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第五章『遠い日の約定』

第三百八十六話『歪められた意志』

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「……なんだよ、それ」

 目の前で起きた事象に理解が追いつかないまま、俺の口からそんな呟きが漏れる。あの男はレイチェルの弾丸でかなりのダメージを負っていたはずで、もう魔力なんて残っていないはずで。完全に俺たちは勝利したはずで、もう今頃は土壁の向こうにいたはずだ。

 だけど、現実はそのどれでもない。なぜか男はまだ立っていて、頭上にはさっきの弾丸なんかよりもよっぽど凶悪な形状をしている武装が構えられていて。……それを携える男の目には、意思疎通をしようなんて意志を丸ごと削がれてしまうぐらいの盲信が宿っている。その首筋では、開かれた本の文様が誇らしげに光を放っていた。

 さっきまでも男と分かり合える気はしなかったが、それでも言葉を交わすことはできた。しかし、今はもうそれすらも不可能だ。『明日も生きる』と言うただそれだけの目的のために、男は限界を超えてもなお俺たちの前に立ちふさがっている。……人間として失ってはいけないものを、きっといくつも犠牲にさせられて。

「そんなことが、あっていいのかよ……?」

 この状況を裏で手繰っている襲撃者が洗脳魔術を使う事はもうわかっていたことだ、今更それに驚いてはいられない。……でも、いくら盲信があるからと言って動かないはずの身体が動くようになるものなのか。根本的な魔術の使い方まで、変わってしまうものなのだろうか。――魔術一つで、人は他人の在り方をここまで残酷に歪められるものなのか。

「明日を掴むんだ。倒すんだよ。――でなきゃ」

 全て俺の目の前で起こっていることなのに、まるで質の悪い冗談を目の当たりにしているかのようだ。人間の身体がこんな歪な姿勢で立っていられるものかとか、そもそも出血だってひどいはずだろ、とか。現実を『あり得ない』と否定したくなるような言葉だけが、俺の脳内であふれ出している。
 
 だが、どれだけ疑問を並べ立てたところでこの状況が覆ることはない。それを雄弁に語るかのように、男は僅かに掲げた右手を軽く振り下ろして――

「そうでなきゃ、与えてもらった意味がねえ――‼」

「マルク、後ろに跳んで‼」

 レイチェルの警告で我に返って足に力を込めたその直後、俺がついさっきまで立っていたところを土塊の剣が薙ぎ払う。回避が遅れた俺の腕をその剣先が掠め、肌に細く赤い線が走った。

「……いっ、づ……‼」

 限界まで熱された物体を押し付けられたかのような痛みが俺の脳を焼き、赤い線から血が垂れ落ちていく。男が放った剣戟の威力は、さっきまでの弾丸なんかとは比較しようもないぐらいに凄まじいものだった。

 掠めただけでこんなにすっぱりと切れるという事は、直撃したらどうなるかはもうわかりきった話だろう。受け止めるなんてことはおろか、俺の身体能力じゃこれをかいくぐることなんか困難だ。さっき男にダメージを与えたやり方は、もう通用しないと見ていいだろう。

「マルク、その傷……‼」

「大丈夫だ、動けなくなるぐらいの傷じゃない。レイチェルがいてくれたおかげで、どうにか胴体とおさらばって展開だけは避けられたよ」

 心配そうな視線を向けてくるレイチェルに、俺は多少無理をしてでも笑みを返す。皮膚を切り裂かれた痛みはずっと右腕に残り続けていたが、これでもまだ軽傷な方なのは間違いない。もっともっと最悪な結末を迎えていた可能性だって、あのままだったら十分にあり得たんだから。

「それよりも、問題はこいつをどうするかだ。……本当だったら、こんな奴ほっといて今すぐにでも逃げ出したいところなんだが」

「後ろから来てる人たちのことを思えばそれも無理、だよね。……どうにかして、この人を止めるしかないってことだよね」

 俺の言葉を引き継いで、レイチェルは首を横に振る。ただ単に力任せに攻撃を仕掛けてくるだけの相手ならいくらでもやりようは思いつくのだが、この戦場を取り巻く色々な要素が状況を難解なものへと作り替えていた。

 背後から追っ手が迫っている以上、この戦いは実質制限時間付きだ。ゆっくり観察して隙を探すなんてこともできないし、当然放置して撤退なんてこともできない。追っ手と男が合流する前にこいつを止めなければ、待っているのはあまりにも理不尽な数の暴力だ。そしてそれは、決して遠い未来の話ではない。

 そしてもう一つ、この戦いはあくまで『約定』を果たす道中で超えなければならない一つの障壁でしかない。つまりはこれを超えても困難が終わるなんてことはなく、まだまだ危険なベルメウの都市を探索しなければならないのだ。それ故に、どちらかが身を投げ打つような形でここを突破するという作戦は自動的に却下される。

『時間制限のうちに』『どちらの命も危険に晒すことなく』『俺たち二人の力だけで』男を倒さなければならないというのが、俺たちに課せられた絶対順守の条件だ。それらの縛りが付くことによって、この戦いの何度は大きく跳ねあがっていた。

「明日……明日明日明日も、生きるッ‼」

 そんなことを考えている間に土の剣は男の頭上へと引き戻され、男は再び右腕を軽く掲げる。……そのぎこちない動きは、まるで誰かに見えない糸で操られているかのようだ。

 その口からこぼれる言葉も完全にあの追っ手たちと同じになって、ただ俺たちを倒すことだけに全ての意識が集中している。……『時間稼ぎさえできればいい』なんて考えの上で作戦を立てて戦い方に工夫を凝らしていたことなんて、完全に忘れさせられてしまったのだろう。

「……どこまでも、性格の悪いことをしやがる……‼」

 まだ顔も知らない襲撃者に心からの悪態をつきながら、俺は再び飛来した剣を今度こそ完璧に回避する。これまでにいろんな敵のやり方を目の当たりにしてきたが、ここまで激しい不快感が湧き上がってくるのは初めてだった。

 アゼルと対峙した時も似たような感覚に陥ったことはあるが、今俺たちが相手取っている襲撃者の方がその何倍も質が悪い。アゼルはあれでも自らの理想を達成するために頭を回し魔術を使い、自分もまたリスクのある位置に立っていたが、男はただ楽をしようとしているだけだ。ただそっちの方が楽だから、リスクの少ない選択だから。……そう思って人々を操っているようにしか、俺には考えられない。

 確かに術者本人はそれでリスクを抑えられるだろうが、そのリスクは虚空に消えてなくなってしまったわけではない。そのリスクを背負うのは、手駒として選ばれてしまった人たちだ。今後ろから迫っている追っ手たちも、目の前でぎこちなく右手を掲げる男も。皆本来襲撃者が背負うべきリスクを肩代わりさせられて、俺たちの前に立っている。――それは、なんて自分勝手な行いだろうか。

「くそ……があッ‼」

 再び放たれた剣戟を躱して、俺はもはや理性を失っている男を睨みつける。躱すことまではできても反撃の糸口を見いだせないこの状況が、今の俺にはあまりに腹立たしかった。

 力任せに振り回される土塊の剣は単調そのもので回避も簡単だが、かと言って簡単に懐へ踏み込めるかと言われたら話は別だ。俺たちを切り刻むまで振り回され続ける剣を前にして、俺が磨いてきた近接戦闘の技術はあまりにも無力すぎる。

 そのことを悔いている間にも剣はとめどなく俺たちに向けて叩きつけられ、その度に俺たちは回避を繰り返す。これ以上俺たちがこの剣に傷を負わされることはおそらくないだろうが、このままの状態では俺たちが男にダメージを与えることも不可能だ。……男がもともと掲げていた『時間稼ぎ』という作戦が、力任せに魔術を振りかざすことによって皮肉にも達成されてしまっていた。

 このまま状況が完全に膠着してしまえば、待っているのは時間切れによる敗北だ。だが、それを打破しようにも俺が持つ手札じゃ男の懐に潜り込むことは不可能だ。よしんば何らかの奇跡で接近に成功したところで、男が防御手段を持っていないという根拠はない。拳が土魔術で受け止められるが最後、待っているのは回避しようのない死だ。

(……もしもここにいるのが、リリスやツバキだったら)

 もしそうだったのならば、この男や追っ手は障害にすらなることなくこの通りを脱出することに成功していただろう。リリスがこの程度の相手に力負けするのは考えられないし、ツバキだって影を使えば追っ手の制圧ぐらい訳ない事だ。……ここにいるのが俺だからこそ、男は大きな壁として俺たちの前に立ちはだかっている。

 一分一秒を争うようなこの状況を前に叶わないもしもの可能性を考えるなど無駄なことでしかないが、それでも思考は止まらない。今の男に対して俺はあまりに無力で、切れる手札を全て切ったところで勝ち筋が薄いのが何となくわかる。俺にやれることがほんの少ししかないと分かってしまったからこそ、あの二人だったらどうしていたのだろうかという疑問がなおさら脳にこびりついてしまってしょうがない。

 俺は逆立ちしてもあの二人にはなれない、はっきり分かっていることだ。だけど、今ばかりはそんな無謀な願いが叶ってほしくて仕方がない。この状況を前に『手詰まりだ』としか言えないこの状況が、俺は嫌で仕方なくて――

「――ねえ、マルク」

 どんどん悪い方へと傾いていく俺の思考を、凛と響くレイチェルの声がすんでのところでつなぎとめる。ふと振り返ってみれば、紫がかった紺色の瞳がまっすぐに俺を射抜いていた。

 普段はあどけなく見える表情も今までになく引き締められて、たったそれだけですごく大人びたように俺は錯覚してしまう。その変化に俺が少し驚いていると、レイチェルは真一文字に引き結んでいた口をゆっくりと開いた。

「……あの男の人との闘い、あたしに任せてもらってもいいかな。だんだん目が慣れてきた今なら、反撃のチャンスも掴めるような気がするの」
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