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第四章『因縁、交錯して』
第三百二十七話『理想の傍に』
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『なあ嬢ちゃん、賭けをしねえか?』
アグニがそんな風に切り出したことを、アネットは唐突に思い出す。あの時はそれが律儀に守られるだなんて微塵も思ってはいなかったが、あれだけの傷を受けてなお死なずに生きている現状を見るにアグニは意外にも誠実な人物だったらしい。
「……まあ、だからと言ってあの方の評価が覆ることなんて絶対にありえはしませんけれど」
柔らかい枕に顔を埋めながら、アネットは一人ごちる。本当に誠実ならば王国を転覆させかねないような蛮行をするはずがないという至極真っ当な論理が、どれだけ思いがけない一面を見せてもなおアグニの評価を最下層で停止させていた。
アグニが掲げる考え方は、徹底してアネットの理想とは食い違っている。騎士として戦場に立った以上最後の最後まで誰かを切り捨てることなんてことを考えてはいけないし、身体が動く限りは誰かを守るために死力を尽くさなくてはならない。それがアネットの理想とした騎士の背中であり、いずれ追いつくアネットの目標だ。
「……わたくし、一歩でもそれに近づけたかしら」
ベッドからゆっくりと体を起こし、五日ぶりに自分の足で床を踏む。久々の刺激に足が驚いたように震え、アネットは少しだけよろめいた。
だがしかし、長い間地道に作り上げてきた体幹がアネットの体勢を支える。そのおかげもあって倒れる寸前のところでどうにか体勢を戻したリリスは、困ったような笑みを浮かべた。
「修練、もう一度やり直さなければいけませんわね」
随分と体作りは完成しつつあると思っていたが、まだまだアネットの身体は不完全だ。踏み込むための脚力はいくらでも欲しいし、相手の攻撃を正面から受け止めるための筋力だって足りていない。――今のままのアネットでは、もう一度あの死地に踏み込んで生きて帰ることは不可能だろう。
今だけじゃなくバラックで過ごした五日間の全てにおいて言えることだが、アネットはずっと運が良かった。色々な巡り会わせに恵まれたからこそアネットはあの襲撃を生き抜いて、今こうしてもう一度自分の足で立つことが出来ている。その理由の内訳が仮にあるんだとして、その中に『アネットの実力』なんて要素は二割もあればいい方だ。
理想の騎士に至る者として、アネットは何もかも足りなさすぎる。身体能力も修練も、死地を潜り抜けるための知識の蓄積も。……その不足を知ってなお生きていられるのは、アネットに関わってくれた皆の本葬があったからに他ならない。
「よい、しょ……。久しぶりに持つと重たく感じますわね、あなた」
そんなことを思いながら、壁に掛けられていた愛剣に手を触れる。簡素な作りの鞘に納められて居心地悪そうにしていたそれは、重いながらも不思議とアネットの手によくなじむ不思議なものだ。
慎重に鞘から引き抜いてみれば、綺麗な光沢を放つ刀身がお目見えする。その輝きっぷりはまるでずっと封印されていた鬱憤を晴らしているかのようで、アネットは思わず苦笑してしまった。
「あなたがいてくれたおかげで、私はこうして生きて帰ることが出来ましたわ。……本当に、父様とあなたには頭が上がりませんわよ」
うっかり何かを切らないように気を付けながら、抜き放った剣をもう一度鞘の中へと戻す。カチンという軽やかな音が、マルクたちが去った病室に響き渡った。
あの時アネットが聞いた声は、決して死ぬ間際の走馬灯なんかではなかった。この剣の中には確かに何者かがいて、それはきっと今でもアネットのことを見守ってくれている。今は返事が聞こえなくても、それはアネットの中で間違いのない事実だ。たとえこの先一度だってあの声が聞こえなくても、この結論が揺らぐことは決してないだろう。
あの声がアネットの迷いを取り払ってくれたから、あの時迷いなく前に踏み込めた。その姿を主に相応しいと認めてくれたから、アグニの圧倒的な実力にもどうにか食らいつくことが出来た。……封印されている間もずっと、剣はアネットのことを見守っていてくれたのだろう。
「……そんなこと、ここに来るまで微塵も気づいていませんでしたわ」
ベッドの端に腰掛けて、膝の上に愛剣を載せながら小声でアネットは呟く。優しい手つきで鞘を撫でるその表情は、古くからアネットを知る者であれば誰もが息を呑むであろうと思えるほどに大人びたものだった。
――尊敬すべき騎士団長に向けて我儘な契約を突き付けて、どうにかして成果を上げようとして。振り返ってみれば、あの時のアネットは本当に焦っていたのだろう。理想の騎士になるための道のりを、どうにかして急ぎたくて仕方がなかったのだ。
「今思えば本当に見当違いな努力ですわね。……最初からずっと、わたくしのことを見てくれる方々は近くにたくさんいましたのに」
アネットが思っているよりもずっと、アネットは一人ではなかった。修練に付き合ってくれる騎士団の面々がいて、偽名づくりと言うとんでもない所業に力を貸してくれる友人がいて。――そんな娘の歩みを一歩引いたところから見守ってくれている父親も、アネットの傍には確かにいた。
そのことを忘れて突き進もうとしていたのは、他ならないアネット自身だ。魔剣の力が封印された理由を考えもせずに、ただ道が阻まれたというだけで頼ってはいられないと断じて。……敵だと結論付けて今まで見向きもしてこなかったのは、アネットの大きすぎる失態だ。
あまりにも濃い死の気配を味わった今だからこそ、父の言葉は正論だったとよく分かる。……この魔剣に宿る真の力は、『死』というものの恐ろしさを知らない子供が振るうべきものでは絶対にない。
どれだけ修練を積んでも、どれだけ自身がこの胸の中に宿っても、目の前に訪れる『死』の気配と言うのはそれらを根こそぎ否定するだけの重みを持っているのだ。そのことを知った今、封印に対するアネットの考え方は百八十度反転してしまっていた。
魔剣にかかっていた封印は、アネットの理想の道を阻むための枷でも何でもない。まだまだ未完成なアネットが軽々しく『死』の闊歩する領域に踏み入らないように作られた、父なりの安全装置だったのだろう。
「……父様がそこまで考えているなんてこと、想像もしたことありませんでしたわね」
上半身をベッドの上に投げ出して、アネットはしみじみと呟く。自分の価値観が変わるだけで周囲の見え方はこんなにも変わるのかと、アネットは新鮮な驚きを感じずにはいられなかった。
ずっとずっと、一人でたどり着くしかないと思っていたのだ。幼い頃から何度も読み込んできたあの叙事詩で語られているように、理想の騎士へ至る道はたゆまぬ修練を積み重ねることでしかたどり着けないと、ずっとそんな勘違いをしたままアネットはここまで生きてきていた。
だが、今はそれが間違いだとはっきり分かっている。たとえ戦場での姿が孤独に見えようとも、理想の騎士に至るまでの道の傍にはたくさんの人たちがいた。
もしいないように思えていたのだとしたら、それは無意識のうちにアネットが彼らのことを見て見ぬふりをしていたというだけの事だ。アネットが歩む理想への道のりは、良くも悪くも人の眼が多く集まる場所でもあるのだから。
そんなことに気付いてふと今までの人生を振り返ってみると、アネットの周りには実に色々な人が居たものだと改めて思う。彼らはアネットに関心を持ったり持たなかったり、感心していたり白い眼で見ていたり、背を押してくれたり理想の前に立ちふさがったり、その態度は本当に様々だ。……きっと、見ないふりをしていたほうがいい輩だってその中には少なからず存在するだろう。
だが、アネットはもう人の眼を意識することを躊躇わない。人と目を合わせて、自らの理想を示すことをはばからない。だって、そうした先で出会ったのが――
『貴女がたとえなんであろうと、私たちは貴女を信じる。――気高い理想を貫き通そうとする貴女のことを、最後まで信じ抜くわ』
――アネットの理想を信じて肩を並べてくれる、かけがえのない仲間たちの存在だったのだから。
あの言葉を聞いた瞬間、アネットの中で何かが動き出すような音がしたのだ。長らく止まっていた炉心に火がともされたような、自分の心の内側で何かがうごめきだすような、そんな音が。
あの時のアネットは『バルエリス・アルフォリア』であったけれど、そんなことは関係なかった。極論ほかの偽名でだって、何なら貴族でなくたって関係なかった。……リリスたちが賛同し信じてくれたのは、今までアネットが積み重ねてきた人生の在り方そのものだった。
「……失態なんかじゃありませんわよ。むしろ褒章を上げたいレベルの働きですわ」
申し訳なさそうに頭を下げていたロアルグの姿を思い出して、アネットはふっと笑みをこぼす。言葉の綾を突く様なやり方は理想の騎士らしくはないけれど、アネットの理想だけが騎士として望ましい姿じゃないことは知っている。……ロアルグが最後まで模索し続けてくれたからこそ、アネットは何物にも代えがたい出会いを得られたのだ。
『……俺も嬢ちゃんも、もう傷だらけでロクに動けたもんじゃねえだろ? ……だからよ、次にこの城の中に入ってくる奴がどっちだったかでこの戦いに決着をつけるとしようぜ』
目を瞑り、あの時のアグニとのやり取りを改めて思い出す。あの時のアグニの眼には、その賭けに勝つという確かな自信があった。……自分が動けなくなってもなお勝利だけは掴もうとする、執念と言う言葉ですら生ぬるいような意志があった。
それは提案と言ってもほぼ強制的なもので、アネットに拒否する選択肢はなかった。だって意識は朦朧として、身体は少しも動きそうにないのだから。古城を去る手段がない以上、アグニの提案を受ける以外の道は一つも存在しない。
『……ええ、上等ですわ。折角ここまでやりあったんですし、勝敗ははっきりつけるべきですもの』
だがしかし、あの時のアネットにそもそも賭けを渋るような意志はなかった。むしろ、その賭けに自分から乗りに行くほどだった。……その賭けに負けることなんて、最初から微塵も考えて居なかった。
『――へえ、随分と自信があるんだな。 自慢じゃねえが、俺の仲間はやたらと数が多いぜ?』
それにアグニは意外そうな顔をして、確かそんな風な質問をしてきた。だから、アネットは言ってやったのだ。不敵な笑みを浮かべて、アグニに目一杯の敵意を示して。
『数がいくらいようと関係ありませんわ。――あの方たちなら勝ってくれるって、そう信じてますもの』
――リリスたちへ目一杯の信頼を示して、アネットは意識を手放したのだ。
その結果こうして生きているという事は、次に古城に乗り込んできたのはリリスたちなのだろう。その事実があるから、アネットはこうして生きている。……生きて、まだ理想への道を歩むことが出来る。
「……ありがとうを言うのは、わたくしの方ですわよ」
ぼんやりと天井を見つめながら、アネットははにかむような笑みを浮かべる。換気のために開けていた窓が外の風を運んできて、美しい銀髪を緩やかに揺らしていた。
アグニがそんな風に切り出したことを、アネットは唐突に思い出す。あの時はそれが律儀に守られるだなんて微塵も思ってはいなかったが、あれだけの傷を受けてなお死なずに生きている現状を見るにアグニは意外にも誠実な人物だったらしい。
「……まあ、だからと言ってあの方の評価が覆ることなんて絶対にありえはしませんけれど」
柔らかい枕に顔を埋めながら、アネットは一人ごちる。本当に誠実ならば王国を転覆させかねないような蛮行をするはずがないという至極真っ当な論理が、どれだけ思いがけない一面を見せてもなおアグニの評価を最下層で停止させていた。
アグニが掲げる考え方は、徹底してアネットの理想とは食い違っている。騎士として戦場に立った以上最後の最後まで誰かを切り捨てることなんてことを考えてはいけないし、身体が動く限りは誰かを守るために死力を尽くさなくてはならない。それがアネットの理想とした騎士の背中であり、いずれ追いつくアネットの目標だ。
「……わたくし、一歩でもそれに近づけたかしら」
ベッドからゆっくりと体を起こし、五日ぶりに自分の足で床を踏む。久々の刺激に足が驚いたように震え、アネットは少しだけよろめいた。
だがしかし、長い間地道に作り上げてきた体幹がアネットの体勢を支える。そのおかげもあって倒れる寸前のところでどうにか体勢を戻したリリスは、困ったような笑みを浮かべた。
「修練、もう一度やり直さなければいけませんわね」
随分と体作りは完成しつつあると思っていたが、まだまだアネットの身体は不完全だ。踏み込むための脚力はいくらでも欲しいし、相手の攻撃を正面から受け止めるための筋力だって足りていない。――今のままのアネットでは、もう一度あの死地に踏み込んで生きて帰ることは不可能だろう。
今だけじゃなくバラックで過ごした五日間の全てにおいて言えることだが、アネットはずっと運が良かった。色々な巡り会わせに恵まれたからこそアネットはあの襲撃を生き抜いて、今こうしてもう一度自分の足で立つことが出来ている。その理由の内訳が仮にあるんだとして、その中に『アネットの実力』なんて要素は二割もあればいい方だ。
理想の騎士に至る者として、アネットは何もかも足りなさすぎる。身体能力も修練も、死地を潜り抜けるための知識の蓄積も。……その不足を知ってなお生きていられるのは、アネットに関わってくれた皆の本葬があったからに他ならない。
「よい、しょ……。久しぶりに持つと重たく感じますわね、あなた」
そんなことを思いながら、壁に掛けられていた愛剣に手を触れる。簡素な作りの鞘に納められて居心地悪そうにしていたそれは、重いながらも不思議とアネットの手によくなじむ不思議なものだ。
慎重に鞘から引き抜いてみれば、綺麗な光沢を放つ刀身がお目見えする。その輝きっぷりはまるでずっと封印されていた鬱憤を晴らしているかのようで、アネットは思わず苦笑してしまった。
「あなたがいてくれたおかげで、私はこうして生きて帰ることが出来ましたわ。……本当に、父様とあなたには頭が上がりませんわよ」
うっかり何かを切らないように気を付けながら、抜き放った剣をもう一度鞘の中へと戻す。カチンという軽やかな音が、マルクたちが去った病室に響き渡った。
あの時アネットが聞いた声は、決して死ぬ間際の走馬灯なんかではなかった。この剣の中には確かに何者かがいて、それはきっと今でもアネットのことを見守ってくれている。今は返事が聞こえなくても、それはアネットの中で間違いのない事実だ。たとえこの先一度だってあの声が聞こえなくても、この結論が揺らぐことは決してないだろう。
あの声がアネットの迷いを取り払ってくれたから、あの時迷いなく前に踏み込めた。その姿を主に相応しいと認めてくれたから、アグニの圧倒的な実力にもどうにか食らいつくことが出来た。……封印されている間もずっと、剣はアネットのことを見守っていてくれたのだろう。
「……そんなこと、ここに来るまで微塵も気づいていませんでしたわ」
ベッドの端に腰掛けて、膝の上に愛剣を載せながら小声でアネットは呟く。優しい手つきで鞘を撫でるその表情は、古くからアネットを知る者であれば誰もが息を呑むであろうと思えるほどに大人びたものだった。
――尊敬すべき騎士団長に向けて我儘な契約を突き付けて、どうにかして成果を上げようとして。振り返ってみれば、あの時のアネットは本当に焦っていたのだろう。理想の騎士になるための道のりを、どうにかして急ぎたくて仕方がなかったのだ。
「今思えば本当に見当違いな努力ですわね。……最初からずっと、わたくしのことを見てくれる方々は近くにたくさんいましたのに」
アネットが思っているよりもずっと、アネットは一人ではなかった。修練に付き合ってくれる騎士団の面々がいて、偽名づくりと言うとんでもない所業に力を貸してくれる友人がいて。――そんな娘の歩みを一歩引いたところから見守ってくれている父親も、アネットの傍には確かにいた。
そのことを忘れて突き進もうとしていたのは、他ならないアネット自身だ。魔剣の力が封印された理由を考えもせずに、ただ道が阻まれたというだけで頼ってはいられないと断じて。……敵だと結論付けて今まで見向きもしてこなかったのは、アネットの大きすぎる失態だ。
あまりにも濃い死の気配を味わった今だからこそ、父の言葉は正論だったとよく分かる。……この魔剣に宿る真の力は、『死』というものの恐ろしさを知らない子供が振るうべきものでは絶対にない。
どれだけ修練を積んでも、どれだけ自身がこの胸の中に宿っても、目の前に訪れる『死』の気配と言うのはそれらを根こそぎ否定するだけの重みを持っているのだ。そのことを知った今、封印に対するアネットの考え方は百八十度反転してしまっていた。
魔剣にかかっていた封印は、アネットの理想の道を阻むための枷でも何でもない。まだまだ未完成なアネットが軽々しく『死』の闊歩する領域に踏み入らないように作られた、父なりの安全装置だったのだろう。
「……父様がそこまで考えているなんてこと、想像もしたことありませんでしたわね」
上半身をベッドの上に投げ出して、アネットはしみじみと呟く。自分の価値観が変わるだけで周囲の見え方はこんなにも変わるのかと、アネットは新鮮な驚きを感じずにはいられなかった。
ずっとずっと、一人でたどり着くしかないと思っていたのだ。幼い頃から何度も読み込んできたあの叙事詩で語られているように、理想の騎士へ至る道はたゆまぬ修練を積み重ねることでしかたどり着けないと、ずっとそんな勘違いをしたままアネットはここまで生きてきていた。
だが、今はそれが間違いだとはっきり分かっている。たとえ戦場での姿が孤独に見えようとも、理想の騎士に至るまでの道の傍にはたくさんの人たちがいた。
もしいないように思えていたのだとしたら、それは無意識のうちにアネットが彼らのことを見て見ぬふりをしていたというだけの事だ。アネットが歩む理想への道のりは、良くも悪くも人の眼が多く集まる場所でもあるのだから。
そんなことに気付いてふと今までの人生を振り返ってみると、アネットの周りには実に色々な人が居たものだと改めて思う。彼らはアネットに関心を持ったり持たなかったり、感心していたり白い眼で見ていたり、背を押してくれたり理想の前に立ちふさがったり、その態度は本当に様々だ。……きっと、見ないふりをしていたほうがいい輩だってその中には少なからず存在するだろう。
だが、アネットはもう人の眼を意識することを躊躇わない。人と目を合わせて、自らの理想を示すことをはばからない。だって、そうした先で出会ったのが――
『貴女がたとえなんであろうと、私たちは貴女を信じる。――気高い理想を貫き通そうとする貴女のことを、最後まで信じ抜くわ』
――アネットの理想を信じて肩を並べてくれる、かけがえのない仲間たちの存在だったのだから。
あの言葉を聞いた瞬間、アネットの中で何かが動き出すような音がしたのだ。長らく止まっていた炉心に火がともされたような、自分の心の内側で何かがうごめきだすような、そんな音が。
あの時のアネットは『バルエリス・アルフォリア』であったけれど、そんなことは関係なかった。極論ほかの偽名でだって、何なら貴族でなくたって関係なかった。……リリスたちが賛同し信じてくれたのは、今までアネットが積み重ねてきた人生の在り方そのものだった。
「……失態なんかじゃありませんわよ。むしろ褒章を上げたいレベルの働きですわ」
申し訳なさそうに頭を下げていたロアルグの姿を思い出して、アネットはふっと笑みをこぼす。言葉の綾を突く様なやり方は理想の騎士らしくはないけれど、アネットの理想だけが騎士として望ましい姿じゃないことは知っている。……ロアルグが最後まで模索し続けてくれたからこそ、アネットは何物にも代えがたい出会いを得られたのだ。
『……俺も嬢ちゃんも、もう傷だらけでロクに動けたもんじゃねえだろ? ……だからよ、次にこの城の中に入ってくる奴がどっちだったかでこの戦いに決着をつけるとしようぜ』
目を瞑り、あの時のアグニとのやり取りを改めて思い出す。あの時のアグニの眼には、その賭けに勝つという確かな自信があった。……自分が動けなくなってもなお勝利だけは掴もうとする、執念と言う言葉ですら生ぬるいような意志があった。
それは提案と言ってもほぼ強制的なもので、アネットに拒否する選択肢はなかった。だって意識は朦朧として、身体は少しも動きそうにないのだから。古城を去る手段がない以上、アグニの提案を受ける以外の道は一つも存在しない。
『……ええ、上等ですわ。折角ここまでやりあったんですし、勝敗ははっきりつけるべきですもの』
だがしかし、あの時のアネットにそもそも賭けを渋るような意志はなかった。むしろ、その賭けに自分から乗りに行くほどだった。……その賭けに負けることなんて、最初から微塵も考えて居なかった。
『――へえ、随分と自信があるんだな。 自慢じゃねえが、俺の仲間はやたらと数が多いぜ?』
それにアグニは意外そうな顔をして、確かそんな風な質問をしてきた。だから、アネットは言ってやったのだ。不敵な笑みを浮かべて、アグニに目一杯の敵意を示して。
『数がいくらいようと関係ありませんわ。――あの方たちなら勝ってくれるって、そう信じてますもの』
――リリスたちへ目一杯の信頼を示して、アネットは意識を手放したのだ。
その結果こうして生きているという事は、次に古城に乗り込んできたのはリリスたちなのだろう。その事実があるから、アネットはこうして生きている。……生きて、まだ理想への道を歩むことが出来る。
「……ありがとうを言うのは、わたくしの方ですわよ」
ぼんやりと天井を見つめながら、アネットははにかむような笑みを浮かべる。換気のために開けていた窓が外の風を運んできて、美しい銀髪を緩やかに揺らしていた。
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