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第三章『叡智を求める者』

第百八十一話『優先順位』

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 体に刻まれた呪印を起動することによる、高度な魔術の行使。本来魔物が至れる魔術の領域をはるかに超えた術式の使用を可能にする技術があること自体は今までの戦ってきた魔物たちのことを思い出せば納得できるが、目の前で起きていることはそれよりもはるかに大規模だ。

 地面は割れながら盛り上がり、半端な刃物よりも鋭利な棘となってリリスを貫かんと迫る。もはやまともに着地することすらできないほどにひび割れた地面に、リリスは軽く身を捻った。

「……氷よ!」

 手にした氷の剣を一度放り捨て、リリスは手を下に向ける。それとともに放たれた声に応えるようにして氷の板が空中に出現し、着地もままならない地面の役割を一時的に代替した。

 一度蹴り飛ばされたら最後地面に落ちるしかない氷の塊を蹴り飛ばし、リリスは疑似的な二段跳躍を実現する。足元から迫る石造りの刃をものともしないその足取りは、まるで空を舞い踊っているかのようだ。

「……この程度で、私があっさりやられるとでも思ったのかしら!」

 氷の足場が一つ増える度、リリスと狼の距離は確実に近づいていく。足元から迫る無残な死をものともせず、打倒すべき敵を目がけた歩みはむしろその速度を増していくばかりだ。……その姿を認識した狼は、また一つ大きな咆哮を響かせた。

 それと同時、狼の体からもう一本の触手が出現する。二本で一対の触手ならばまだ翼のようで見栄えも悪くはなかったが、三本目が生えてしまうとそれはもうただの異形の類だ。背中の中心部分というとってつけたような出現位置も相まって、取ってつけたような印象はもうぬぐえなかった。

 ……いや、あるいは本当に取ってつけたものなのかもしれない。どういう原理かは理解できないしする気もないが、魔物と魔物の特徴を融合させる研究の一つくらいこのダンジョンにあったって何らおかしくないのだ。……仮にそれがあったところで、今までに受けてきた呪印魔術に対する印象が変わることは何もない。

 リリスも同じ考えなのか、突如増えた手数にも焦る様子は見えない。一度放棄した氷の剣を再び右手の中に出現させて、リリスは不敵な笑みを浮かべた。

「あら、切れるものをわざわざ増やしてくれるの?……なら、遠慮なく頂くわ」

 足元に作りだした氷の足場を乱暴に蹴り飛ばし、空中にいる影響を何ら感じさせない一閃が迸る。それと同時、リリスの握る刀身から枝分かれするかのように影の刃が二本するりと伸びた。

 剣速自体は最初の一撃の方が早いかもしれないが、前足を地面に叩きつけて魔術を発動したことで狼の足はべったりと地面に接触している。それゆえに、分かっていても反応が遅れた。

 狼が飛びのくよりも先に、リリスの剣閃が狼の触手の一本と接触する。それに合わせるかのように、伸ばされた影の刃が音もなく残りの触手二本へと襲い掛かって――

「……まとめて吹っ飛びなさい、怪物‼」

 氷の剣が触手を根元から切断したことを合図に、影の刃も残りの触手を寸断する。狼のような見た目の背中から生えていた余分なパーツが、一振りのうちに一瞬で取り外された。

 先端と違って根元から切り落とされるのは流石に堪えるのか、狼は悲痛な鳴き声を上げる。――だが、この程度の斬撃などリリスからしてみればまだ序の口でしかなかった。

「……この程度で、完全な生命なんて名乗ってるんじゃないわよ」

 思い切り剣を振り抜いた後の体制を足場を駆使して強引に整え、リリスは両手で剣を構える。全体重をかけて剣先を突き刺すことに特化したその構えは、明らかにさっきまで触手が生えていた場所を標的としていて――

「……触手の代わりよ、受け取っときなさい!」

 触手が狼の背中に開けた穴を目がけ、氷の大剣が思い切り突き立てられる。その瞬間、狼の口元から今までにないレベルの悲鳴がこぼれた。それは何度も何度も部屋の中を共鳴しながら、しかし絶えることなく響き続ける。今まで泰然としていた狼が、今やただの魔物であるかのように暴れ狂っていた。

 背中に突き立てられた異物を取り払わんと、そしてそれを握る一人の戦士を振り落とさんと、狼は体を左右に振り回す。それに伴ってリリスの体も左右に揺らぐが、影魔術によって強化されたその手が氷の剣を手放すことは決してなかった。

 しかし、ひとたび地面に振り落とされてしまえばそこには先ほどまでの魔術の名残がある。吹き飛ばされる方向が悪ければそのまま尖った大地に貫かれる可能性もあるわけで、状況は決してリリスの一方的な展開だとは言えないだろう。だがしかし、耐えるばかりの展開をリリスが好まないのもまた事実なわけで――

「……いい、加減にっ、しなさい‼」

 暴れ狂う狼に罰を与えるかのように、リリスは一段と強く剣の柄を握りこむ。――その直後、狼の体内から無数の影の刃が飛び出してきた。

「ガ、オ……⁉」

 体のあちこちを内側から破壊した影の刃に、狼は弱々しい唸り声をあげる。全身に穴の開いた体ではさすがに暴れ狂うことも難しいのか、血にまみれたその体はゆっくりと地面に崩れ落ちた。

「自分から身体に穴をあけるなんて愚策もいいところよ。……そこから変なものが入ったら、体中にそれが回っちゃうでしょ?」

 狼が動きを止めたことを確認して、リリスは氷の大剣を引き抜く。魔術による隆起の影響を受けていない部分に着地しながら、リリスは狼を一瞥した。

「ま、こんな魔術を相手取るなんて発想からしてなかったんでしょうけどね。……相手が悪かったってところに関しては、一応同情してあげるわ」

 狼はもはや痙攣するのみで、自らの意思で体を動かせる状態にない。大剣の一撃とともにリリスが狼の体内に仕込んだ影はその全身を行き渡り、そして命を食い荒らす必殺の一撃となった。氷と影、二つの魔術を同時に展開する今のリリスだからこそできた、完全な初見殺しだ。

「呼び出されたところ悪いけど、あなたはもうここで終わりよ。……もう誰に呼び出されることもないでしょうから、ゆっくり眠っときなさい」

 だんだんと痙攣すら弱々しくなっていく狼に最後の言葉をかけて、リリスは影をまとった足を一度地面に叩きつける。……それを合図としたかのように、狼の体を無数の影の刃が切り刻んだ。

 刃は体内から発生していることもあって、内臓などの機能も完全に殺されているだろう。まるで突然爆発したかのように宙を舞った血しぶきが、狼の命の終わりを何よりも明確に告げていた。

 その血しぶきが収まった後、そこにあるのは肉塊だけだ。もはや狼の原型などどこにもなく、ただかろうじて生命だったということを理解するのが精一杯だろう。内臓を破壊されて尚生きた魔物の前例があるとはいえど、ここまで肉体を破壊してしまえば呪印の援護すら望むべくはなかった。

「……ふう」

 その姿を目視して、はじめてリリスは軽く息をつく。それと同時に影がツバキのもとへと返っていき、その華奢な体が一瞬だけ傾いだ。

「リリスッ‼」

 どう見たって魔術の反動が出ているその様子を見やって、俺はリリスのもとへと駆けていく。狼が地面を隆起させたせいで、回り道をしないとリリスのもとへと向かえないのがもどかしかった。

 だが、それだけの激戦を制した価値は確かにあった。あの双子の詠唱らしきものを頭から信じるのであれば、この狼を破壊することはアゼルの研究の成果を破壊することに等しい。それを果たしたのだから、俺たちの完全勝利といってもいいだろう。

「大丈夫よ、自分で歩けるわ。……少しだけ、億劫ではあるけど――」

 俺の呼びかけに答えながら、リリスは肉塊を軽く飛び越えてこちらに駆け寄ってくる。その足取りは少しだけおぼつかないが、しかしあの戦闘の後と考えるならむしろ軽傷といってもいいくらいだ。魔術神経さえ修復してしまえば、ほとんど無傷で突破したといっても過言ではない――

――と、そこまで考えたところでのことだった。

「……は?」

 リリスの背後に見えたあり得ない光景に、俺は思わず息を呑む。すべての思考が一瞬だけ停止して、そのあとすぐに再起動した。……状況が変化したことを、俺は直感的に理解してしまう。

「……マルク、どうしたの? そんなに固い顔をして……」

「リリス、下がれ‼」

 キョトンとした表情を浮かべるリリスを通り過ぎながら、その背中を思いっきり押す。本来なら俺程度の筋力で押すことは不可能なのだが、限界を超えた魔術の行使による疲れもあってかその体はあっさりとよろめく。……よし、これで最低限のやるべきことは達成された。

 ……今の俺の目の前には、狼が使っていたものと同じような触手が迫ってきている。さっきまでリリスが立っていた位置を正確に狙い撃ちするその一撃は、どう考えても意思のある物としか思えなかった。俺がとっさに行動を起こせる位置にいなかったら、間違いなくその一撃は背後からリリスを直撃していただろうな。

「……けど残念、あと一歩足りねえよ」

「……ッ‼ マルク、貴方――‼」

 突然突き飛ばしてきた俺の方を振り返ったのであろうリリスも、俺が見ていたものと同じ異変に気付いて声を上げる。リリスには申し訳ないが、これは優先順位の話だ。俺が倒れるよりも、治癒術を使いこなせるリリスが倒れる方が何倍もやばい。だから、これでいいのだ。

「……勝つのは俺たちだ。お前みたいのに負けちゃ、『最強』なんて夢のまた夢だしな」

「氷よ、マルクを守って――‼」

 俺の言葉とリリスの必死な詠唱が同時に部屋の中で響き渡り、その直後にすさまじい衝撃が俺の腹部に走る。……何かが砕けるような音が、俺の耳朶を打った。
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