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第百三十話『あたしたちは止まっている』
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「…………………千尋、コーヒーいつものでいいか? ちょうど今日はいい豆が入ったんだ、今まででもとびっきりの淹れたてをお届け――」
「お姉ちゃん、話を逸らしちゃダメだよ。……コーヒーは、その話の後か話しながらでも飲めるでしょ?」
露骨に話題を切り替えに来たお姉ちゃんの言葉を遮って、あたしはすかさず話を本筋に戻す。ここで流れを手放せばもう聞く機会がなくなってしまうんじゃないかと、あたしの本能がそう告げていた。
そんなあたしの言葉に、お姉ちゃんはまたしても目を見開く。……まるで、ひどいことを言われているみたいに。こんな弱気な表情を、あたしはしばらく見ていないような気がした。
「……だって、だって父さんの事なんて聞いても千尋にいいこと何もないぜ? あれはただ父さんが自分の身勝手で私たち全員をハチャメチャにしたってだけの出来事で、思い出してもただクソみたいな気分になるだけで、それが千尋ならなおさら――」
「分かってる。……お姉ちゃんがいじわるのために隠し事をしてるわけじゃないってのは、ちゃんと分かってるから」
何かに怯えるように声を震わせるお姉ちゃんに、あたしは意識的にゆっくりとした調子で語りかける。お姉ちゃんがあたしの傷つく様な事をするはずがないという信頼は、もう何があっても揺らがないぐらいにしっかりと構築されていた。
だから、悪いことをしてるのはあたしの方だ。お姉ちゃんが善意から隠していることを、あたしは今から全力で暴きに行く。その中にしか、紡君の思いに応えるための物は入っていないと信じて。
「……なんでだよ。やっぱりあの男の影響かよ。あの男が、千尋をそそのかして」
「違うよ、ここに来てることを紡君は知らない。……紡君の影響があることは間違いないけど、あたしは何一つ強制なんてされてないよ」
紡君は、あたしに何かを強制するという事をしない。『ああしてほしい』『こうしてほしい』とは言うけれど、『こうしろ』とは絶対に言わない。……お姉ちゃんと同じぐらい、紡君の事もあたしは信じている。
そう思える人が出来たからこそ、あたしは向き合いたいって思ったんだ。……お姉ちゃんが想像しているのとは、順序が全く逆なわけで。
「傷つかないとか、大丈夫だ……なんてことは言えないよ。あたしはあたしの記憶の中に何があるか知らないし、それがあたしのことを深く傷つけたのは間違いない。……小説が読めなくなっちゃうぐらい、深刻に」
「そうだよ、あの時は大変だったんだ。父さんはいなくなって、それで千尋はさらに傷ついて。母さんも不安定になって、家族がバラバラになって。……みんなみんな、傷つけられたんだよ」
あたしの言葉を肯定して、お姉ちゃんはだんだんと語気を強めていく。それがお姉ちゃんの抱えてきた痛みの表れなのは、何となく分かった。
紡君と出会っていろんな話を聞くようになってから、あたしは前よりも人の気持ちをよく見抜けるようになったような気がする。人の気持ちは言葉だけじゃなくて、全身のいろんなところに出る物だ。……時には、言葉以上に手足や表情が本当の事を教えてくれることだってある。
「私は、千尋だけには傷ついてほしくなかった。もう取り返しがつかない傷を負ってしまったから、もうこれ以上傷つく必要なんてないって思ってた。いや違うな、今も思ってる。私は出来ることなら、父さんの事なんか一つたりとも語りたくねえよ」
一つ思い出すたびに、あの時のクソみたいな気分が蘇って仕方がねえんだ。
そう付け加えて、お姉ちゃんは言葉にしがたい表情を浮かべる。そんな表情は見たことがないし、見せないようにとお姉ちゃんも意識し続けてきたんだろう。……今あたしの目の前にあるのは、お姉ちゃんがずっと抱えてきた痛みだ。あたしがその痛みを思い出すことのないようにずっと抱え込んできた、痛みだ。
「……ねえ、お姉ちゃん」
そのことに気づいて、あたしは自然とそう口にする。お姉ちゃんが渋ることは予測できたし、それに対してあたしは紡君の存在を理由に大丈夫だって言おうとした。……だけど、今脳に浮かんでいるのは全然違う理由だ。
「お姉ちゃん、あたしね、大きくなったの。高校生になって、勉強も頑張って。……その、大好きな彼氏もできて。あの小さい頃から、随分と大きくなった」
「そうだな、本当に立派に、可愛くなったよ。……だから、それを無に帰しかねないことをあたしは教えたくない」
「うん、お姉ちゃんがそう思ってることは分かったよ。……だけど、本当にそう思う?」
お姉ちゃんの答えを受けて、あたしは堂々とそう返す。その問いかけは、あたしのためにも、お姉ちゃんのためにも投げかけるべきものだ。少し厳しいかもしれないけれど、お姉ちゃんは傷つくかもしれないけれど、それでも。
「あたしはもうあの時の小学生じゃなくなって、いろんなことを知れるようになった。……それでもまだ、あたしはあの時のことを受け止められないと思うの? ……あたしって、お姉ちゃんから見てそんなに子供っぽく見えてるの……?」
――進んでるように見えて止まってしまっている、お姉ちゃんの時間も前へと進めるために。
「お姉ちゃん、話を逸らしちゃダメだよ。……コーヒーは、その話の後か話しながらでも飲めるでしょ?」
露骨に話題を切り替えに来たお姉ちゃんの言葉を遮って、あたしはすかさず話を本筋に戻す。ここで流れを手放せばもう聞く機会がなくなってしまうんじゃないかと、あたしの本能がそう告げていた。
そんなあたしの言葉に、お姉ちゃんはまたしても目を見開く。……まるで、ひどいことを言われているみたいに。こんな弱気な表情を、あたしはしばらく見ていないような気がした。
「……だって、だって父さんの事なんて聞いても千尋にいいこと何もないぜ? あれはただ父さんが自分の身勝手で私たち全員をハチャメチャにしたってだけの出来事で、思い出してもただクソみたいな気分になるだけで、それが千尋ならなおさら――」
「分かってる。……お姉ちゃんがいじわるのために隠し事をしてるわけじゃないってのは、ちゃんと分かってるから」
何かに怯えるように声を震わせるお姉ちゃんに、あたしは意識的にゆっくりとした調子で語りかける。お姉ちゃんがあたしの傷つく様な事をするはずがないという信頼は、もう何があっても揺らがないぐらいにしっかりと構築されていた。
だから、悪いことをしてるのはあたしの方だ。お姉ちゃんが善意から隠していることを、あたしは今から全力で暴きに行く。その中にしか、紡君の思いに応えるための物は入っていないと信じて。
「……なんでだよ。やっぱりあの男の影響かよ。あの男が、千尋をそそのかして」
「違うよ、ここに来てることを紡君は知らない。……紡君の影響があることは間違いないけど、あたしは何一つ強制なんてされてないよ」
紡君は、あたしに何かを強制するという事をしない。『ああしてほしい』『こうしてほしい』とは言うけれど、『こうしろ』とは絶対に言わない。……お姉ちゃんと同じぐらい、紡君の事もあたしは信じている。
そう思える人が出来たからこそ、あたしは向き合いたいって思ったんだ。……お姉ちゃんが想像しているのとは、順序が全く逆なわけで。
「傷つかないとか、大丈夫だ……なんてことは言えないよ。あたしはあたしの記憶の中に何があるか知らないし、それがあたしのことを深く傷つけたのは間違いない。……小説が読めなくなっちゃうぐらい、深刻に」
「そうだよ、あの時は大変だったんだ。父さんはいなくなって、それで千尋はさらに傷ついて。母さんも不安定になって、家族がバラバラになって。……みんなみんな、傷つけられたんだよ」
あたしの言葉を肯定して、お姉ちゃんはだんだんと語気を強めていく。それがお姉ちゃんの抱えてきた痛みの表れなのは、何となく分かった。
紡君と出会っていろんな話を聞くようになってから、あたしは前よりも人の気持ちをよく見抜けるようになったような気がする。人の気持ちは言葉だけじゃなくて、全身のいろんなところに出る物だ。……時には、言葉以上に手足や表情が本当の事を教えてくれることだってある。
「私は、千尋だけには傷ついてほしくなかった。もう取り返しがつかない傷を負ってしまったから、もうこれ以上傷つく必要なんてないって思ってた。いや違うな、今も思ってる。私は出来ることなら、父さんの事なんか一つたりとも語りたくねえよ」
一つ思い出すたびに、あの時のクソみたいな気分が蘇って仕方がねえんだ。
そう付け加えて、お姉ちゃんは言葉にしがたい表情を浮かべる。そんな表情は見たことがないし、見せないようにとお姉ちゃんも意識し続けてきたんだろう。……今あたしの目の前にあるのは、お姉ちゃんがずっと抱えてきた痛みだ。あたしがその痛みを思い出すことのないようにずっと抱え込んできた、痛みだ。
「……ねえ、お姉ちゃん」
そのことに気づいて、あたしは自然とそう口にする。お姉ちゃんが渋ることは予測できたし、それに対してあたしは紡君の存在を理由に大丈夫だって言おうとした。……だけど、今脳に浮かんでいるのは全然違う理由だ。
「お姉ちゃん、あたしね、大きくなったの。高校生になって、勉強も頑張って。……その、大好きな彼氏もできて。あの小さい頃から、随分と大きくなった」
「そうだな、本当に立派に、可愛くなったよ。……だから、それを無に帰しかねないことをあたしは教えたくない」
「うん、お姉ちゃんがそう思ってることは分かったよ。……だけど、本当にそう思う?」
お姉ちゃんの答えを受けて、あたしは堂々とそう返す。その問いかけは、あたしのためにも、お姉ちゃんのためにも投げかけるべきものだ。少し厳しいかもしれないけれど、お姉ちゃんは傷つくかもしれないけれど、それでも。
「あたしはもうあの時の小学生じゃなくなって、いろんなことを知れるようになった。……それでもまだ、あたしはあの時のことを受け止められないと思うの? ……あたしって、お姉ちゃんから見てそんなに子供っぽく見えてるの……?」
――進んでるように見えて止まってしまっている、お姉ちゃんの時間も前へと進めるために。
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