朱元璋

片山洋一

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第五話「蕭牆(しょうしょう)の患い」

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   蕭牆(しょうしょう)の患い

   一

 朱重八は馬鈴陶と華燭の典を挙げ、名を元璋、字を国瑞と改めた。人々は「朱公子」と尊称し、元璋の郭軍における地位は重きをなした。
 婚儀の夜。紅い婚礼装束を身に纏った元璋と鈴陶は、ようやく二人きりの時間を得た。鈴陶は玉簾の冠を被っており、簾の中の顔を見ることを許されるのは新夫のみである。よく見知っている顔のはずなのだが、不思議と胸が高鳴った。緊張のためか、どうしても顔が強張ってしまう。
 ――情けない。
 そんな自分を不甲斐ないと思っても、手の震えがどうにも収まらなかった。そんな元璋が可笑して、鈴陶はたまらずに笑ってしまった。
 困った新妻だ――そう思うものの、その困った所が愛しいのだから不思議なものである。
 元璋は落ち着きを取り戻すために深呼吸をして、青銅の棒で玉簾を開けた。中からは瑞々しい可憐な白顔が現れる。あまりの美しさに息をするのも忘れ、鈴陶の顔を飽くことなく見つめた。この世でこれほど美しい女子はいない、と本気で思い、かような花嫁を得た我が身の果報に身を震わせた。
 少し落ち着いたのか、元璋は息をつき、にこやかに微笑んだ。
「そのお顔――」
 鈴陶は顔を明るくして微笑むと、元璋は顔を暗くした。彼は己の容貌に対してまったく自信がない。いや、自信がないどころか嫌悪感さえ抱いている。
 後年、元璋は自身の肖像画を描かせるのだが、実像とはかけ離れた美丈夫を描かせた。その一方でもう一枚の肖像画があり、そちらは醜悪な本来の容貌が描かれている。
 偽の肖像画を描かせるほど己の容貌に劣等感を抱き、かつそのような虚像を描かせることに辟易としている複雑な感情を元璋は終世抱き続けるのである。
平素であれば、醜悪な容貌を逆手に取り、事を有利に進めるのが元璋のしたたかさであった。だがこうした婚礼の場、つまり単純に男女という関係だけの場で容貌のことを言われることほど辛く、やりきれない。
「やはりこのような夫は不服だろうな」
「違います、違います。私は国瑞様の笑顔が昔と変わらず、愛らしいと申し上げたかったのです」
「愛おしい?」
 醜いと言われたことは多々あるが、愛らしいなどと誰にも言われたことがなく、元璋は驚いた。
「この世の誰よりも。小鬼様であったあの日からずっと」
「今も昔も鬼であったことはない」
「小さいこと、小さいこと。ともかく小鬼様だった頃から、鈴陶は国瑞様の瞳と笑みが大好きだったのです」
「鈴陶様は変わり者だったからな」
「それはお互い様。でも変わり者同士だからこそ、こうして夫婦になれたのです」
「夫婦か……」
 何を思ったのか、目を細めて紅布に覆われた椅子に腰掛けた。そして鈴陶の白い手を引き、隣に座らせた。
「鈴陶様は」
 と言いかけると、鈴陶は指で元璋の唇を抑えた。
「鈴陶、とお呼びください」
「そうか、そうだったな。では」
 咳払いをしながら、「鈴陶」と言い直すと、鈴陶は染み入るような笑みを浮かべてうなずいた。
「鈴陶は夫婦とは何だと思う?」
「何、と申されましても……。国瑞様はどう思われるのですか」
「……俺は今まで誰かと夫婦になることなど考えもしなかった」
「なぜです?」
「両親(ふたおや)と兄を亡くし、行くあてのない乞食僧であったからな。天涯孤独でいつ死ぬかわからぬ日々を過ごす身にとって、嫁を迎えることなど考えるも愚かな妄想だ。だからそなたに訊きたいのだ。夫婦とは何だと思うのか」
 鈴陶は静かに目を瞑り、じっくりと考えてみた。
 彼女は考える時、全身全霊を懸けているかのように真摯な姿勢になる。その姿が何とも神々しく、元璋には眩しく思えた。ただ胸を高鳴らせ、新妻の返事を待った。
 やがて目を開け、言葉一つ一つを噛みしめるようにして、自身の考えを述べた。
「私も夫婦がどうだ、なんて考えたことがありません。ですが一つのことが言えるのではないかと思います」
「一つのこと?」
「夫婦とは他人ではないかと」
「他人?」
「父母と子には血が繋がっていても、夫と妻の間に血は繋がっていません。親子でなければ友でもない。もちろん兄妹でもない。ならば夫婦とは一体、何なのか……。その昔、義母様から教わったことがあります。夫婦とは一組の楽器なのだと」
「楽器?」
「楽器はそれぞれ良き音色を奏でますが、一つでは足りないもの。異なる楽器がたがいに相合わせれば、一つでは奏でることの出来なかった深く味わいのある音色を奏でることができる、それが夫婦だと教わりました」
「……夫婦は一組の楽器、か。なるほどな。やはりそなたは面白いな。俺一人では奏でぬ曲をこうやって聞かせてもらえるのだな」
「私一人では奏でませんよ。あなた様がいなければ、こうやって夫婦とは何かなんてことを考えなかったでしょう」
「それにしても婚姻の夜に、こんな話をするとは理屈っぽい夫婦だな」
「まったく」
 鈴陶も色気のないことが可笑しくなり、弾けるように笑った。
「国瑞様。人がどう思うとも、私たちの奏でる曲を皆に聞いていただきましょう。今日苦しくとも明日はきっと良い日。国瑞様となら、きっと明るく良き日を迎えることが出来ましょう」
「そなたとなら、きっと迎えることができる」
 二人は互いにうなずき、そして笑い合った。
 前途多難、この先何が待ち受けているかなど誰にもわからない。しかし二人は良き明日を信じて生きて行こう――そう誓い合うのであった。

   二

 婚礼を祝う宴は三日三晩催された。だが時は戦乱、元璋夫婦が身を置くは反乱軍である。いつまでも祝い事に興じている訳にはいかなかった。
 宴が終わった翌朝。元璋夫妻の元に賑やかな来客があった。郭子興の命を受けた湯和である。
「疲れている所、すまぬな、朱公子」
 元璋の顔を見るや否や、悪童のような顔つきでからかうようにして挨拶した。
「朝からからかいにきたのか」
 元璋は眉をしかめながら、苦々しく答えた。湯和は大笑いしながら、手を振った。ただでさえ忙しいのに、そんな暇つぶしのような真似が出来るか、とまたいらざる口を叩いた。
「元帥がお呼びか」
「お頭が公子に相談したいと、そう仰せだ」
「和よ。俺とお前の仲だ。改まった呼び方をするな」
「では重八と呼ぶか」
「俺は朱元璋だ。それに国瑞という字も頂戴した」
「ならば国瑞、殿か」
「殿は不要だ」
「面倒なことだが、これからは国瑞と呼んでやるか」
「ああ。それで元帥は何をご相談されたいのだ」
「さあな。どうせ孫(そん)の野郎のことだろう」
「口を慎め。彼らも元帥なのだぞ」
「元帥様ねぇ。俺にはただのごろつきにしか、見えねぇけどな」
 湯和は唾棄するような口調で嘲笑した。

 濠州府には元帥が五人いる。
 郭子興、孫徳崖(そんとくがい)、そして愈聞望(ゆもんぼう)、魯福徳(ろふくとく)、潘大刀(はんだいとう)で諸軍を統率していた。
 子興はこの四人と共に兵を挙げたのだが、何かにつけて対立している。当初は協力し合っていたが、天に二日なし、烏合の衆のたとえがあるように、挙兵してから、すぐにいがみ合うようになってしまった。元璋は濠州に来て半年しか経っていない。そのため、五人がこじれきってしまったのかよく理解できないでいる。
「お頭は親の代から地主様だ。それに比べて孫の野郎どもは根っからの盗賊。地主と盗賊は仇みたいな間柄だからな。仲好くしろって方が無茶な話だ」
「地主に盗賊。俺たち農民にとってはどちらも厄介な連中だな」
 地主は農民から税を取り立て、盗賊たちは襲撃をして作物を奪い尽くす。どちらも農民にとって仇敵のようなものであった。強いてどちらがましかと尋ねられたなら、地主だと元璋は答えるであろう。
 十七で父母と兄を失った時、わずかながらでも情をかけてくれたのは地主の劉継祖であったからだ。何もかも奪い尽くす盗賊などは地主に比べてはるかに悪質であった。
「どちらも好かんが、お頭は俺たちを拾ってくれた。もっともお頭が地主だろうが盗賊だろうが、恩は忘れないがね」
 この考えに異論はなく、元璋は真面目な表情で同調した。元帥たちの不和の理由はよくわかった。だからと言ってこのままで良いはずがない。
 ――元帥たちの眼には内側の敵しかない。真の敵は……。
 外にあり、と元璋はこの上もなく危機感を抱いている。外の敵とは言わずもがな、蒙古であった。そもそも蒙古を打倒するがための挙兵であったはずで、それが内輪揉めに気を取られて、外の敵のことを忘れるとは本末転倒もいいところであった。その蒙古は、目下のところ、ひたすら守備を固めている。そのため濠州には討伐の手が伸びていない。
 ――だがこのまま蒙古が手をこまねいているはずがない。
 子興たちはいつまでも木ばかりを見ず、森を見て対処せねばならないのだ。
「和よ。蒙古は必ず攻めてくるぞ。この濠州にはさほどの備えも兵力もない。元帥たちがどのように争うとも、俺たちまで大局を見誤ってはならぬ」
「さすがは公子。よく言った。そのこと、お頭に言ってやれ」
 湯和は愉快そうに笑い、おどけるようにして発破をかけた。
「先ほども言ったが、公子などと呼ぶな」
「ああ、国瑞殿だったな」
 湯和は経を唱えるように口中で繰り返し、哄笑した。
「昨夜、妻と話し合ったのだが、お前にひとつ贈り物をしたい」
「何だ、酒か?」
 湯和は無類の酒好きである。どんなに疲れていても宴で飲み食い、そして皆と賑わうことで疲れを癒してしまうほどであった。
「あれだけ騒いでまだ足りぬのか」
 いつまでもお祭り騒ぎで困ったものだ、と元璋は呆れた。しかし無邪気に笑う湯和を見ていると、つい吊られて笑ってしまう。
 元璋の部屋は狭く、二人のやり取りは奥まで筒抜けであった。鈴陶は忍び笑いをしながら、一枚の紙を持参した。紙には二つの文字がしたためられている。

 鼎臣(ていしん)。

「何だ、これは?」
「お前の字だ。和も一軍を率いる将だ。いつまでも字がないのは恰好がつくまい。今日からその字を名乗れ」
「今まで通りで問題ない」
「人を公子、公子と呼んでからかったお返しだ。お前は今から湯鼎臣だ」
「じゃあ、二度と公子とは呼ばねえ」
 なおも受け取ろうとしなかったが、元璋は押しつけるように手渡して、自身は子興の許へと向かってしまった。
 湯和は困じた顔をしながら、字が記された紙をもう一度眺め直した。すると鈴陶が茶を差し出し、にっこりと笑った。
「その字を考えたのは、私なのです」
「鈴陶様が?」
「貴方様は義父様や国瑞様にとってかけがえのない、大切なお方。これからも助けていただきたいのです」
「……重八が、いや国瑞がうらやましいな。鈴陶様のような妻を娶るとは、天下一の果報者じゃ。あいつはきっと大きく羽ばたきましょう。しかし、鈴陶様。もしあのひび割れ餅めが鈴陶様を悲しませることがあれば、この鼎臣があの顔を叩き割ってご覧に入れましょう」
「まあ、乱暴なこと」
 そう言いながらも鈴陶は嬉しそうにうなずいた。
「国瑞の申す通り、蒙古に備えなければなりませぬな。力を合わせて元帥をお守りいたしましょうぞ」
 湯和が哄笑しながら胸を叩き、賑々しく部屋を去っていた。鈴陶は笑いを収め、真剣な面持ちで湯和の後姿に頭を下げるのであった。

   三

 元璋の心配は杞憂ではなかった。
 元朝の丞相トクトはただ大都で座視していたわけではない。着々と反乱軍鎮定のために手を打っていたのだ。
 トクトの配下には有能な官僚が数多いる。黄河開拓に失敗したものの、事務能力に卓越した賈魯がおり、抜群の情報分析力を有する呉直方がいた。
 他にも各地の軍閥を統括し、反乱地域の拡大を防がせている。中でも山西のチャガンティムールはトクトの熱烈な支持者であり、トクトの南征準備に猶予を与えてくれた。
 このチャガンの甥に王保保(おうほほ)という青年がいる。幼時よりトクトを師と仰ぎ、トクトもまた手ずから兵法を教えた。トクトの愛弟子と言うべき保保だが、戦場においてその将才を如何なく発揮した。機を見ることに関しては彼の右に出る者なく、戦いに出れば必ず賊徒を打ち破り、トクトを大いに喜ばせた。
「雌伏の時は終わった。今こそ攻勢に出る時だ」
 紅巾軍が蜂起してから二年。トクトはようやく大規模な討伐軍を起こすことを朝廷において宣言した。
 本来ならば反乱が小規模のうちに鎮圧するべきであろう。だがトクトは元朝の弱体化を誰よりもよく理解していた。文は軽んじられている反面、蒙古族が武に励んでいる訳でなかった。
 蒙古族が頼りにならないのなら、その他の勇猛な民族を活用するほかなかった。
 無論、漢民族を起用することは出来ない。南人は当然であるが、漢人もまた潜在的に反蒙古であるからだ。
 そこでトクトが目をつけたのは勇猛で名を馳せた番族という異民族である。
 番族の中でも特に優秀な若者を選抜し、賈魯に鍛錬させて精兵に育て上げることに成功した。ようやく反乱軍を一網打尽にする軍勢を元朝は持つことが出来たのである。
 ――後は命を下すのみ。だがその前に……。
 精強な討伐軍を皇帝に閲兵してもらうことを考えていた。
 トクトは丞相として絶大な権力を持っているが、盤石ではない。伯父のバヤンもそうであったが、朝廷内の実力者は常に面従腹背しており、皇帝に背を向けられてはたちまち失脚してしまう。そのため、トクトは反乱鎮圧が皇帝と同じ志であることを確認し、朝廷内に示す必要があった。
「和義門へ参れと丞相は申すのか」
 トクトの使いでやってきた直方に皇帝トゴン・ティムールはつぶやくように口を開いた。
 ――相変わらず……。
 覇気のないことだ、と直方は心許なく思ったが、どうやらこれでも皇帝の心は浮き立っているようであった。
 皇帝トゴン・ティムール。
 像脳明晰な人ではあった。だが帝王として大きな欠点がこの人物にはある。
 覇気と直方はそのように表現したが、皇帝たる者は万人をひれ伏させるような胆力がなければならない。いかに頭脳明晰であっても胆力がなければ君臨することは出来ない。
 だが覇気がないことをトゴン個人のせいだとするのは酷な話であった。権臣たちの権力闘争に始まり、そして権力闘争に終わる――そんな人生をこのトゴンは過ごしてきたからだ。
 少年期には属国である高麗に流され、幾度も死を覚悟させられた。トゴンが帝位に即位したのは、覇気の無さが利用しやすいという理由だけでバヤンに擁立されたからである。誰もトゴンの英明さに期待などはしていなかった。
 そのような環境にいたため、すっかりトゴンは気力を失っていた。だが、トクトが丞相となってからは少しばかり様子が違ってきている。トクトは稀に見る勤皇家であり、わずかながらトゴンはこの熱意ある丞相に光を見出していたのだ。
 人は少しでも光を見出すと変わるようであった。それまで鉄面皮であったトゴンの表情に微弱ながらも喜怒哀楽が現れるようになったのも、トクトが朝廷の権限を握った頃からである。そのトクトが国家存亡を懸けた軍勢を見せたいと言うのである。
「参ろう」
 兵如きに皇帝の謁を与えるべきでないという頑迷な者もいたが、トゴンは一切耳を貸さなかった。 
 こうしてトゴンは文武百巻を引き連れて、南征軍を閲兵した。さすがにトクトが二年間、鍛えに鍛えただけの軍勢であり、その動きは美しさを感じるほど整然としていた。
「朕の兵なのか」
「御意」
「見るからに頼もしき勇者どもよ。皆、黄金の如く黄色で染められている」
「黄は古より天子を表す色。陛下のご威光をあまねく天下に知らしめるため、黄色にて染めました」
「朕の……朕の兵なのだな」
 よほど嬉しかったのか、トゴンは同じことを繰り返し尋ねた。トクトは穏やかな笑みを浮かべうなずいた。
「陛下の精鋭です。名は黄軍(こうぐん)といたしました」
「黄軍……良き名である」
 トゴンは満足げにうなずき、トクトを労った。
 ――まだ我が大元は……。
 命脈が保たれている。
 トクトは皇帝の兵を見る顔つきを見ながら、そのように安堵した。トゴンは朝廷の内外でよく暗愚と酷評されるが、トクトはこの皇帝が好きで仕方がなかった。トゴンは暗愚ではない。それどころか時と場を得ればきっと始祖であるフビライに匹敵するほどの英主になるとトクトは期待していた。
 黄軍編成でも朝廷で反対の声がしきりであったが、トゴンは二つ返事で許可を与えてくれた。しかしこれはトクトの悲しい願望であった。蒙古貴族は中原を制覇してから百年。ほぼ全ての者が堕落し尽し、行くところまで世を混乱させてしまった。
 トクトは不幸であった。いっそのことトクトも権力を欲し、私利私欲に走る輩であれば彼個人として幸せであったかもしれなかった。だがトクトには志があり、誰よりも世の動きを察知している。このまま座視するなど、この身が八つ裂きにされようともできなかった。だが朝廷には同志と呼べる蒙古族はおらず、ただその中で皇帝だけがわずかながらでもトクトを認めてくれている。そのような稀有な皇帝が光り輝くように見えたのは、トクトの辛く寂しい立場だからこそであった。
「この黄軍ですが、この臣に率いさせていただけませぬか」
「それは良いが、丞相が出師されては心もとない」
 この言葉にトクトは可能な限り明るい笑みを浮かべ、不安を解消させようとした。だがトゴンの心は晴れなかった。閲兵を終えるや、おぼつかない足取りで宮廷内にあるラマ仏殿へと赴いた。トクトは顔色を暗くしながら皇帝に随行した。人は心の拠り所として宗教を求める。トゴンはラマ仏教の熱狂的な信者であった。
「高麗に流された朕を救うてくれたは、ラマの教えだ」
 そうトゴンの口から聞かされたことがある。いつ殺されるかわからない極限状態の中でのめり込んだ宗教である。即位しても傀儡として翻弄させられた中でラマ仏教への傾倒は益々ひどくなり、バヤン追放後は狂ったようにラマ寺院を建立し続けた。
 ――このラマ狂いさえなければ……。
 トクトはラマ寺院への参詣のたびにそう思うのだが、情緒不安定な皇帝からラマ仏教を取り上げてしまえばどうなってしまうであろうか。心の支えを失くしたトゴンは世捨て人になるか、はたまた狂ってしまうに相違ない。危急存亡の元朝においてこれ以上政情を不安定にすることはまさに命取りであった。トクトに出来ることは言葉を選びながら控え目に諫言する他なかった。
 ――丞相の申すことは正しい。
 トゴンはその理性においてトクトの正しさを理解している。しかし理屈では信仰心を制御することが出来ないことも、この頭脳明晰な皇帝は認識していた。皇帝は香を焚き、トクトを前面に座らせた。出征するトクトの武運を祈るもので、皇帝なりの餞であったのだ。ひと通りの祭事が終わると、か細い口調で声をかけた。
「黄軍を率い、賊どもを一掃すること、まこと良き考えだが、一つ懸念がある。朝廷は丞相のおかげで平穏であるが、丞相が不在であれば、卿を誹る言葉で埋め尽くされよう」
 この言葉を聞き、トクトは愕然とした。皇帝の推察は間違いない。元朝は弱肉強食、修羅の世界である。朝廷が一つにまとまっているのは、トクトの卓抜した政治能力と監視の目が光っているからである。しかし彼が長らく都を空にすれば皇帝の危惧通り、反トクトの動きが活発化されるのは火を見るより明らかであった。
 ――陛下がいらっしゃるではないか。
 天下の主であり、朝廷を乱すことなく治めるのは他でもない皇帝その人なのだ。その皇帝が他人事にように情勢を分析するとは一体どういうことなのであろう。トクトはやや恨めしそうな顔つきをしたが、トゴンは気付かぬ振りをしながら、香炉を手で回した。
「時を使わず、賊どもを一掃いたしましょう。朝廷には呉直方を残しまするので何事も彼をトクトと思い、ご相談遊ばしますよう」
「直方、か。彼は智謀の士であるが、所詮は漢人。蒙古人を抑えることが出来るかどうか、わからぬ。だが……卿の言に従おう」
 そう言うと政の話を打ち切って、一心不乱に祭事へ没頭した。トクトはなお控えていたが、これ以上その場にいても無駄なことはよくわかっている。トクトは肩を落としながら仏殿から退出していった。

   四

 トクトが南征を決意した頃。元璋は子興の許しを得て、交易を盛んにしていた。元璋は商人たちを自邸に招いては宴を催し、彼らから様々な情報を聞き出していた。また濠州を訪れる若者に声をかけ、これはという人物を郭軍に引き込むことにも奔走している。 
「婿殿は変わっているわね」
 鈴陶の部屋を訪れた小張夫人が小首をかしげながらつぶやいた。人は身分を得ると、つい私服を肥やしたくなるものだが、義娘夫妻は得た人材も財宝も惜しげなく義父に献上した。夫人は気を遣わないよう何度も言ったがこの夫妻は聞こうとしない。
「国瑞様が変わっている、と仰っていましたが、何でしょう」
「聞けば婿殿は商いをされているそうね。でも儲けは一切受け取らないとのこと」
「欲していることが利ではないからです。国瑞様が欲しているのは商人たちがもたらす話なのです」
 意味がわからず、夫人と芙蓉は顔を見合せながら小首をかしげた。 
 元璋は戦においてもそうだが、物事を多角から見ようとする。多角から見ることにより、正確な情報を掴むことが出来ると信じているからだ。間者は四方に送り込んではいる。しかし間者ではない商人ならではの見方があり、大勢をより正確に掴むための大きな判断材料となるはずである。
「敵の間者も入りやすいのでは?」
「いかに門扉を固く閉じようとも間者は必ず潜伏する。ならば逆手を取って間者を利用し欺けば良い、と仰っていました」
「それで何かわかったのですか」
「蒙古が容易ならざる動きをしていることは確かなようです。丞相トクトが番族の兵を集め、南下する恐れがあるとのこと。その数は二十万とも三十万とも号しているようです」
「主殿はご存知なのですか」
「義父様にはお伝えしているのですが……」
 鈴陶はかぶりを振りながら、深くため息をついた。相変わらず子興の関心は外の敵にはなかった。彼の関心は力を併せるべき孫徳崖たちにあった。
「主殿は童のようにむきになられます。どうにも孫元帥がお気に召さないよう」
「蒙古どころではないと、お怒りになり、国瑞様の話をお聞きになろうとしません」
「困ったものです。近ごろは私の言葉にも耳を貸さない」
 どうやら夫人も子興には手を焼いているらしい。幾度となく諌めたが、一向に聞こうとしない。それどころが意地でも諍いを続けると言い張っているらしい。戦時でなければ困った話で済むが、今は平時ではない。男たちに身を委ねる女としては困惑を通り越して、彼らの頑迷さに恐怖を感じずにはいられなかった。妙案がなく、悩んでいた鈴陶たちに追い討ちをかける知らせが突如舞い込んだのである。
 その知らせをもたらせた侍女は慌てふためいていた。
「どうしたの。さあ落ち着いて……」
 侍女は大きく息を吸うと、驚くべき内容を鈴陶に伝えた。
「朱公子が元帥様の逆鱗に触れ、牢に入れられてしまいました」
 何を言っているのか、すぐに理解が出来なかった。落ち着かねばならぬと自身に言い聞かせても、手の震えが止まらなかった。
 夫人と芙蓉も驚き言葉を失ったが、彼女たちの取るべき行動は一つしかなかった。
 子興の暴挙を諌めなければならない。蒙古軍という外患と、孫元帥たちとの確執という内憂がある今、最も頼るべき元璋を捕らえてどうしようと言うのか。夫人は血相を変えて子興の元へと急いだ。当然の如く鈴陶もこれに従った。

「どういうことです?」
 冷静にと幾度も自分に言い聞かせていたはずが、義父の顔を見るや否や鈴陶は声を荒げてしまった。
 だがそれは仕方なかった。なぜなら元璋の顔が岩のように腫れていたからだ。明らかに暴行を加えられており、さらに手足まで縛られている。とても郭家の婿とは思えない扱いであった。鈴陶は悲しみと悔しさのため涙を浮かべて抗議しようとした。だが義父の顔を見ると、言葉を詰まらせた。どうやら泥酔しているようであった。
 子興は体を左右に揺らせながら立ち上がり、物憂さげに鈴陶を押しのけた。元璋の前で止まると鬼のような形相で悪口雑言を浴びせ、また酒を口にした。この日の子興は異常であることは誰の目にも明らかであった。ふと目を逸らしてみると、傍らには叔父の張天祐と義兄・郭天叙、義弟の天爵が何も言わず控えている。
「どうして義父様をお止めしないのです」
 だが彼らは子興の権幕に恐れて、ただ石のように固まって何も語ろうとしなかった。
「どうして国瑞様がかような目に遭われるのですか」
「こやつは婿であることを鼻にかけ、主たるわしに盾突きおった。いかに婿でも君臣のけじめを教えねばならぬ。一罰百戒、見せしめのために捕らえたのだ」
 子興は理を述べたつもりだろうが、冷静のかけらすら感じられなかった。
「鈴陶、ここは任せなさい」
 夫人はことさら冷静な声で鈴陶を諭した。鈴陶は冷静なつもりでいたが、彼女自身もまた子興に勝るとも劣らないほど激昂していた。理非もない義父に、激昂している義娘が言い合いを続ければ、状況によっては最悪の結末を迎える危険性がある。夫人が鈴陶を半ば強制的に部屋から下がらせたのは賢明な措置であった。

 結局、元璋はそのまま牢へと入れられてしまった。そればかりか食も与えられず、元璋の命運は定まったかに思われた。この知らせはすぐさま濠州中に広まった。この報を聞いた徳崖たちは、
「あの醜男がおると色々とやりにくかったが、子興の馬鹿は自分の手足を処分してくれたわ」
 と、狂喜させた。
 皮肉な話だが、朱元璋という人物を評価していたのは主の子興よりも対立している徳崖の方であった。元璋が子興の婿になってからは、郭軍は見違えるように精強となってきた。兵力増大、訓練度も格段に上がり、他の元帥たちは郭軍に脅威を感じていたのである。徳崖たちにしてみれば元璋を始末してくれる方が勢力拡大のためには望ましかったのだ。

 ――国瑞様を殺めるおつもりなのか。
 断食を命じた義父に鈴陶は戦慄した。このままでは夫が殺されてしまう。妻として助ける道を探さなければならないと、鈴陶は行動を起こすことを決意した。
 子興は厳命を下している。何人たりとも牢に近づくことを許されない。禁を破った者は斬罪に処すと告知された。朱公子の命運ここに尽きたりと、誰もがそさやき合ったが、が鈴陶だけは禁令を恐れなかった。
 ――一緒に斬られるなら本望。
 むしろ目に生気を宿らせ、救出するべく行動したのである。妻となった鈴陶は人変わりした――これが近頃の彼女の評判であった。婚姻前とは別人のように慎ましくなった、夫によってこうも変わるものかと、人々はそう噂したものである。しかし人の性質など一朝一夜で変わるものではなかった。人は大人へと成長していく時、理性という常識を身につけていく。だが一度身を賭すほどの危機が迫ればそのような常識など吹っ飛んでしまう。
 縁が結ばれてから初めての危機。この危機は慎ましく装っていた良妻の殻を鈴陶はいとも簡単に打ち破ってしまったのである。すっかり好奇心に満ち、行動力溢れる少女時代の鈴陶に戻ってしまった。
 相変わらず人の目を盗むことは得意であった。いともたやすく侍女や監視の目をかいくぐると、韋駄天のように部屋を飛び出した。
 ――私は盗人でやっていけるなぁ。
 いつものことながら、己の敏捷さには呆れてしまう。それにしても、と鈴陶は昔のことを思い出す。最初の出会いでも元璋は子興に捕まっていた。
 ――よほど国瑞様と義父様は相性が悪いらしい。
 そう思うと、笑っている時ではないのに、可笑しみを感じてしまった。本来の姿に戻った彼女は、どんな状況にでも諧謔を感じてしまう病的なまで楽天家であった。
 あれこれ考え、動いているうちに元璋が閉じ込められている牢へとたどり着いた。しかし以前とは違い、すぐに番士に見つかってしまったのである。
「殺しなさい」
 鈴陶はぎらりと懐から短剣を抜くや、番士に手渡した。
「お嬢様ッ」
 番士は悲鳴にも近い声で、激しくかぶりを振った。だが鈴陶は眼光を鋭くして再度、殺しなさいと言葉を重ねた。
「夫と私は一心同体。このまま夫を冥府に旅立たせるぐらいなら、いっそのこと殺された方がましです。でもあなたには郭元帥から命じられたお役目があります。私も元帥の義娘である以上、手向かいはいたしませぬ。夫に会えない私を哀れだと思うなら、刺してください」
 ――お嬢様は始末に悪い。
 番士はこの「脅迫」に泣きたくなった。これなら短剣をもって脅される方がまだましであった。番士はしばらく狼狽しながら短剣を眺めていたが、何かを決意したらしい。ごろんと横たわり、
「眠い、眠い、眠い……」
 と、つぶやきながら、いびきをかいて寝入ってしまったのである。
 鈴陶はようやく夫の許にたどり着いた。だが元璋の状態は眼を覆わんばかり痛々しかった。断食のため痩せこけており、生気がない。
「鈴陶……」
 夢ではあるまいか、はたまた冥途にたどり着いてしまったのか。妻の姿を目にした元璋はそのように感じた。だが夢うつつでなく、牢越にいるのが鈴陶だとわかると驚き、やがて力なく笑い声を上げた。なるほど鈴陶の性分ならここまで来ても不思議ではあるまい。
「国瑞様、ご無事でしたか」
「命はあるが……腹が減ってかなわん」
 元璋は鈴陶を心配させたくはないのか、わざとおどけてみせた。
「お義父様もひどいことをなされます」
「舅殿も色々と鬱屈されておられる」
「そうそう。食事を絶たれているとのことでしたので、持参したのですよ」
 そう言うと、昔のように胸から蒸かし立ての饅頭を取り出した。だが彼女はよほど我が身を庇う術にうといのか、また火傷で真っ赤になっている。
「すまぬ。あの時のように紫草を探してやりたのだが……」
 あの時――火傷に効く紫草を手渡しのだが、今はそれさえも出来ない。だがそのことを鈴陶は鮮明に覚えており、こぼれるような笑みを浮かべた。
「いつも饅頭ばかりで申し訳ございませぬ」
「あれほど美味い物は食べたことがない。それに――」
 元璋は言葉を止め、饅頭をほおばった。
「国瑞様」
 鈴陶は牢格子の間から手を入れ、元璋の手を力強く握りしめた。
「きっとこの鈴陶がお助けいたします。それまでは毎日こうして饅頭をお届けいたします」
「毎日火傷させてはいかんな。一日でも早く出られるよう考えよう」
 元璋がやや深刻な表情になると、鈴陶は残念そうな顔をした。
「でも……せっかくの楽しみが一日か二日で終わったのならつまらないですわ。何日か牢にいていただかないと」
「冗談ではないぞ。そなたの遊びで長く牢に入れられてはたまらん。それに毎日饅頭ではさすがに飽きる」
「では日々違う料理をお持ちしましょう。明日は何が良いかしら」
 鈴陶は楽しげに、そして本気で考え始めた。何でも遊びにしてしまう彼女に元璋は苦笑せざるをえない。
「しかし……」
 鈴陶は首をかしげながら、元璋に尋ねた。
「いくら鬱屈されたとは申しましても、義父様はなぜここまでお腹立ちになったのですか」
「人はな……。正しいことでも成し難いことを言われると、無性に腹立たしくなるものだ」
「どういうことなのです」
「俺が兵を集めて献上し、敵情を聞き出すための交易がお気に召さぬらしい」
「それで入牢を?」
「舅殿は己が間違っていることは百も承知なのだ。だからこそ俺の言うこと成すことが気に入らないのだ」
「やはり蒙古は大挙して攻めてくるのですか?」
「間違いない。率いるは丞相トクト。精兵二十万とも三十万とも言われる大軍が江南を襲ってくる。一挙に反乱軍を一掃する腹のようだ」
「濠州に攻めてくるのですか?」
「真っ先に濠州が攻められることはあるまい。蒙古軍がまず目指すは――」
 元璋が推測した先を答えようとすると、どこからか二人に声をかける者がいた。
「朱先鋒の申す通り、濠州ではなかった」
 この声に驚き二人が振り向くと、そこには天叙が立っていた。鈴陶はすぐさま身を呈して元璋を守ろうとしたが、天叙は静かに手で制した。
「朱先鋒。蒙古は動いた」
 そう言うと、見苦しいまでに天叙は全身を震わせた。恐怖にさいなまれている義兄を目にして元璋はすぐさま察した。恐れていた通り蒙古の嵐が江南を襲い始めたのだ。
「蒙古はいずこへ攻め入ったのです」
「朱先鋒はどこだと思われるか」
 元璋は腕を組みながら考え、二つの街の名を口にした。
「徐州もしくは、高郵」
 天叙は元璋の慧眼に驚愕した。彼の予想は見事的中しており、改めてこの妹婿は只ならぬ男だと認めざるを得なかったのだ。
「父上たちがお呼びだ。すぐ牢から出られよ」
「たち……舅殿だけではないのですか」
「父上と四元帥が呼んでおられる。朱先鋒の申す通り、蒙古は徐州を急襲した。徐州は陥落し、彭大(ほうだい)、趙均用(ちょうきんよう)両将軍が十二万の兵を率いて、この濠州を目指している。今は濠州より二十里北に陣を張っており、どうすれば良いのかわからぬ。是非先鋒の考えを聞きたいとのこと」
「十二万の兵がやってくる、か」
 元璋は目を閉じ、陰鬱な表情をした。
 乱世で最後に物を言うのは大義などではなく、力である。力とは言うまでもなく兵力のことで、多勢を前にしてはいかなる大義も無勢になってしまうのだ。
 濠州の兵は元帥たち全ての兵を合わせても一万強しかおらず、徐州軍の十分の一にも満たない。十倍もの兵力を有する者を引き入れてしまえば、まさに軒下を貸して母屋を取られかねない。乱世においてこのような事象は常識であり、子興たちが戦々恐々するのも無理はなかった。
 ――勢いづいた徐州兵が乱暴狼藉をしてもおかしくはあるまい。
 元璋はそのことを危惧している。子興を初めとする元帥たちには卓越した事務能力がない。濠州で卓越した事務能力を有するのは元璋以外にいない。その元璋が考えなければならないのは、いかにして徐州兵を暴走させないか、その一点であった。
「本来ならば郭家の嫡子たる私が、濠州を救わねばならぬ。だが今は朱先鋒にお任せするほかない」
 そう、悔しげに涙を浮かべながら頼み入った。
「鈴陶。せっかくの忍び遊びが台無しになってしまった。だが危急存亡の折に退屈などと言ってはいられない。きっと多忙になる。命を懸けた多忙な日々がな。いかなることがあっても舅殿や義兄上、そしてこの朱元璋を信じよ。良いな」
 鈴陶はにこやかに微笑み、力強くうなずいた。元璋は天叙の肩に掴まりながら、この日出牢した。濠州にとって過酷な戦いが始まろうとしている。

   五

 徐州兵が濠州に入城したのは、それから二日後のことである。
 敗残兵であるが、元璋が危惧した通り、十倍の兵力は濠州軍を圧倒した。主導権はたちまち徐州軍に握られ、濠州軍は半ば併呑される形となってしまった。敗残兵たちが拠点としていた徐州であるが、かつて芝麻李(しまり)を総帥、彭大と趙均用の両名を参謀として反蒙古運動を展開していた。しかし疾風の如く南下してきたトクト軍に攻め入られ、激戦の末、芝麻李はあえなく討死し、徐州は陥落してしまった。やむなく彭大と均用は敗残兵をまとめ、濠州へと逃れてきたのである。
 出牢した元璋に元帥たちはすぐさま命を発した。湯和たちと共に十二万の徐州軍を収容させたのである。
予想通り、濠州入城直後は徐州兵の乱暴狼藉が多発したが、元璋の手腕に人々は驚愕した。城内外の豪族たちを説き伏せ、食糧など援助を引き出したのである。これは元璋が平素より豪族たちが成り立つように腐心しており、公子の頼みなら、と承諾してくれたのだ。この施策に流賊出身の徳崖たちは、
「我ら紅巾軍は蒙古と搾取してきた地主どもと戦ってきたのだ」
 と、反発した。しかし元璋はそんな彼らに問うた。他に徐州兵たちを鎮める手立てがあるのかと。
 世にはいわゆる反対屋という人種がいる。徳崖などはまさにその典型で、何でももっともらしいことを述べては否定してしまう。しかし物事を解決するには否定するだけではどうしようもない。否定をした先に打開策を考えてこそ意味があり、打開策なき否定ほど愚劣極まる行為はない。
 徳崖の言うように紅巾軍が掲げる大義は「反蒙古、反地主」である。非常にわかりやすい大義であり、苦しめられてきた貧民たちの賛同を得ることが出来た。紅巾軍が急激に勢力を拡大した大きな理由はここにある。だが生き延びるためにはいつまでも反乱軍のままでは先がないことは少しでも先見の明があれば誰にでもわかることであった。
 地主と言っても全てが悪ではない。中には蒙古の悪政から身を挺して民を救った地主も少なくない。それらの地主は信望があり、またその地域を治めてきた経験と人脈がある。彼らを完全に敵に回して乱世を生き延びることなど不可能である。
 元璋は志を同じくする者ならば地主であろうとなかろうと味方に入れるべきだと、考え始めていたのだ。
 結局徳崖の主張は退けられ、元璋の案が採用された。地主たちは元璋に協力を惜しまず、食を得た徐州兵は暴徒化することなく沈静したのである。
 とにもかくにも事態は収拾出来た。だが同床異夢、それぞれ我の強い者同士、何事も起こらないはずはなかった。力を持つ者の声は大きく、そして傍若無人であった。いかに子興や徳崖が泣こうと叫ぼうとも十倍以上の兵力を前に物申すことなど出来なかった。徐州兵が入城してから半月。子興たちは彭大と趙均用に併呑され、彼らに臣従することを余儀なくされた。
 彭大たちはそれぞれ都督を名乗り、元帥たちの支配権を奪取してしまったのである。 子興は地団駄踏んで悔しがったが、どうしようもなかった。だが子興にとって最悪な状況は進行していた。徳崖たち四元帥が均用に取り入り、子興を追い落としにかかった。子興は対抗策としてやむなく彭大を頼る他なく、濠州は再び両派に分かれて対立してしまったのである。
 これで良いのかと、この状況を目の当たりにして湯和は元璋に尋ねた。
 ――良いわけがあるまい。
 答えはわかりきっている。湯和は徐州兵の横暴を許して良いのかという内憂の面のみの憂慮であったが、元璋の懸念は違っていた。
「内憂に気を取られていると、外患に滅ぼされてしまうぞ」
「外患?」
「お前までがそうでは困る。最も恐れなければならないのは蒙古軍だろう」
 当たり前のことを――湯和はそんな表情をしたが、元璋は思わず舌打ちした。
「人は得てして当たり前の事を忘却する。丞相トクトの決意はただならぬ。徐州は落とされたんだ。いつ濠州に迫ってくるのかわからないぞ」
 この指摘に湯和は唾を飲み込んだ。
「徐州兵への憤り、わからぬではない。しかし考えてみろ。外敵と戦うにあたって徐州十二万の兵力は心強い味方ではないか。彼らと力を合わせ、来るべき蒙古襲来に備えるんだ」
 元璋は誰よりも危機感を抱き、湯和や内々の争いに心を奪われる者たちを諭そうとしていた。
 子興への思いと言えば、元璋は失望していた。以前にも増して徐州兵や徳崖に対する不満を強めていたからだ。そんな子興に対し、
「お気持ちは察しますが、今は我慢の時です。濠州の諸元帥はいずれも器量小さく、大局を見ることが出来ませぬ。濠州を束ね、蒙古に立ち向かうは義父上お一人なのです。孫元帥などは言わば利かん気の童。どうか寛大なるお心で彼らを諭されますよう」
 そう懇願して子興をなだめようと努めていた。
 子興は良い意味で単純な所があり、それなりの努力はしようとしてくれている。元璋の忠告を素直に聞き届け、濠州を一つにまとめるべく、徳崖たちに和解を申し入れはしてくれたのだ。だがそんな努力も三日経てば崩れてしまう。いかに子興が関係修復に心を砕こうとも相手にその気がないため、どうしようもなかった。
 元璋ただ一人が悲壮感にさいなまれていた。日々、東奔西走、濠州を走り回っている。
 内では両派閥の和解を求め、外では蒙古軍の動きを探らせていた。しかし元璋の努力は虚しく、状況は悪化の一途をたどっていくのである。

 至正十二年十一月三日。
 雪こそ舞っていないが、凍えるような寒波が濠州を襲った。
 この日、元璋は外壁の補修を監督するために、濠州城外に出ていた。また地主たちと籠城時における食糧確保を相談すべく、地主邸を巡っている。そんな元璋に最も恐れていた知らせがもたらせたのだ。知らせにやって来たのは鄧順興の次男・友徳で、単騎であった。
「やあ。伯顔(友徳の字)殿。父上はお元気かな?」
 暢気に元璋は声をかけたが、それどころではない、といった表情で馬から転げるように飛び降りた。
「公子、一大事です。郭元帥が捕われました」
 元璋は一瞬状況が理解出来なかった。ただ息を忘れたように体を凝固させ、瞬きひとつしなかった。しばらく経ってから長く息を吐き、気持ちを落ち着かせた。
「……どこの愚か者が、烏滸なることをしたのかッ」
 友徳は姿勢を正し、その「愚か者」の名を口にした。
「孫元帥です」
 その瞬間、発作的に剣を抜くや、力任せに地面に突き刺した。
 何と愚かな連中なのか――。
 蒙古軍が迫りつつある今、かような行動に出るとは自殺行為ではないか。徳崖たちはどこまで先が見えないのか、愚劣にもほどがある。
「伯顔殿」
 元璋は剣を鞘に納めると、部下に命じ馬を曳かせた。
「郭邸へ戻ろう」
「父や皆様方がお待ちです」
 友徳もまた馬に飛び乗り、共に郭邸へと急行した。

 子興拘留の知らせは郭軍に激震を走らせた。
 郭家の人々は言うまでもなく激しく動揺したが、幸い邵栄が冷静に対処してくれたお陰で恐慌状態にならずにすんでいる。また湯和たちも慌てずに防戦の準備をしたため、徳崖たちは郭邸に攻め込むことを躊躇したのである。
 そうした中、元璋が帰還したため、一同は喜びに沸いた。郭邸の人々は取り囲むようにして駆け寄ってきたが、元璋はわざと明るく笑ってみせた。
「心配無用。全て私に任せれば良い。くれぐれも軽挙妄動はされるな」
 元璋の心内は腸が煮えくり返るほど怒りに満ちていたが、表面は努めて冷静に振る舞うようにしていた。元璋はすぐさま子興の執務室に足を進めると、夫人と芙蓉が涙に暮れていた。普段は気丈な夫人であるが、事が事なだけに冷静ではいられなかった。
 その二人のかたわらにいた鈴陶に目をやると、いつものように明るく振舞う姿があった。
 ――さすがは鈴陶。
 阿吽の呼吸と言うべきか、鈴陶が今なさなければならないのは持ち前の陽気さを振舞うことであった。
「必ず舅殿はお助けいたします。鈴陶は義母上たちを奥にお連れし、お慰めせよ」
 鈴陶は力強くうなずいたが、やはり顔が強張っていた。そんな鈴陶が可笑しく思えたのか、元璋は苦笑いした。
「鈴陶、笑え。いつものように能天気に笑っておれば良いのだ」
 鈴陶は一瞬むくれたが、すぐに気持ちを切り替えた。ここは夫の言葉に乗って「能天気」にならなければならない。
「いつでも笑っていられるのが私。こんな時に笑わなければ鈴陶がすたるというものです」
 何とも奇妙な言い回しであったが、元璋は、それで良いと満足げに笑った。
 元璋は郭軍の主だった者を執務室に集めるよう命じた。
「伯顔殿」
 皆が集まる間、元璋はかたわらにいた友徳にあることを尋ねた。それは子興の二人の倅と、義弟たちの動きである。
「張将軍はすぐさま兵を集め、孫元帥を攻めようとなされました」
「……鼎臣あたりに止められたのか」
「ご推察の通りで」
「御曹司たちはどうであった」
「伯公(天叙)は右往左往、仲公(天爵)は奇声を発するのみ……」
 これ以上彼らの愚行を報告することは悪口になると思い、友徳は口をつぐんだ。しかし元璋には彼らの行状が目に浮かび、改めて非常時において何の役にも立たないことがはっきりとわかった。
 ――頼むべきは俺のみか。
 自負でも何でもなく、冷静にそのように考えた。やがて郭軍の諸将が集まると、元璋はいきなり号令を発した。
「これより郭元帥をお助けいたす。その間、全て我が命に従われよ」
 まるで雷鳴の如くであり、現に落雷のような衝撃を受けた者がいた。天祐がその最たる者で、目を三角にして異議を唱えようとした。しかし元璋はただならぬ威圧感でにらみすえると、意気地なく黙り込んでしまった。諸将はしばらくうつむき、沈黙したが、邵栄が前に進み出て拱手した。
「この邵栄、公子の命に従いまする」
 元璋は郭家の婿であるが邵栄は上官である。その彼が元璋の指揮下につくと宣言したことは人々を驚かせた。だがこの一言が郭軍をまとめ、諸将は邵栄に倣って拱手した。ここに臨時的とは言え、郭軍の総指揮は元璋の手に委ねられることとなったのだ。指揮権を握った元璋はどこまでも毅然としていた。
「鄧友隆、友徳。両名はある限りの旗を持ち、城壁に掲げよ。そして賑やかに鐘や太鼓を鳴らし、孫徳崖たちを威嚇せよ」
 兄弟は拝命し、すぐさま出立した。
「邵栄に尋ねる」
「何なりと」
「こたびの愚挙は徳崖一人(いちにん)の考えか」
「徳崖の考えではなく、趙都督の命によるものでしょう」
「趙都督、か」
 元璋は腕を組み、息をついた。
「何でも郭元帥が、彭都督をそそのかして趙都督暗殺を企んだと讒言があったとのこと」
「讒言か……」
 なるほど、と元璋はうなずいた。やがて何か思いついたのか、険しい目つきとなって鄧順興を呼んだ。
「貴殿は張将軍および御曹司たちとこの邸を墨守されよ。ただし――。いかなることがあっても打って出るな」
 そう厳命を下すと、生殺与奪の権を象徴する銅の大斧を手渡した。この大斧を持つ者の命は絶対であり、いかに主君の親族であっても命に背く者を斬ってよいとされている。これは天祐たちを邸に閉じ込めておき、余計な手出しをさせないための措置であった。
「邵将軍。貴殿は直ちに彭都督の許に向かい、出兵されるようお願いせよ。陽が沈めば夜陰に紛れて趙都督の邸を取り囲むべし」
「取り囲む、のですか」
「そうだ。だが攻め入ると見せるのみで、断じて攻めてはならぬ」
「承知いたしました。ところで公子はどうなさるのですか」
「鼎臣と共に趙都督の邸に乗り込む。そして彼を脅かしてやるつもりだ」
「兵は?」
「二人だけだ」
 この放胆さに邵栄は驚愕した。いくら何でも無謀すぎる。しかし不敵な面持ちで元璋は哄笑した。
「朱元璋を信じてもらいたい。皆が命に従って動いてくれれば、きっと郭元帥をお助け出来る。それに――」
 元璋は言葉を途切らせて、ほくそ笑んだ。
「趙均用は愚か者ではない」
 確固たる元璋の言葉に皆感服した。だがあまりにも大胆不敵な考えに、誰もが不安をぬぐい去ることが出来ずにいた。しかしその不安を吹き飛ばすように湯和が大声で笑った。
「公子の悪知恵は天下一だ。我らの浅知恵など及びもしないから、安心されよ」
「口を慎め、鼎臣」
 元璋は困じ顔で、口汚い湯和をたしなめた。この二人のやりとりに皆は苦笑いし、こうなっては信じてただ動くしかないと観念した。
「では皆の者、我が命に違背なきよう」
 そう命じると元璋自身もまた勇躍、子興を助け出すべく趙邸へと向かった。
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