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第五章『遠い日の約定』

第四百四十七話『無理解の果てに』

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――初めて突き立てられた影の刃は、リリスの思考を一瞬にして無理解に染め上げた。

 先の一瞬で何が起こったのか、どうしてツバキさえも意識を失っているのか。どんな失策が原因でリリスは敗北したのか、その全てが分からない。……分からないまま、リリスはマルクの絶叫を聞いていた。

 リリスの記憶の中でも、ここまで苦しそうにしているマルクの姿は見たことがない。強いて言うならば、研究院からの依頼で向かったあの村でうなされているのを見たときぐらいか。……あの時は膝枕をしてあげられたが、今のリリスには何もできない。足に開けられた無数の穴は治癒魔術で塞げても、そこから零れ落ちた血までもがすぐさま戻ってくるわけではないのだから。

「……マル、ク……‼」

 助けなければと、意識だけがそう叫んでいる。だが、ただ見つめるだけでもグラグラと揺れる視界が、足に力を込めた瞬間希薄になっていく意識がそれを許さない。それを引きずってでも動こうとした瞬間、リリスは間違いなく気絶するだろう。

 今までに何度も助けられたこれまでの経験値を、リリスは今だけ恨めしく思う。動けば気絶するなんて分からなければ、それでもリリスはあの背中に飛び込めたかもしれないのに。……たとえ無理なんだとしても、最後の一瞬までクライヴの敵で居られたかもしれないのに。

 培ってきた経験が、何度も何度も死地を乗り越えてきたことによって磨かれた直感が、『今意識を手放してはいけない』と警鐘を鳴らす。マルクの意識も途切れかけている今、リリスまでもが完全に倒れれば『夜明けの灯』は全滅する。……それだけは、それだけは避けなくては。

「……なん、なんだよ、これえ……」

 何も手出しができないまま、助けることなんて夢のまた夢のまま、絶叫しながらのたうち回っていたマルクは糸が切れたかのようにぱたりと地面に倒れ込む。……その頬を、クライヴは愛おしげに撫でていた。

 この男は、マルクの何を知っているのだろうか。マルクを求めることに、一体どんな意味があるのだろうか。それはきっとクライヴの口から語られることではないし、リリスたちがどうにか暴かなければならないものだ。……そのチャンスはまだ、失われてはいない。

「よかった、つつがなく計画は終わりそうだ。……まずは一人、ちゃんと取り戻せた」

 頬を、髪を優しく撫で続けながら、クライヴは柔らかい声で呟く。……やがてそれにも満足したのか、クライヴは振り返って倒れ伏すリリスたちを視界に捉えた。

「……後は、この子たちの処理をどうするかってだけだな。二人とも実力は十分あるし、あの子の研究が進むのにも十分貢献してくれそうだけれど」

 ゆっくりとこちらに歩み寄りながら、ぶつぶつとクライヴは思考を言葉に出力する。一パーティを半壊に追い込んだ後とは思えないぐらいに落ち着いたその口調が、リリスの背筋を震えさせた。……クライヴと言う人間は、あまりに戦いに慣れすぎている。

 一体どこからどこまで、クライヴの手の内だったのか。都市庁舎を全焼させるところからか、それともリリスたちを分断するところからか。……もしくは、レイチェルについて行くようにしてリリスたちがベルメウに訪れるところからか。クライヴの振る舞いを見ていると、その可能性すら十分にあり得てしまうのだから恐ろしい。

 クライヴは自らの実力をここまで温存したまま、知略だけでこの大都市を完全に支配して見せた。そして今、自らの手で計画の大詰めに入っている。『精霊の心臓』の影に隠れた、もう一つの計画を。

「この子たちの命をちらつかせれば、マルクはきっと従わざるを得なくなるだろうけど――いや、いっそ壊してしまった方が僕の計画に賛同する以外の選択肢が失われていいかな……?」

 ゆっくりとこちらに向けて近づいていた足音が、やがてぴたりと止まる。どうにか首を動かして見上げれば、クライヴはレイチェルに右手を向けていた。

 一見何の変哲もない、魔術を行使するような気配すらもない右手。しかし今は、それがあまりにも恐ろしい。リリスの理解が及ばない現象を生み出し続けたそれは、比喩表現などではない文字通りの『魔の手』だ。これを打ち破れない限り、リリスたちに勝利はない。

「ああ、マルクにももう一回味わってもらおう。遠い記憶なんかじゃなく、新鮮な痛みを。……自分の半身とすら思えるような存在を奪われる、あの身が引き裂かれるような苦しみを」

 クライヴの自問自答は結論へと至り、クライヴの手がリリスに迫る。抵抗する術はなく、また逆転の芽はない。『夜明けの灯』は打てる策の全てを吐き出し切り、そして敗北した。リリスたちは、最後までクライヴの手のひらの上を抜け出すことが出来なかったのだ。

 その右手がリリスに触れた時、この身に何が起こるのか。今までに体感したことのない未知に対する恐怖は、リリスを体の芯から震え上がらせる。それは長らく感じてこなかった、明確な『死』に対する怯えの感情で――

「――狼藉はそこまでにしてもらうぞ、人間」

 そんな凛とした声が響いたのを、リリスは一瞬走馬灯だと勘違いした。

 死に際に見る都合のいい夢だと、どうにか生存への経路を探ろうとする無為な探索だと。少なくとも一度はそう結論付けたのだが、どうしてだかクライヴまでもその幻聴を聞いて背後を振り返っている。……その視線の先には、長く伸びた紫色の髪を揺らめかせる小柄な女が風の弾丸を練り上げていた。

 瞬間、リリスの感覚がとてつもなく強大な魔力の気配を捉える。リリスやツバキに匹敵――いや、それすら超えていたとしてもおかしくはない。――単純な力押しに限って言えば、この少女は間違いなくリリスをすら飛び越えて見せるだろう。

「『穿風』ッ‼」

 両手を胸の前で重ね、少女は風の弾丸を打ち放つ。……それに対するクライヴの反応には、初めて戸惑いや焦りの気配が混じっているように思えた。

「……く、おおッ‼」

 体をとっさにひねり、クライヴは風の弾丸の前に右手をかざす。次の瞬間に吹き荒れた暴風が、少女の一撃が防ぎ切られたことを証明しているかのようだった。

「レイチェル、今すぐに安全な場所に下がっておれ! ……いまのお主を、こやつの正面に立たせるわけにはいかない!」

「うん、分かった! ……無理だけはしないでね、フェイ‼」

 衝突によって生み出された風が止み始めるころ、フェイと呼ばれた少女は後ろをちらりと向いてレイチェルに指示を出す。……そのやり取りを見れば、突如現れた救世主が何者かはすぐに理解できた。

「だってさ、精霊さん。主の願いを汲むのなら、僕の邪魔をしない方が身のためだと思うけど?」

「戯言を言うでない、貴様を捻る如き無理の内に入らぬわ。起き抜けの準備運動にもならぬ」

 クライヴの挑発的な言動に、しかしフェイは不遜に返す。……リリスたちを長い間見守ってきた『守り手様』らしく、その立ち姿は堂々としたものだった。

「……突破できたのね、レイチェル」

 フェイの指示通り少し離れた物陰に身をひそめるレイチェルを見つめながら、リリスは自分たちに降りかかった幸運に感謝する。今このタイミングで来てくれなければ、間違いなくリリスたちは殺されていただろう。レイチェルが試練を突破したことで、『夜明けの灯』の命運は首の皮一枚で繋がっている。

「本来なら人間の身など守る性質ではないが、他ならぬレイチェルの友人故な。……好き勝手はさせぬぞ、人間」

「悪いね、僕にも譲れない理由ってのはあるんだ。……最低限のワガママぐらいは通させてもらうよ」

 しかし、フェイを前にしてもクライヴの態度が軟化することはない。精霊を前にしても揺るがないほどに強い想いが何を由来としているのか、リリスには分からなかった。

 どんな経験がルーツにあれば、これほどまでに残酷な筋書きを描くことが出来るのか。その筋書きの道中で多くの人を傷つけながら、マルク以外に興味がないような顔が出来るのか。……分からない。理解しようとするのが間違いだと思えるぐらいに、クライヴの人物像はいつまでもぼやけてとらえきれないものだ。

「そうか。ならばここで消え失せよ」

「生憎それもお断りだ。全部を取り戻すまで、僕は絶対に死ねないからね」

 構えを取った精霊に応えるように、クライヴは両の手を構える。片手だけではフェイに対抗するには不十分だと、おそらくそう判断したのだろう。

 強大な魔力の気配を立ち上らせるフェイと、気持ち悪いぐらいになにも感じ取れないクライヴ。それだけ見れば勝敗がどちらに傾くかは明らかだが、それを覆してきたのがクライヴだ。……もしもその策が、クライヴにさえも届くとするのなら――

「――『風滅』‼」

「僕に従え、魔力たちよ‼」

 フェイが短く叫んだのに反応し、クライヴが今までにないほどに声を張り上げる。……瞬間、黒い風が渦を巻きながらクライヴの立っていた位置を完全に包囲した。

 小さな一点に全てを集中させたそれは、周囲を巻き込むことのない完全な対人魔術だ。あの範囲以外に被害をもたらすことはなく、しかし捉えた人間の命を取りこぼすことは絶対にない。一度完成してしまったそれを突破することは、きっとリリスたちの全力ですらも困難で――

「うっひゃあ、やっぱりとんでもない火力してるなあ。正面から戦わないで正解だった」

 それはきっとクライヴも理解しているところなのだろうと、そう思った。

 いつの間にかクライヴの姿は掻き消え、マルクの元へと戻っている。その両手は壊れ物を取り扱うかのように優しくマルクに触れており、その周囲を淡い光が包んでいた。

「……貴様、転移ですらも……ッ」

 フェイもとっさに反応して振り向くが、それですらも手遅れだ。初めてリリスの感覚にもはっきりと捉えられたその気配は、今までに何度も見てきた転移魔術のそれで。

「僕は必ず全部を取り戻す。ちょっと邪魔が入ったけれど、僕のやることは変わらないよ」

 転移を阻止しようとするフェイたちをあざ笑うかのように、クライヴの姿は消えていく。それがどこを目的とした転移なのかは、火を見るよりも明らかなもので。

「……待ち……なさい……‼」

「僕達を止めたいなら次は帝国に来るといい。僕もマルクも、アグニだってそこにいるからさ」

 取り戻したいのなら、全てを投げ打つ覚悟でおいで――と。

 最後に宣戦布告さえ残してみせながら、クライヴとマルクの姿は完全に消失する。――燃え落ちた都市庁舎を背景に発生した遭遇戦は、『夜明けの灯』の完全敗北で幕を閉じた。
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