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第百十三話『氷室さんは語る』

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『――申し訳ありませんでした』

 風を切るブンと言う音とともに、今までで一番力のない氷室さんの声が電話口から聞こえる。きっと通話越しなのに頭を下げているのだろうなと、長い付き合いもあって何となく分かった。

 街中だろうとなんだろうと自分のやっていたことが間違っていたらそれを素直に認めるのが氷室さんで、きっと頭を下げることも厭わないだろうという確信があった。それは氷室さんへの信頼とも言えるもので、それがあるから僕も安心して氷室さんとの関係を続けられたのだ。きっとこの人は途中で見放すことはしない、作家としての僕が折れない限り支えてくれる――と。

 だから、僕は今初めて知ったのだ。……氷室さんが、隠し事をするような人だったという事を。

『初めて松伏さんから原稿が持ち込まれたのは、一年前の夏の事でした。わざわざウチの編集部にまで持ち込んできて、それも『氷室さんがいい』と編集者まで名指ししてきて。ライトノベル文庫では珍しい持ち込み歓迎の編集部とはいえ、流石に戸惑いが広がったのを覚えています』

 セイちゃんが居なくなった階段の踊り場に座り込みながら、僕は氷室さんの言葉を淡々と受け止める。『詳細なことは氷室さんに聞けば分かるよ』というセイちゃんの言葉は、僕の意識を逸らすための嘘ではなかったようだ。

 いや、セイちゃんがそんな嘘をつかないことは分かっている。何の意味もない嘘はついても、意味のある嘘はつかないのがセイちゃんだ。……だから、『小説家になった』って言葉が嘘なわけはないんだ。

 だけど、どこかで嘘なんじゃないかと信じたくなっている僕がいる。セイちゃんが手紙を返さなくなった原因が『赤糸 不切』にあるなんて、信じたくない僕がいる。

 だってあれは、セイちゃんに忘れてほしくないからって子供極まりない理由で志した目標だ。僕の精神性なんてそれこそ今年の四月までこれっぽっちも成長してなくて、セイちゃんが思っている以上に僕はずっとセイちゃんの影を見ていて。……期待通りの成長なんて、何もできていないのに。

「一年前……直接、ですか」

『はい、ですが原稿はとてつもなくいい出来でした。……これが高校一年生の綴れる文体なのかと、そう疑いたくなるぐらいに成熟していた。……正直なところ、一年で正式デビューまで漕ぎつけられたのはこの強固な土台があったからです。そしてこれは、昔から思っていたことなのですが』

 信じたくない現実が次々に真実となっていく中、氷室さんは一度言葉を切る。その後、通話越しでも聞こえるぐらいに息を深く吸い込むと――

『……似ていました、照屋さんの文体と。『照屋さんが言っているのは貴方の事か』と、そう咄嗟に聞いてしまったぐらいに』

「……そうなんですね……」

 氷室さんが発したその言葉に、大事な何かが抜けていくような感覚を覚えながら僕は返す。そっけないとか怒りの証明とかそういうのじゃなくて、ただ単純にそれだけしか発することが出来なかった。

 心の中も頭の中もグチャグチャで、自分の本心を引っ張り出すのも一苦労だ。氷室さんに怒ればいいのか感謝すればいいのか、セイちゃんが帰ってきたことを喜べばいいのかそうじゃないのか、この先自分はどう小説と向き合っていけばいいのか。……何も、何も分からない。

『その後は基本遠距離でしたが、私は松伏さんの編集も担当していました。『間違いなく将来のウチを支える看板になる』と、上司も太鼓判を押していたものですから』

 そして今に至るというわけです――と。

 そう言って話を締めくくり、氷室さんは咳ばらいを一つ。まるで嘘みたいな話だけれど、それが本当なのは分かる。信じられる。……だから、どうしたらいいのか分からないんだ。

「氷室さん。……次の原稿提出、少しだけ待ってもらってもいいですか」
 
 呆然としたまま、僕は気づけばそんなお願いを氷室さんにしていた。セイちゃんが帰ってきたのは間違いなく大ニュースのはずなのに、それから気づけば僕は何回もため息を吐いていて。

「……これからどうすればいいのか、考えなくちゃいけなくなったので」

――自分の気持ちを整理しなくちゃ、これ以上やっていられそうにないんだ。
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