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第六十四話『千尋さんのお父さん』

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「……いいか、今から私が知ってることをお前に話す。だが、これを聞いたってことをほかの人には一切伝えんな。千尋に聞かれても何も知らないふりをしろ。あの子が語って聞かせてくれるようになるまで、この記憶はただの情報としてお前の中にとどめておけ」

「……はい」

 重ね重ね繰り返される中位の言葉に頷いて、僕はお姉さんの方に視線を向ける。何が何でも千尋さんを傷つけまいとするお姉さんの姿勢が、今から語られることの重たさを明確に示していた。

「ああ、いい返事だ。それじゃあ本題に入るが――簡単な話、これは心が壊れかけの人間が書いたメモだ。文脈も何もなく、ただ悲鳴を文字に起こしただけの書き殴り。……追い詰められた人間の心の中が、この文字の一つ一つにはまるで汚れみたいにこびりついて残ってる」

 呪いって言ってもいいかもしれないな、とお姉さんは淡々と告げる。文字を指でなぞるお姉さんの手つきは、まるで汚いものにでも触れているかのようだった。

「話してダメなら書いてみてとかよく言うけど、本当に追い込まれたら書こうが話そうが変わんねえ。文章の形も言葉の形もどんどんと崩れていって、最後は駄々をこねる子供みたいになる。そのことを知るためには、これはまあまあいいサンプルになるかもしれねえな」

 メモから指を離し、お姉さんはここにいない誰かを皮肉るように呟く。心から気だるげにしているお姉さんの仕草や話し方を見ていると、これが血の繋がった父親の書いたメモの話をしているのだという事を忘れてしまいそうになった。

 それはきっと最初からそうだったんじゃなくて、何かの出来事をきっかけにそうなっていったんだろう。それを知るヒントが、きっとそのメモには記されているんだ。

 だけど、それが分かったところで僕の知りたい情報に近づいて行けるわけじゃない。……そろそろ、こっちからも踏み込んでいかないといけないかな。

「……あの、お姉さん。『かけない』ってこのメモの人は言ってますけど、何が『かけない』んですか?」

「あー、確かにそれは話さないといけないな。……本当なら、最後の最後に教えてやろうと思ってたんだけどさ」

 僕の質問を聞き、お姉さんは軽い唸り声を上げる。その口元には何とも言えない表情が浮かんでいて、僕の背筋にうすら寒いものが走った。

 お姉さんが最後に伝えようとしたということは、それはきっと僕にとって一番大きな意味を持つ部分なのだろう。きっとお姉さんの心に燃える炎の中でも一番熱い場所で、不用意に触れた全部を焼き尽くしてしまうような中心地。……僕の質問は、どうやらそこに向けた最短距離を構築したらしい。

「安心しろよ、この際隠し事はしねえ。千尋の問題を解決しようとすることが、千尋の特別になろうとすることがどれだけの覚悟を伴う事なのか、それを嫌になるまで教えてやる」

――もっとも、嫌になった時点で逃げてくれていいんだけどな?

 挑発的にそう言って、お姉さんはくつくつと笑う。『受け止められるわけがないだろう』と、そんな声にならない声が聞こえてくるようだった。

 その不信こそが僕を遠ざける理由だったとするならば、僕はそれを乗り越えて証明してやろう。僕は千尋さんの特別になりたくて、そのために全力を尽くしてここに来ているのだと。……ここまで来て打ちひしがれることなんて、何もないのだと――

「――このメモの文章、ガキが書いたみたいだろ? まるで書き取り練習をしてるみたいで、思いを伝える手紙でも何でもなくて、何なら日記みたいで。だけどその意図は読み取れない。背景情報がなきゃ、この文章に書かれてる言葉の意味を全部知ることなんてできっこない」

「……背景、知識?」

「そうだ、私がこのメモの書き手の正体を伝える前にお前に知っておいてほしかったことさ。だけど、そこをすっ飛ばすって決断をお前はした。……だから、その期待に応えてやるよ」

 オウム返しをする僕にお姉さんは鷹揚に頷いて、メモの文章に今一度手を伸ばす。そして小さく息を吐くと、視線だけを僕の方へと向けた。

「……追い込まれた人間って奴はさ、自分が持ってる技術を発揮することも難しくなるんだ。『イップス』って言葉、お前も知ってるだろ?」

「……はい、それぐらいは」

「おう、なら話が早い。アレを見れば分かるけど、どれだけ能力があっても気の持ちよう次第でそれを発揮できるかできないかってのは大きく変わる。……そんでもって、それは何もスポーツとかの身体的能力に関連することだけが当てはまるってわけじゃねえ」

 ゾクリ、と。

 その言葉を聞いた瞬間、全身を冷たいものが駆け抜ける。その話をわざわざしてきたという事が、僕の思考を凍り付かせた。

「たとえそれで金を稼いでるんだとしても、きっかけ次第でその能力を十分に発揮できなくなることなんていくらでもある。……このメモの書き手――父さんは、その一番分かりやすい例だよ」

 テーブルから身を乗り出して、お姉さんは僕の眼を見下ろす。まるで蛇に睨まれたカエルのように、僕はそれから目を離すことが出来ない。ただ次に続く言葉を、僕は待つことしかできなくて――

「――私たちの父さんはな、小説家だったんだよ。いくつもの連載を抱えてる、いわゆる売れっ子作家って奴だった。……ある時を境に『小説が書けない』なんてことを言いだして、心を病んでしまうまで追い詰められるまでは、な」

――それがきっかけで、千尋は小説が読めなくなっちまったんだよ。

 冷たい声で淡々と、お姉さんは事実を語る。……少し前に固めたはずの覚悟にひびが入る音が、僕の心の中で確かに聞こえた――ような、気がした。
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