学問のはじめ

片山洋一

文字の大きさ
上 下
8 / 9

第八話『藍より青し』

しおりを挟む

 
   藍より青し

   一

 ――またおらへん。
 口を開けば八重はそうつぶやく。
「誰がや?」
 その答えを百記は知っている。
「三平さん」
 そう答えるたびに百記は嫌な顔をするのだが、八重にはそれが面白くて仕方がないらしい。
 志宇さんよ――と、見かねた天游が百記の妻に声をかけた。
「お八重は悪しき癖があるようや」
「悪しき癖?」
「……さては志宇さんの血か?」
 まあ、と志宇がやや眉をひそめたあたり、天游の言わんとすることを理解しているようであった。
「いや、お八重だけやないな。女子は大きゅうても小そうとも意地が悪いらしいわ」
「小町先生も意地がお悪いので?」
 この切り返しに天游は閉口した。
 天游には妙なこだわり――男の信条というものがある。さだの手綱あっての自由奔放だと天游は十二分に理解しているものの、決してそれを口にすることはなかった。つまらない意地だが、それを貫くことに男の薫りがあるものだと天游は信じてやまなかった。
 ――なるほど。
 なぜさだほどの才媛が天游に惚れたのか、改めて志宇にはわかった気がした。天游にしろ、百記にしろ、そして三平にしろ。三人とも手に負えぬほどの頑固者である。だがそれこそが男の香気であり、自分もさだも八重もまた魅力を感じているのかもしれなかった。
 三平だが塾に戻ってきてからも日々塾にいることは少なかった。日の出と共に外出し、日没と共に帰塾する。まず生活をするための費えを溜めるために按摩や義眼作り、そして日銭稼ぎのために荷運びをしている日もある。朝と夕の食事は寄宿しているため塾から支給される。そして寝床も用意されているので、臨時の仕事でも節約すれば溜まっていく。銭がなければ勉強をするための本も買えず、そして何よりも医療をするためにはそれなりの身奇麗さがなければならない。どんなに腕が良くともあまりにもみすぼらしい姿をしていると患者に信用されないからだ。
 ――宗吉先生はエラい損されていた。
 宗吉を識る者は皆等しく思い、その「損」を同情した。
 後のことになるが、三平は医者の心得として衣服は常に清潔でなければならない――とやかましく言うようになるのは宗吉の「損」と天游の教えが根本となっていた。
 ただ三平も銭稼ぎばかりに東奔西走していたわけではない。溜めた銭で良い古着を買い、雪斎や帰塾後、にわかに仲良くなった有馬摂蔵に随って診察や治療に赴いていた。
「ようやっと人を診るようになった」
 さだがひどく嬉しげな表情であったことを天游は見逃さなかった。その満足げな表情に わずかながら嫉妬している自分に天游は苦笑したものであったが、なるほど三平は直感的に医者が何であるのかを、つかみかけている。大先生が――と八重は多忙な三平にやきもきしながら天游に詰め寄る。
「三平さんに色々とお言いつけされるから大変」
「わしは何もしてへんぞ。詰め寄るンやったら大庭(雪斎)あたりにせえ」
「そやけど忞さんも忙(せわ)しいやないですか」
「ほんなら摂(有馬摂蔵)の奴やないのか」
 暖簾に腕押しではないが、八重は頬を膨らませて怒った。
「そう怒るな。あいつらはこの塾に学びに来たンや。わしもあの頃は寝る事のう心にかかったことは何でも学んだものや」
 八重も塾生が勉学こそが一番であることは承知している。だが理屈ではなく、三平がいない寂しさともどかしさはどうしようもない。
「近頃はな、瓶橋の北詰や」
 瓶橋北詰とは心斎橋を長堀川沿いに西に向かった場所にある。その場所には蒹葭堂という塾がある。木村巽斎という故人が収集した所蔵品が収められており、誰でも見学することが出来る。
 収蔵品には舶来の顕微鏡だけでなく、古くはあるが阿蘭陀の珍しい書物まで含まれていた。
 ――蒹葭堂にまで行ってるのか。
 天游が驚いたほど三平は貪欲に学んでいた。
「塾にある阿蘭陀書は読破したそうですよ」
 ある日雪斎が苦笑しながら話した時、天游は三平の能力に舌を巻いた。
 ――ホンマにわかっとンのか?
 そう思い、理解していなければわからないような質問をぶつけてみた。すると立て板に水を流すようにすらすらと三平は答え、天游を改めて驚かせた。
 男子三日会わざれば、刮目して見よ――そんな諺があるが、三平はまさにそうであった。
 つい先ごろまで歌道か医術かと迷っていた小僧が、いつの間にか天游までも驚嘆させる男になっている。そして思々斎塾で収まりきらずに方々を飛び回っていたのだ。
「お八重」
 天游は懐から金平糖を手のひらに乗せてやった。八重は大の甘い物好きで、思わず歓声を上げた。
「緒方にとってな。日々奔り回るンが金平糖のようなものや。学ぶンが楽しいて楽しいてしゃあないンや。とても子守している暇はないンやろ」
 子守、という言葉に八重は引っかかり、顔をふくらませた。
「怒るな、怒るな。そやけどな、お八重」
 天游は自身も金平糖を口の中に放り込み、ガリガリと音を立てて噛み砕いた。染み入るような甘さが口中に広がり、天游は一気に飲み込んだ。
「あいつはもっと遠くへ行くで」
「え?」
「思々斎塾からきっと離れていく」
 八重はやや顔を青ざめさせながら、また追い出すのかと詰め寄った。
「ちゃうちゃう。今度は追い出すンやない。あいつが大きな空へ飛びだってしまうンや。馬は立ち上がったら駆けていく。鳥は羽根を広げたなら羽ばたく」
  天游は嗜虐家である。いつもこのような喩えをしては自分の考えを話す。幼い八重には理解しきれず、そうした時は小首を傾げるのであった。
「まあエラいあいつを買いかぶったけどな。まだそない心配することはないかもしれんぞ。ひょっとしたらただ頭ン中に花が咲いてはしゃいどるだけかもしれん」
「花?」
 やはり八重には意味がわからず眉をひそめた。そんなやりとりをしていると摂蔵がにやにやとしながら天游の書斎に入ってきた。
「どうやらお前の頭ン中に花でも咲いてるようや」
「いくら先生でも失敬な。この摂蔵にそないな艶っぽい話はありません」
「そやったら何をにやにやしとるンや」
「花咲いてるンは緒方さんですよ」
 あのひょろひょろの男がどないして――天游はさだにこそ惚れられたが、女にもてたことがない。
 ――よう考えれば……。
 よくよく考えてみると三平は男女からの人気がある。さだも、雪斎も、そして八重にしても、気がつくと誰かが三平を心配し、世話をしている。かく思う天游も気にかけていた。ただその人気は艶のあるものではないと天游は決めつけていたが、摂蔵が言うにはそうではないらしい。
「まさか若い娘さんやないやろうな」
「そのまさか、です」
「誰や、その酔狂な娘はどこの家の者や」
「そう、どこの女?」
 八重も一緒になって詰め寄られ、摂蔵はたじろいだ。
「どこのて言われても……。けどエラい別嬪(べっぴん)さんでしたよ。今朝がた三平さんを尋ねてこられて、堂島へ行かれたんです。二十歳(はたち)そこそこの娘で……いやホンマ、三平さんも隅に置けン」
 摂蔵はまだ十代の少年にも係わらず、こうした類の話になると天游よりも大人びた話し方をする。どないしよう――言葉にならない会話を両者は目で語り合っていた。だが何をどうすると言うのか。三平は若く、何より独り者である。いつ所帯を持っても可笑しくはない。
 ――誰なんやろう。
 どうでもエエと思いつつ、なぜか八重には気になって仕方がなかった。
 ――三平さんなんかどうでもエエ。
 何だか裏切られたような気持ちになり、やけっぱちになったように八重は心中で叫ぶ。
 だがこの八重の心配はいわゆる杞憂であった。
 朴念仁とは三平に相応しい言葉である。周囲が好感と羨望、そして嫉妬を渦巻いても、当の本人は実にあっけらかんとしていた。美しい娘と往来を歩いているというのに、三平の顔はどこまでも間抜けなほどのほほんとしている。もっとも恋情を抱くにも相手の女性との面識は少なく、そしてその誘いは突然であった。
「お正月ならではのものをお見せします」
 その女性――名を於茶という十八歳の娘はにこにことしながら三平に語りかけた。坂本町から舟を拾えば堂島まではすぐである。診察などで幾度も堂島付近を歩くことがあるが、この日は何やら騒がしい。
「ぎょうさん人がいますね」
「そやからお正月ならではの、と」
 於茶はにこっりと笑いながらうなずく。
 堂島と呼ばれる中州には二百年の歴史があった。大坂は俗に八百八橋と呼ばれるほど数多くの橋が架かっている。だが十二の公儀橋(幕府管轄の官営橋)以外はすべて大坂人の私費で維持されており、堂島に架かる立派な橋もまた私設橋の一つであった。
「この橋の名をご存知?」
「さてはご先祖の自慢ですか」
「それもあります」
 於茶は笑うと子犬のように可愛らしい。
「我が父が大坂に戻ってこれたンは……この橋が名も変えずに往来を見守ってることを知ったからかもしれません。ホンマかどうかはわかりませんが……」
 於茶は前置きを置いてにっこりと笑った。
 「杭倒れ」という言葉も大坂にはある。杭とは橋を支える支柱であり、当然ながら江戸期は全て木製であった。木である以上、長らく水に浸かっていれば腐食してしまう。機会を見つけては杭を取り替えねばならない。
「せっかくの身代を棒に振った方も多かったと聞きます」
 於茶が話すには大坂には暗黙ながら橋に関して一つの約束事があると云う。
 大坂では数多の商人が他方からやって来ては店を構え、そして消えていった。淀屋もまたその一つである。大坂における商いの根本は言うまでもなく堀や川など水路であり、それらに架かる橋を往来する人々によって支えられている。公儀橋の保全は幕府に任せていれば良いが、十二基しかない。その他の橋は大坂人の手によって保全されなければならなかった。
「大坂では天の時、地の利、人の和を得れば財を成せます。でもその財は一人の才覚のみではなく、大坂という街が与えてくれたもの。その街を支える橋を守るのは財を与えてもらった商人の天命」
 彼女の言うように財を成した商人たちは文句を漏らさず、橋の杭を入れ替えてきた。だが杭を入れ替えることはすなわち一から架けなおすことであり、莫大な金子が必要となる。
「みんなエラい儲けたんやな」
 生まれてこの方、貧乏であり続けてきた三平にとっては天文学的な話であった。
 三平の生家の前に葵橋が架かっている。その橋が老朽化のため架け直したことがあった。その作業を行ったのは商人ではなく足守領主の木下家であり、三平の父・瀬左衛門を初め多くの武士たちが汗水を流していたことを幼心によく覚えていた。
 大坂の私設橋はいずれもしっかりとした普請であり、葵橋とは比べるべくもない。そんな途方もない費用をいとも簡単に捻出出来るとは大坂とはまさに夢のような街だと三平は驚くのである。
「簡単やないですよ」
 ひどく感嘆する三平に声をかけたのは清兵衛であった。
「行く宛もない身に大坂の風はエラい厳しかったでしょう」
 くすくす笑う清兵衛に三平は露骨に嫌な顔をした。
「これはこれは堪忍をば。それよりも大坂はどエラい身代を築くことができますが、そう甘くはありまへん」
 二百年――。清兵衛は遠い目をしながら淀屋橋を眺める。
 この橋を架けたのは淀屋であり、そして五代に亘って保全に務めてきた。だが店を畳んでからは淀屋以外の商人たちは杭が倒れぬように励み、そして今も大坂人たちを渡す役目を担っている。
「一人の力などたかがしれてる。そやけど小さい力がぎょうさん集まって大きな大坂を支えてきた。わしらはその小さな人たちによってこうやって大坂で立たせてもろうてる」
 そう言われてみて三平は静かに自分の足元に目をやった。
 足守から父に連れられて来た時は絶望のあまり灰色に見えた大坂の橋であった。だが寒風に身をさらし、己の両足で歩き始め、そして大坂の歴史を耳にした今。ただの橋が何となくであったが愛おしく思えて仕方がなかった。他郷であった大坂が足守と同じく愛すべき土地に思えてくるのであった。
「妙な地ですな、大坂は」
 毒気に当てられたように三平は生返事をし、於茶にはそれが可笑しかったらしく小さく笑い声を上げた。
「エラい騒がしいようで」
「米の相場が始まるンですわ」
 三平はまだ大坂の経済について疎い。父のように蔵屋敷を任されているならともかく、ただの武士にとって相場など無縁である。
「ようここを往来しますが……こないな相場やってたやろか?」
「いいえ。普段はちゃう場所で相場は開かれます。今日だけ……そう相場始の今日だけがここで開かれるンです」
 淀屋が大坂を去って百年。清兵衛たちは必死になって大坂へ戻るべく尽力したが、かつての栄光を取り戻すことは不可能であった。商いは一日一日、その日、明日、明後日と止まることが許されない世界である。どんなに光り輝こうとも潰れた大店を後生大事にするような――商人から見て武士のような世襲と名跡こそ命よりも重しとするような酔狂者はいない。
 そんな大坂であったが、淀屋の業績を記念として思い留める感傷は受け継がれていたのだ。相場を始めた淀屋常安に敬意を表し、相場始めの一日だけは記念としてかつて淀屋があった場所で相場が開かれるのである。
「大坂へ初めて上ってきたは、お会いしたばかりの田上様と同じ年の頃でしたなァ」
 そう言うと清兵衛は懐かしそうに目を閉じた。
「百年前に店じまいした淀屋など誰も見向きもしませんでした。それは――」
 言葉に出来ない辛さだと悲しげに語る。しかし清兵衛は歯を食いしばりながら一歩ずつ信頼を勝ち取り、そしてようやくかつて淀屋があった場所に再び店を構えることができた。やがて淀屋の業績を称え、初相場が淀屋橋で行われていることを知ったのである。
 それにしても何と賑やかなことか。あちらこちらで取引をする男どもの声が響き、悲喜こもごもはあるものの、いずれも真剣に先物買いをしている。
「田上様は初めてですか?」
「私は銭なしの身ゆえ、相場など係わりはありません」
「ところでお国では米の飯が口に入りましたか」
 この問いに三平は苦笑いしながらかぶりを振った。足守は財政がひっ迫しており、かつ佐伯家は下士である。とても米の飯が満足に食べることなど出来ない。
「大坂ではどないです?」
「日銭さえあれば食べれました」
 深く考えていなかったが、大坂では米の飯を食べることは困難ではなかった。
「怪態な街で……大坂そのものは米を生み出さん。そやけど、あちこちから米が集まり、そして運ばれていく仕組みができ上がるンです。その流れを作るのが――」
 相場です、と清兵衛は語った。常安はなぜ米が思うままに流通しないのか考えに考えた。それは直接米をやり取りするからで、それを互いの信用で取引すれば余分な手間がかからないと考え付いたのである。その取引こそ相場であり、米を生み出さない大坂に米が集積するからくりであったのだ。
「そやけど大坂の相場を守るために商人は商人の戦をしたもんです」
 エエ戦、敵は江戸です。――清兵衛は唇を噛んで頷いた。
 今から百年ほど前――すなわち享保年間。大坂は未曾有の大火に見舞われた。いわゆる「妙知焼け」という大火災があった。この災害で混乱している最中、江戸の商人たちが相場を移してしまおうと画策したのである。淀屋の闕所と言い、米相場の移設未遂と言い、江戸の幕府は隙あらば大坂の権益を奪い取ろうとするものだ。享保年間、淀屋は大坂に対して何の力もなく、いわば他人事であった。だが商売の勢いをやや減じさせても元の淀屋に店を復活させた清兵衛にとって江戸の圧力にはつい憤慨を覚えてしまう。
――しかし田上様にはこの気持ちはわかってもらえへんやろな……。
 呆けた表情で感慨を持ちようのない三平の横顔を見て、ふと清兵衛はそんなことを考えた。だが、と思い直しもする。三平の師である中天游も、そして今大坂で時めいている豪商――例えば鴻池家や住吉家なども元は余所者であり、大坂の発する力を浴びて「大坂人」となった。
 清兵衛は先祖の仇討ちとは言わないとしても、常安たちが抱いたあるべき大坂を自分の手で育て上げたいという大望があった。明日の大坂を担う青年を育んでこそようやく淀屋は再興したと言える――清兵衛は温和な表情の中に熱い想いを滾らせるのである。
 熱い、と言えば相場で駆け引きをする人々もまたこの上もなく熱くなるようであった。
「そろそろですな」
 意味がわからず、三平が首を傾げていると、どこからともなく太鼓の音が鳴った。その音ともに人々は帰り支度を始め、潮が引くように熱気が冷めていく。だが中には歯止めの利かない連中がおり、やや狂ったようにその場を去ろうとしない。

 ばしゃぁッ。

 いきなり、そうした連中に水をかけて廻る男たちがいた。
「あ、あれは?」
 三平が目を白黒させて尋ねたが、清兵衛はくすくす笑いながら答えない。
「犬猫の喧嘩には水が一番」
 大坂の者は洒落を好むものだが、於茶もそうであるらしい。犬猫と評した娘に清兵衛は思わず噴出してしまった。
「口の悪い娘や。はははは」
 そう言いながら、「言い得て妙」と、娘の表現に感心をした。言っても聞かないなら水をかける――足守ではとても考えられないような制止方法であり、これが大坂なのだと三平は唖然とした。
 それにしても、と三平は思う。
 ――意外にも義理堅い。
 そう思ったのは三平がまだ大坂のこと、大坂人のことを理解しきれていなかったからであった。
 商いとは儲けるか否かが根本にある。品を左右に動かすだけで稼ぐやり方を武士は毛嫌った。徳川幕府は治世の根本として朱子学を奨励し続けてきた。また米こそ治国の要諦と定めてきたのは大名の大小を米の取れ高である「石」にしたことからでもよく顕れている。
 農民になるも商人になるな――。
 足守ではさほど商人を蔑む気風は緩いものの、そのような空気は皆無ではない。父の瀬左衛門は下級武士でありながら起用されたのは商才に恵まれていたからであった。いや瀬左衛門のみならず、江戸中期以降、門閥以外の武士が世に出るためには算盤に疎ければ勤まらない。武士としての心得を叩き込まれながらも、三平も兄の馬之助も算盤はしっかりと教えられてきた。
「商人と侍はどう違うのですか」
 少年の頃、三平は兄にそう尋ねたことがあった。馬之助は相手が誰であろうと温和な笑みを浮かべる人であったが、この問いに関しては毅然とした態度で、
「義が先か、利が先か。ここに違いがある」
 と、答えた。十七で大坂へ出て、そして思々斎塾を追われた三平は大坂では義よりも銭が必要であることを思い知らされた。その大坂が二百年前に亡くなった常安の恩を伝えるためにわざわざ淀屋橋で初取引を慣習として行っていることが不思議でならなかったのだ。
「侍は義、商人は利とお思いですか」
「違うのですか?」
「侍は理屈、商人は実利を重んじるモンですよ」
 あまりの言い様に三平はむっとした。於茶は露骨な物言いをする父を諭すようにわずかににらみすえた。
「不快は百も承知。ですがこの清兵衛は淀屋常安の末裔。生まれこそ倉吉ですが、血の本流はここ大坂。大坂の者は己のウンに責を追うモンです」
「己のウンに責を追う?」
「お侍様と違うて私どもは御公儀の匙加減でどないでもされてしまう身。またお百姓のように田畑を持っているわけでもない。主人もなく田畑もないわしらが拠り所にするは信義。人様を裏切るような没義道に銭は入ってきまへん。商人の宝は人様との絆であり信。確かな品を渡すも信。確かに物を届けるも信。そして今の自分たちが何であるのか根本を知らぬ没義道に信を掴むことは無理ちゅうモンです」
 そう言えば父の取引相手であった庄右衛門がぽつりと話してくれたことがある。瀬左衛門はぶっきら棒であり、何よりも強かで交渉する相手としてこれほど大変な人はない。しかし恐ろしいまでに物の本質をつかんでおり、必要以上の値切りもしなければ最も適した値を提示してくる。そして何よりも人を裏切らない。そうした姿勢に庄右衛門は信を置いていると語っていた。
 家門がどうの、お家がどうの、しきたりがどうのとばかり――形式ばかりを大切にする侍よりもはるかに大坂で生きることは厳しいものだと身に染みていた。
「大坂は厳しい」
 三平は夕陽の中、淀屋橋を立ち去る人々の顔を見ながらふとつぶやいた。でも、と於茶は黒い瞳を輝かせながら微笑した。
「日々この世で生きていると思えますよ」
 たしかに足守で過ごしていた日々と比べてみるとそうなのかもしれない。明日どうなるかわからない。しかしそれは極楽になるのか地獄に落ちるのか。そうならないように励まなければならないし、落ち込まないように明日はきっと良くなると思わねばならない。
「一歩一歩足を進めるだけやな」
 於茶は意味がわからず首をかしげたが、三平はにこやかに笑うだけであった。
「於茶さん。私も己のウンに責を取る者になりたい。清兵衛さんや於茶さんに無理やり連れてこられた訳やないです。言いなりやった田上騂之助は足守に置いてきました。緒方三平はこの――」
 二本の足で大坂を歩いていきたい――。にこやかながらも三平の目には力強い光が宿っていた。
「田上様。今日お呼びして甲斐がありました。ご自身の足でしっかりと……そしてじっくりと地をお進みください」
 三平は言葉でなく力強い眼光で、「ウン」と、清兵衛に返事をした。於茶は二人の間で交わされた無言の会話を感じ取り、そして三平の後姿を飽くなく見送り続けた。

   二

 大坂には多くの学問所が林立している。
 木村蒹葭堂、、洗心洞、絲漢堂、そして思々斎塾。思々斎塾の書を読破し三平が蒹葭堂に足を運んだのは、本草学に触れるためであった。医者は薬も調合せねばならない。様々な草や鉱石にどのような薬効があるのかを調べる本草学が必要であった。蒹葭堂には阿蘭陀や清、朝鮮などから渡ってきた珍しい草木や鉱石があり、さらに顕微鏡まで所蔵されている。
 この蒹葭堂に通った文人で特筆すべきは中井竹山であった。竹山は懐徳堂の教授を勤めた人物で、大坂の学問を大いに高めた功労者でもある。懐徳堂は享保年間に有志の豪商たちによって設立され、後に老中・松平定信に認められた幕府公認の私設学校であった。ここでは学問の高低、身分の差は一切問われず、誰でも学ぶことができた。
「物は蒹葭堂がエエ。学問の基を学ぶは懐徳堂がエエ」
 懐徳堂を奨めたのは天游で、三平は暇を見つけては通い続けている。もっとも懐徳堂へ通ったのは医術よりも歌の書籍が揃っているからであり、半ば趣味的要素が大きかった。

 そんなある日。懐徳堂に『伊勢物語』の写しがあると耳にした三平は早朝から足を向けた。坂本町から舟で行けば懐徳堂のある尼ヶ崎(今橋)まではすぐであるが、相変わらず銭なしの三平は日の出前から徒歩で向かった。
 時期は梅の花がつぼみをつけはじめ、ようやく春になりつつある。だが陽が顔を出す前は真冬と変わらず、三平は息を白くさせながら足を進めた。
 ――早く来すぎたかな。
 『伊勢物語』は歌詠みにとって貴重な書であり、三平は足守にいた頃から一度は読んでみたいと願っていた。それが叶おうとしている今、三平の心は少年のように高まっている。やがて開門の刻限が訪れ、懐徳堂の門が重々しい音ともに八の字に開いた。
「緒方さん。えろう早いお着きやな」
 顔見知りという事もあったが、ここの管理をしている長兵衛はかつて億川百記に娘を看てもらったことがある。そのため同門である三平に対して親切であった。
「今日はかけがえのない宝物を拝見出来るので気が逸ってます」
 子供のようにはしゃぐ三平に長兵衛は思わず苦笑した。だが三平の背後に現れた人物を見て急に背筋を伸ばした。
「長さん?」
 訝しげに三平は首をかしげたが、背後に迫った人物の顔を見て合点がいった。
「……後素……先生」
 後素先生こと、大塩平八郎がいたのである。彼もまた懐徳堂の門下生であり、洗心洞の主宰となった今でも塾を訪れている。
「ご無沙汰しております」
 慇懃に三平は挨拶をしたが、平八郎は目を見開いたまま微動だにしない。しばらく頭を下げたままだが、妙に重苦しい空気に三平は堪えかねて顔を上げた。だが平八郎は仁王様のようににらみすえている。にらみすえている、と三平は恐れたが、平八郎にはそんなつもりはなかった。単純に眼前の青年のことを思い出そうとしていたに過ぎない。
「後素さん」
 このやりとりを見ていたもう一人の人物がいた。坂本鉉之助であった。渡りに舟ではないが、この空気を打ち破る鉉之助を見て三平の声は裏返ってしまった。
「はははは。なんちゅう声を出すンや。それにしても後素さん。その形相は物騒や。京で言う仏頂面やな」
 平八郎は鉉之助のからかいに閉口し、さらに嫌な顔をした。だがそれが鉉之助にはさらに可笑しかったらしい。
「おう。田上。宿無しの暮らしはもうエエんか」
 鉉之助一流の皮肉なのだが、三平にすれば笑って流せる軽い話ではない。
「坂本さんは少し見ない間に随分と口が悪くなられたようで」
「いやはや。田上(三平)も言うようになった」
「坂本君。いつまでも戯れてばかりの童のようやぞ」
 さすがに気の毒に思ったのか、平八郎が鉉之助をたしなめた。
「田上……君やったかな」
「今は緒方三平と申します」
 平八郎は聞き覚えがない顔つきで首をかしげたが、それは無理もない。以前会った時は藤田顕蔵捕縛の時であった。平八郎にしてみれば格之助の遊び友達にすぎず、洗心洞の幼年組で学ぶ童を叱るのと代わりがなかった。ただ心の隅に生意気な小僧め、と思っている程度であった。
 三平は平八郎とは比べるべくもない強い印象が残っている。一つは何かと縁のある格之助の養父であること。一つは恩義に感じていた顕蔵先生の人生を閉じさせた――いわばどこか仇に思える嫌悪感。そして顕蔵の無惨な死こそが思いもしなかった医者の道を開いてくれた。
――つまりは仇でもあり、恩人でもある。
 怪態な方や、と三平は思うのである。あれこれと思案する三平に平八郎はゆっくりと口を開け、声を発した。
「随分と格之助と仲良くしてくれているそうやな」
「……仲良く……なんでしょうか」
 三平が首をかしげてしまうほどなるほど、格之助とは遭うたびに憎まれ口を叩く。それでいて互いのことが気になって仕方がなく、相手が不遇の時は心のどこかで声援をかけてきた。
 ほんまの友ちゅうは――鉉之助はやや困惑している三平に教えてやりたかった。見せ掛けの友やただの付き合いならばにこやかに挨拶をし、相手の嫌がることも、そして己の感情を露わにすることはない。真の友とはかたわらから見ても、そして自身たちも仲良きものではないものだ。
「緒方君。忙しい所をすまんが……少し時をもらえまいか。折り入って話しておきたいことがある」
 はァ、と三平は要領のない返事をした。だが医術ではなく趣味的に来ているため、時間だけはあった。
 どこで話すのか――そんな表情をすると平八郎はわずかに目尻を笑ませた。どうやら事前に懐徳堂の諒解を得ており、また三平に時間があることを鉉之助が予め調べているようであった。
 ――兵法者のやり口や。
 そう揶揄したくなるほど平八郎の周到さに呆れたが、断る理由もなくそのまま応じることとした。

 ――話がある。
 そう言っておきながら平八郎は一向に話を切り出そうとしない。ただ長右衛門が出してくれた茶菓を口に放り込み、そして長々と茶をすするばかりであった。平八郎の生み出す空気は懐徳堂の一室を凝固させ、三平は息が詰まる思いがした。
 これが十七の頃であったら、またあの放浪の日々の前であったら三平はなす術がなかったであろう。だが三平は成長し、何よりも大坂の空気を多分に吸ってきている。思ったことを、よどみもなく尋ねる度胸を身につけていた。
「後素先生。時は金なりと申します」
 平八郎は茶碗をゆっくりと畳上に置くとすうと息を吐いた。
「格之助のことなんやが……」
「格之助……いえ、格之助殿がまた危うきことに?」
「いや、そうやない。あいつは……ふむ。あいつは日々与力になるべく励んでおる。今もとあることで働いておる」
 あることとは何か、とは三平は聞かなかった。いや聞いてはならないことであった。与力の仕事に首を突っ込めばとんでもないことになることがある。聞きはしなかったがどうやら危険なことはしていないことを三平は察した。
 あることとは――この頃大坂では僧侶たちの堕落がひどく、東町奉行・高井実徳の命で取り締まるために格之助たちは内偵していた。今度の相手はかつての難敵ではなく、平八郎とすれば、じっくりと若者たちの活躍を見守っているだけでよかった。
 ――それでは一体何やろ?
 まさか平八郎が自分を相手に茶飲み話をしたいだけとはとても思えない。と言って奉行所に係わる重大なことを相談するとも考えにくい。一体何を相談したいのか三平には見当がつかなかった。ただ平八郎にとってはよほど重要な話らしく、茶だけでなく菓子まで出させた。
 ――意外な。
 そう思ったのは、三平が平八郎の人となりを誤解していたためであった。その容貌から平八郎は傲慢で愛想のないという印象を人に与える。だがそれはあくまで表面的なことであり、その実は温和で例え相手が年下であろうとも敬意を表した。もっとも反対に相手がどのように身上で年上であろうとも自身への侮蔑は決して許さなかった。そのため平八郎は同僚や上役から傲慢であるとされ、その疎外感が彼を気難しい人物に仕立ててしまったのである。
「……冷めるぞ」
 務めて優しげに言ったつもりであったが、声に出る妙な張りがどうにも取れない。三平は固唾と共に飲んだが、生涯でこれほど息苦しい茶を味わったことがなかった。双方、茶を飲み終わると再び沈黙が流れる。
「……実は君に頼みたいことがある」
 ようやく破られた沈黙に三平は姿勢を正した。
「格之助のことでな。……あれも十九や。君はいくつやったか?」
「二十歳、ですが」
「二十歳か。……君は……ひょっとすると朴念仁か」
 いきなり何を言い出すのか――三平は奇声に近い驚きの声を発した。
「たしかに私はあまり女子の心はよくわかりませぬが……」
「嫁はいらんのか」
「いるいらぬよりも娶るにはまだ半人前ですので」
 真面目に答えたが、なぜ平八郎にこんなことを聞かれなければならないのか、少し不愉快でもあった。
「まさか先生は私に嫁をと仰せなのですか?」
「いや、それは……」
 まるで少年のように平八郎はどぎまぎしながらかぶりを振ったため、益々三平には意味がわからない。
「後素さん」
 ここに至って鉉之助は堪りかね、話に割って入ってきた。
「田上、すまぬ。そなたの話やないんや」
「え?」
「いやな。格之助に縁談があるんや」
 三平は驚いたが、別段可笑しな話でもないと思い直した。大人になったと気張ってはいるものの、どこかで童臭が消えないでいる三平にとって妻を娶ることなど縁遠い話であった。だがこの当時の婚姻は十六や十七あたりですることが普通であった。さらに言えば格之助は浪人然の三平と違い与力見習である。やがて大塩家の家督を継ぐ身であり、嫁を娶ることは何ら不思議なことではない。ならば、と三平は不可解に思った。友かどうか知らないが、なぜ自分如きに大塩家の婚姻について相談されるのであろうか。
「よほど不器量なのですか?」
「いや――」
 この問いに関して平八郎は毅然と否定した。そもそも後継者たる者が女の顔が佳いだの悪しきだのと言うべきことではない。あるのは大塩の家だけだ――平八郎の目がそう言っていた。
「くだらないと思うか?」
「私はご覧の通り、頼るべき者がない身。お家がどうの、ご公儀がどうの、そのために嫁をどうのなど考える身分ではありませぬ」
「格之助が大事と思わぬか」
「さて。どうでもエエとは思いませぬが、誰を嫁にするかなど格之助殿が考えるべきこと」
 一旦言葉を止めた後、三平はくすっと笑った。
「何が可笑しい?」
「いえ。やはり大塩家の婚姻など係わりないことだと思っただけで……。ですが、もし格之助殿がどこかの娘を好いただの、好かれただのという話ならばいくらでも聞いてやりたいと」
 平八郎はため息をつき露骨に落胆の色を見せた。
 ――こんな豎子(小僧)に聞いたわしが阿呆やった。
 そんな後悔をした。他のことであれば平八郎は頼山陽に尋ねたに違いない。だが色恋に関して平八郎は苦手であり、同じ年代の三平なら良き思案を聞けるかと期待したのであった。
「そもそも……格之助殿は否と申したのですか?」
 この当たり前すぎる質問に平八郎は唖然とした。諸事人付き合いが不器用な平八郎は端から格之助が断ると思い込んでいたのだ。
「後素さん、聞いてなかったのか」
 鉉之助が呆れながら尋ねると、平八郎は顔を赤らめながら無言でうなずいた。ただこの思い込みは実は三平と全く無関係であったかと言えばそうではなかった。
 三平と出会う前の格之助は実に恭順で、一点の曇りもない跡取りであった。だが三平と付き合うようになってから自分の考えをはっきりと主張するようになり、平八郎はその点で驚きを隠せないでいた。そのため、こたびの婚約もまた何かと理由を構えては断るものだと決め付けていたのだ。
「格之助殿が否と申されましても、それはそれでエエと答えますよ」
 そう答える三平に平八郎はいつしか洗心洞の師として異を唱えた。
「君は武士ではないのか。今の君があるは仕えてきた家あってのことだ。先祖、親から受け継いだ血を次の代に残す。これが武士の大事なる役目だ」
 忠義や家の話になると決まって平八郎の語調は強まる。
 ――後素さんの病やな。
 半ば好意的に、半ば否定的な目で鉉之助は平八郎の真剣な表情を凝視した。将軍を頂点とする幕府が統治する時代にあって忠義と御家は何よりも大事であった。無論、鉉之助も代々禄を食んでいる以上、そのことに異論はない。だが忠義や孝行などは殊更口に出すものではないとも感じている。あまりにも平八郎は真面目でありすぎ、その観念を誰彼なく押しつけてしまう。
「そうだと思わぬか」
 さらに語調を強めた平八郎の問いに三平は云とも寸とも答えなかった。多くの者は平八郎の気迫と正論に負けて平伏してしまうのだが、三平はどこ吹く風よとばかり平然としていた。
 しばらく自身の茶を眺め、庭で囀る小鳥の声や街の蝉噪に耳を澄ませている。何かある――平八郎は突き進むだけの愚を悟り、気を鎮めて茶を口にした。随分と、暖かくなりましたね、とひどく和やかな声で三平は口を開いた。
「昨年は辛い日々を過ごしました。行く宛も帰る家もない……今までにない寒さを我が身に感じたものです」
 三平が一時放浪していたことを平八郎も耳にしていた。
「それまで私は父や御家、先生方の意向によって右に左にと揺れ歩いておりました。ですが思いもかけず独りで放り出されてしまいました」
 先生のように万巻の書を読んだ訳でもなく、また人生を歩んできた身でない、と三平は前置きをして言葉を繋げた。
「未熟者には未熟者の歩んできた道があります。七十の翁でも三つの幼子でもそれぞれ死すその時まで歩み続けております。私はもう浪々の身ゆえ縁無きことかもしれませぬ。いえ……浪々の身やからこそはっきりとわかるのです」
「何がわかると申すか」
「たとえ公方様の御世嗣であろうとも商人の手代(丁稚)であろとも、どのような定められた生き方があろうとも己の足で歩んでいくしかないということ、です」
 三平にすれば大塩家の婚姻など自分に何の係わりもない。もしどうするべきか悩んでいるのなら格之助自身が相談すべきではないか。そんな心を鉉之助は敏感に察したのか、苦笑しながら平八郎に言葉をかけた。
「後素さん。お相手はそんなにエエ娘さんなので?」
 ああ、と平八郎は力強く頷いた。
「橋本(忠兵衛)君の娘御だ」
「忠さんの……と言うと、おみね」
 このことを知った鉉之助は深いため息をついた。忠兵衛は平八郎の実質的な妻であるゆうの養父でもあり、物心ともに洗心洞を支えてくれている彼の娘との縁組はなるほど大塩家にとって悪くはない。だがわずかながら障り――いや、時の問題がある。
「おみねはまだ十三やないですか」
「早くはあるまい」
「後素さんはどうも真ん中がない。何でも正か誤で話をしてしまう。人は人の数だけそれぞれの思惑がある。いくら正しかろうともこうやと決めつけるは上手くいくもんも上手くいかん」
 平八郎の悪い癖で理に詰まると石のように押し黙ってしまう。この時もそうであった。
 鉉之助は長年の付き合いもあり、こうした平八郎の性格を熟知していた。だが付き合わされた三平にすれば何とも阿呆らしい気持ちになってしまった。
「どうやら格之助殿の惚れた腫れたではないようで。武家らしく養女に迎えるなど段取りでもされてはいかがです」
 そう言いながら三平は立ち上がった。これ以上大塩家の内情に付き合うほど暇ではない。
「田上、すまん」
「いえ、お気になさらず」
 三平はそう言うと辞去しようとしたが、はたと手を打って平八郎の前に再び座した。
「時は金銀の価値ありと申します」
「君は私に金銀を渡せと申すのか?」
 平八郎は筋金入りの農本主義者である。職掌のため数多の商人と付き合い、かつ算盤も得意であった。だが商人たちの存在を心の底では蔑視しており、金銭を渡すのも要求されるのも平八郎ほど憎みきっている人物はいない。
「浪々の身といえども緒方三平も武士。私が欲しているは金銀やないです。にわかにこのように一室をお借り出来るのは後素先生のお顔がこちらで利く証拠でございましょう」
「うむ。幼い頃より多くを学ばせていただいた」
「私は本来歌を学ばんと大坂へ出て参りました。聞くところによりますとこちらには秘蔵の書が数多あるとのこと。時の身代として、先生から、こちらの教授方にお願いしてもらえませぬか」
 あまりの図々しさに、平八郎も閉口した。その様子がよほど可笑しかったのか、鉉之助は弾けるようにして笑い転げた。
「後素さん、田上の願いを聞き届けてやらねば。大坂で恥とすべきは無料で物を聞いたり頼んだりすることや。武士とて御恩と御奉公があるやないか」
「わしは緒方君に御恩があるちゅうことか」
 もう少し冗談のように聞き入れてくれればいいのだが、平八郎はやはり何事も極端であった。
 鉉之助は笑みを浮かべながら、大きくうなずいた。
「わしも顔が利く。大塩と坂本の口利きやと言えば、すぐに書庫へ通してくれるはずや。思う存分、学べ」
「ありがとうございます」
 三平は輝かんばかりの表情で礼を述べ、そして奥へと突き進んでいった。
 ――田上の奴、随分と変わった。
 かつての三平は実に頼りなく、そして吹けば消えてしまいそうな少年であった。だが今は鉉之助も手こずるほどの平八郎に対し、堂々と意見を述べることが出来るようになった。
「男子三日会わざれば刮目して見よ、とはよく申したものだ」
 鉉之助のつぶやきを聞き、平八郎は苦い表情をした。
「あの緒方君は先ほど医術を学んでいると申したな」
「エエ。今は坂本町に住んでおります」
 その町名を聞き、平八郎は怪訝な表情をした。与力である平八郎は大坂の街についてつぶさに情報を掴んでいる。坂本町で医術と申せば自ずと思々斎塾の名が脳裏に浮かんだ。
「言うときますが、あいつはそんな一途やないですよ」
「どういうことや?」
「切支丹になるような、ちゅう意味ですよ」
 やや冗談的に話していたが、鉉之助は三平の潔白をすぐさま晴らしてやらねばならない。
 思々斎塾は平八郎が取り締まった切支丹一派の藤田顕蔵と遠いながらも関係があることを知っていたからだ。いや平八郎にすれば和医は別として蘭方医の輩は切支丹の一派だと決め付けている節があった。
「若き者を惑わせおって……」
 この言葉を聞いて鉉之助は意外に思った。
「存外、田上のことを気に入っておいでのようや」
「阿呆抜かせ。嘆かわしい、ちゅうとるんや」
 それ以上は鉉之助も追求しなかったが、やはり平八郎が三平を気に入っていることを確信した。
 平八郎は成人してからと言うものの、誰にも真っ向から反論させなかった。鉉之助でさえ半歩身を引いているほどなのである。初めて三平が平八郎と見えたのは例の切支丹弾圧時であった。だがあの時はただの小僧に過ぎなかった。三平と二度目の対面であったが同じ人物であるということがどうにも実感出来ていない。それほど三平は心的に成長しており、まだ見えきってはいないが、うっすらと見えかけている何かをその眼で捉えているように思えた。
 ――それに比べてわしは……。
 未だ学も修められず、大坂の悪事も断ち切ることが出来ないでいる。今、格之助と取り組んでいる悪僧どもの摘発も平八郎の努力が足りないとさえ感じていた。だがあの三平という青年は実に悠々と蒼天を舞っているように思えて仕方がなかったのだ。
「人の庭は佳く見えるもんや」
 鉉之助は敏感に平八郎の鬱屈を察し、明るい声で声をかけた。
「後素さんからすれば阿蘭陀の学問など害以外何でもないかもしれん。そやけど清き水は流れてこそ清くあり続けることができる。それを守るは後素さんかもしれんが、その流れを作るンはあの田上や、そして格之助たちやないですか」
 何とも説教くさい言い方に平八郎は片腹痛いものを感じていたが、反論はできなかった。
 ただ仏頂面をしながら冷めた茶を一気に口に放り込んだ。結局、格之助とみねの婚儀は先延ばしとなった。まずは大塩家の養女とし、行く行くは二人を結ばせることに決まったのである。格之助もこの決定に何の異論も挟まなかったことを見ると、やはりいきなり十三の娘と婚姻することを早すぎると思っていたのだ。

   三

「浪々の身ゆえ縁無きこと」
 この頃の三平は常にそう言い続けてきたが、思々斎塾でその言葉を真に受ける者は少なかった。中でも八重の視線はどうにも刺々しい。
「またどっか行くの?」
 三平が出かけるたびに八重はあからさまに不服そうな表情になる。そっとしておけばいいのに摂蔵などはけしかけるようにして八重にささやく。
「於茶さんと堂島に舟でも浮かべてるンやないかな」
 塾には多くの若者が集っている。この手の話――つまり誰が誰を好いたと言う話には目がない。
「エエ加減になさい」
 さだなどは摂蔵たちを叱るのだが、天游が率先して三平の恋の行方に興味を示したため、どうしようもなかった。お前様はホンマ好き者ですこと――さだはいつも塾生の恋話に首を突っ込む天游を見ては小言を述べた。だが天游が和歌に興味を示したのは、『源氏物語』や『伊勢物語』など恋話が大好きであったことと無縁ではなかった。
「君子も言うやないか。川の流れと恋の往来は堰き止められへん、と」
「それを言うなら人の口やないですか。師ともあろう方がこんな与太話を盛り上げて……。お陰で皆勉学を怠けているやないですか」
 さだは天游の亭主関白ぶりには黙って従っているが、医学のこととなると頑固であった。さだは根からの医者であり、真摯にその道を究めようとしている。そのため恋路のために医学の勉強を怠ることを何よりも忌み嫌った。恋をすれば勉学がおろそかになると、さだは思っているらしいが、天游からすればそれは野暮というものであった。それにしても今まで塾生の恋沙汰で大騒ぎになったことがあったであろうか。
 ――いつもこうやったかな。
 ある時、雪斎が尋ねられ、天游は首をかしげた。思々斎塾には若い者が多く集まるため恋の話などよく耳にしたものだ。だが三平ほどやたら気にされることなどなかったように思える。天游は近頃よく淀屋橋の御霊神社へと行く。
「いずこへ?」
 と、問われると決まって、「御霊さんにお参りや」と答えるが、誰もが参拝でないことを知っていた。好奇心旺盛な天游は珍しいもの、新しいものが大好きであった。御霊神社へ行く目的は近頃興隆しつつあった上方落語が目当てであった。中でも松田彌助が贔屓であり、暇を見つけては足を運んだ。
「小町先生がお冠でしたよ」
 苦笑しながら告げたのは百記であった。天游が学問的好奇心のために医業を休むことは極めて寛大であった。だがそれ以外のことで疎かになることをどうにも許せないらしい。
「あいつは一途やからな」
 天游が肩をすくめながら、「億川さん、あんたもや」と、苦虫を噛み潰したような表情でつぶやいた。百記が医者になったのは幼子を次々と失ったためであり、半ば敵討ちの感さえあった。それだけにさだと同じく医業を怠ることへの嫌悪感が心の底にはあった。
「そうか、そうやったんやな」
 天游は無心で噺を聞いているうちに、ふと三平がどういう存在になっているのか気が付いた。
 今まで三平は頼りなく、どこか道から外れているようで、そのくせ誰よりも本質を掴んでいるような――とらえどころのない青年だと天游は捉えていた。だが三平の一挙一動を渦として思々斎塾の面々が動いていた。
 自分もそうであるが、師の橋本宗吉も捉えどころのない人物であった。だが双方とも人に譲れない芯があり、宗吉はそのために損をした。天游もまた随分と多くの者に誤解をされてきたものである。
 ――大事なんは種を蒔くことや。
 天游は彌助やその弟子たちの噺を聞きながらそのようなことを考え続けた。
 噺家にせよ、商人にせよ、医者にせよ。大坂で生きてきた者は武家のように家名にはこだわらなかった。自分で得た利益や学問を求める次の世代に渡すことができれば本望だと、理屈ではなく本能的に悟っていたのだ。
 天游も若くはない。近頃はめっきり気力――いや弾みと言うべきか。活力がなくなりつつあることを痛感している。
 ――このまま終わるンか。
 それはそれで良いかもしれない。塾生には少々悪いとは思うが、知識の問屋たる塾主がいなくなれば商品はなくなってしまうのだ。そうなれば塾生たちは新たな「商品」を求めて他の塾に移る。天游もまたいくつも塾を渡り歩き、そして自立したものだ。他の塾を探す事もできず、自立しない者はどのみちやってはいけない。だが、と天游は脳裏に三平の貌を思い浮かべた。
 ――わしは緒方に跡を託したがっている。
 よりによって、と思わないでもない。だがあの温和で捉えどころがない所こそ次の世代に学問を伝えていく――そんな人物ではないかと天游は考えるほどそう思えるようになった。
「億川さんにわかるか」
 唐突に聞いてみたものの、百記はどう答えていいかわからない。
「どうも辛気臭ァてしゃあない」
 そう叫ぶと天游は飛び上がるようにして立ち上がった。思い立ったが吉日。天游は湯呑を放り出して気の向くまま坂本町へと駆け出していた。

 先生は癇癪玉。天游を識る者は苦笑しながらそう評する。だがその苦笑の中には敬慕と親しみが込められた好意的なものであった。入塾した頃、三平は師の癇癪に戸惑ったものであったが、今は愛おしさすら感じるから不思議なものだ。
「さだッ」
 塾へ戻るや否や、さだを呼びつけた。
「あら。今日はつまらなかったのかしら」
 皮肉を込めてさだは言ったつもりであったが、天游には通じない。
「あれやあれ。あれを呼べ」
 世間では二人をおしどり夫婦だの、心が通い合っていると言われている。だがそれも限度があり、「あれそれ」といきなり言われても何のことかわからない。
「あれ言うたらあれや」
 やはりさだがわからず首をかしげていると、天游は手で長い顔やと表現した。
「……ひょっとして緒方さん?」
 ここで三平だとわかったさだはやはり天游の事をよくわかっている証拠であった。それにしても長い顔でわかられては三平も堪ったものではない。
「緒方さんなら今、台所ですよ」
「台所で何をしとるンや」
 台所での用と言えば食事しかない。もう夕餉の刻限であったが、天游は「暢気」な三平に腹を立てた。
 ――理不尽なこと。
 さだは三平の立場を思うとやや気の毒であった。だがここまで気を急いている様子からよほどの話があるとさだは見た。
「やいのやいの仰られずに台所へ行きはったらどうです」
 あまりに騒がしい為、さだがそう言うと天游は激しく頷いた。
「そうやね。それが一番やな」
 天游はにこやかに微笑むと台所へと走り去ってしまった。今朝も「歳をとった」とこぼしていたが、精神的には少年の頃からあまり成長していないようにさだは思い、忍び笑いをした。

 思々斎塾の寄宿生たちには賄として飯と漬物が与えられる。その他、つまりおかずなどは各自で準備するしかなく、この日の三平は鰤を食材としていた。
 調理器具は七輪と古ぼけた鉄鍋のみである。鉄鍋は他に風呂の時や朝、顔を洗うためのたらいにもなる。これは三平の独創ではなく、塾生たちに受け継がれてきた奇妙な伝統であった。
 鰤は書生たちにとって贅沢品である。珍しくご馳走を手にした以上は美味料理したいものだ。
 ――於茶さんから教えてもろうた当座鰤煎炙を試そう。
 まるで実験のように三平は鰹をさばき始めた。当座鰤煎炙という料理はまずごま油で焼く。
「ほんまは葱が欲しいところやが……」
 その点だけが残念であったが、ごま油で焼かれた鰤が香ばしい匂いが立つ。焼き目がつくと酒と醤油、そして砂糖を入れた。いよいよ完成か――そう思った所で天游が飛び込んで来たのである。
「おい、緒方ッ」
 まるで剣幕のような天游の声に土間にいた一同は驚いた。だが三平はどこ吹く風とばかり鰤が焦げないようにじっと見つめていた。
「ん、この匂いは?」
 天游は食い意地が張っている。何とも旨そうな匂いに涎を垂らしそうになった。
「先生。葱、ないですか?」
「葱?」
「先生も召し上がるおつもりでしょう。そやったら葱を」
「おお、葱か、葱やな」
 天游はあわてながら、どこからか葱を持ってきた。葱を入れることが当座鰤煎炙には肝要――そう於茶に教わっていた三平は嬉しげな表情で何度もうなずいた。
 鍋の鰤を半分、皿に盛り、自身は鍋のものを食した。
「ほんま、たまらんな」
 天游はそう言うとすぐさま鰤を口に入れた。絶妙な焼き具合と味加減に舌鼓を打ち、三平をしきりに褒めた。三平もまた食し、我ながらよく出来たと自賛した。
「於茶さんに教わりました」
「ほう。淀屋の娘御か」
 天游は密かに三平の口調や素振りを観察したが、どうやら恋愛の気配がないことを察した。
「緒方。最近は何を読んでおる」
「ケプラー先生の本を」
 三平は万有引力の法則を導き出すことになるケプラーの法則を訳していた。その訳書名を『暦象新書』と名づけることも天游に告げた。
「出来たのか」
「おおよそですが……」
 そう言いながら三平はその訳書の草文を天游に手渡した。おおよそ、と三平は言う。だが師の眼から見て見事な訳であり、天游は我を忘れて読み進んだ。
「お前ちゅう奴はなんちゅうか、その……」
 得体の知れん奴やと天游は言いかけて、苦笑しつつかぶりを振った。
 三平は記憶力に関してはやや人より劣る。とても宗吉のように四万語をたちまち覚えるといった芸当はできない。だが本質をつかむ能力があり、かつ文章表現力に恵まれている。同じ訳文でも三平の手にかかると不思議と血が通ったように見違えた。
 ――このわずかな期間で。
 天游が学者として嫉妬してしまうほど三平の語学力は上達しており、そのうち教えることが無くなってしまうに違いない。
「緒方」
 何を言われるのかわからない三平の顔はどこまでも穏やかであった。だが天游の言葉は三平を大いに驚かせた。
「江戸へ行け」
 江戸とは一体どこの江戸なのか――そんな間抜けな質問が過るほど三平は驚愕し、そしてうろたえた。だが天游は畳み掛けるように、
「江戸へ行け」
 と、再度同じことを命じた。
「……江戸へ……」
 大坂を第二の故郷として、永住の地と定め出していた三平にとってまさに驚天動地な命令であった。だが天游の眼は甘えたことを申すな、とどこまでも厳しい。
「そんなんアカンッ」
 両者の間に割っていったのは八重であった。百記は娘の無礼を詫びたが、八重はなおも「アカン」と叫んだ。
「女子にうつつ抜かしてるから言うてまた三平さん追い出すの?」
 三平には何のことかさっぱり意味がわからなかった。それよりも何故また塾を追われなければならないのか。その理由こそ知りたかった。
「私が何か粗相をしましたか」
「……早合点すな」
 辟易しながら天游は面倒そうに手を振った。
「女子とどうこうなっても、わしには関係ない。……もっともさだはどうか知らんがな」
「では小町先生がお怒りなのですか?」
 三平としては必死であった。二度も破門されてはたまったものではない。それもありもしない色恋沙汰が原因になるなど到底納得出来なかった。
 ――面倒な奴ァ。
 三平だけでなく、なぜか八重まで一緒になって騒ぎ出したため、何もかも面倒になってしまった。
「ごちゃごちゃ抜かすなッ。色恋のことでも、粗相をしでかしたンでもない。黙ってわしの言うことを聞け」
 天游の一喝で途端に周囲は静まり返り、三平は書斎へと通された。
「……こういう話はやはり土間でするもんやなかったな」
 天游はつい格式張ったことを面倒に思ってしまう。だが今回のことは三平の人生に係わる大事であり、天游にしては珍しく反省をした。
「改めて緒方に言う。……江戸へ行け。これはな。お前が阿呆な為なんやない。その逆や。白髪がいつの間にかこないに増えてもうた。ようお八重に抜いてもらってたが……それをやったらわしは坊主になってまうな」
 天游は笑みを収め、真面目な顔つきで姿勢を正した。
「お前は何をしたい。何をして生きていくつもりや。やはり歌人か?」
 この問いに三平は微笑しながらかぶりを振った。もはや三平は歌の道で食べていくつもりはなかった。
「医の道で生きていきたいと考えております」
 しばらく無言になり、やがてここにはいつまでいるつもりか尋ねた。
「終生、このままで。先生たちと大坂の人々を助けていければ、と」
 凛とした表情で答える三平を見て天游は鼻で笑った。いくら恩師といえどもこの態度は失礼極まりなく、露骨に嫌な顔をした。
「緒方、むかついたか」
「いえ……」
「嘘こけ。お前は何事においても素直すぎる」
「素直やったらアカンのですか」
「能無しやったらそれでエエがな」
 三平は自身が未熟であり、天游に認められる日はまだまだ遠いと考えていた。だが意外にも認めてもらっていることに驚いていた。
「エエか、緒方。人の役に立ってこその学問や。無論、お前がここでわしらを助けてくれるは有難い。そやけど、それはホンマに人の役に立ってるンか?」
 お前は――と天游は言葉を途切らせて、書斎の窓から庭の井戸に目をやった。
「井の中の蛙や。空高きを知るが、大海を知らん。いつかわしに話してくれたな。曇斎(宗吉)先生が医の道は人の道にあらず、と。人智を超えていくが医の道。この中天游の元におっては天游を超えることは出来ん。そやからさらなる修業のため江戸へ行け言うとるんや」
「しかしここで大坂を離れて江戸へ向かっては先生に御恩返しができません」
 この言葉を聞いた天游は再び雷声を浴びせた。
「ど阿呆ッ。青二才が聞こえのエエことを抜かして修業を怠ろうとするなッ」
「いえ、先生――」
「ごちゃごちゃ抜かすな。何が恩返しや。ここにおる限り、お前はわしより大きゅうはなれん。わしより大きく羽ばたける才覚を持ちながら、ぬくぬくと過ごすことほど恩知らずなことはない。まだ五臓六腑に沁みてへんようやからまた言うたる」
 医は人の道にあらず――。天游は力強く再度この言葉を口にした。
「人の身体と向き合うためにはもっと多くの書を読め。多くの人と会え。色んな地を目にして身体に取り入れてこい。そうした中で人はようやく医者になる。いくら阿蘭陀の医学が進んでいようとも日々新たなことが出てくる。医者たるは怠りなく新たなことを見聞せなアカンのや。かく言う――」
 わしも曇斎先生も、そしてさだも、その父である稲村三伯先生もそうやった――と天游は重々しく告げた。
 蘭方医の歴史は波乱に満ちている。最先端の道であるがゆえに常に敵視され、時に迫害された。だが先を歩いてきた人々はくじけそうになっても常に新天地を求め、学び続けてきた。その足跡の上に三平は立ち、自身の道を歩み始めようとしている。その三平がぬくぬくと天游の元に居続けることは害悪だ、と天游は熱っぽく語った。

 恐ろしいか、と天游は問う。
 はい、と三平はうなずく。
 寂しいやろう、と天游は問う。
 はい、と三平はまたうなずく。

「わしもそうやった。皆もそうやった。そしてお前の後に歩く者もきっとそうや」
 天游はにこやかにほほ笑んだ。
「緒方、これは餞別や」
 そう言って天游が渡してくれたのは先ごろ三平が訳した『暦象新書』であった。
「蘭学者はな。己の頭と口で食い扶持を得るもんや。路銀はやらん。やりたくてもわしにはそんな余裕はないしな。やけど、お前には学問をする力を呉れてやった。塾を追い出されたことも力になったはずや。何よりも若さや。行ってこい。江戸は公方様のお膝元なだけに優れた蘭学者が数多おるで」
 ここで天游は少し小声でシーボルト事件のきっかけとなった日本地図を作成した伊能忠敬の名を挙げた。
「その伊能先生の師であられる高橋東岡(至時)先生はな……大坂のお方なんやで。他言はするなよ。東岡先生のご子息(景保)はシーボルト先生の一件で無残な最期を遂げられた。江戸は恐ろしいが、そやけど大坂から立派な先生が参られ、そしてこの国を大きく動かしている」
 三平は固唾を呑んでうなずくしかない。一瞬、やはり大坂へ残りたいと思ったが、天游の怒声を恐れてその弱気を飲み込んだ。

 文政十三年(一八三〇)春。三平は江戸へ遊学する決心をした。
 四月に入ると梅が咲き誇る。春風の中、三平は天満八軒茶屋の船着き場にいた。
「それにしてもひどい身形やなァ」
 雪斎が眉をひそめたほど三平の旅姿はひどい。一応は羽織袴であるが、すべて古着に買い換えている。大小も粗末なものであった。足守を出た時、兄からとっておきの大刀と脇差を貰ったのだが、それも売り払ってしまった。代わりに形だけを取り繕うために骨董屋で購入したのである。さらに極めつけは例の鉄鍋を背中に背負っており、みすぼらしさを増大させていた。
「小町先生」
 摂蔵もさだにもっと餞別を渡すようせがんだ。だがさだは苦笑いするばかりで何も答えようとしない。実のところ、さだは個別に餞別を考えていた。しかし天游はこのみすぼらしさこそ最大の贈り物であると諭したため、あきらめたのである。百記は何も渡すつもりはなかったのだが、こちらは志宇の勧めで雑腹蘭園(サフラン)を手渡しただけであった。 しかしこの見送りの場に一人だけ姿を見せていない。
「あれ、お八重ちゃんは?」
 摂蔵が八重の姿を探したが、どこにもいなかった。三平もどうしたのかと志宇に尋ねるとひどく拗ねているらしい。
「於茶さんとは何でもないて聞いて喜んでたんやけど」
 三平にはなぜ八重が怒ったり喜んだり拗ねたりするのか全くわからないらしい。ただやかましいと思う八重であったが、会えないとなると妙に寂しい。
 やがて乗り込む舟が船着き場に到着した。
「緒方君、達者でな」
「億川先生に見送っていただけるとは……」
「娘の気に入りちゅうはどうにも好かんが……医を学ぶ為に江戸へ赴く君に敬意を表したい。ただそれだけや」
 憮然とした表情であったが、三平は尊敬すべき先輩の言葉として深く胸に刻み付けた。
 ――では行って参ります。
 そう言って舟に乗り込もうとすると思わぬ見送り人たちがやって来た。清兵衛と於茶、そして格之助の三名であった。
「まさか格之助に見送ってもらえるとは思わなんだ」
「誰が田上を見送ったるかい。ただ一言礼を言わなあかん思うただけや」
 格之助は少し躊躇したが、思い切って「礼」の意味を説明した。
「ほんまはほっとくつもりやった」
 三平にはわからない。
「よねのことだ」
 三平は一瞬誰のことかわからなかったが、すぐさま平八郎が話していた格之助の許婚のことだと気が付いた。
「エラくむずがってたそうやな」
「阿呆抜かせ。わしは大塩家の主となる者や。好いたのどうのなど関係はない。ただ……」
「ただ?」
「大風に煽られて思わぬ空に飛ばさたらかなわん」
 大風とは言わずもがな、平八郎の暴走であった。
 格之助は何もよねとの婚約を嫌がっていたのではない。いずれ平八郎が選んだ娘を娶ることは了承済みであった。だが一言、当事者である自分に相談すべきであり、平八郎はいつも自分を飛ばしてしまう。だが三平はそうした時、平八郎に物を言ってくれるかけがえのない「友」であった。
「あれから父の私に対する姿勢が少し変わった。そやから礼を言いたかった」
「思うたことを言っただけや」
「しかし大坂を離れるはさぞ心残りやろな」
 思わぬ言葉に三平は首をかしげた。そんな三平に格之助は苦笑しながら、於茶に視線をやった。
「私にも清兵衛殿にも申していなかったのに、あの於茶殿だけには今日のことを伝えておったやないか」
「そ、それは借りていた源氏物語の写しを返した折に話しただけや」
「まあ、エエ。お前が江戸へ赴いている間、於茶殿に妙な虫がつかぬよう見ておいてやる」
「……格之助はいつからそんな好き者になったンや」
 三平は赤面しながら大汗を掻いた。こんな益体もない話を彼女に聞かせることはどうにも恥ずかしかったのだ。だが都合の良い事に舟が到着し、三平は飛び込むようにして乗り込んだ。
「それでは緒方三平、江戸へ出立いたします。皆様、お達者で」
 三平は大きく手を振るい、天游たちもそれに応えた。旅立ちと言えば足守を出た時を含めて二度目であった。だが足守は兄以外、誰にも告げることなく飛び出してきてしまった。だがこたびは皆が見送ってくれる。旅立ちはこうありたいもんや、と三平は静かに舟床に座り込んだ。だがまだそう離れていないのに、すでに一人旅立つ寂しさと不安が身体を過り、うずくまってしまった。
 舟が今橋の下を通り過ぎようとした時であった。
 ――三平さぁぁぁんッ。
 橋の上からいつか聞いた突拍子のない大声が三平の耳に届いた。
「貝吹坊ッ」
 思わず――思案橋で初めて八重とさだにあったあの日の記憶が鮮明に浮かび、思わずそう叫んでいた。八重は身を乗り出すようにして欄干に寄りかかり叫び続ける。
「約束して。きっとまた大坂へ戻ってきて」
「当たり前や、大坂に必ず戻ってくる」
 その言葉に八重は満面の笑みを浮かべ、小指を出した。
「指切りよ、指きりげんまん嘘ついたら針千本飲ぉますッ」
 三平も同じく小指を出し、叫ぶ。
「指切りげんまん、死んだら御免、指切った――」
 二人は互いに大きな笑みを浮かべ、そしてその目には涙は浮かんでいなかった。
 思い残すことはない。だが――待ってくれている人が大坂にはいる。その人たちの為に江戸で一つでも多く学んでくる。三平は改めて誓い、歩みだす勇気を得た。
 
  指切りげんまん 嘘ついたら針千本飲ます。
  死んだら御免 指切った――。

 三平は小指を擦りながら新天地たる江戸に心を躍らせるのであった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

武田信玄の奇策・東北蝦夷地侵攻作戦ついに発動す!

沙羅双樹
歴史・時代
歴史的には、武田信玄は上洛途中で亡くなったとされていますが、もしも、信玄が健康そのもので、そして、上洛の前に、まずは東北と蝦夷地攻略を考えたら日本の歴史はどうなっていたでしょうか。この小説は、そんな「夢の信玄東北蝦夷地侵攻大作戦」です。 カクヨムで連載中の小説を加筆訂正してお届けします。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

真田幸村の女たち

沙羅双樹
歴史・時代
六文銭、十勇士、日本一のつわもの……そうした言葉で有名な真田幸村ですが、幸村には正室の竹林院を始め、側室や娘など、何人もの女性がいて、いつも幸村を陰ながら支えていました。この話では、そうした女性たちにスポットを当てて、語っていきたいと思います。 なお、このお話はカクヨムで連載している「大坂燃ゆ~幸村を支えし女たち~」を大幅に加筆訂正して、読みやすくしたものです。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

【Vtuberさん向け】1人用フリー台本置き場《ネタ系/5分以内》

小熊井つん
大衆娯楽
Vtuberさん向けフリー台本置き場です ◆使用報告等不要ですのでどなたでもご自由にどうぞ ◆コメントで利用報告していただけた場合は聞きに行きます! ◆クレジット表記は任意です ※クレジット表記しない場合はフリー台本であることを明記してください 【ご利用にあたっての注意事項】  ⭕️OK ・収益化済みのチャンネルまたは配信での使用 ※ファンボックスや有料会員限定配信等『金銭の支払いをしないと視聴できないコンテンツ』での使用は不可 ✖️禁止事項 ・二次配布 ・自作発言 ・大幅なセリフ改変 ・こちらの台本を使用したボイスデータの販売

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

処理中です...