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第三章『叡智を求める者』

第百三十二話『疾走の先にある物』

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「……影よ、ボクたちを覆い隠せ」

 ツバキが小さくそう呟くと同時、半径三メートルほどの影の半球がダンジョンの壁際に立つ俺たちをすっぽりと包みこむ。外側からは俺たちの存在を認識できず、しかしこちらからは外側の様子を認識できるその空間は、何度展開されても不思議なものだった。

「へえ、影魔術ってこんなこともできるんだね……。今まであまり使い手に出会ったことが無いから、今こうやって見られて少し感激してるよ」

「ま、そんなにメジャーな魔術でもないしね。いい機会だし、そこら辺の話も後でするとしようか」

 興味津々と言った様子でツバキの方を見つめるノアのことを諫めつつ、ツバキは魔物の方を指し示す。ツバキが尾行対象として示した猪のような魔物は、今も落ち着かないように首を左右に振っていた。

 迷っているのが丸わかりの視線の先には、このダンジョンでは珍しい三叉路が広がっている。安息の地を探して首を振る魔物の背中では、赤い呪印が煌々と光を放っていた。

 追跡を開始してからもう三分ぐらいは経っているが、まだ魔物に刻まれた術式が発動する様子はない。呪印が赤くなりだしてからも、少しばかりの猶予はあるらしかった。

 だがしかし、この三叉路でいつまでも迷っていたら訪れるのは死だけだ。それを一番理解している魔物は、やがて決心したかのように一つの方向を向いて――

「……右か!」

「マルク、手を!」

 魔物が右に曲がったのを確認した瞬間に影の領域は姿を消し、リリスの左手が俺に向かって差し出される。それを強く握りしめると、俺の体が瞬時に加速した。

 生存をかけた魔物の疾走は素早く、生半可なスピードでは簡単に振り切られてしまう。そうならないための補助として、リリスの風魔術が俺たちのことを後押ししてくれていた。リリス曰く『空を飛ぶ術式の応用』だそうだが、『プナークの揺り籠』で見せた減速度外視の疾走を思うとこの丁寧なコントロールには感動せざるを得ない。

 ま、その支援を受けても俺の身体能力じゃ足りないからリリス直々に引っ張ってもらってるんだけどな。一蹴りごとに景色がすっとんでいく感覚は、俺一人じゃ決して味わえないものだ。この速度の中で戦っているリリスのことを思うと、その才能に感服するばかりだった。

「……迷ってた割には、ずいぶんと自信ありげに走っていくのね……!」

「魔物は五感が優れているパターンも多いからね。かなり鼻が発達しているみたいだし、それで何かを嗅ぎつけたんだと思うよ」

 俺たち四人の速度を支えながら、リリスが魔物の背中を見つめてそう評する。援護を受けてそれに並走するツバキが、視線を前に向けたままそう答えた。

 俺たちにそんな考察をされているとはつゆ知らず、魔物は無駄のない動きでダンジョンの角を曲がる。それに喰らいつくように、リリスたちは懸命に硬い床を蹴り飛ばした。

 壁にぶつかることもなく何とか曲がり切ることに成功して、俺たちは再び魔物の姿を視界にとらえる。……しかし、今回捉えたのはそれだけではなかった。

「……! あれって……!」

「二つ目の赤い呪印か。……これは、いよいよこの先にセーフルームがあると見て間違いなさそうだね」

 別の通路から合流してきた二足歩行の魔物が、今まで追跡してきた魔物と同じ方向を向いて懸命に走っている。ダンジョンの横幅が広い事が幸いしてか、魔物たちは一切争う気配を見せなかった。

 種類が違う魔物同士って、争いあうこともザラにあるはずなんだけどな……。敵対関係にある魔物同士を引き合わせて消耗させてから両取りするって狩り方は冒険者の中でそこそこ有名なやり方だし、それが出来る魔物の組み合わせも王都では周知されている。だがしかし、今回ばかりは魔物たちでの同士討ちは期待できなさそうだった。

 赤い呪印の刻まれた腕を懸命に振って、二足歩行の魔物は必死にどこかを目指している。四メートルはあろうかという巨躯の足元で猪型の魔物がせわしなく走っている姿は、この場所じゃなきゃ決して見られないだろうなと確信するには十分なくらいに奇妙な光景だ。

「マルク、曲がるわよ!」

「大丈夫だ、今までだって耐えれてる!」

 二匹の魔物がまたしても曲がり角に姿を消したのを見て、リリスが一言俺にそう警告する。それに応えてリリスの手を改めて強く握りしめた瞬間、俺の体が大きく左へと引きずられた。

 急な減速と再加速の落差で一瞬俺の体にとんでもない負荷がかかるが、歯を食いしばって何とかこらえる。俺は皆にカバーしてもらってる側だし、こんなところで弱音は吐いてられないからな。

 刹那の苦痛から解放された後には、途轍もない速度で走る魔物たちの姿が見える。ただ生存のために走るその姿は、今までに見たことがないくらい必死なものだ。ここまで魔物たちを急き立てられるダンジョンの主は、いったいどれほど途轍もない術師だったのだろうか。

 その疑問に答えが出るとしたら、このダンジョンを踏破しきった後のことになるのだろう。今こうやって恐怖に駆られている魔物たちには悪いが、俺たちはこの追跡すらも通過点にしなければいけないんだ。

「今度は、右!」

 改めてそう思い直して、俺は再び来た苦痛を耐えしのぐ。……そうして見えた景色は、今までのそれとはまったく違うものだった。

 魔物たちが必死に駆けるその先には、青い光に満ちた空間がある。あれがセーフルームなのだと、そう確信するには十分な存在感と、異質な雰囲気をその空間は纏っていた。

 だが、変化はそれだけではない。……というか、どちらかと言うとこっちの方が本題だ。その光景が俺の目に飛び込んできた瞬間、ノアがセーフルームを利用できなかった理由をいとも簡単に察することが出来たくらいだからな。

「……思った以上に、大盛況だね……‼」

「そうね。あまりに誰も攻略しに来ないから、勝手に増えてしまったのかしら?」

 俺と同じ光景を見つめて、二人はそんな言葉を交わす。冗談めかした口調ではあったが、後ろから見えるツバキの目つきは鋭いものだった。

 ――その視線の先には、おびただしい数の魔物が居る。それらの体には全て呪印が刻み込まれていて、こいつらもまた生き抜くためにこの場所を訪れたのだろうと分かった。

 二十……いや、三十は下らないだろうか。このセーフルームで一旦の安息を得た魔物たちが、新たに向かってくる俺たちの方を見つめている。……正直なところ、まともにぶつかりたくはない戦力差だ。

「なあツバキ、俺たちも呪印に苦しむ魔物と勘違いされて普通に通してもらえる可能性とかは――」

「ないに等しいだろうね。今までボクたちが無視されてきたのは、ボクたちを攻撃する以上にやらなければならないことがはっきりしていたってだけだろうからさ」

 俺の希望的観測はあっさりと切り捨てられ、無情な現実だけがそこに提示される。そんなやり取りをしている間にも、魔物たちが待ち構えるセーフルームはものすごい速度で迫って来ていた。

 この状況のまま突っ込めば、いくらリリスたちとは言え苦戦は避けられないだろう。カラミティタイガーの時とは違って、一方的に攻撃し続けられる距離感でもないし――

「……マルク。少し寒いかもしれないけど、我慢してちょうだいね」

「……へ?」

 俺の考えがまとまるより先に、リリスがゆっくりと減速しながら俺にそう前置きする。それに対する答えを返すより先に、俺の周囲を包んでいた空気が冷え込み始めていた。

「……影の支援はいるかい?」

「いいえ、大丈夫よ。その準備は、これを耐えてくる奴らの対策に取っておいて」

 何かを察したツバキの問いかけにリリスは軽い口調で答え、眼前に立つ魔物たちを視線で指し示す。冷え込み始めた空気の中には、小さな氷の結晶が混じりつつあった。

 一度地面を蹴るたびに急速にその速度を落としつつ、リリスはその右手に氷の剣を作り出す。普段よりも細く、そして鋭く作り出されたそれは、カレンが手にしていたレイピアにもよく似ていた。

「ま、それが何匹居るかはやってみないと分からないけど。せいぜい、この一撃で――」

 俺が転ばない程度の速度になったのを確認して、リリスは俺の手を離す。そして、大きく右腕を引き絞り、今まで俺たちの速度を支えていた風をその細剣に集約させて――

「お手並み拝見と行こうかしら、ね‼」

 目にもとまらぬ速さの突きが繰り出された瞬間、解き放たれた風が一本の槍となってセーフルームに集う魔物たちを薙ぎ払った。
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