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第六章『主なき聖剣』

第五百三十九話『黒いステッキ』

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 人と人の間を懸命にすり抜け、路地裏から路地裏、物陰から物陰へと移動し続ける。城へ近づくごとにやはり戦いは激しさを増していて、見知った顔を見つけられないのが不安で仕方ない。

「はあ、はあ……ッ」

 ちょうどいい位置にあった手ごろなゴミ箱を遮蔽物にして、息を整えながら体に着いた砂埃を払う。念のためにとこっそり拝借しておいた長剣が、その動きに合わせて小さな音を立てた。

 視界に映る城は少しだけ大きくなったような気がしたが、それを成果と言うにはあまりに小さすぎる。最短ルートで迎えないことは想定していたにしても、まさかここまで遠回りを強いられることになるとは思っていなかった。

 帝国の未来を決めるための戦いなこともあって、お互いの攻撃に一切の手加減はない。アイツらに敵だと認識されたら最後、躊躇のない殺意が俺に襲い掛かるだろう。ベルメウの時のような特殊な事情は、この街には一切ありはしないのだ。

 冗談じゃなく一歩一歩が命に関わるのがこの戦場なわけだが、それでも足を止めるわけにはいかない。見たところ戦場は集団戦が中心な以上、遊撃兵の存在に期待するのは希望的観測が過ぎるからな。状況を変えるためには、俺の方から動いていくしか方法はないってわけだ。

「……よし」

 一分ほど身を潜め、軽く息を吐く。完全に息が整ったわけではないが、贅沢を言っていられる場面でもない。不足なく体が動いてくれるなら、それだけでもう十分だ。

 路地裏を抜けた先には人の気配がなく、通り抜けるだけなら安全そうだ。しかし問題になってくるのは、次に身を潜める路地裏が視界の中に見当たらないことだった。

 角に張り付いて出来る限り視野を広く取ってみるが、得られる情報に変わりはない。路地裏の出来る隙間もなくびっしりと店らしき建物が並ぶその様は、帝都が普段は賑やかな街であることを容易に想像させた。

 一つ一つ建築様式が全く違う建物に見えるのに、最初から設計されていたかのようにその景色は妙な調和を生み出している。リリスたちとのんびり回る分にはその美しさに浸れたのだろうが、この瞬間ばかりはその魅力が不都合な方へと働いていた。

 引き返す選択肢が一瞬頭をよぎって、俺はぶんぶんと首を横に振る。身を隠せる路地裏がないのは確かに厳しいが、引き返したところでこれよりいい経路が見つかるとは限らない。何よりやっとの思いで通り抜けた戦場をもう一度横断しなくてはならないわけで、少し検討するだけでもそれが愚策であることは明らかだった。

 いざとなれば店の中に飛び込めるし、きっと窓なんかも建物の中にはあるだろう。大丈夫だ、やれることは案外多い。そう自分に言い聞かせながら、俺は路地裏から顔を出した。

 左右を改めて確認し、人が居ないことを確認する。その上で出来る限り人の視界に映らないように炭を歩くことを意識しながら、俺はまた城へ向かって歩き始めた。

 青く澄んだ空から降り注ぐ光は俺の肌をじりじりと焼き、額にうっすらと汗をにじませて来る。クライヴの部下たちはベルメウの時と同じようにローブを纏っていたが、アレに不便さを感じたりはしないものなのだろうか。

 緊張感から出る汗と暑さによって出る汗はだんだんとごっちゃになり、背筋に伝って嫌な感覚に変わる。拭っても拭ってもとめどなく垂れてくるのだから、対策しようと動くだけ水分を無駄に消費するだけだ。水分不足で干からびるなんてオチ、冗談にしても笑える物じゃないからな。

 そんなことを考えながら進んでいると、ほどなくして小さな路地が見えてきた。どうやら大通りはここで三つの小さめな通りに分岐するらしく、それぞれに丁寧に名前まで付けられている。城へとまっすぐ向かう通りがその中にあったことは、俺にとっても幸いだった。

 相変わらず人の気配はなく、戦いの喧騒はだんだんと俺の耳から遠ざかり始めている。今まで見てきた感じまだ決着の気配は見えなかったのだが、城の周りは既に決着がついているのだろうか――

「――あー、突然失礼。マルク・クライベットでよろしいかな?」

「うお……ッ⁉」

 思索の途中にいきなり知らない声が入り込んできて、俺は咄嗟に半回転しながら後ずさる。突然の事に混乱する視界の中には、黒いシルクハットを被った四十代ほどの男が佇んでいた。

 背は俺と同じぐらいで、シルクハットと同じ黒いステッキを携えている。……いいや、ステッキだけじゃない。口元の白いひげ以外、男を構成するのは全て黒色だ。礼服を思わせるスーツも片眼鏡も、まるでそれがこだわりであるかのように全身のシルエットが真っ黒に染め上げられている。

 その姿を見た瞬間、駆け巡ったのは嫌な予感だった。俺の名前を知っていることが、不吉な予兆のように思えてならない。この半年でずいぶん鋭くなった危機感が、ぞわぞわと俺の背筋に嫌な感覚を流し込んできている。

「……誰だ、お前」

 男に対して問いかける声は、思った以上に硬くなった。これでは警戒していることが丸分かり、心理戦においても優位に立たれてしまう。僅かに残った冷静な部分がそう判断する頃には、状況は致命的に動いてしまっていた。

「おや、随分と気を張っているご様子。戦いには慣れていない御仁と聞いていましたが、これは中々骨のある相手なようですな」

 にこにこと朗らかな笑みを浮かべつつ、しかしどこか不気味な雰囲気を纏いながら男はこちらに歩み寄ってくる。逃げようにも背後は壁、背を向けて駆けだすにも飛び道具が恐ろしい。過剰なほどに背後に警戒しなくてはならなかった理由を、俺は今改めて確認させられている。

「いいですぞ、強いお方は大歓迎だ。何せ金払いはよかったのですが、お相手する方たちはどれも軟弱な方が多くてですね。――最近、少し退屈していたところなのですよ」

 俺の姿を黒い瞳の中に捉えたまま、男はステッキをおもむろに振り上げる。それが石畳と触れ合ってコツンと音を立てた瞬間、俺は足下がぐらつく様な、視界が揺れるような気持ち悪さに襲われて。

「わたくしですね、名をウォルター・アルメルンと言うものです。どうか一度で壊れることだけはありませんよう、お願い申し上げますよ」

 ぐわんぐわん揺れ続ける中で、男――ウォルターが丁寧に名乗る声を俺はどうにか聞き届ける。突如襲い掛かった奇妙な感覚が終わった後、目の前に広がっていたのはどこまでも続きそうな長い通りだった。

 とっさに状況の理解が出来ず、俺はあたりを見回す。この通りは、今しがた俺が通り抜けてきたところのはずだ。俺はあの三叉路でウォルターと遭遇したはずで、でもその真っ黒なシルエットはどこにもない。この短時間に起きた出来事を、俺はまだ咀嚼しきれないでいる。

「なんなんだよ、ここは……」

 間違いなくウォルターの手によって引き起こされた現象な事だけは分かるが、それ以外の事が何も分からないのでは対策のしようがない。俺を強制的に転移させたにしては移動距離が短すぎるし、何よりそんなことをする意味がなかった。そんな芸当が出来るなら、最初から俺をクライヴの下へ連れて帰れば話は全ておしまいなのだから。

 状況がそうじゃない以上、あちら側にも何か目的があるという事だ。なら、それを見破ったうえで阻止してやるしか選択肢はなかった。

 なんにせよ、今はウォルターの姿を探し出すことが最優先だ。あのステッキが何らかの魔術の起点になっているならば、アイツを倒さなければその影響から抜け出せないと見るのが自然だしな。一方的な状況にさせないためにも、こちらから見つけて先制攻撃を叩きこめれば一番いいのだが――

「その様子ですと、わたくしの世界を楽しんでいただけているようですね」

 背後から突然声が聞こえ、またしても俺は振り返る。視界の中にはステッキを構え、こちらに向けて振るうウォルターの姿があった。

 振り返るのがもう少し遅れていれば、俺は思い切りステッキに打ち据えられていたことだろう。その未来を俺はすんでのところで回避し、腰に携えていた剣を抜く。普段使いの物より少々重く長いのが不便だが、徒手空拳で対抗するよりはよほどマシだ。

「おお、状況への適合もお早い。これは久々に楽しむことが出来そうだ」

 空振りしたことを残念がる様子もなく、ウォルターは次への構えを取る。四十代の男だとは思えないほどにその動きは鋭いもので、動きの緩急に振り回された俺は動き出しが少し遅れた。

 杖を回避することを諦め、剣で受け流すことを選択する。もとより騎士剣術は受けから始まるもの、襲い掛かってくる分にはやりやすい相手だ。少なくとも魔術で仕掛けてくる相手よりは余程楽だという考えがふと頭をよぎった、その瞬間の事だった。

「ああ、見立て通り一本気なお方だ。……いけませんね、血が疼いてしまうではありませんか」

 鈍い衝撃が腹に走り、その後に熱がじんわりと広がりだす。何故か足ががくがくと震え、熱が漏れ出しているかのような寒気が全身を走る。ウォルターはと言えば、ステッキを構える手を止めてその様子を笑いながら見つめるばかりだった。

「お前、一体何、を――」

 その視線の先を辿って、ようやく俺は衝撃の原因を認識する。――短剣が深々と突き刺さることでできた大きな傷からは、驚く程に赤い血がだらだらと流れ出していたのだから。
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