、ではなくて、黄金のように美しく輝いています。あまりの端麗さに思わず呼吸が止まって見惚れてしまう程。

「うわぁ、凄い。まるで宝石みたい」
「ホンマ、綺麗やわぁ。こんなん見てたら、私も飲みたくなってきたやないの。ねえマスターはん、蛇酒の青大将の瓶を開けてもらえます?」
「瓶、でございますか? 高千穂様は、今日はもう随分と飲まれていますが」
「構やしません。蒸留水みたいなもんですから」

 高千穂は並みならぬ酒豪です。
 以前、青鬼と飲み比べで対決したことがあるらしく、青鬼が酔って赤鬼になっている横で、彼女はその白い頬を一切赤らめもせず、その後も平然と飲み続けていたのだとか。
 高千穂が注文したお酒、透き通る淡緑色の瓶がテーブルに置かれると、続いて私のパフェが運ばれてきました。
 平たいカクテルグラスに、生クリームとチョコレートと、緑色のピスタチオクリームが層になって、その上のラズベリームースの水面みなもにはイチゴが円形に並んでいます。真ん中にルビー色のアイスの山があって、山頂に赤紫の花が咲いていました。この花が千紅花火というそうです。

「ほな、薫の出戻りを記念して――」

 強靭な肝臓を持つ高千穂は瓶のまま、私はグラスで乾杯です。
 まずはお酒から嗜みます。ご先祖様の愛したお酒とは如何なる味か。これは私のアヤカシ社会復帰への記念すべき、第一歩、ならぬ、第一杯目です。
 グラスから稲穂の香りが立ち昇り、口に含んだ瞬間、澄み渡る甘味かんみに声を一時いっとき、失います。
 酒場にいたはずなのに、私はいつの間にか、黄金の畑を眼前に広げていました。豊満に実った沢山の稲が風に揺れて、首を傾け、優しい陽光が暖かく包みます。私は畑の中を駆けて、両手に光る種を掴み、空に向けて放ちました。
 ふと我に返って、今度はテーブルのパフェを凝視しました。喉がゴクッと音を鳴らし、スプーンを手に取って、表面をさくっとすくいます。
 舌に乗せると、景観が昼から夜へと移り変わり、丸い月が姿を現しました。
 イチゴとアイスの甘さが広がって、ラズベリーの酸味が千紅花火の花弁に吸い込まれて、ひっそりと夜を彩ります。鳥になった私は羽を広げて、空へと羽ばたき、黄金の畑を見下していると、月が真横に追い掛けてきました。
 至福とは、まさにこのこと。
 この一瞬のために、私は今まで凄惨たる汗を流して、不条理な世を邁進してきたのではないでしょうか。

「ウットリ……」

 およそ口にしたことのない擬音を口にしました。



 上品な糖蜜を澄んだ岩清水で割ったような、舌に溶けて消えてなくなる微かな余韻を味わいながら、しばし、堪能していました。
 そうして我に返った時、目の前の三つのグラスには、何も残っていませんでした。
 三つ? 
 一つはお酒で、一つはパフェで、最後は梅酒のようですが、私ったらいつの間に梅酒を頼んだの?

「もういいか、随分と待ったぞ」

 短髪の男が不機嫌そうにしています。彼の前にも先程まではなかったはずの、二、三ばかりの空きグラスが置かれていました。なるほど、確かに彼は待っていたようです。

「狐と聞いた時点で疑ってはいたが、九尾の狐の子孫だったか。益々、ややこしくなってきた」

 彼はがらにもなく困っているようで、頭をポリポリと掻いていました。
 今夜会ったばかりなので、彼については何も知りません。柄にもなく、というのはよく見知った相手に使う表現ですが、彼はここ半刻程、ほとんど眉毛を動かさなかったのです。無表情というか、感情がないというか、目と鼻と口の全てが棒線で作られた真顔というか。
 そんな彼が、後頭部の髪をかいて唸っているのだから、柄にもなく困っている証拠でした。

「何がそんなに、まずいの? 私が九尾の狐の子孫であることが、そんなに良くないの?」 

 私の問いを聞いてか、聞かずか……
 彼は星座が描かれた札をテーブルの真ん中に置いて、そこに一枚一枚、大木やら湖やらの風景が描かれた絵札やら、牛やいぬの絵札やら、よくわからない三本線から成る図形の札なんかを、ぱしり、ぱしりと投げて重ねていました。

「何をしているの? その図形の札は?」
八卦はっけだ」

 そう教えてくれました。が、結局意味は分かりません。

六壬神課りくじんしんかを現代的に簡易化したものだ。アンタ、裏町には祖母に会いに来たんだろう?」
「え、どうしてそれを?」
「自分でさっき、言うとったやないの。お婆ちゃんに会いに来たって」

 高千穂は呆れた顔をしています。

「アンタの祖母は、玉藻三月たまものみつきさんだな」
「そうだけど……それも私、言ってたっけ?」
「それは言うてへんかったよ、名前までは」
「それくらいは分かるさ。俺の生業なりわいなんだから」

 彼は続いて、とらやらさるやらの絵を配置していました。

「屋敷の方角に受難の相が出ている。艮ノうしのとらの鬼門でもないのに感触が好ましくない。アンタが祖母に会いたいという願いが容易に叶わんと占術に出ている」
「へええ、そないなことが分かりはるんやなぁ」

 高千穂が感心しています。

「でも、私の時は占のうてくれへんかったやないの。どうして薫の時だけ占うん?」
「アンタは目的がなかったからだ。ただ裏町に酒を飲みに来ただけ。幼少期から表と裏を頻繁に行き来している者は、今更トラブルなんて起こさんだろうしな」

 つまり私はトラブルを起こすと見なされた、ということ。これでも一応、人間社会では常識人で通るように努めていたつもり、なんですけど。アヤカシ社会の新人である私は信用を一から再構築する必要があるみたい。

「それで、ど~して災難なの~」

 私の語尾が急に間延びします。あれれ、おかしいな。何だか頭もクラクラしてきました。無意識に首が左右にチッカチッカと、メトロノームのように揺れ動きます。

「思い当たる節はある。三月さんは裏町ではちょっとした有名人でな……俺は良い人だと思うんだが、快く思わない人もいて、今はそこへは行けなくなっている」
「どうして行けないの~?」
「封鎖されているから」
「へえぇ、それって工事中って意味?」
「違う、封印されている。結界によって屋敷へ通じる鳥居が閉ざされている」

 鳥居って、お婆ちゃんが住む裏伏見の――
 って、あらら?
 今度は世界がグルグルと回り始めました!
 部屋の中に渦巻きが発生しています、大変です、どうやら地球の磁場が狂っているようです!

「うふふふふ」

 世界の危機を前にして、何だか、可笑しくなってきました。

「おい、どうした?」
「結局、こうなってしもうたんね」

 高千穂が額に手をやります。

「この子、強くないんよ、お酒に。それでいて笑い上戸だったり、泣き上戸だったり、怒りん坊だったり、甘えん坊だったり、時々によって症状が変わるんです。きっと例のお酒が今頃効いてきたんやわ」
「えへへへ、大丈夫だって~、全然へっちゃらだしぃ~」

 湧き上がるハイテンションが、私の胸から飛び出そう!
 度胸が漲り、勇気が溢れ、武運長久を有した神色自若の若き乙女は、この先に待ち受ける数々の困難に立ち向かうのです!
 立ち塞がる厄災など、ヘの河童、ダイダラボッチが山を跨ぐように、毅然としたていで試練を乗り越えてみせるわ!

「さあ、アヤカシ、モノノケ、人間共、全部まとめてかかってらっしゃい! いこー、裏町へ! お婆ちゃんの家を目指してレッツゴー!」
「おいおい、だから封鎖されているって言ってるだろ」
「何よ、あなたは案内人なんでしょー! じゃあ、あなたが責任取って、その道を通れるようにしてよー。そうじゃなきゃ、そうじゃなきゃ、私、泣いてやるんだからー」
「そんな簡単な話じゃ……てか泣くなよ」
「うるさぁい、つべこべ言わずに、さっさと行くのー」

 強引に彼の袖を引っ張って、ずんずんと店の扉へと向かいまぁす。

「おい、そっちは入ってきた方だろ。裏町へは逆だ、後ろの扉だ」

 ほえ? あ、そうですか、そうですか。
 では、反対に向かえば、いいのれふねー。



 急に意識がハッキリとしてきました。どうやら私は私を取り戻したようです。
 ですが、どうにも気になることがあります。さっきからペラペラとした紙がチラチラと私の視界を遮っていまして、『決して剥がさないでください』こう書かれているらしく、酔いが醒める術札だそうで、まるでキョンシーのようにオデコに貼り付けられています。
 これじゃあまるで変人扱い。先程から高千穂がクスクス笑いっぱなし。こんなみっともない姿で往来に出ては、札を貼られて正気を保てているが故に、酔って麻痺するはずの羞恥心が容赦なく私に襲い掛かります。

「こんな札、今すぐ剥がしてよ。恥ずかしいじゃない」
「恥ずかしいのはさっきのような醜態だろう――おい、勝手に剥がすな」
「もう酔いなんて醒めたから平気……って、あらら?」

 左右の足が意思と反して逆に歩こうとします。左足は右へ、右足は左へ、つまり足が交差して、それだとコケルわけで。

「言わんこっちゃない、泥酔でいすい状態で歩くのは危険だ。ほら、これ喰え」
「え、何? む、むぐぐ……」

 床に倒れ込む私の口に、強制的に何かが放り込まれました。丸い塊が舌の上に乗っかります。さらに彼の右手で口を押えられて、無理やりごっくんさせられました。
 すぐさま、もの凄く苦い味が口内と喉元を占拠。

「うええっ! 何これ⁉ 変な物を勝手に口に入れないでよ!」
「酔い醒ましの薬丸だ。即効性がある」

 ……あら、本当。急に頭がスッキリ。

「そ、そんな便利な物があるなら――」

 有難い処置ではあるものの、では、あの恥ずかしい札は何だったのかと羞恥心が怒りに変わりました。

「あんな札じゃなくて、最初からコレをくれれば――」
「札は字を書くだけで済むからな。それに比べて薬丸はタダじゃない。仕入れに金がいる。だから料金は後で支払ってもらう」
「……いくら?」
「一粒、三千円」
「高っ!」

 ガックリと肩が落ちます。これで早くも五万三千円の出費。社会人だからといってホイホイ札束が去ってしまっては生活に支障をきたします。とはいえ、消費し終えたお金については諦めるしかなく。
 済んだことを気にしても仕方ありません。大行たいこう細謹さいきんかえりみず、と言うではありませんか。
 さあ、気を取り直して裏京都へと出発しましょう!
 どんな魅惑世界が私を待ち受けているのでしょうか。いわばアヤカシとして帰郷するだけですが、如何せん記憶が朧気おぼろげなものだから、胸中で煮えたぎる興奮は海外旅行前夜と大差なく。
 私は溢れんばかりの期待を引き連れて、『土御門屋』の裏口の取っ手を握りました。
 新たな門出への緊張の一瞬です。
 きっと扉の向こうで私を待っているのは、赫赫かっかくたる冀望きぼうなのです。
 ……前途は明朗の光ではなく、暗鬱あんうつなる多難のようでした。とても暗い部屋へと導かれまして。

「何処、ここ?」


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