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第一話『僕はあの子の名前を呼ばない』
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「……高々一年しかつるんでねえ俺が言うのもなんだけどさ、お前って相当変人だよな」
学食の名物メニューであるハンバーグ丼を頬張りながら、正面に座る友人――桐原 信二は唐突に僕のことをそう評する。普段は笑っていることが多いその顔が、今ばかりは真剣なものに変わっていた。
「こうやって一対一でいるときは普通に話すくせにグループ活動になると急に黙りこくるし、そのくせ意見を求められればはきはきと答えを返せるぐらいにはちゃんと話は聞いてるし、だけど自分から他人に話しかけてるところは滅多に見ねえし――もう俺にはお前がコミュ障なのかそうじゃないのか皆目見当もつかねえよ」
「コミュ障……では、ないと思うけどなあ。現にこうして信二と喋れてるわけだしさ」
「だよなあ……。静かどころか饒舌になることもあるぐらいだし、だからなおさらお前ってやつを俺はどう評価していいのかわかんねえんだよ」
皿に盛られた唐揚げに箸を伸ばしながら、いつになく熱弁する信二に対して僕はいつも通りの口調で答える。グループワークで静かになるのは別に今始まったことじゃないし、今さらその問題に対して信二が異様な食いつきを見せることの方が僕からしたら不思議だった。
「……うわ、おいし……」
しっかりと味の付けられた衣を噛み切ると、中からはジュワっと肉汁があふれ出してくる。私立の高校だからという理由をつけてもなおレベルが高すぎると思うぐらいには、この高校の学食メニューは豊富かつどれも絶品だ。
目を細めて僕が唐揚げを味わっていると、正面から信二の視線がまたしても突き刺さる。……普段から割と世話焼きなところがあるのは知っているけど、それにしたって今日の信二は少し――いいやがっつり変だった。
「……というか信二、なんで今日はそんなに質問してくるの? 今日の僕、これと言って変なことをしたわけじゃないと思うんだけどさ」
普段から変だと言われればそれまでだが、そういう所も信二は一年生の時にさんざん見てきたはずだ。それなのに、今日の信二はまるで初めて話したときのように疑問を投げかけてくる。普段は面白いものを見るような目線を向けられているけれど、今日の僕を見る信二の眼はさながら珍獣を見るかのようだ。
さすがに気になった僕がそう問いかけると、もともと変だった信二の表情がさらに変なものへと変わる。珍獣を見るような眼から幽霊でも見るかのような眼にさらに変化したのもあって、イケメンと言ってもいいぐらいには整った顔立ちが今ばかりは台無しだ。……そういう所を異性の前でももっと見せれば、普段近づきにくそうにしてる女子たちもフレンドリーに接してくれるんじゃないだろうか。
「いやいやいや、お前マジで言ってんのか……? お前、今日とんでもなく変なことしてたんだぞ?」
「少なくとも僕はマジで言ってるけど……。もしかして、僕何かまずいことしてた?」
信二が見てる中で僕がやらかすタイミングがあったとすれば、三限であった化学のグループワークとかだろうか。でも、アレは別に何の問題も起こらずに終了したはずだ。データも教科書通りだったし、文系の僕にも優しいいい授業だったと思う。
だが、同じ班の信二からするとその授業は大事件の部類に入るらしい。ふと顔を上げれば、信二は真剣な表情でぶんぶんと首を縦に振っていた。
「だってお前、今日の班員思い出してみろよ? 一年の時からクラスをまたいで噂になってた千尋さんと初めてのグループ活動、これが大事件じゃなきゃなんだってんだ」
「……あー……」
すっかり手を止めてこちらに身を乗り出してきた信二の言葉に、俺は天井を見上げて唸り声を上げる。……そういえば、普段はああいう実験に消極的な信二が今日ばかりは張り切っていたっけな……。
「初めてのグループ活動、つまりは自然に会話ができない俺たちに与えられた数少ないチャンス! そんな中でお前はいったいどうしてた⁉ そう、何もしてなかったんだよ!」
「近い近い近い、熱がこもりすぎだって……」
というか、自然に『たち』ってくくらないでほしい。恋愛となると急に奥手になるせいで異性に話しかけられないのは信二だけで、僕は別に大丈夫なんだから。同性異性問わず話しかけられないと言われたらそれまでだけど。
「だってよ、せっかく千尋さんに覚えてもらう機会なんだぜ⁉ そんなんお前、どうにか印象に残ろうと頑張るほかに道はないだろうが!」
「……信二が普通に接してれば、そのうち印象には残ると思うんだけどね……」
熱弁を振るう信二をどうにかなだめつつ、僕は最後のから揚げを箸でつまみ上げる。こんな状況でも、肉のうまみは変わらず豊かだった。
「てかよ、お前にはそういう願望がないのか? 名前だけでも覚えられたいとか、できれば挨拶ぐらいは交わせる関係になりたいとか、そういうやつ」
僕が唐揚げを飲み込むのを律儀に待ってから、信二は次の質問を僕に投げかけてくる。ずいぶんとゆっくり関係性を積み上げていく気が見え隠れしているその問いかけに、僕はゆっくりと首を横に振った。
「……いいや、僕は別にいいかな。それをしたところで、前山さんの中では『クラスの男子J』ぐらいの立ち位置で覚えられるぐらいだろうし。そういう覚えられ方をするのは、個人的に少し好きじゃなくてさ」
その答えを舌の上に乗せた瞬間、僕の心の奥で何かがずきりと痛む気配がする。締め付けられるような、何かで押さえつけられるような、そんな痛み。……調子に乗って食べすぎたせいだと思いたいけど、どう考えてもそういう類の痛みではなかった。
「へえ、そういうもんなのな……でもよ、そういう関係性から始まってだんだんと格上げされていくってのも乙なもんだと俺は思うわけだ」
「そうだね、そういうこともある。……だけど、そうならなかった時が悲惨じゃないか」
信二の主張を全面的に受け入れつつ、しかし僕はその意見に同調しない。……信二が悪いわけでもないのに、胸の奥でうずく痛みはその強さを増してきていた。
信二の意見は至極真っ当だ。名前が付かない関係から初めて、いつか特別な名前が付く繋がりに変わっていくことはあり得る。……だけど、そうならないときもある。その時に必ず起こる現象は、僕にとって到底耐えられるものじゃないんだ。
「……というか、お前は千尋さんのことを『前山さん』って呼ぶのな。多分この学年の九割九分が千尋さんのことを下の名前で呼んでるぜ?」
残りの一分は先生とお前な、と付け加えつつ、信二は不思議そうに僕の方を見てくる。話題が少しだけ脇道にそれたことに安堵しながら、僕はその疑問に答えを返した。
「……僕にとって、名前を呼ぶってのは特別な事なんだよ。皆が下の名前で呼んでるからって、『じゃあ僕も』みたいなノリでそう簡単にできることじゃない。……信二は僕個人のことをちゃんと見てくれてるって分かるから、名前で呼ぶことにもあまり躊躇はなかったけどさ」
「……なんつーか、改めてはっきり言われると照れるもんだな。名前呼びなんていくらでもされてるし、今更特別になるものなんかじゃないって思ってたんだが」
「それは人によるスタンスの違いってやつだろうね。少なくとも、しばらく信二以外に名前で呼ぶことになる人なんてそうそう出てこないと思う――あ」
少し照れたように頭を掻く信二に僕が改めてそう伝えていると、信二が座っている席の向こう側をトレイを持った一人の女子が通り過ぎる。……噂をすればなんとやらという奴だろうか、そこにいたのは前山さんその人だった。
それにしても、前山さんの存在感は相変わらずだ。ただ学食を歩いているだけなのに、その姿はなぜか僕の眼を惹きつける。周りの男子もよく見ると結構な割合で釘付けになってるし、何も僕だけに起きている錯覚というわけではないのだろう。
しかし、前山さんはそれを少しも気にするような素振りを見せずに進んでいく。慣れているのかそれとも気づいていないのかは分からないが、何にせよすごいメンタルの持ち主なのは間違いないだろう。あれだけの視線の中にさらされたら、きっと僕は身がすくんで動けなくなってしまうだろうし――
「…………ん?」
――前山さんをぼんやり見つめながらそんなことを考えていると、前山さんがふと何かに気づいたかのように僕の方へと視線を向ける。何の前触れもない、本当に唐突な出来事だった。
とっさに後ろを振り向いて確認するが、その先に誰かが座っているという事も、あるいは誰かが通り過ぎたという気配もない。……なのになぜか、前山さんの視線はこちらにじいっと向けられ続けていて。
「……どうした、紡?」
その事実がどうにも消化しきれない僕を覗き込んで、信二が心配そうに話しかけてくる。その声にふと我に返ると、僕はさっきまで頭の中に浮かんでいた考えを振り払うように首を振った。
「……いや、何でもない。今前山さんが信二の後ろを通ったんだけどさ、その時に目が合ったような気がして」
「おいおい、それなら早く言ってくれよ! 千尋さんと学食で遭遇とか、そんな幸運なこともねえだろうが⁉」
僕の話を聞き終えるよりも早く、信二はぐるりと振り向いて前山さんの姿を探す。男子たちの視線をたどればすぐだったのか、ほどなくして信二も前山さんを見つけることができたようだった。
そしてそのころには、前山さんの視線は当然僕から外れている。……いや、きっと最初から僕の方を捉えてなんかいなかっただろうけど。よしんば僕の方を見ていたのだとしても、そこにいる男子生徒を『照屋 紡』だと認知していることはないだろう。たとえクラスメイトだったとしても、僕の存在感なんてそんなものだ。
別にそれでいいし、前山さんに認知してもらおうなんてことも思わない。……知ってくれたって、きっといつかは忘れられるから。きっといろんな出会いを繰り返していくであろう前山さんにとって、僕の存在なんていずれ霞んで見えなくなるものだから。
「……そうなるぐらいなら、知られなくていいよ」
一度引っ込んだ痛みがまたせりあがってくるのを感じながら、僕は誰にも聞こえないようにぼそりと呟く。……ちょうどよく響いた予鈴も、僕の味方をしてくれているかのようだった。
「お、もうこんな時間か。名残惜しいけどあと二時間、頑張って切り抜けるとしようぜ」
「そうだね。昨日の時間割に比べれば、今日はずいぶん楽なもんだし」
予鈴が鳴ったことで前山さんから視線を外した信二が、いつものように明るく笑いながらトレイを持って席を立つ。その様子を見る限り、僕のつぶやきは聞こえていなかったようだ。その事実に安堵しながら、僕は信二の背中を追いかけた。
学食の名物メニューであるハンバーグ丼を頬張りながら、正面に座る友人――桐原 信二は唐突に僕のことをそう評する。普段は笑っていることが多いその顔が、今ばかりは真剣なものに変わっていた。
「こうやって一対一でいるときは普通に話すくせにグループ活動になると急に黙りこくるし、そのくせ意見を求められればはきはきと答えを返せるぐらいにはちゃんと話は聞いてるし、だけど自分から他人に話しかけてるところは滅多に見ねえし――もう俺にはお前がコミュ障なのかそうじゃないのか皆目見当もつかねえよ」
「コミュ障……では、ないと思うけどなあ。現にこうして信二と喋れてるわけだしさ」
「だよなあ……。静かどころか饒舌になることもあるぐらいだし、だからなおさらお前ってやつを俺はどう評価していいのかわかんねえんだよ」
皿に盛られた唐揚げに箸を伸ばしながら、いつになく熱弁する信二に対して僕はいつも通りの口調で答える。グループワークで静かになるのは別に今始まったことじゃないし、今さらその問題に対して信二が異様な食いつきを見せることの方が僕からしたら不思議だった。
「……うわ、おいし……」
しっかりと味の付けられた衣を噛み切ると、中からはジュワっと肉汁があふれ出してくる。私立の高校だからという理由をつけてもなおレベルが高すぎると思うぐらいには、この高校の学食メニューは豊富かつどれも絶品だ。
目を細めて僕が唐揚げを味わっていると、正面から信二の視線がまたしても突き刺さる。……普段から割と世話焼きなところがあるのは知っているけど、それにしたって今日の信二は少し――いいやがっつり変だった。
「……というか信二、なんで今日はそんなに質問してくるの? 今日の僕、これと言って変なことをしたわけじゃないと思うんだけどさ」
普段から変だと言われればそれまでだが、そういう所も信二は一年生の時にさんざん見てきたはずだ。それなのに、今日の信二はまるで初めて話したときのように疑問を投げかけてくる。普段は面白いものを見るような目線を向けられているけれど、今日の僕を見る信二の眼はさながら珍獣を見るかのようだ。
さすがに気になった僕がそう問いかけると、もともと変だった信二の表情がさらに変なものへと変わる。珍獣を見るような眼から幽霊でも見るかのような眼にさらに変化したのもあって、イケメンと言ってもいいぐらいには整った顔立ちが今ばかりは台無しだ。……そういう所を異性の前でももっと見せれば、普段近づきにくそうにしてる女子たちもフレンドリーに接してくれるんじゃないだろうか。
「いやいやいや、お前マジで言ってんのか……? お前、今日とんでもなく変なことしてたんだぞ?」
「少なくとも僕はマジで言ってるけど……。もしかして、僕何かまずいことしてた?」
信二が見てる中で僕がやらかすタイミングがあったとすれば、三限であった化学のグループワークとかだろうか。でも、アレは別に何の問題も起こらずに終了したはずだ。データも教科書通りだったし、文系の僕にも優しいいい授業だったと思う。
だが、同じ班の信二からするとその授業は大事件の部類に入るらしい。ふと顔を上げれば、信二は真剣な表情でぶんぶんと首を縦に振っていた。
「だってお前、今日の班員思い出してみろよ? 一年の時からクラスをまたいで噂になってた千尋さんと初めてのグループ活動、これが大事件じゃなきゃなんだってんだ」
「……あー……」
すっかり手を止めてこちらに身を乗り出してきた信二の言葉に、俺は天井を見上げて唸り声を上げる。……そういえば、普段はああいう実験に消極的な信二が今日ばかりは張り切っていたっけな……。
「初めてのグループ活動、つまりは自然に会話ができない俺たちに与えられた数少ないチャンス! そんな中でお前はいったいどうしてた⁉ そう、何もしてなかったんだよ!」
「近い近い近い、熱がこもりすぎだって……」
というか、自然に『たち』ってくくらないでほしい。恋愛となると急に奥手になるせいで異性に話しかけられないのは信二だけで、僕は別に大丈夫なんだから。同性異性問わず話しかけられないと言われたらそれまでだけど。
「だってよ、せっかく千尋さんに覚えてもらう機会なんだぜ⁉ そんなんお前、どうにか印象に残ろうと頑張るほかに道はないだろうが!」
「……信二が普通に接してれば、そのうち印象には残ると思うんだけどね……」
熱弁を振るう信二をどうにかなだめつつ、僕は最後のから揚げを箸でつまみ上げる。こんな状況でも、肉のうまみは変わらず豊かだった。
「てかよ、お前にはそういう願望がないのか? 名前だけでも覚えられたいとか、できれば挨拶ぐらいは交わせる関係になりたいとか、そういうやつ」
僕が唐揚げを飲み込むのを律儀に待ってから、信二は次の質問を僕に投げかけてくる。ずいぶんとゆっくり関係性を積み上げていく気が見え隠れしているその問いかけに、僕はゆっくりと首を横に振った。
「……いいや、僕は別にいいかな。それをしたところで、前山さんの中では『クラスの男子J』ぐらいの立ち位置で覚えられるぐらいだろうし。そういう覚えられ方をするのは、個人的に少し好きじゃなくてさ」
その答えを舌の上に乗せた瞬間、僕の心の奥で何かがずきりと痛む気配がする。締め付けられるような、何かで押さえつけられるような、そんな痛み。……調子に乗って食べすぎたせいだと思いたいけど、どう考えてもそういう類の痛みではなかった。
「へえ、そういうもんなのな……でもよ、そういう関係性から始まってだんだんと格上げされていくってのも乙なもんだと俺は思うわけだ」
「そうだね、そういうこともある。……だけど、そうならなかった時が悲惨じゃないか」
信二の主張を全面的に受け入れつつ、しかし僕はその意見に同調しない。……信二が悪いわけでもないのに、胸の奥でうずく痛みはその強さを増してきていた。
信二の意見は至極真っ当だ。名前が付かない関係から初めて、いつか特別な名前が付く繋がりに変わっていくことはあり得る。……だけど、そうならないときもある。その時に必ず起こる現象は、僕にとって到底耐えられるものじゃないんだ。
「……というか、お前は千尋さんのことを『前山さん』って呼ぶのな。多分この学年の九割九分が千尋さんのことを下の名前で呼んでるぜ?」
残りの一分は先生とお前な、と付け加えつつ、信二は不思議そうに僕の方を見てくる。話題が少しだけ脇道にそれたことに安堵しながら、僕はその疑問に答えを返した。
「……僕にとって、名前を呼ぶってのは特別な事なんだよ。皆が下の名前で呼んでるからって、『じゃあ僕も』みたいなノリでそう簡単にできることじゃない。……信二は僕個人のことをちゃんと見てくれてるって分かるから、名前で呼ぶことにもあまり躊躇はなかったけどさ」
「……なんつーか、改めてはっきり言われると照れるもんだな。名前呼びなんていくらでもされてるし、今更特別になるものなんかじゃないって思ってたんだが」
「それは人によるスタンスの違いってやつだろうね。少なくとも、しばらく信二以外に名前で呼ぶことになる人なんてそうそう出てこないと思う――あ」
少し照れたように頭を掻く信二に僕が改めてそう伝えていると、信二が座っている席の向こう側をトレイを持った一人の女子が通り過ぎる。……噂をすればなんとやらという奴だろうか、そこにいたのは前山さんその人だった。
それにしても、前山さんの存在感は相変わらずだ。ただ学食を歩いているだけなのに、その姿はなぜか僕の眼を惹きつける。周りの男子もよく見ると結構な割合で釘付けになってるし、何も僕だけに起きている錯覚というわけではないのだろう。
しかし、前山さんはそれを少しも気にするような素振りを見せずに進んでいく。慣れているのかそれとも気づいていないのかは分からないが、何にせよすごいメンタルの持ち主なのは間違いないだろう。あれだけの視線の中にさらされたら、きっと僕は身がすくんで動けなくなってしまうだろうし――
「…………ん?」
――前山さんをぼんやり見つめながらそんなことを考えていると、前山さんがふと何かに気づいたかのように僕の方へと視線を向ける。何の前触れもない、本当に唐突な出来事だった。
とっさに後ろを振り向いて確認するが、その先に誰かが座っているという事も、あるいは誰かが通り過ぎたという気配もない。……なのになぜか、前山さんの視線はこちらにじいっと向けられ続けていて。
「……どうした、紡?」
その事実がどうにも消化しきれない僕を覗き込んで、信二が心配そうに話しかけてくる。その声にふと我に返ると、僕はさっきまで頭の中に浮かんでいた考えを振り払うように首を振った。
「……いや、何でもない。今前山さんが信二の後ろを通ったんだけどさ、その時に目が合ったような気がして」
「おいおい、それなら早く言ってくれよ! 千尋さんと学食で遭遇とか、そんな幸運なこともねえだろうが⁉」
僕の話を聞き終えるよりも早く、信二はぐるりと振り向いて前山さんの姿を探す。男子たちの視線をたどればすぐだったのか、ほどなくして信二も前山さんを見つけることができたようだった。
そしてそのころには、前山さんの視線は当然僕から外れている。……いや、きっと最初から僕の方を捉えてなんかいなかっただろうけど。よしんば僕の方を見ていたのだとしても、そこにいる男子生徒を『照屋 紡』だと認知していることはないだろう。たとえクラスメイトだったとしても、僕の存在感なんてそんなものだ。
別にそれでいいし、前山さんに認知してもらおうなんてことも思わない。……知ってくれたって、きっといつかは忘れられるから。きっといろんな出会いを繰り返していくであろう前山さんにとって、僕の存在なんていずれ霞んで見えなくなるものだから。
「……そうなるぐらいなら、知られなくていいよ」
一度引っ込んだ痛みがまたせりあがってくるのを感じながら、僕は誰にも聞こえないようにぼそりと呟く。……ちょうどよく響いた予鈴も、僕の味方をしてくれているかのようだった。
「お、もうこんな時間か。名残惜しいけどあと二時間、頑張って切り抜けるとしようぜ」
「そうだね。昨日の時間割に比べれば、今日はずいぶん楽なもんだし」
予鈴が鳴ったことで前山さんから視線を外した信二が、いつものように明るく笑いながらトレイを持って席を立つ。その様子を見る限り、僕のつぶやきは聞こえていなかったようだ。その事実に安堵しながら、僕は信二の背中を追いかけた。
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