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第六章『主なき聖剣』

インタールード⑤『綱渡りの後で』

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『帝位簒奪戦を仕掛けるんだ。帝国のルールに則って正式に戦いを挑んでしまえば、いかに相手が強くたって無下に手を出すことは出来ないからね』

 突然思いついたのかそれともずっと温めていた計画なのかは知らないが、クライヴが唐突にアグニへそんな計画を共有してきたのが三日前。そこから必要な情報を集め書類を整え、無事に要求を通したのがついさっきまでの事。……ああ、我ながらよくやっていると言えるだろう。

「とは言え、生きた心地はしなかったけどな……」

 まだ引っ付いているかを確認するかのように手足の付け根をさすりながら、拠点に帰り着いたアグニは深く息を吐く。ベルメウで追い詰められた時のことが可愛く見えてくるほどに、あの部屋でのやり取りは熾烈が過ぎる鉄火場だった。

 少しでもこちらが交渉を急げばアウト、切り札の使い時を間違えればそれはそれでアウト。結局のところ最後までどうして体が動かなかったのかは見当が付かず、生きて帰ってこられたのはクライヴの読みが的を射たものだったからに過ぎない。……終わってから振り返ってみると、あまりにもリスキーな綱渡りだった。

 間違いさえしなければ通る戦略を作ったクライヴが偉いのか、それとも実行して見せたアグニが偉いのか。個人的には自分の事も労ってほしいという気持ちはあったが、真に価値があるのはやはりクライヴの方なのだろう。

 アグニの役割を取って代われる存在は、この世界を探せばきっと何人かは見つかるだろう。そう多くいるような人間ではないという自覚こそあれ、それでも唯一無二ではない。ならば、価値があると見るべきはクライヴの方だ。

「……本当に、悪巧みの上手い大将だよ」

 ベルメウの時もそうだったが、クライヴは国や都市に存在するシステムを悪用するのがあまりにも上手すぎる。クライヴの修復術も時として敵の魔術を逆利用するわけだし、そういう考え方がもう癖として染みついてしまっているのだろうか。

『帝位簒奪戦』は、戦いの国であるヴァルデシリア帝国が持つ伝統的なシステムだ。皇帝が崩御した時は帝国全土に向かって継承戦の開幕がアナウンスされるが、これが挑まれた先の結果ならば話は違う。……『帝位簒奪戦』に勝利すれば、無条件で帝位は勝者の物になるのだから。

 その勝負は皇帝に直接申し込まなければならない代わりに、この帝国で最も神聖な戦いとして分類される。故に、その戦いの格を落とすような真似は許されない――有体に言ってしまえば、正式に『帝位簒奪戦』が開始されるまで互いの勢力に傷を付けるようなことは出来なくなる。クライヴから教えられたこの知識があったからこそ、アグニはあの空間の中でどうにか平常心を保てたと言っても過言ではなかった。

 自由に体を動かせることに普段以上の喜びを覚えながら、アグニは革張りの椅子にもたれかかる。この仕事を終えてしまえば、後は開戦まで自由にしててもいいとクライヴからすでに通達されている。それもあってか、アグニの心は普段以上に軽かった。

 あれだけ命を張った対価としてはまあ当然も当然な話だろうが、自由な時間のありがたみは普段の生活が苛烈であればあるほどより深さを増していく物だ。命を脅かすものもなく、ただのんびりと過ぎていく時間に身を任せているだけでいい。……なんと気楽で、それでいて開放的な事か。

 いっそ生まれてからずっとこんな時間の中で過ごせていればよかったのにと、そんな感傷的な想いが珍しく頭の中によぎる。『円卓の間』とやらで軽く走馬灯を見た影響なのか、無意識の内に少し昔の記憶を思い出しているのだろうか。

 そこはきっと、アグニ・クラヴィティアの分岐点だ。そこで何かが違えば、そこで何か違っていられたら、今のアグニはここにいない。それがいいことか悪いことかは隅に置くとしても、あの場所で間違えたから今自分はここにいるわけで。

――分かっていたつもりだった。自分は全部を救う英雄にはなれないと悟って、ならばせめて大切な物だけは全部守れるようにしようと、そう思って身の程をわきまえたつもりだった。英雄の夢を諦めることを、『大人になる事』だと勘違いしていた。……だが、それすらも終わってみれば間違いだった。

 大切な物を全て守ろうとすることすら、ただの凡人には過ぎた真似だった。自分の手は思った以上に小さくて隙間だらけで、一瞬にして理不尽は大切な物を奪い去ってしまう。……それでも何かを守ろうとするのならば、両手でしっかりと大切な物を握り締める以外に方法はないわけで。

「……あの時からそれが分かってたら、少しは俺も変われてたんかね」

 宣戦布告を交わした二人の天才の瞳を思い出しながら、アグニはただ問いを虚空に投げかける。答えなど求めていないし、アグニが満足できる答えを出せる存在がこの世にいるとも思えない。……いつだってアグニの知らないことを教えてくれたあの子は、遠い空の彼方へと消えてしまった。

 空っぽだ。必死に力強く握りしめるアグニの手のひらの中には、もう何も残っていない。その中に収めていたかったはずの大切な存在は全部全部零れ落ちて、どこかへ消えて行ってしまった。今更それを真面目にくやもうと思っても、きっとすべてが手遅れだ。

「……やだねえ、年を取るってのは」

 心は痛む。後悔もしている。だが、それをどこかで割り切れてしまっている自分が居る。それが何故かとても物悲しくて、アグニは自嘲気味な笑みを一つ。……自室のドアが開いたのは、その笑みがだんだんと乾いた真顔に変わり始めたころの事だった。

「そんなこと言ってると老化がさらに進むわよ。……何、もしかしてあーしに一日でも早く『ジジイ』って呼ばれたい願望でもあるわけ?」

 この二年ちょっとで随分聞きなれてきた小生意気な声が耳朶を打ち、アグニの表情にふといつも通りの色が戻ってくる。きっとアグニ本人ですらも気づかないうちに、翡翠色の瞳をした小柄な少女はアグニの心を救っていた。

「生憎オッサンにそんな倒錯的な趣味はねえよ。それよりも、一世一代の交渉を終わらせた俺に対して何かねぎらいの言葉があってもいいんじゃねえのか?」

「はいはい、あーたはよく頑張ったわよ。でも、それを成功させたのにはあーしやボスのサポートもある。ねぎらいが欲しいなら等価交換が相場ってところね」

 尊大に腕を組みながら、少女――セイカはすんと鼻を鳴らす。要約してしまえば『自分の事もちゃんと褒めろ』と言う事なのだが、それがこれだけ大仰な言い回しになるのがまたセイカらしいと言ったところか。

「そうだな、お前にはめちゃくちゃ助けられた。お前たちが『穴』を安定化させてくれなかったら、あんなにちょうどいいタイミングで話に割り込むことは出来なかったろうよ」

「そうそう、それでいいのよ。……ま、あっちの皇帝には気づかれて蓋をされちゃったけど」

 筒抜け状態もこれで終わりね――と、セイカは無念そうな様子でため息を一つ。自分の作り上げたシステムが対策されたときに素直に落ち込めるのはきっと、まだセイカが純粋な研究者としての一面を捨てきれていないからなのだろう。

 セイカもきっと、大別すればリリス・アーガストやマルク・クライベットと同じ側に立つ人間だ。大きな願いとそれを叶えるに足る才能を同時に持ち、それ故に『大人』にならずに済む可能性を持つ稀有な存在。……その輝きがこれからも濁らなければいいと、アグニは心からそう思う。

 セイカが何を望んで組織と行動を共にしているのか、その理由を詳しく聞いたことはない。だが、その野望が彼女にとって尊いものであることは知っている。……だからこそ、空っぽのアグニでもセイカの事はある程度信頼できた。

「しっかしあの皇帝、見れば見るほど恐ろしいわね。……アレを正面から攻略できるビジョン、少なくともあーしには見えないんだけど」

 研究成果が打ち破られた無念を引きずったまま、セイカは皇帝――カイルと敵対することへの率直な不安を漏らす。それはきっとその通りで、本来ならばアグニも抱かねばならない危機感だ。原因不明かつ対策不能な拘束術など、命がかかった場面で食らえばひとたまりもないのはわかり切っている。

 だが、それでもアグニに不安はない。少なくともクライヴは、皇帝との駆け引きの中で現状を読み切っている。……それはつまり、カイルやリリスたちが未だにクライヴの手のひらの上から抜け出せていないという確たる証拠になるわけで。

「――大丈夫だ、俺たちは負けねえ。……こっちにだって、バケモンはうじゃうじゃいるんだからな」

 慎重派なアグニにしては珍しく、強気な言葉が口から零れる。翡翠色の瞳の中に映りこむ自分は、自分でも意外なぐらいに獰猛に笑っていた。
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