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第六十話『僕は見せない』

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――まるでホラー映画の中に突然放り込まれたような、そんな気分だ。

 何度眼をこすってもそのメモは手の中にあり、書かれている文字も何も変わらない。思いのたけをそのまま書きなぐったような文字は時々乱れていて、それがより恐ろしさを加速させた。

 これは一体誰の書いたメモなのだろう。何かを書く、あるいは描く人間が文字にした悲鳴のようなその言葉は、直視しているのが痛々しいぐらいに僕の胸を突き刺してきていた。

 どうにかして意識の外にそれを押し出そうとしても、一度捉えてしまった目線はそのメモを読み解く作業を中断させてくれない。このメモと向き合う義務がお前にはあるのだと、見えない声にそう命じられているかのようだった。

 ……男もののズボンのポケットに詰め込まれていた以上、千尋さんのものって線は薄いだろう。というか、書きなぐったんだとしても千尋さんの文字はもう少しきれいになりそうだ。筆圧も、多分こんなに濃くはならない。

 そうなると千尋さんの家族のだれかってことになるんだろうけど、お姉さんってことも多分ないだろう。千尋さんの家に男兄弟はいないって話だから、残る可能性は自然と一つに絞られてくる。

「……千尋さんの、お父さん?」

 恐る恐るそう口にして、僕は改めて思い出す。……千尋さんの口から両親の話が出た回数が、あまりにも数少ないことに。

 お姉さんの話はよく出る。千尋さんの昔ばなしとか、今の友達の話とかもよく出る。自分で料理作ってる話とか、お弁当作りにも挑戦したいとか、そういう話もたくさん出てくる。……両親の話題は、数えるぐらいしか出てこない。

 ジャストサイズより少し大きな服を身にまといながら、僕はふと気が付いたその情報を整理していく。……そうして追いかけていった先にあるのは、僕が無闇に口を出すことが許されないであろう複雑な事情だった。

『両親は離婚してるの?』なんて、たとえ僕でも絶対に聞けない。今までに千尋さんと過ごしてきたいろんな時間の断片が、この問いかけをタブーそのものだと断じているのだ。

 だから、僕はどこまで言ってもこのメモをお父さんが書いた『らしき』ものと断じることしかできない。紙質もどこか古いから何年か前に書かれたものなんだろうけど、それを推測することすら今は難しいというのが事実だった。

 そうなってくれば、問題はこのメモをどうするかだ。正直に言って千尋さんに渡すのも選択肢の一つだが、それは藪をつついて蛇を出すような真似でしかないような気がする。ならこっそり持ち帰る? ……持ち帰った先でどうするんだ、書かれてる以上の情報が引き出せるわけじゃあるまいし。

「……どうすれば、千尋さんにとって一番いいんだ……?」

 千尋さんがお父さんのことをどういう風に思っているのか、僕はそれすら分からない。千尋さんのことをいろいろと知っても、千尋さんが語らず見せない部分は知りえない。……教えてくれたことしか僕は分からないんだなと、改めて痛感させられる。

 もっともっと、千尋さんの隠れた本音とか気持ちとかを見つけ出せる人間になれたらいいのに。そしたら悩みも分かって、もしかしたら痛みを分け合えるかもしれないのに。……僕はただ、千尋さんが見せてくれたものを見て強く想う事しかできない。

「……紡君、大丈夫⁉ なんかいますっごい音が聞こえたけど!」

 そんなことを思っていた矢先、千尋さんが慌てた足取りでドアの前に立つ。さっきの転んだ時の音を聞いたのか、声色はずいぶんと上ずっていた。

「うん、僕は大丈夫。着替えも終わったからさ、もう入ってきて大丈夫だよ」

 その声を聴いて、僕はとっさにメモをズボンのポケットに突っ込みながらそう答える。そうしてから二秒ぐらい経った後、ゆっくりとドアを開けて千尋さんが入ってきた。

「……うん、よく似合ってるね。紡君が着れそうな服が押入れの奥にしかなかったんだけど、誇り草かったりはしてない……?」

「全然気にならないよ、むしろそうだったんだって驚きたくなるぐらい。丁寧に管理されてるんだね」

 ポケットの中のメモが未だに読めるぐらいには――というのは喉の奥に押し込んでおいて、僕は千尋さんの問いに答える。このメモの存在を素直に伝えてはいけないと、僕は本能的に直感していた。

「うん、それならよかった。もともともう使わないだろうって思ったものだし、気に入ったらそのまま使ってくれてもいいぐらいなんだけど――どうかな?」

「いや、流石にそれは申し訳ないよ……。ただでさえ貸してもらってる側だしさ」

 今度洗って返すよ、と付け加えて、僕は転んだ拍子に散らかった服を回収する。体を拭いて着替えるっていう目的が終わった以上、長居し続けるのも申し訳なかった。

「……それじゃ、また雨が降り出さないうちにそろそろ帰るね。千尋さん、突然の事なのに本当にありがとう」

「ううん、これぐらい気にしないで! 今日はありがとう、明日からもまたよろしくね!」

 玄関に向かう僕とギリギリまで一緒に歩いて、千尋さんは僕のことを見送ってくれる。その朗らかな言葉と笑顔は、僕が門をくぐって曲がり角の向こうに歩いていくまでずっと向けられていた。

 本当に、僕にはもったいないぐらいに可愛い彼女だと思う。心から大切にしたいし、できることならずっと笑っていてほしい。……だから、だからこそだ。

「……どうすればいいんだろうな、これ……」

 結局隠したまま持ってきてしまったメモの感覚を指で確かめて、僕はため息を吐く。……メモの薄っぺらい感触が、僕には爆弾の気配のように危ういものに思えてならなかった。
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