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第百十九話『千尋さんは受け止める』
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千尋さんの声は聞こえているはずなのに、言われたことの意味が僕の中に落ちてくるまでにとてつもない時間がかかる。三十秒ぐらい沈黙してから、僕はようやく千尋さんが何といったのかを把握することが出来た。
「……千尋さん、怒ってないの?」
「怒ってないよ、ただ心配だっただけ。セイちゃんって人を見た時の紡君の顔、今まで見たことない感じだったから。……嬉しいんだけどそれを素直に表に出せなくて、少し苦しそうだったというか」
「苦しそう……そうだったのかな」
セイちゃんが転校生として僕の目の前に現れた時、僕は一体どんな表情をしていたのだろう。言われてみればそれを知る方法はなくて、ただ唖然としていただけのような気もするしそうじゃないような気もする。……僕はあの時、セイちゃんを見て何を思っていたのだろう?
「紡君ね、多分自分で思ってる以上に感情が顔に出てるんだ。嬉しいときは嬉しいって顔してるし、申し訳ないって思ってるときは凄くシュンとしてる。……だからすぐにわかったよ、あの人も紡君にとっては特別な人なんだって。……多分あの子にとっても、紡君は特別な意味を持つ人なんだって」
穏やかな笑みを浮かべながら、千尋さんはちょっと自慢気にそう言って見せる。その推理は大正解で、それが今僕の直面している問題の一つでもあった。
「紡君が何を申し訳なく思ってるかまではあたしには分からないけど、寝てる間も苦しそうな表情を浮かべてたからさ。『あの子のことをお願いね』って、お母さまにも念を押されちゃった」
「……そんなに、だったんだ」
うなされていた記憶はあるけど、それが寝ている僕にも表れているとは思わなかった。というか、知らない間に母さんにも心配をかけちゃってたのか。……あとでお礼を言っとかないとな。
「うん、あたしにはすぐにわかったよ。……紡君が今体調を崩したのは、あの時の苦しそうな表情と無関係じゃないんだなって。いまの紡君の話を聞いて、その中身がよりはっきりしてきたの」
小さく胸を張りながら、千尋さんは堂々とそう宣言する。小説家でありながら言葉選びが稚拙だったのは反省点だが、それでも千尋さんにはちゃんと伝わっていたらしい。
「……紡君は、あたしの彼氏でしょ? あの海からそうやって名乗るようになったことをね、あたしは本当に嬉しく思ってたんだ」
「うん、やっと名乗っていいかなって思ったから。……名乗ったからには、それに恥じないような人間で居ようとも思ってた」
唐突に投げかけられた質問に、僕は正直な答えを返す。こうして口にすると少し気恥ずかしさもあるけれど、今更それが隠しておく理由になるとも思えなかった。
「千尋さんは、僕よりもずっとすごい人だから。だからいろいろ頑張って、千尋さんの隣に立てるように頑張りたいって思ってた。……それだけあれば、僕は大丈夫だと思ってたんだ」
人の心にはいくつかの支えがあると言うけれど、僕はその中でもかなり支えが少ない方だと思う。現状僕の支えだと言えるのは千尋さんの存在と小説だけだから、それがなくなったらいとも僕の心は簡単に瓦解することになるだろう。多分、本質的に人間としての強度が低いんだと思う。
「だから、僕は僕の持ってる全部を千尋さんのために使わないといけないって思ったんだ。……だけどそんな時、セイちゃんが帰ってきて」
「セイちゃんにどんな接し方をすればいいか分からなくて、それで今に至る――と。うん、実に紡君らしい悩み方だと思う。……だけど、あたしはそれをあまりいいことだとは思えないかな」
僕の説明の最後を引き継いで、千尋さんは少しだけ頬を膨らませる。……いままで優しく受け止めていた千尋さんが、初めて少しだけ説教モードに入った。
「あのね紡君、あたしは紡君のことが好きなの。紡君が思ってるよりずっとずっと、あたしは紡君と出会えてよかったって思ってる。そしてそれはね、紡君のダメなところも含めてそう思ってるんだよ?」
「ダメな、ところも」
「うん。自分への評価がいつも低くなりがちなところとか、忘れられたり人が変わっていくのが怖かったりとか、あれこれ考えすぎちゃうところとか。そういうちょっと弱いところも含めて、あたしは紡君のことを好きになったの。……だから、隠そうなんてしなくていいんだよ。あたしにとっての『理想の彼氏』ってのがいるんだとしたら、それは紡君の事だもん」
――だからね、無理に背伸びしようだなんて考えなくてもいいんだよ。
僕の手を優しく取って、千尋さんは笑う。……僕が思っていたよりもさらに何倍も、千尋さんの懐は広かった。嫉妬も心配も、全部僕のネガティブな考え方の産物だった。
「セイちゃんのこと、紡君は今でも大切な人だって思ってるんでしょ? なら、その想いを無理に捨てようとしなくていいの。何か手伝えることがあったら、あたしももちろん力を貸すから。……あたし、紡君の彼女だからね」
「……っ」
千尋さんが何気なく付け加えた最後の言葉に、僕の目の奥から熱いものがこみあげてくる。これは熱のせいとかじゃなくて、ただ感情があふれ出しているだけだ。――やっぱり僕は千尋さんのことが大好きなのだと、そんな気づきとともに流れた涙だ。
「ごめん……ありがとう、千尋さん」
「いいんだよ、あたしはこれまで何回も紡君に助けられてるから。……だから今度は、あたしが紡君のことを助ける番だ」
泣きじゃくりながらお礼を言う僕に、千尋さんは穏やかな口調でそう返す。それと一緒に伝わる頭を撫でられている感覚が、なんだか妙に懐かしくて。
――ここまで泣いたのはいつぶりだろうだなんて、ふと思った。
「……千尋さん、怒ってないの?」
「怒ってないよ、ただ心配だっただけ。セイちゃんって人を見た時の紡君の顔、今まで見たことない感じだったから。……嬉しいんだけどそれを素直に表に出せなくて、少し苦しそうだったというか」
「苦しそう……そうだったのかな」
セイちゃんが転校生として僕の目の前に現れた時、僕は一体どんな表情をしていたのだろう。言われてみればそれを知る方法はなくて、ただ唖然としていただけのような気もするしそうじゃないような気もする。……僕はあの時、セイちゃんを見て何を思っていたのだろう?
「紡君ね、多分自分で思ってる以上に感情が顔に出てるんだ。嬉しいときは嬉しいって顔してるし、申し訳ないって思ってるときは凄くシュンとしてる。……だからすぐにわかったよ、あの人も紡君にとっては特別な人なんだって。……多分あの子にとっても、紡君は特別な意味を持つ人なんだって」
穏やかな笑みを浮かべながら、千尋さんはちょっと自慢気にそう言って見せる。その推理は大正解で、それが今僕の直面している問題の一つでもあった。
「紡君が何を申し訳なく思ってるかまではあたしには分からないけど、寝てる間も苦しそうな表情を浮かべてたからさ。『あの子のことをお願いね』って、お母さまにも念を押されちゃった」
「……そんなに、だったんだ」
うなされていた記憶はあるけど、それが寝ている僕にも表れているとは思わなかった。というか、知らない間に母さんにも心配をかけちゃってたのか。……あとでお礼を言っとかないとな。
「うん、あたしにはすぐにわかったよ。……紡君が今体調を崩したのは、あの時の苦しそうな表情と無関係じゃないんだなって。いまの紡君の話を聞いて、その中身がよりはっきりしてきたの」
小さく胸を張りながら、千尋さんは堂々とそう宣言する。小説家でありながら言葉選びが稚拙だったのは反省点だが、それでも千尋さんにはちゃんと伝わっていたらしい。
「……紡君は、あたしの彼氏でしょ? あの海からそうやって名乗るようになったことをね、あたしは本当に嬉しく思ってたんだ」
「うん、やっと名乗っていいかなって思ったから。……名乗ったからには、それに恥じないような人間で居ようとも思ってた」
唐突に投げかけられた質問に、僕は正直な答えを返す。こうして口にすると少し気恥ずかしさもあるけれど、今更それが隠しておく理由になるとも思えなかった。
「千尋さんは、僕よりもずっとすごい人だから。だからいろいろ頑張って、千尋さんの隣に立てるように頑張りたいって思ってた。……それだけあれば、僕は大丈夫だと思ってたんだ」
人の心にはいくつかの支えがあると言うけれど、僕はその中でもかなり支えが少ない方だと思う。現状僕の支えだと言えるのは千尋さんの存在と小説だけだから、それがなくなったらいとも僕の心は簡単に瓦解することになるだろう。多分、本質的に人間としての強度が低いんだと思う。
「だから、僕は僕の持ってる全部を千尋さんのために使わないといけないって思ったんだ。……だけどそんな時、セイちゃんが帰ってきて」
「セイちゃんにどんな接し方をすればいいか分からなくて、それで今に至る――と。うん、実に紡君らしい悩み方だと思う。……だけど、あたしはそれをあまりいいことだとは思えないかな」
僕の説明の最後を引き継いで、千尋さんは少しだけ頬を膨らませる。……いままで優しく受け止めていた千尋さんが、初めて少しだけ説教モードに入った。
「あのね紡君、あたしは紡君のことが好きなの。紡君が思ってるよりずっとずっと、あたしは紡君と出会えてよかったって思ってる。そしてそれはね、紡君のダメなところも含めてそう思ってるんだよ?」
「ダメな、ところも」
「うん。自分への評価がいつも低くなりがちなところとか、忘れられたり人が変わっていくのが怖かったりとか、あれこれ考えすぎちゃうところとか。そういうちょっと弱いところも含めて、あたしは紡君のことを好きになったの。……だから、隠そうなんてしなくていいんだよ。あたしにとっての『理想の彼氏』ってのがいるんだとしたら、それは紡君の事だもん」
――だからね、無理に背伸びしようだなんて考えなくてもいいんだよ。
僕の手を優しく取って、千尋さんは笑う。……僕が思っていたよりもさらに何倍も、千尋さんの懐は広かった。嫉妬も心配も、全部僕のネガティブな考え方の産物だった。
「セイちゃんのこと、紡君は今でも大切な人だって思ってるんでしょ? なら、その想いを無理に捨てようとしなくていいの。何か手伝えることがあったら、あたしももちろん力を貸すから。……あたし、紡君の彼女だからね」
「……っ」
千尋さんが何気なく付け加えた最後の言葉に、僕の目の奥から熱いものがこみあげてくる。これは熱のせいとかじゃなくて、ただ感情があふれ出しているだけだ。――やっぱり僕は千尋さんのことが大好きなのだと、そんな気づきとともに流れた涙だ。
「ごめん……ありがとう、千尋さん」
「いいんだよ、あたしはこれまで何回も紡君に助けられてるから。……だから今度は、あたしが紡君のことを助ける番だ」
泣きじゃくりながらお礼を言う僕に、千尋さんは穏やかな口調でそう返す。それと一緒に伝わる頭を撫でられている感覚が、なんだか妙に懐かしくて。
――ここまで泣いたのはいつぶりだろうだなんて、ふと思った。
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