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第六章『主なき聖剣』

第五百十六話『早起きの理由』

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――小さな窓から射しこんでくる日の光に刺激され、リリスの意識はゆっくりと覚醒する。目を開けてみればシャンデリアが外の光を反射してキラキラと輝き、夜の落ち着きが嘘のような存在感を放っていた。

 物音を立てないように体を傾け、アネットたちが眠るベッドに視線を移す。どうも二人はあのままぐっすりと眠れたようで、夜に見た時からほぼ変わらない体勢のまますうすうと寝息を立てていた。

 いろいろな都市や村を回る都合上、やはりどこでも熟睡できる技術は身に着けているという事なのだろう。バラックのホテルでは随分と早起きをしていたイメージがあるが、彼女もまた騎士として過ごした半年間で色々と変化しているらしい。

 フェイが熟睡しているのは――まあ、あまりにもイメージ通りだ。ベルメウにいた時も睡眠時間は長めに確保していたらしいし、もともとがあまり燃費のいい方ではないのだろう。精霊としてのスペックを人間の器に落とし込んでいると考えれば、それも理解できる話だ。

 どちらかと言えばリリスも寝起きが良い方ではないのだが、今日の目覚めはとてもすっきりとしたものだった。窓の外が朝焼けの色に染まっているあたり、もしかしたら必要以上の早起きになってしまったかもしれない。

 あれほど激しく動いたはずなのに体に疲れはなく、布団に潜り込んでいるのに眠気が再び襲ってくることもない。目が覚めてから数分足らずだというのに、いつでも全力を出せる準備が整っている。

「……それもこれも、ツバキのおかげかしら」

 昨晩の事を思い出し、口の中だけで小さく呟く。余りにも唐突な提案ではあったが、その先で感じた衝撃も感慨も、満足感もリリスは全てはっきりと憶えている。……断じて、夢なんかではない。

 と言う事はつまり、同じベッドで眠りにつく前にされた頼み事も夢ではないというわけだ。そんなことを考えながら、反対方向へと寝返りを打ちながら視線を移動させると――

「……影魔術、こんなこともできるのね……」

 仰向けで眠るツバキの眼の上には薄い影の膜が覆いかぶさっていて、思わず困惑の声が口から零れる。特訓を経て影をより自由に操れるようになったとは聞いていたが、まさかここまで俗っぽい使い方をするようになったとは思っていなかった。

 影魔術でアイマスクを作るという発想自体は単純だが、術者が眠っても維持されているあたりその安定性は卓越したものだ。物理的な物ではなく感覚的な遮断だから強い刺激が貫通してくることもなく、また着け心地の問題も魔術で作っている以上関係ない。見た時は自分の目を疑ったが、考えれば考えるほど合理的なやり方だ。

 これもフェイが考えた物なんだろうか――などと思いながら、リリスは穏やかに眠るツバキの肩に手をかける。余りにも時間が早すぎるのが申し訳ないが、『君が起きたら起こしてくれ』と言われた以上やらない選択肢はなかった。

「……ツバキ、起きてちょうだい」

 控えめに肩をゆすり、耳元で小さく囁く。目覚ましにしてはあまりに弱々しいアピールしかできないが、ツバキが目覚めるのにはそれだけでも十分だった。

 しばらくゆすっているうちにもぞりと体が動き、それと同時に瞼を覆っていた影が霧散する。そのままぱちりと大きな黒い瞳を見開くと、ツバキはふんわりと微笑を浮かべた。

「おはよう、リリス。随分と早起きだったみたいだね」

 もぞもぞと体を起こしながら、起床一秒後とは思えないはっきりとした声でツバキは挨拶する。初めて同じところで眠ってから今に至るまで、ツバキの寝起きの良さはずっと変わらないままだ。

 先に起きていたリリスよりも先に布団から脱出を果たしたツバキは、手近にあった椅子に腰かけてこちらを見つめてくる。それに倣ってリリスもベッドの上に座り込むと、ツバキは軽く伸びをしながら話を続けた。

「昨日結構激しくやり合ったから心配だったけど、ちゃんといい時間に起きれたみたいで安心したよ。……どう、よく眠れた?」

「ええ、それはもうぐっすりとね。何か夢でも見るかと思ってたけど、そんなこともなく気が付いたら朝陽が射しこんでたわ」

 こちらを案じるかのような問いかけに、軽く胸を張りながら応える。完全な熟睡だったせいなのか、お世辞にも長いとは言い切れないような睡眠時間に見合わないほど体はしっかりと回復していた。

「それならよかった。君には酷なワガママを言っちゃったかもしれないって、少しだけ心配だったんだよね」

「大丈夫よ、短い睡眠には慣れてるから。『できれば二人より早い方がいい』って言われただけで、いつまでに起きろって指示をされてたわけじゃないし」

 安堵した様子のツバキに、リリスは胸を張って返す。完全な休息を取ろうとするなら長時間の睡眠が必要なことは間違いないが、どれだけ寝不足であろうと帳尻を合わせる術はしっかり心得ている。今までの過酷な労働環境からすれば、これだけの睡眠が出来れば十分すぎるぐらいだ。

 ツバキが何をしたいのかはまだ聞かされていないが、それに早起きが必要となればやらない理由はない。後は寝起きだけが問題だったのだが、予想以上にすっきり起きられたのは嬉しい誤算だった。

「……それで、早起きして一体何をするの? 昨日の口ぶりだと、あまりアネットたちには気づかれたくないような感じだったけど――」

 内心で少しだけ胸を張りつつ、リリスは話を前に進める。早起きは何ルネかの得だとはよく言われるが、その時間を無為に使ってしまっては得も何もあったものではない。折角アネットたちより早億起きられたのだ、そのアドバンテージは有意義に使わなければ。

「うん、できればアネットたちには気づかれたくないかな。と言うか、気付かれたらほぼ百パーセント止められる。昨日の模擬戦だって、誰かに相談したら止められるのは目に見えてたしね」

 リラックスした表情が一瞬で真剣な物へと変わり、ツバキは横目で眠る二人の姿を見つめる。少し想像してみれば、ツバキが言った通りの展開は何となく想像が付いた。

 お互いに寸止めと決めあってこそいたが、模擬戦が百パーセント安全な保証はどこにもない。現にツバキの切り札が不発に終われば短時間とはいえ氷の中に閉じ込められる危険はあったし、ツバキの短剣が実際に突き刺さっていた可能性もゼロではなかった。二日後に決戦を迎える身である以上、戦力を消耗させるリスクは避けられるなら避けるべきではあるだろう。

 それを悪いと責めるつもりはないし、寧ろ理屈としてはそっちの方が正しいだろう。それでもリリスが全力で臨んだのは、それがツバキの『ワガママ』だったからで。

「だから、これはあくまでボクがそうすべきだと考えてるってだけの事だ。本当にそれが正しいかは分からないし、色々と穴がある考え方なのも理解してる。……けれど、クライヴを倒そうと思うならこれぐらいはやらなくちゃいけないって思うんだよ」

 拳を握りこむツバキの声は、小さいながらもはっきりとリリスの耳朶を打つ。リリスにはまだ見えていない可能性を見つめる相棒の胸の中には、今までにない熱がはっきりと宿っていた。

 昨日の模擬戦をきっかけにして、ツバキはさらに変化しようとしている。その先がどこに向かうか分からなくても、それを見届けるのは他の誰でもないリリスの役目だろう。逆の構図になってもその関係性は同じであってほしいと、そう思う。

「――分かったわ。何をするのか知らないけど、それが貴女の意志なら私は尊重したい。それがクライヴを倒すことに繋がるんだったらなおさらね」

 迷いなく頷くことではっきりと背中を押すと、どこか張り詰めていた表情に安堵の色が浮かぶ。それと同時にゆっくりと椅子から立ち上がり、ツバキはリリスに向かって真っすぐ手を伸ばした。

「ありがとう、リリス。……それじゃあまず、カイルの所に挨拶に行こうか」

「……え?」
 
 どこか吹っ切れたような様子で持ち出された皇帝の名に、リリスの目は思わず点になる。伸ばされた手を取ることに躊躇いはないが、リリスの中で断片的に描かれていた予想図は一気に大規模な物へと変化した。……リリスが押した背中は、想像したよりもずっと大きな一歩を踏み出そうとしている。

 口から飛び出しそうになる無数の疑問をどうにかこらえ、二人は手をつないだまま廊下へと出る。自室のドアが完全に閉じられたのを見届けてから、リリスはすぐさま振り向いてツバキと視線を合わせた。

「皇帝と話す必要があるって――貴女、一体どこに向かうつもりなの?」

 少なくとも、修練場を勝手に使う以上の事をやるつもりなのは間違いないだろう。そんなことを思って緊張しながら問いかけたリリスに対し、返ってきた答えはとても軽快な響きを伴っていた。

「そんなに緊張しなくていいよ、ただ少しだけ遠出するのを伝えに行くだけだし。……欲を言えば、人と馬車をちょーっと貸してほしいとは思ってるんだけどさ」

「……貴女が早起きしたがった理由、今のではっきり分かった気がするわ」

 その声色にそぐわないスケールの大きな目論見に、思わず何度も目を瞬かせながら呟く。――ツバキの使う『欲を言えば』は大概本命の目的を指していることを、リリスははっきりと知っていた。
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