朱元璋

片山洋一

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第七話「而立(じりつ)の時」

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   而立(じりつ)の時

   一

 蒙古襲来から一ヶ月。朱元璋たち濠州軍は九死に一生を得た。
 元朝の南征失敗は江南の様相を一変させた。
 反乱軍は勢いづき、元朝の権威が大きく失墜したのである。腐敗しきっていたとは言え、元朝には力があった。だがその力が衰微したことが露呈した今、治安が乱れるのも道理で、あらゆる地域で略奪暴行が横行し、国家に頼れない土豪たちは自衛のため軍勢を整える必要があったのだ。
 己の身は己が守る、すなわち「結塞自保(けっさいじほ)」を目指して自警団を結成されたのである。その規模は小さなもので百名単位、大きなものでは万の兵を擁する土豪もいた。元璋と湯和の故郷である鐘離も例外ではなかった。すでに義兵(自衛軍)が結成され、その数は二百ほどになっていると云う。
――達の奴が動き始めたか。
 義兵が結成された話を聞いた元璋はすぐさま徐達の顔を思い浮かべた。思った通り、鐘離で義兵を集めたのは徐達であり、その軍勢は他を圧倒しているとのことであった。そのため周囲の賊たちも容易に手出しが出来ないでいた。
――まるで梁山泊気取りだな。
 そう考えると元璋は可笑しくて仕方がなかった。あの沼沢に囲まれた徐家を拠点にしている徐達たちは、さながら水滸伝に登場する豪傑のようであった。
――しかし達だけではどうにもなるまい。
 元璋は郷里に残る幼馴染たちの顔を一人一人思い出していた。周徳興や花雲、そして呉良。その他にも鐘離の若者たちが暗闇の如き現世に光を求め立ち上がっていた。徐達を中心に、とは言うものの、その徐達が座を暖めることは稀であった。常にどこかへ出かけており、義兵たちを取りまとめているのはもっぱら花雲たちの仕事であった。
「達よ。お前はのん気で良いなァ」
「のん気ですか」
 どこへ出かけているのかとの問いに、徐達はにこにこしながら答えようとしない。ただ無言で地図を差し出し、花雲たちがそれをのぞき込むのが常であった。
「落書きだらけじゃねぇか」
 徐達の地図は隙間がないほど朱筆で書き込まれており、もはや地図ではなくなっていた。だがよくよく見れば、地図でなくなっているこの紙は驚嘆すべき情報誌になっていた。朱筆の内容は事細やかな各地の情報であり、この地図さえあれば座しながらその地域を把握することが出来るほどのものであったからだ。
「頭がこんがらがらないか」
 小首をかしげて尋ねる徳興に、徐達は笑いながらかぶりを振った。
「私の癖です。書き込むのが好きで仕方がない」
「俺は」
 雑多なことが苦手よ、と花雲などは黒い顔を大きく揺らせながら苦笑した。
 徐達は筆を置き、何の用があるのか尋ねた。花雲たちは義兵の面倒を見ることで忙しいはずで、ただ地図を見るためだけに徐家に訪れる訳がない。
「あんたのことだから、わかっているだろう。濠州のことだよ。重八と和たちが、蒙古の大軍を倒したというぞ」
「倒した……か」
 元璋たちが勝ったことは、朗報のはずである。だがなぜか徐達の顔色は冴えない。
「重八たちが勝ったことが良くないのか」
「朗報は朗報でしょう。蒙古を撃退したことはめでたき限り。ですが手放しで喜ぶことが出来ません」
 すると袖から書状を取り出し、花雲たちに手渡した。しかし三人とも字を読むことが苦手であり、押しやるようにして徐達に手渡した。
「重八さん……いえ今は郭元帥の女婿・朱公子ですね」
「俺たちにとっちゃ重八兄ぃさ」
「その重八さんによれば、九死に一生を得たものの、このままでは濠州は自滅すると書き送っているのです」
「自滅ねえ……」
 花雲は賽を掌で転がしながらつぶやいた。
「どうせあいつのことだ。ただ自滅を待っていねえだろ」
「重八さんは兵と将を得るため、四方八方に手を回しているのです」
「ひょっとして重八の奴――」
「ご賢察。近く鐘離に戻ってこられるのです」
 その瞬間、三人は飛び上がるようにして喜んだ。花雲はいつ戻ってくるのか、と徐達の体を揺さぶって何度も尋ねた。
「書状によればあと十日もすれば……」
「あと十日か」
 花雲は賽を呉良に投げつけ、転がるようにして大笑いした。しかし徐達の表情は沈鬱のままであった。
「喜ばしい知らせですが、皆さん、覚悟はなされているのですね」
「覚悟?」
「和さんからの書状にもあるのですが、濠州は容易ならざる事態に陥っているようです。濠州の覇権を巡り、都督や元帥たちが内輪揉めをしているのです。蒙古を破っても内紛を起こしているようでは、濠州は滅びましょう。我らが重八さんと立ち上がるということは濠州の内紛に巻き込まれて身を滅ぼすかもしれないのです」
 この言葉に三人は固唾を呑んだ。考えてみれば悪童だった頃と同じく遊び半分で義兵を率いて戦っていた。だが徐達の言葉は彼らを現実へ引き戻すには十分であった。

 濠州は乱れに乱れていた。蒙古という強敵を前にした時は賈魯急逝という幸運があったものの、一致団結をしてよく守り抜いたと言える。しかし蒙古が去るや否や、濠州では再び将たちが相争うようになってしまったのである。 
 そのきっかけは彭大であった。彭大の長所は気宇壮大な点である。だが長所を裏返せば短所となり、彼の短所は軽はずみであることであった。
「すべては余あってのこと」
 と言い出し、ついには王を僭称してしまったのである。さらに趙均用たちを家臣扱いするようになってしまった。篭城中は均用は軍師格として振舞ってきたが、彼は彭大と同じく、いやそれ以上に自尊心の強い男であり、本来は人の下で収まるような人物ではない。
「血迷いおって。あいつが何をしたと言うのか。ふん反りかえっていただけではないか。蒙古を撃退したのは誰あろう、この趙均用であるぞ」
 と、手が付けられないほど荒れに荒れ、彼まで王を名乗ってしまったのである。さらには五元帥たちまでも不平不満を言い出してしまい、支離滅裂、どうにもならない状態に陥ってしまった。
 元帥たちの不満はこうであった。
「都督たちが王になったのに、我らが元帥のままとはどういうことか」
 と言ったもので、愚にもつかない童のような内容であった。この様子に元璋は心底呆れ果て、愕然とした。
 蒙古は去り、その声望は地に落ちたように見えるが、依然元朝は天下に君臨している。また敵は元朝だけでなく、周囲に蟠踞する軍勢が虎視眈々と濠州を狙っているのだ。蒙古を撃退した今こそ、より結束を固め、力を付けなければならない。
 元璋の失望はこれで収まらなかった。郭子興までこの諍いに加わってしまったからだ。
 孫徳崖のような盗賊崩れであれば、虚位である王号を望むことは理解出来る。だが子興までがそのような称号を求めて争っているとは情けないとしか言いようがない。
 ――濠州内でどうしようもないのなら、いっそのこと……。
 理想を言えば濠州を一つにまとめるべきである。だが所詮は烏合の衆の悲しさで、彼らをまとめることはもはや不可能であった。ならば郭軍を助ける義兵を募ろうと思いついたのである。
 この考えに湯和はすぐに賛同した。また邵栄と鄧友徳も同調し、いつの間にか元璋の周りには志ある者が集い始めていた。こうした中で元璋は義兵を集めている徐達のことを耳にして、鐘離に戻ることを決意したのである。
 ――だが欲するは兵のみあらず。
 三軍得やすく、将求め難し、という言葉がある。兵は時と兵糧、軍資さえあればいくらでも集まるものだが、采配を振るう者を集めるのは至難の業と言えた。今回の帰郷は徐達を初め、有為の人材を集めることを主目的にするべきなのである。
 ――都督や元帥たちはそもそも何の大義をもって兵を挙げたのか忘れている。
 父母や兄たちを亡くし、時の権力に翻弄された元璋はそのことを思うと、腹底から怒りが沸き起こった。紅巾軍がなぜ民衆に支持されたのか。またただの民草で武器を手にしたことのない元璋がその身を投じたのか。すべては蒙古の暴虐を打ち砕き、天下に安寧をもたらすことが大義であったはずである。
 ――もっとも方便ではあろうが……。
 一方では元璋の理性は現実をしっかりと見つめはしていた。だが蒙古打倒の兵を挙げた以上は嘘でも何でも大義を現実化していくことが生き抜く唯一の方法である。半端な大義はかえって身の破滅を招くことを、元璋は直感的によく識っていた。
 だが濠州の将帥たちは大義を忘れ、権力のみを求めて醜くも争っている。また配下の兵たちは略奪暴行をするのみで、民衆の心は日々離れていっている。
 ――倶に天を戴く士を募るのだ。
 元璋の心は一切の虚飾なく、天下安寧というたった一つの望みにまっすぐ向いている。
 湯和や鄧友徳、邵栄は元璋にとって頼りになる同志であることは疑うべくもない。だが彼らだけでは天下に打って出るには不足であろう。もっと多くの人材を確保しなければならない。
 ――俺の運は牛を一緒に食べた、悪餓鬼どもが握っているわけか。
 元璋はそう思うと不安よりも人生の不可解さがおかしくなり、一人声を上げて笑ってしまった。

   二

 元璋は帰郷した。
 ――変われば変わるものだ。
 郷里を出た時はみすぼらしく、半ば追い出されるかのようであった。しかし戻ってきた元璋は乞食坊主でもなければ、しがない農民の末っ子でもない。蒙古軍の強襲を退けた朱公子であるのだ。
 久しぶりに戻った鐘離は様相が一変していた。至る所に武装した若者たちがたむろしており、活気に満ちている。いずれも鐘離の者ばかりで、一度村を出た者も随分と戻ってきているようであった。元璋は生まれた時からこの街にいたため、顔なじみが多い。また活躍ぶりが知れ渡っているため、歓喜の声をもって迎え入れられた。その若者たちの中心に徳興や花栄、そして呉良がいる。
 花雲は相変わらず掌中で賽を弄びながら、
「武名高き朱公子よ。帰郷の祝いに賭けでもいたしましょうか」
 と、相好を崩して近寄ってきた。元璋は苦笑しながら賽を受け取ると、不敵な笑みを浮かべて答えた。
「賭けるは俺と、皆の命。狙うは天下万民の安寧。賭ける物は小さく、狙うはとてつもなく大きなものだぞ」
 この気宇壮大な言葉に一同は唖然とした。花雲は豪胆であったが、そんな彼も目を白黒させ圧倒されているようであった。だが同時に自分たちの生涯を預ける元璋がこれほど成長しようとは何とも言えない嬉しい気持になった。もうここには徒手空拳、行くあてのない乞食坊主はいないのだ。
「天徳はどこにいる」
「天徳?」
 一同は聞き慣れぬ名に首をかしげた。元璋は知らないのか、と言った表情で、「達のことさ」と、短く説明してやった。天徳とは徐達自らが定めた字のことで、かつて元璋は字で呼ぶことはしなかった。しかし世に打って出る以上は、たがいに士であり、字で呼ばねば非礼にあたると元璋は考えたのだ。徳興は様変わりした元璋に感動していた。しかし気を取り直し、姿勢を正して拝礼した。
「天徳……殿は皇覚寺にて兄ぃ、ではなく朱公子をお待ちです」
「皇覚寺がまだ残っていたのか」
 驚き尋ねると、高彬和尚の庫裡を本堂として人々が再建したのだと云う。しかしその和尚は昨年、老衰のため亡くなったとのことであった。汪婆さんもまた後を追うようにして今年の初めに病死したとのことであった。
 ――時は移ろうものだ。
 次々と知己が亡くなり、元璋の知っている鐘離でなくなっていく。少し寂しく思ったが、今は後ろを振り向いている時ではない。畏まる徳興の肩を叩くとカラカラと哄笑した。
「畏まるな。そのような仰々しい姿はらしくないぞ」
 たしかに似合わないと思った徳興たちも苦笑するのであった。
 ――どこへ行くのであろう。
 すぐにでも皇覚寺で徐達と会見するつもりであった元璋は首をかしげた。彼が案内されたのは劉継徳の邸であった。劉家はかつて朱一家の地主であり、亡き父母と長兄の墓が同家の裏山にある。案内されるまま邸に入ると、主の継徳と甥の劉豊宣(りゅうほうせん)が恭しく拱手の礼をもって迎えてくれた。
 かつて野良犬のように劉家の者は元璋を扱ったものである。その劉家が恭しく拝礼をしており、世が逆転しつつあることを体現していた。元璋は少し当惑したが、幾多の経験は人に貫禄を付けさせるもので、威風堂々と返礼をした。この返礼を目の当たりにした継徳は、
 ――蠅のような朱家の倅が偉くなったものだ。
 と片腹痛くはあったが、その感情をおくびにも出さない。何しろ相手は生殺与奪の権を手に入れた男である。どれほど滑稽であり憎々しく思えども耐え忍ばなければならない。もっとも継徳は理不尽な蒙古を相手に数多の土地を所有してきている。己の本心を覆い隠すなどは造作もないことではあった。
「豊宣。朱公子にご無礼なきよう」
 継徳は温和な笑みを浮かべながら、この時十八となる甥に後を託した。豊宣はかつて朱兄弟に墓地を恵んでくれた劉継祖の遺児で、その性格は亡父と同じく心優しい青年であった。
 ――地主にもこのような成年がいるのだな。
 元璋はこの青年に好感を抱いた。紅巾軍の多くは地主に対し、恨みを抱いている。だが元璋が徹底的な恨みを持たずに済んだのは、父母たちの墓地を恵んでくれた継祖への恩義が強く影響していた。
 ――ひょっとすると……。
 元璋は劉家に案内した徐達の心を察してみた。先日の蒙古襲来時でもそうであったが、元璋は近隣の豪族たちに協力を求めていた。紅巾軍は命を賭し、果敢に戦う。だが戦うには兵糧も軍資も必要である。そのため元璋は豪族たちと親交を深め、彼らの協力を引き出した。そのことが、あの猛攻を防ぐ大きな助けとなったのである。紅巾軍の一部将から元璋を飛躍させるためには地主から略奪するのではなく、提供させることが肝心である。略奪は治安を乱し、無用な恨みを買い、天下に乗り出したところでやがては自滅してしまうであろう。
 ――それにしても何とも芸が細かい。 
 そう思うと元璋は苦笑せざるをえなかった。さらに徐達は深く物を考えている。まず劉家に案内したのは元璋に箔を付けるためであった。装束を改め、元璋に威儀を正してほしかったのである。鐘離の人々は元璋が乞食坊主であった頃を鮮明に覚えている。だが人々が心を一つにするには乞食坊主が首領であってはならない。
「水は方円の器に随う、か」
「公子、何か?」
 着替えの手伝いをしていた豊宣が首を傾げながら尋ねた。
「ただの独り言です。気になさらぬよう」
 元璋がそう答えると、豊宣は上品な笑みを浮かべてうなずいた。
「あなたは継祖様のご子息でしたね。我ら兄弟は父君にご恩を受けました。何なりとこの元璋にお申し出ください」
 すると豊宣は生真面目な顔つきでかぶりを振った。
「畏れながら私は朱公子の志を徐天徳殿からお伺いし、お仕えしたいのです。亡父がしたことは微恩にすぎませぬ。微恩のため天下安寧の志を曲げられませぬよう」
 この言葉に元璋は驚いた。地主の子の謹直な態度にではない。鐘離に集結している若者たちの志が高く、ここまでまとめた徐達の手腕にである。
 元璋は礼服に着替えた。礼服に身を包んだその姿は立派な公子であり、継徳は思わず我が目を疑った。鐘離の若者たちは郷里の英雄を一目見ようと人垣を築いた。その中を徳興や花栄に守護されながら元璋は皇覚寺へと向かう。
「一瞥以来だな、天徳殿」
 本堂で迎えてくれた徐達に元璋はにこやかに微笑んだ。
「はい。朱公子の武名はここ鐘離にまで轟いております。願わくは同郷の誼をもって我らを麾下にお加えいただきますようお願いいたしまする」
 徐達は恭しく拝礼したが、元璋は固辞した。
「我に徳なく、才なし」
 すると徐達は徳興たちに目配せし、主立つ者に懇願させた。
 しかし元璋はなおも受けない。さらに寺外に控えし兵たちにも懇願させた。
 兵数は二百にもおよび、彼らは一斉に拝礼した。また鐘離の父老たちも膝間つき、若者たちを連れていくよう嘆願した。
 元璋は瞑目し、腕を組んだ。
「戦は辛いものだ」
 と、なだめるような口調で言い聞かせた。しかし一同は「死も厭いませぬ」と声を揃えた。元璋はしばらく長考し、やがてゆっくりと皆の顔を見回した。
「そこまで皆が覚悟するなら致し方なし。共に戦い、この世に安寧をもたらそう」
 と、力強く拳を突き上げ、若者たちは歓呼をもって元璋に応えたのである。
 実はこのやりとりは、自然に成り立ったものではなかった。
 烏合の衆にしてはならぬと、徐達は元璋への書簡の中で幾度もそのことを進言し続けてきた。元璋には異論などなく、志を一つにすることが最も重要なことであることを認識している。そのためには元璋は皆に懇願させ、それを固辞せねばならない。
 中国の歴史を紐解けば、幾度の嘆願を固辞した後に引き受けることが大事な儀式であった。またこの儀式を経てこそ鐘離兵を軍規正しき軍として立ち上げることが出来るのである。 
 もう少し兵が欲しい――。元璋は三日ほど劉邸で起居しながら、兵力増強を考えていた。いくら志が高くとも無勢で多勢には立ち向かえないのだ。
 劉邸には連日募兵に応じた若者が参集し、一人一人引見をして今後の展望などを話してやった。この間、徐達たちは東奔西走し、ついに七百名の兵を集めることが出来たのであった。すべての準備を終えたのはさらに十日の後であった。
 その夜、ようやく元璋は徐達と二人で話す機会を得た。
「重八さん……いえ天下の名士・朱国瑞様にかような肴しか用意出来ず、面目ござりませぬ」
「肴などどうでも良い。だがあえて塩を肴にしたのには何か理由があるのだろう」
「この塩、どこで手に入れたかおわかりですか」
「公のものではあるまい。恐らくは高郵あたりだろう」
 険しい目つきで元璋が答えると、徐達はその通りだと目を閉じた。

 高郵には張九四という塩賊が割拠している。代々塩商人として一族郎党たちと商売を広げてきた。しかし成功者が妬まれるのは世の常で、同業者に謀反ありと密告されてしまった。九四は投獄されそうになったが、それを拒み、一族を率いて反旗を翻したのである。
 塩は国家の生命線で、故トクトの南征最大の目的は賊徒から塩を取り戻すことにあった。
 トクトの進攻を前に高郵もまた落城寸前であった。だがトクトの失脚により、窮地を脱し、拠点を蘇州に移して急激に勢力を拡大させている。塩庫とも言える蘇州一帯を押さえた九四は、莫大な富を一手に握り、瞬く間に一大勢力を築き得たのである。
「トクトの死後、彼の力は図り知れぬほど大きくなりました。また白蓮教を毛嫌っており、いつ濠州や紅巾軍を攻めるか油断なりませぬ」
「もし九四が攻めてくれば濠州は終わりだな」
 元璋は指の爪を噛みながら、うなるようにつぶやいた。
「濠州はともかく、亳州(はくしゅう)がある。あそこは力を増しているぞ」
 わらにもすがる思いで元璋は述べた。亳州とは紅巾本軍の拠点で、その力を急激に増大させている。内紛で弱体化している濠州が辛うじて無事なのは亳州があるからであった。
 元璋の分析は正しく、徐達も異論はなかった。だが徐達にとって濠州の内紛はどうでも良く、興味のない表情でかぶりを振った。
「我らは大きな目を持たねばなりませぬ。内紛や塩などよりももっと大きな目を」
「大きな目?」
「九四が力をつけたのは何も塩を得たためだけではありますまい」
「では他に何があると言うのだ」
「それは沈万三(ちんまんさん)です」
 徐達は蘇州きっての大富豪の名を口にした。九四は塩売で得た財力で兵を雇い、その兵力をもって沈家など富豪たちを保護した。沈家を中心とする富豪たちは挙って九四軍に資金を支援し、その援助をもって張軍はさらに力を増大させていったのである。
「天徳は――」
 元璋は露骨に不快な表情を浮かべながら、
「これからの紅巾は金持ちどもに尾を振れと申すのか」
 紅巾軍の大義は蒙古および私欲を貪る富豪や地主たちの打倒にある。今さらその目的を捨てるわけにはいかなかった。
「紅巾は民を守ると高言していますが、その実はどうです。濠州をご覧になればわかりましょう。土豪ばかりか貧民からも略奪しているではないですか。憎むべき地主どもは大勢おります。しかし志高く、国を想う者も少なからずおります。劉(豊宣)公などはその一人でございましょう」
「では聞こう。お前は鐘離が蘇州に従えばいい、とそう考えるのか」
「まさか。張九四など天下に志のない、ただの匹夫。どうして我らの命運を託せましょう」
「しかし紅巾には見込みがないのだろう?」
「紅巾に見込みはありませぬ。しかし九四のような私利私欲の徒にもありませぬ」
「では、どうしろと?」
「決まっているではありませんか。我らの命運を託すのは、ただ一人――朱元璋以外には考えられません。この徐達は、多くの者と交わり、学んで参りました。その中で我が身を託す方はあなた以外にないと確信したのです」
「気持ちはありがたいが、郭家の婿と言っても、まだ百夫長でしかないのだぞ。そんな俺に仕えたいなど烏滸(おこ)なる考えだ」
 元璋は一気に酒を飲み干すと、激しくかぶりを振った。
「よく聞け、天徳。俺は私兵を持つつもりはないぞ。濠州の将たちはなぜ争っているのか。それはたがいが信じられず、心に暗鬼を飼っているからだ。そんな中、俺が私兵を率いて戻ってみろ。たちまち朱元璋に野望あり、と攻めてこよう。さすればせっかく集めた鐘離の者を無駄死にさせてしまう」
 しばらく両者は沈黙した。何を思ったのか。徐達は古びた碁盤を引っ張り出し、黒白の石を無造作に置いた。
「碁は打たれますか」
 元璋はかぶりを振った。徐達は碁盤に目をやり、ゆっくりと石を並べる。
「碁は奥深いもの。小局にばかり目を奪われてしまうと、大局を見失ってしまいます。悪手だと思っても、後々大勝へと導く良手になるはよくあること」
 さらに徐達は語った。
「大義を忘れ、民に害を成す紅巾。富豪と結託をして私腹を肥やす張九四。長年に渡り我らを苦しめてきた蒙古ども。鐘離で集いし我らは志あれども力なし。ではどうすれば良いか――」
 黒石を握りしめ、不敵な笑みを浮かべた。
「国瑞様は鐘離の兵と我ら同志を元手に濠州、いや紅巾を手中に収め、志を遂げられれば良いのです」
「天徳、お前」
「多くは申しますまい。鐘離の兵は郭元帥に献上し、和殿たち人材を貰い受けるのです。そして鐘離兵のまとめは国瑞様を敬服する劉公にお任せになれば……」
 そこまで話をすると徐達は口を閉ざした。
 つまり徐達の考えはこうであった。まず元璋と昵懇である鐘離の者を送り込み、郭軍内において元璋派を形成する。兵の代わりに湯和など優秀な人材を引き抜けば、自身の派閥と有能な人材を一挙両得出来るというわけである。
 ――こいつ、喰えぬ男になった。
 元璋は徐達のしたたかさに舌を巻いた。子興がもし大局を見ることが出来るなら、その一部将であっても良いかもしれない。しかし子興の力量は所詮侠客止まりで、これからの世を切り開く力はないであろう。
「……乱世を生き抜くためには人は鬼にならなければならぬらしい」
 徐達には何のことかよくわからなかった。鬼になる――その言葉を口にした元璋の脳裏にふと鈴陶の顔が思い浮かんだ。鬼と違えられた自分を人として認めてくれた妻。だが人の優しさのみで生き残れるほど今の世は容易くはない。元璋は心を鬼にする覚悟をした。同時に眼前の徐達もまたどこまでも元璋と共に生きていく覚悟を改めてするのである。

「七百の兵、元帥に献上いたします」
 七百の兵を率いて戻った元璋は子興の顔を見るや否や、いきなりそのように言上した。
「ホウホウ」
 突然のことに子興は呆けたような声でうなずくしかない。
 ――野心があるのではないか。
 兵を募って戻ってきた元璋を子興は疑いの眼をもって出迎えていた。だが意表を突くように、その兵を丸ごと献上してきたのである。子興の表情は驚愕から喜びの色に満ちあふれていた。
「一つ義父上にお願いの儀がございます」
「何か」
 子興は上機嫌で答えた。
「さらに郭家の声望を高めんがため、再び兵を募りたいのです」
「ほほう。左様か」
「勢威を強めるためには我が腕となり足となる者が必須でございます。そこで湯鼎臣を初め何名かをこの元璋にお預け願いたいのです」
 この申し出に子興はいとも簡単に許可を出してやった。今の子興にとって大切なのは兵力である。いつ他の元帥どもが襲ってくるかもしれない中、一兵でも多く手元に置いておきたかった。
「畏れながら……」
 静かな声で言上してきたのは徐達であった。
「鐘離の兵たちですが、まだ練度が低く、郭元帥のお手をわずらわせるは心苦しゅうございます」
 子興はたしかに、とうなずきながら徐達の言葉に耳を傾き続ける。
「されば鐘離の出である劉豊宣に取りまとめさせ、元帥はただ一人この豊宣にお命じいただければ、その心配もなくなりましょう」
「ふむ。鐘離の兵は鐘離の者が統べるが一番じゃ」
 子興は深く考えず、徐達の案をそのまま受け入れることにした。
 ――さてもさても……。
 このやりとりを見ていた元璋は子興の他愛無さに失望していた。かつて狡猾さにおいては昔の子興は誰にも負けていなかったが、蒙古襲来後はすっかり毒が抜けてしまっている。まったくもって深く物を考えることが出来なくなっているようであった。昔の子興であったなら甘言にこそ恐るべき罠が潜んでいると警戒したであろう。
 ――だが見方を変えればこれは舅殿の命を守るためなのだ。
 このまま耄碌しかけている子興が実権を握り続ければ、間違いなく郭軍は滅亡してしまう。ならば元璋が彼より実権を奪い、その力をもって義父を守ってやればいい。
 とにもかくにも元璋と徐達の目論見は成功した。徐達との申し合わせ通り、鐘離兵は豊宣に統括させた。そして元璋自身は徐達や湯和、花雲、周徳興、呉良など同志二十四名を引き連れて濠州を出立することとなった。
 わずか二十四名であったが、彼らは各地を駆け巡り、元璋を台頭させていく。
 時に至正十三年十二月のことであった。

   三

 濠州を出て一ヶ月。二十四名の若者たちは郭軍の外郭部隊として濠州付近の流賊討伐や、義兵同士の仲裁を請け負っていた。徴兵も間断なく続けており、朱軍の手勢は三百名まで膨れ上がっていた。
 ――しかしこのままでは……。
 朱軍に展望がないと、元璋は危惧している。急ぎ何か手を打たねばなるまい。
 至正十四年が明けた頃。朱軍に妙な男が訪れた。
 古の道士を思わせるような格好をしており、眼光が異様に鋭い。体格は筋肉隆々で、道服などより甲冑が似合う男であった。腰には古びた湾刀を下げており、どうにもいでだちに統一感がない。攻撃的なのかと思いきや、妙な愛嬌があり、番士たちを安堵させた。にこにことしながら明るい口調で番士に取り次ぎを願い出たのである。
「それがしは宗異(そうい)と申す者。朱公子に我が知恵を献上したいと思い立ち、参上いたしました」
 と妙なことを、口にした。しかし屈託のない笑顔を見ていると不思議と無礼だと感じない。番士たちがどうすれば良いか戸惑っていると、背後から花雲が大股で歩いて来た。
「何の騒ぎだ」
「この方が公子にお会いしたいと……」
「重八に?」
 昔の癖が抜けないためか、花雲はつい重八と呼んでしまう。
「それがしは公子のために参りました。会わせてはくださらぬか」
 そう、宗異は再度面会を求めた。しかし花雲は目つきを鋭くさせながら、
「怪しい奴を重八に会わせる訳にはいかねえよ」
 と言って、かたくなに拒絶した。宗異は困惑し、頭を掻くしかない。
「ところで公子の名は元璋と申されませんでしたか」
「ああ。そうだ。重八だが、何だ」
 花雲は自分が「重八」と呼んでいることに気付いていないらしい。
 ――どうにも弱ったな。
 宗異が途方に暮れているところに、背後から笑い声がした。
「黒先鋒殿。重八ではなく、朱元璋様ですよ」
 そのように指摘したのは徐達であった。だが花雲はすぐにわからなかったのか、まだきょとんとしていた。やがて自身の間違いに気付き、何度も大きくうなずき、
「そうだ、そうだ。俺の頭領は朱元璋様だった。この道士の申すことは正しかった」
 と言って、大笑いした。
 宗異は、己ほど変わり者はいない、と自負してきた。
 ――しかしこの黒顔殿には敵わぬな。
 と、内心苦笑せざるをえなかった。ちなみに花雲は朱軍において「黒先鋒」とあだ名されている。色黒で戦場では常に先陣を務めたために、そのように呼ばれているのだ。
 とにかく花雲は果敢に戦えても人の接待など出来ない。そのことを熟知している彼は徐達の肩を叩いて後を任せた。そして、
「そうだ、そうだ。俺の頭領は朱元璋様だ」
 と、呪文を唱えるようにして陣中へと去って行った。
 花雲を見送り、徐達は微笑しながら拱手した。
「失礼いたしました。それがしは徐達。字は天徳と申します。あなた様は?」
「それがしは宗異と申す者。先日兄が占いを立てました所、朱公子に知恵を授けるべしと出ました。それゆえ参上した次第」
「それはまた殊勝な……。では早速、取次いたしましょう」
「それがしを怪しくは思われないのですか」
「世を回天させるは奇士でござりましょう。奇士を恐れていては何も成すことは出来ませぬ。ただし――」
 徐達は急に殺気を込めた目つきをした。
「貴殿が奇士でなく、害をなす者であれば公子の命運もそれまでということ。ですがその時は貴殿の命運も尽き、冥途に旅立たねばなりますまい」
 笑みこそ浮かべていたが、この徐達も只者ではない。宗異は、「恐ろしき御仁だ」と言って、苦笑いした。
「真に奇士であればそれがし如きの脅しなど、どうということはござりますまい」
 このやりとりで宗異はすっかり徐達を気に入ってしまった。無造作に腰の刀を外すと、徐達に手渡し、改めて元璋への面会を求めた。それにしても先ほどの花雲と言い、この徐達と言い、彼らを束ねている朱元璋とはいかなる人物か、胸を躍らせる思いで宗異は足を進めるのであった。
 幕舎に入ると、元璋は地図を広げて湯和に指示を出していた。
 徐達は宗異を紹介したが、元璋はちらりと見ただけで何も言わない。そのため宗異はその場に控えているほかはなかった。
 それにしても奇怪なのは軍議というものは機密を要するもので、何と不用心なのであろうか。元璋は宗異に構わず次々と策を練り、諸将に命ずるやそのまま幕舎に足を進めた。
「茶でもどうぞ」
 元璋は席に着くや茶を用意させ、宗異にも勧めた。
「お待たせいたしました。私は濠州紅巾の朱元璋。以後お見知りおきを」
 そう言うと、慇懃に拱手の礼を取った。
「名は、何と申されたかな」
 元璋は茶をすすりながら尋ねた。宗異が口を開こうとすると、徐達が即座に答えてくれた。
「宗異殿は我らに知恵を授けてくださるとのことです」
「知恵を。ほう、それはありがたい」
 元璋は身を乗り出し、宗異の前に近隣の地図を広げた。
「我が軍は数少なく、兵糧も乏しい。是非貴殿の知恵を拝借したい」
 元璋の眼差しは真剣そのもので、宗異はすっかりその器量に圧倒されている。
「会ったばかりのそれがしに軍の機密を話されても良いのですか」
「はて面妖な。信頼すべき者に何を隠し立てする必要があろうか」
「信頼……公子は何をもって、それがしを信頼されると申されるのです」
「簡単なこと。今、貴殿の隣に天徳がいる。天徳は信頼出来ぬ者を取次せぬ。古来より疑わば用いるなかれ、用いれば疑うなかれ、と申すではないか」
 力強くうなずくと、元璋は快活に笑った。しばらく宗異は唖然としていたが、やがて大きく息を吸い、そして長く吐いた。
「それがしは定遠に住まう者。定遠のことは詳しゅうござる」
「ほう、定遠」
 思わず元璋は声を上げた。
 定遠という名は何と懐かしい響きか。小鬼として捕まり、鈴陶と出会った思い出深い地である。この宗異はその定遠の者だと言う。元璋は何となく、その正体を察したが、詮索はよしとした。まずはこの男の知恵とやらを聞きたかったのだ。
「定遠には張家堡(ちょうかほ)という地があり、そこには驢牌塞(ろはいさい)と呼ばれる民兵がおりまする」
「その数は?」
「三千」
「首領の名は?」
「石幼公(せきようこう)と申す者です。しかし器量狭く、才覚乏しき男にて兵の信頼薄き者でござります。さらに兵糧調達もままならず、困り果てておる次第」
「なるほど。君はここを奪えと申すのだな」
「公子が足がかりとするには格好の獲物だと存じますが」
「相わかった。君の言を入れることにしよう」
 元璋は満足げにうなずき、徐達に兵を整えるよう命じた。命じた後、すぐさま幕舎を出ようとしたが、思い出したように立ち止り、宗異に話しかけた。
「妻からの紹介状をお持ちだろう。見せてもらえぬか」
 そう言うと、元璋は大笑いした。宗異はその洞察力に驚き、一瞬たじろいだが、苦笑しながら鈴陶の書状を手渡した。定遠は鈴陶――すなわち郭家と縁深き土地である。この宗異という男は本名を馮国勝(ふうこくしょう)と言い、定遠きっての名族であった。
 国勝は兄の国用(こくよう)と共に民兵を組織していたが、兵数少なく頼るべき首領を探し求めていた。兄弟は各群雄を調べていくうちに元璋のことを知り、首領として仰ごうと決意したのである。国勝は事前に定遠での縁を頼りに鈴陶と面会していた。その折、すっかり彼女の人柄に惚れてしまい、紹介状を胸にやって来たのである。しかし元璋の器がどの程度のものか見極めたいがために彼女の紹介状を隠し、わざと破天荒に振舞ってみせたのだ。
 ――この夫妻はわしよりも一枚も二枚も上手だ。
 と、元璋夫妻の器量には敵わぬと悟った。しかし、と国勝は考える。この夫妻ならば馮家を託しても良いと己の選択に誤りがないことを確信したのだ。この日より国勝は朱軍に留まり、参謀として元璋を援けていくことになる。

   四

 元璋は国勝を陣中に加え、徐達と共に参謀とした。三軍はまだ少ないが、日々将となるべき人材が陣営に加わってきている。参謀を得るまではすべて元璋一人で判断してきたが、二人を迎えてからは何事においても相談を持ちかけ、より深く考えることが出来るようになった。徐達は常に説く。
「公子にも出来ること、公子にしか出来ないことがござります。それを見極められ、余分なことに気を遣われませぬように」
 また国勝はこのように語る。
「我らは兵の将ですが、公子は将の将でなければなりませぬ。我らをいかにしてお使いになるか――しかと公子の力量、拝見させていただきます」
 そう悪童のような面持ちで言上しては哄笑した。
 朱軍は力をつけねばならない。その第一歩として元璋は驢牌塞を標的とした。幸いにも首領の石幼公は愚主であると云う。
 ――だが一筋縄ではいかぬだろう。
 朱軍の兵数は千にも満たない。だが驢牌塞には三千もの兵がいる。まともにぶつかっては取り入れるどころか、朱軍が滅亡してしまう。だが徐達はあっけらかんと、
「兵数こそ我らは三分の一ですが、我らが主・朱元璋様の器量は敵将の十倍に値いたしましょう」
 と、半ばからかうように褒めたたえた。だが元璋はからかいに乗らず、地図をにらんで考え続けた。
「宗異に尋ねたい。驢牌塞の兵は石幼公を敬っていないのはまことか」
「敬うどころか、あのような愚者に仕えなければならないことを嘆き、天を恨んでいます」
 この瞬間、元璋の脳裏に驢牌塞奪取の筋書きが仕上がった。
「陳腐な策であるが……」
「愚者には陳腐な策こそ効があるものです」
 国勝は策の内容を察知し、力強くうなずいた。
 徐達も間髪入れず、
「費聚(ひしゅう)をお使いなさりませ。彼は我が軍きっての剛の者。お役に立ちましょう」
 と、この策に必要な人材を推挙した。先回りされた元璋は驚きながら、満足げに哄笑した。
「二人には敵わぬな。なれば宗異よ。そなたが成さねばならぬことはわかっていような」「兄の国用と共に驢牌塞へ参り、公子の降伏を申し入れてまいりましょう」
「定遠の名士であるそなたたち兄弟が動いてくれればこの策は成ったも同然だ」
 元璋は二人に目配せし、ただちに行動するよう命じた。徐達は降伏文書を作成するや、国勝に手渡し馮家へと戻らせた。さらに元璋は湯和に命じ、費聚を含めた勇猛な士十名を選抜させたのであった。

 馮家の長男・国用は定遠での名望がある。
 温和な性格であり、かつ義侠心にも篤い。先の飢饉では私財を投じて貧民を助け、一躍その名を揚げた。しかし紅巾軍に加わろうとはせず、弟と共に義兵を結成し、郷里を守っている。驢牌塞の民兵たちは全て農民出身で、そのほとんどが馮家の世話になっている。首領の石幼公もその一人で、その馮兄弟が朱軍降伏文を持って参上してきたため、驢牌塞は騒然となった。
 石幼公は権威に弱い。国用が来訪すると礼服に着替えて、これを迎えた。
「馮家ご当主自らのお越し、恐悦至極にござります」
 出迎えた幼公は卑屈なまでに笑みを浮かべている。
「愚弟が濠州より離反しました朱元璋を説き伏せましてな。彼らは飛び出したは良いが、寄る辺もなくさまよっているのです。どうか石公の寛大なるお心で彼らの帰順を赦してやってください」
 この国用の言葉に、幼公は平伏に近い格好をして快諾した。
「他ならぬ馮公の仰せ、喜んでお受けいたします」
 いとも簡単に朱軍降伏を受け入れ、国用は慇懃に幼公の厚意に感謝した。

 かくして朱軍が驢牌塞に降伏する日がやってきた。
 湯和と費聚を左右に元璋は参上し、拱手の礼を取った。幼公は尊大に振舞い、元璋より降伏状を受け取ろうとした。しかしこれが幼公にとって最期の動作になろうとは想像出来なかった。
 元璋のかたわらに控えていた費聚は懐から鉄笛という暗器(暗殺武器)を取り出し、電光石火、彼の頭蓋骨を叩き割ったのである。
 すかさず湯和は屈強の兵に元璋を守らせ、動揺する驢牌塞の兵たちを恫喝した。
 時同じくして徐達が軍勢を率いて塞に雪崩れ込んだ。また馮兄弟も義兵を引き連れて徐達軍に合流したのである。
 国用は入塞するや、この挙に馮家が全面的に協力している旨を宣言した。元々、幼公を軽蔑していた兵たちはすっかり戦意を喪失し、いとも簡単に朱軍の麾下に入ってしまったのであった。
 まこと見事なる作戦で、犠牲者は石幼公ただ一人であった。塞の兵は即日朱軍に編入され、朱軍は一挙に膨れ上がった。
「安堵されるはまだ早いですぞ」
 と、国用は礼を述べようとした元璋を制した。
「近くに豁鼻(かっぴ)と申します山がございます。その山には秦把頭(しんはとう)なる者が八百の民兵を率いて立て籠っております」
「なるほど。ではその豁鼻も驢牌塞同様に奪えと」
「いえ。次は国勝一人を山にお遣わしになれば事が済みましょう」
 国用はそう言うと、国勝に馬を与えてすぐさま出立するよう命じた。
 その頃、豁鼻山の秦把頭は驢牌塞を陥落させた朱軍におびえきっていた。そうした中、馮家の国勝がやって来たため、慌てて朱軍に降伏した。ここでもまた無用の血を流さずに豁鼻山軍を元璋は手に入れることが出来たのである。こうして瞬く間に朱軍は五千もの兵を擁する軍団に成長した。

   五

「刮目されよ。まだ公子の掌中に入るべき勢力がござる」
 国勝は自作の地図を机上に広げ、進言した。
「蒙古より義兵元帥に任じられた繆大享(びょうたいこう)なる人物がおります。兵数は二万。定遠一帯で最大の兵数を擁しております。ですが繆大享に先見の明なく、右往左往いたしております」
 元璋は状況を聞いているうちに、「そういうことか」と、手を打った。
「そういうこととは何でございます?」 
「何ゆえ、そなたたち兄弟が我らに力を貸してくれるのかわからなかったのだが、ようやく合点がいった。馮家は、この義兵元帥をどうにかしたいのだろう?」
 つまり兵力に物を言わせ、傍若無人な振舞いをする大享を退治するために朱軍を利用した、と推察したのである。そうでなければ馮兄弟のような名士が吹けば飛ぶような朱軍に加担するはずがない。国勝は一瞬気まずい表情をしたが、やがて苦しげに笑い出した。
「ご慧眼とはまさにこのこと。仰せの通り、繆大享めを何とかしたいと思い、貴方たちを利用させていただきました。ですが、利用するためだけに力を貸しているのではありません。我が家を託すに相応しいお方と思えばこそ兄も拙者も命を懸ける覚悟を定めたのです」
「宗異殿にお聞きするが、我らが倒さねばならないのは、繆軍全てなのか、それとも大享一人なのか」
 元璋は繆軍二万をも掌中に収めようと考えているのである。しかし国勝は無理ではないかと難色を示した。
「お考えはもっともなれど、驢牌塞のようには参りませぬ」
「私も奇策というものは二度通用しないと考えている」
「ではどのように繆軍を手中にお収めになるつもりなのですか」
「その前に尋ねたい。繆大享は兵の信望を受けているのか」
「石幼公よりはるかにましですが、敬慕はされていないでしょう」
「ではもう一つ。馮家のように周辺の豪族も繆軍を快く思っていないのであろうか」
「皆、反発しております。馮家以外にも呉復(ごふく)、丁徳興(ていとくこう)両大人(たいじん)を初め、多くの土豪は快く思っておりませぬ」
「ではその両大人たちに協力を求めることが出来るか、否か」
「出来まする」
 国勝は即答し、元璋は大いに満足した。元璋は国用も呼び、三人に策を授けた。元璋の策を聞いた三人はその智略に感じ入り、思わず感嘆の声を上げてしまうほどであった。

 朱軍は動いた。颯爽と繆軍の眼前に陣を敷いたが、時折、花雲が単騎で挑発するのみで一向に攻めようとしない。繆軍には何破顔(かはがん)という猛将がいる。花雲は一丈八尺もある騎兵用の長槍――槊(さく)を手にして一騎打ちを所望した。
 花雲の勇壮な姿はまるで唐代の名将・尉遅敬徳(うっちけいとく)のようで、兵たちが思わず見とれてしまうほどであった。
 破顔も負けじと、槊を手に花雲の挑戦を受けて立った。双方激しく二十合打ち合い、両軍固唾を呑んで勝負の行く末を見守った。しかし黒先鋒の攻撃は鋭く、ついに破顔は討ち取ってしまった。猛将を討たれた繆軍は意気消沈し、それっきり砦に籠って打って出ようとしない。一方朱軍も陣を固め、このまま両軍はにらみあいになるのではないか、と予想された。
 だがこの間、元璋は休むことなく次々と手を打っていた。膠着状態になり、繆軍二万を釘付けにしている。動けなくなっている間に馮・呉・丁三家を中心にした豪族連合が繆軍の糧道を断ってしまったのである。二万の兵を擁する大享にとって糧道断ちは手痛く、大いに困惑した。やむなく兵を繰り出そうとしたが、前方に朱軍が陣を敷いているため少数しか出すことが出来ない。そのため三家を鎮圧することは難しかった。
 三家の戦い方は巧みで、寄せては退き、退いては寄せるといった戦法で繆軍を翻弄し続けた。この鎮圧戦で大享は忙殺され、朱軍はその間身動き一つしない。そのためいつの間にか大享の眼中から朱軍の存在が消されていった。
 大享の眼中から朱軍を消す。これこそが元璋最大の狙いであったのだ。冬の定遠地方は風が強く、砂塵が一帯を覆い隠してしまう。この頃、不毛な鎮圧戦に繆軍はすっかり士気を低下させ、警戒もおざなりとなっている。
「今宵こそ好機」
 徐達は機が熟したと見るや、夜襲することを進言した。元璋も考えは同じで、花雲に夜襲の先陣を命じた。
「黒先鋒の勇名、天下に轟かせよ」
 この命に花雲は武者震いし、喜び勇んで夜襲に向かった。
 対する大享はつまるところ、将の才がなかった。将たる者が最も忌むべきは物事を決め込んでしまうことであり、特に敵軍の動きを固定概念で見てしまうのは危険極まりない。 大享は朱軍が全く動かないため、守りに徹し決して打って出ないと決めかかっていた。そのため朱軍に対して何も備えをしていなかったのである。
 そんな中、繆軍は夜襲を受けて二万の兵は大混乱を起こした。まるで蜘蛛の子を散らすかのように繆軍は夜陰を逃げ惑い、花雲の姿を見ては腰を抜かす有り様であった。
「我は朱軍の黒先鋒・花雲なるぞ。冥途へ行きたいなら、我と矛を交えよ」
 先日の一騎打ちで花雲の恐ろしさを繆軍の兵たちは皆知っており、刃向う者は誰もいなかった。
今回の目的は繆軍二万を手中に収めることにある。徐達はそのために次なる手を打っていた。湯和と共に馬を駆けさせ、
「繆大享は黒先鋒によって討ち取られた。悪しきは繆大享ただ一人。おとなしく降れば決して命は取らぬ」
 そう兵士たちに呼びかけたのである。この呼びかけは効果抜群であった。
 繆軍は皆、南人出身である。彼らは蒙古を心底憎んでおり、その官職を受けた大享を快く思っていない。彼のために死ぬのは馬鹿馬鹿しいと日頃から感じていたのだ。
 そのため繆軍は次々と朱軍に投降し、ついには大享の親衛隊までが降伏してしまった。
 乱戦の最中、大享は必死になって逃げ回っていたが、花雲の手勢によってあえなく討ち取られてしまったのである。この戦いで元璋はさらに兵力を増大させることに成功した。
 また馮・呉・丁三家を初め定遠の土豪たちも朱軍への協力を約束し、ついに定遠までも手中に収めたのであった。二十四名から出発した朱軍が、わずかな期間で周囲が無視出来ないほどの勢力に成長したのである。しかしまだまだ油断は出来ない。元璋は滅亡しないために間断なく次の一手を打たねばならなかった。
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