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第六章『主なき聖剣』

第五百三十五話『擬きと本物』

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 ひときわ印象に残るのは、肌を突き刺すような鋭い冷気だ。目の前の男が放つ殺気によるものではなく、明確に空気自体が冷え込んでいる。……少なくとも、帝国にこれほど気温が低くなる地帯はそうそうなかったはずだ。

「相も変わらず、貴様は呼吸をするかのように転移魔術を扱うのじゃな。それが人の道理から外れた横紙破りと知りながら、不遜な物じゃ」

「君も僕と同じように使ってただろう、責められる謂れはないさ。少なくともここは、君がよく使う『転移もどき』では絶対に辿り着けない場所だからね」

 肩を竦め、クライヴは軽く跳び退る。今の口ぶりからするに、自分のやっていることがいかに異常であるかについては理解が出来ているようだ。それでもなお自らの生命線ともいえる魔術神経を弄り続けているあたり、やはりその感性は理解できそうにないが。

「僕はただ必要なことを必要な時にやってるだけさ。転移魔術が使えなきゃ僕たちの足取りなんてすぐに掴まれるし、そもそも世界中を巡って戦力を揃えることだって難しい。この場所だって、転移魔術を使わなきゃ間違いなく知り合えなかった人から提供してもらってるわけだしさ」

――断じて僕は、無駄なことをしている気はないよ。

 クライヴの考えを嘲るように笑みを浮かべ、クライヴは自らの信条を語る。必要だから修得する、必要だから切り捨てる、必要だから敵を殺す。……それは全部、今まで見てきたとおりのクライヴのやり方だ。

 そこまで打算的に動くその瞳が何を見つめているのか、それが気になっていた時もあった。だが、それももう終わりだ。こんな人間が見据える先の未来など、きっとベガにとってつまらないものに決まっている。

「つまり、儂をここで殺すことも貴様にとって無駄ではないという事か」

「まあね。何がきっかけで動いたかは知らないけど、今の君に目を付けられたままじゃ色々と面倒だ。いつか殺しに行くことになるなら、それが今でも別に関係ないってだけだよ」

 冗談めかしたベガの笑みにも、ただ冷たくクライヴは応えるばかりだ。そこに高揚はなく、戦闘態勢へ入っていく動作にも覇気がない。きっと奴にとって、戦闘とは手間のかかる面倒な行為でしかないのだろう。

 あまり推測や読みと言うものが得意ではない自覚があるベガだが、それでもクライヴに対する推測は間違っていないと言える自信がある。この男に、戦いに対する敬意などない。今からの戦いがどれだけ劇的な死闘になろうとも、きっとクライヴは一日もすればその内容を忘れて次の目標に向かうだろう。

(……それだけは、避けなければならぬな)

 きっと刺激的な戦いになるだろうと、高揚する心臓がベガに教えてくれている。だからこそ、この戦いを記録する者がいないのが惜しかった。ここから生きて帰らなければ、そんな戦いが忘却されていくことが残念でならなかった。その末路を拒もうと思うなら、なんとしてでも生き延びる以外に道はない。

「――さて」

 軽く腰を落とし、敵の全身を改めて観察する。普段戦場に出たがらないことが不思議なほどに引き締まった身体には、控えめな見た目ながらしっかりと筋肉がついていた。

 真っ向からの瞬発力勝負を挑んだところで、クライヴを張り切って圧倒することはできないだろう。無駄を極限まで削ぎ落としたかのような肉付きは、力よりも速さを求めて積み重ねられた鍛錬の賜物だ。

 その身のこなしに加えて使ってくるのは修復術、一度流れを取られればそのまま死に至ることも大いにあり得る。さて、どのようにして乗り越えたものか。

 知らず知らずのうちに手が剣の柄へと伸びていたのに気づき、ベガはその手をとっさに構え直す。この剣は切り札だ、そうおいそれと晒していいものでもない。そんなことをしたら、戦いの時間が短くなってしまうではないか。

「さて、無駄話もここまでにしようか。普段は喋ってる方が好きだけど、君相手じゃ何時間話したところでめぼしい成果は得られなさそうだ」

「ちょうどいい、儂もちょうど我慢の限界が来たところじゃ。……貴様との闘い、芯まで味わいつくさせてもらうぞ」

 強者の振るう刃には、その境地に至るまで積み重ねてきた人生が乗っている。孤独に研鑽を積み重ねてきた者ならそれに対する傲慢なほどのプライドが、友と戦う者ならばそれに対する感謝や信頼が。……時に言葉よりも雄弁に、刃は強者の人生を語ってくれる。

 マルク・クライベットもその類の人間だった。強者に対して怯えていることを隠せていなかったにもかかわらず、こちらに立ち向かってくる刃には確かな想いが乗っていた。今まで刃を交えた者たちの誰よりも欠如していた自信を補って余りあるほどの仲間への想いが、飢えた獣のような勝利への渇望が顔を覗かせていた。それは間違いなく、敬意を払うに値する強いもので。

 クライヴとも刃を交えれば、冷たい表情の裏に隠れた思いが少しは露わになるのだろうか。そんな興味がベガの中で僅かに疼く中、それを拒絶するかのようにクライヴはこちらに手を突き出して――

「悪いけど、裏切り者をもてなすつもりはないんだ」

 冷たい冷たい声が空気を揺らし、一泊遅れてベガの皮膚を鳥肌が走る。文字通り一呼吸で勝負を終わらせに来ていることを、五百年積み重ねた経験が知らせていた。

 とっさに飛び退き、大きく距離を取って態勢を立て直す。転移させられた空間がある程度動き回れるだけの広大さを持っていたことが救いだった。そうでなければ、今頃壁際に追い込まれていてもおかしくなかったはずだ。

 修復術が対象に触れることを起点とする魔術である以上、一度しっかり掴まれたらその時点で終わりだ。一瞬にして体内の魔術神経は好き勝手に弄りまわされ、魔力を操ろうとした瞬間に爆ぜる体にされても何らおかしくない。――ある程度実力のある幹部全員に転移魔術の適性を与えるような男ならば、それぐらい造作もないことは容易に想像できた。

 自分も大概魔術の常識からはみ出した存在である自覚はあるが、クライヴの異常性はそれをはるかに上回る。高々はみ出し者程度のスケールでは、魔術の常識そのものを捻じ曲げようとする男の狂気に勝ることは到底不可能だ。

『強者』として相手の全てを受け止め、打ち破った上で勝利するのがベガの理想だ。己に課した責務だ。だが、生存のために今だけはそれを放り捨てる。この先に必ず待っているであろう強者との闘いを味わいつくすために、ここで死ぬことだけは許されなかった。

 退いたことで大きく距離は開いてしまったが、クライヴが視界から消えない限りは問題ない。それを証明するかのように手のひらをクライヴのいる方向へと掲げた、その時の事だった。

「ふうん、対抗しようとはしないんだ。味わいつくすとか言ってた割には、随分と消極的な真似を――」

 するんだね、と。

 突如背後から聞こえてきたクライヴの言葉を聞き終わるまでもなく、ベガは準備していた魔術を即座に展開する。刹那の後、ベガは数瞬前までクライヴが立っていた場所へ戻ってきていた。

 クライヴが『転移もどき』と呼んだそれは、ベガが操る魔術をある種応用した結果生まれたものだ。目視可能且つ遮蔽物がないという条件は求められるが、逆に言えばそれを満たすだけでベガは視界内のあらゆる場所へと移動することができる。それが魔術の常識を飛び越えた領域にある業であることは、いうまでもなく明らかだ。

「思った以上に釣れないね、君も。『触れられたら終わりだ』ってこと、ちゃんと理解してくれてるみたいだ」

――ただ、本物の転移魔術の前ではそれも霞んでしまうと言うだけの話で。

 転移魔術に制限など基本なく、魔力の操作と到着場所のイメージが明確に描けていれば壁だろうが何だろうが無視して目的地にたどり着くことができる。それすなわち、ベガが行けるところには全てクライヴも移動できるという事になるわけだ。

「ある程度覚悟はしておったが、あまり気分のいいものではないな……‼」

「ああ、君は転移魔術が好きじゃなさそうだったもんね。自分の積み重ねが否定されるってなれば、そうなるのにも納得は行くけど」

 歯ぎしりするベガに嘲笑を向けながら、クライヴはだらんと垂らしていたもう一本の腕をおもむろに掲げる。……背後で何かが凍り付く様な音が聞こえたのは、その直後の事だった。

「でも、このままお互い転移してばっかじゃ時間の無駄だ。もう少し効率的に、追い込み漁と行かせてもらうよ」

 一瞬だけ視線を投げれば、巨大な氷の槍がこちらに照準を合わせているのが見える。それを囲うように生み出されていく弾丸も大きさは小さいが、今の均衡は少しの刺激だけで崩れ得る危ういものだ。……小さな氷の礫でさえ、直撃すれば致命打になる。

「あまり戦場に出ない立場上、魔術の試し打ちにも限界があるからね。始末されるついでに威力の実験台ぐらいにはなってもらわないと」

 無数の武装を差し向けながら、クライヴは冷徹な笑みを浮かべる。実力の底など微塵も見せるつもりのない魔術師が仕掛けた網は、獲物を徐々に袋小路へと追い込みつつあった。
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